2009年12月29日火曜日

非言語コミュニケーション

言語は人類を特徴付ける能力のひとつと言える。言語により森羅万象は概念化され、事象のインタラクションを正確に行えるようになった。言語化は即ち、内外世界の標本化(デジタル化)なのだ。その戦略によって人類は、地球上での現在の地位を得た。武器や火の使用など物質的道具の使用が人類たらしめる要因として良く上げられるが、それらが真の力を発揮するのは個から個への伝達が可能になってからであることを思い返せば、その最たるものは言語の使用を置いて他にない。人類の歴史において、人々の上位に立った者たちは、皆言葉を巧みに操ったのだろう。言語による恩恵を「身をもって」知っている私たちは、今でも言葉巧みな者ほど「偉い」、「立派」と盲目的に思いがちである。

芸術が本質的には、言語を必要としていないのは明確だ。そこからも芸術の起源が古いことが分かる。芸術が表現するものは、従って言語によって明確に定義分けできるような細かな具体性を帯びたものではなく、もっと始原的な感情に寄り添ったものになる。喜びや悲しみや怒り、恐怖や愛などだ。これらは、民族を超えて人類という動物に共通の感情である。極東の文化も全く違う日本人が、西洋のキリスト教美術に感動できるのは、そういう始原的感覚に訴えかけているからだろう。細かな物語の背景は、正直どうでもよいのだ。

彫刻などは、そういった感情として分類できるものより、さらに起源的な感情にさえ訴えかけるものがあるのだと思う。それは、「物の存在」に対する感覚である。人類は道具を使うことで他に秀でた。初めのそれは石や木の棒や骨の棒などだったろう。それら「物」を握りしめることで、今までは倒せなかったり捕れなかった獲物を得ることが可能になり、競合する他の集団を制圧することが可能になった。手元の「物」はそうして、単なる「物」以上の意味を持ち始めたのだ。
手にすることが出来ないよう巨大な物に対する畏敬の念は、現在でも山岳信奉など様々な形で残っている。
こうして育まれた物に対する愛着的感覚に、様々な感情表現が結びついて彫刻表現が確立されてきたのだと思う。彫刻は単に絵画を立体にしてみたというような物ではなく、起源的にも、訴えかける内容としても、絵画とは大きく違うものである。

しかし、最近では、彫刻の持つ本来の要素、即ち量感や存在感からの脱却を計っているような表現も増えている。これは、加工技術の高度化とも切り離せないが、それよりも、作家がそれらを「古い」と考え始めているからなのかもしれない。だが、それは彫刻による彫刻の否定になり、本質的に意味がないようにも思う。絵に奥行きが欲しいからと、キャンバスを”物理的に”立体的にするようなナンセンスさがそこにはある。

芸術表現には時代性がある。それは移ろいやすい文化に引っ張られているのだから当然である。しかし、私たちの感情や感覚はそうではない。肉体的構造はクロマニヨン人から変化していない。それは、現代の私たちも彼らの始原的感情は理解出来るであろうことを意味している。

今の文化に受ける表現を「今、間違いなく」伝えようとすると、それは必然的に言語化されるようになる。現代美術の多くが言語化が可能、もしくは言語化しなければ理解不能なのはそのような理由がある。抽象芸術はそうして、言語化へと進まざるを得ない。それは、本来の芸術からの離脱であり、行き着く先は「言葉」である。そして、美術の目立つ流れはそちらを向いている。
言語により現在の地位を得た私たちが、言語化(即ち、抽象化、標本化)を好み、言葉に安心し、それを求めるのを否定することは出来ない。だが、私たちの行動規範は、言葉の奥に潜んで見えない始原的感覚から起こっているのもまた、隠しようのない事実である。

言葉は新しい。だから、嘘がつける。悲しくても、「うれしい」と言えてしまう。だが、悲しい感情をごまかすことは決して出来ない。感情表現は各国語が存在するが、感情そのものは人類共通である。
芸術が本来、表してきたのは、この感情のほうだ。それは人類が人類である限りは”文化、時代を超えて”引き継がれてゆくものである。

言葉で言えるものならば、言葉で言えば良い。
言い表せないものに、芸術が必要なのだ。

2009年12月23日水曜日

外から見ると、よく分かる 自分の見つめ方

海外へ出ると、日本の事がよく分かると言う。私たちは、生まれたときから日本に囲まれてその文化価値観に浸かっているのが、海外に出るとそれが外側から見えることで、新たな発見ができる。この感覚こそ「目から鱗が落ちる」体験であろう。同じ対象を見つめているのに、違うように見えるようになる。

国なら、外に出て眺められるが、自分の体はそうはいかない。だから、生まれたときから付き合っている自分の体の事を違う目で見るというのは難しいことだ。しかも、食べたものの処理や成長やらを自動でしてくれるから、特に気を配ることもしない。大きな怪我や病気をすると、自分の肉体のことを気を配ったりする。

外に出られない自分の体について客観的に見つめる方法が、解剖学でもある。これによって、「自分」が「人間」という見方になり、さらにその構造と機能にまで分解されるのだ。そうなるともう、自分という感覚ではなくなる。そして、再度自分を見つめるときには、今度は分解された構造と機能の集合体として見られるのである。
また、別の見方として、比較解剖学がある。名前の通り、人間と他の生き物の構造を比較する。そこから共通点や違う点を検討し、相関関係を見出してゆく。この視点は、海外から日本を見るのに近いと言える。比較解剖学には、進化という時間性も検討に加わってくる。比較する他の動物たちとの分岐点を見ることは進化の時間を遡ることと同意だからだ。

こうして、外の視点から人間という自分自身を見つめ直してみると、目から鱗が何枚も落ちる。自分の見え方が全く変わってしまう。この体験はとても刺激的でちょっと癖になるほどだ。もう、猿どころか、魚まで遠い兄弟のように思えてきてしまう。
また、漫然と付き合ってきた自分の体も、以前とは違う対象として感覚されるようになる。それは、つまり自分自身のあり方まで変わってしまうようなものだ。

哲学や宗教、メンタルヘルスなど様々な「方法」で、人々は「自分」と向き合う方法を探っている。それらはすべて、思考技術だ。精神、魂、思考など、ソフトウェアとして自己を探っている。対して解剖学は、徹底してハードウェアである。けれども、自分を見つめている。解剖学は、早くから学問としての独自性を持っていたので、自分と向き合う方法の一つとしては捉えられなかったのだろう。もちろん、「自分」の見方も今とは違って、魂があるのが当然だったのも関係しているだろう。精神と肉体が分離できないものだという事実が飲み込めてきている現在なら、解剖学的視点というものが自己を見つめるための手段の一つに加わってもおかしくないと思う。

ちなみに、芸術表現において、感覚的世界を実世界の物理的制約を免れて表現できる平面芸術(絵画、映像)は、精神的アプローチととても親和性が高い「ソフトウェア的」であるのに対して、実世界の物理的制約の中で成り立たせようとする彫刻はずっと「ハードウェア的」である。解剖学と彫刻の近しい点である。

2009年12月21日月曜日

骨と彫刻


骨と聞くと、普通は死や不気味な印象を持つだろう。動物が死なない限りは骨は見られないのだからその連想に間違いはないが、そこで引き返してしまわずに、一歩近づいてそれを見て、手に取ると、誰でもそこに形の美しさを見いだせると思う。とは言え、現代社会では、道ばたに骨が転がっているわけでもないし、裏庭で羊をさばくこともないから普通に生活しているとその美しさにふれる機会もないのが実情だ。博物館で骨格標本を見ることは出来るが、ガラスケース越しに学術的な趣で鎮座しているそれでは、形の美しさまで見出すのもなかなか難しいかもしれない。それでも、今はインターネットがある。ネットオークションでは、動物の骨が多く出品されている。アメリカなら売れば逮捕されるような希少動物の骨もなぜか日本では”今のところ”おとがめがないようだ。また、海外では動物の骨格専門の業者などもネットショップを出しているので、それらから購入することも出来る。金にまかせるのではなく、自然な出会いが欲しければ、海岸に行くと良い。台風後などは色々な動物が打ち上げられているそうだ。潮がぶつかる浜が良い。五島列島は鯨が上がると聞く。山も、浜のように豊富とはいかないだろうが、運が良ければ動物の骨を拾うことが出来る。そういう気構えで行くと宝探しのようで楽しいものだ。

美しい形態を探している彫刻家には、骨の形態に興味を持つひとが多いように思う。ヘンリー・ムーアは、骨の形をそのまま素直に作品に活かしていることが知られている。ムーアのようにモチーフとしないまでも、直感の源泉として骨を所持している作家は多いのではないだろうか。
実際、骨のかたちは実に彫刻的である。彫刻的な美を所有する形状を学ぶのにこれほど適した教材はないと思う。立体美を考えるときに思い浮かぶような要素の殆どを骨から見出すことが出来るからだ。

地面に転がる一つの骨も、理科室の人骨も、どちらも骨と言うが、英語では、一つなら「a bone」、複数なら「bones」で、理科室の物のようなのは「skeleton」となる。スケルトンは、日本だと内部機構が見える腕時計をスケルトン仕様というので、「透けるトン」だと漠然と思っている人が意外と多いが、「骨格」という意味だ。

人体の骨格は、200以上の骨から成っている。そんなに多いかと思うが、左右対称なのと、手足部分の細かい骨達のおかげもあってカウント数を稼いでいる。また、一個だと思いがちな頭の骨も実は23個の骨の集合体なのである。耳の中の小さな骨も入れれば29個にもなる。

骨ひとつひとつが彫刻的な示唆を含んでいるが、その最たるものが頭蓋骨と言っていい。ただ、頭蓋骨は動物によって形が全く違う。マッスを感じるには、大きな脳頭蓋(脳を納める部分)を持つ人間のものが最高だが、これは模型で我慢しなければならないだろう。だが、模型はあくまで模型で、骨の持つ良さが実はもう100分の1程度しか感じられない。いずれにせよ、ほ乳類は全般的に大きな脳頭蓋をもち、そこに内から張り出すマッスを感じ取ることが出来る。それだけでなく、内側が空洞であるということも要素として大きい。彫刻は外側しか鑑賞しないものだが、物性はソリッドなのかホロウなのかも実は大きく関係してくるものだ。もし、中まで土でつまった有田焼の壺があったら、どう思うだろうか?ギリシア彫刻の内部がスチロールだったら?
そして、複数の骨が巧みに組み上がって一つの形を成す様は、部分と全体の関係性を考えさせる。その合わせ目が凹凸を縦横に横切って走る様も彫刻における表面の見え方にヒントを与えるものだ。筋が収まるための窪みも、陰と陽の重要性を語るだろう。

頭の骨以外も、背骨など要素に富むが、中でもとりわけ際だって魅力的な骨がある。それは、足首の骨、距骨(きょこつ)だ。頭蓋骨のように組まれた構造ではなく、単一の骨で彫刻的な要素を持っているのは距骨だけだと思う。背骨を構成する椎骨も良いが、これは体の真ん中にあるからシンメトリーで、そこが形態に過剰な単調さを与えてしまっている。距骨は左右に一つずつだから、単一だとアシンメトリーになり一見では捉えきれないような形状になっている。構造体としても、上から降りてくる体重を足に伝えつつ、足首の運動の軸となる部位であり、その複雑な働きが形状として現れているのだろう。回転運動の為のなめらかな滑車や靱帯が付着するための溝などが交差して非常に魅力的な形状を成している。
人の距骨も美しいが、他の動物もやはり魅力的だ。その形は昔から愛されていた。古代ギリシアでは、動物(おそらく山羊の仲間)の距骨がサイコロとして使われていた。そして、その形を模した壺なども多く作られた(画像)。それは単なるサイコロ以上の愛着を感じていた証ではないか。現在でも、モンゴルでは伝統的な遊びの駒やサイコロとして羊の距骨が使われている。彼らは遊牧民族で山羊は身近な存在である。彼らもサイコロとしてだけでなく、お守りとしての意味もそれに与えている(オオカミの距骨など)。

骨は、人類が遠い昔から見つめてきた形だ。先史時代の骨を削った彫刻も発見されている。私たちは、ずっと昔から骨の形より直感を得てきたのだ。そう考えると、骨に彫刻的要素の根源を見るのもおかしいことではないように思う。

画像は共にネット上からの無断借用。

2009年12月20日日曜日

脳と肉体

人間の存在を考えるとき、人間の形態を忘れるわけにはいかないはずだが、私たちの思考は容易に「精神」と「肉体」を概念分け出来るので、考えるときに肉体を置き去りにしがちである。
精神は心に在ると言われる。永い時代、心の所在が議論されてきた。それが宗教と結びつくことで精神と肉体の分離がより明確になり、精神は肉体より高貴な位置を与えられ不滅の対象ともなったが、一方で、科学の進歩と共に客観的視点の有効性が認められると、様々な観測的事実から心と感じるものは脳が作り出していることが明確になってきた。

現在は、脳ブームだと言われる。前世紀末期から、今世紀は脳の時代になると言われていた。それは、脳の機能が前世紀末から次々と明らかになり始めていたことによる。とは言え、実質的には、脳の機能はまだほとんど分かっていないという。
ともあれ、標準的な現代人なら、人格や心は脳が生み出しているという意見に異論はないだろう。では、これは、かつて魂と肉体を分けていた人たちよりも前進したと言えるのだろうか。私たちは、脳を精神の器と考えてはいないだろうか。つまり、かつての「精神と肉体」の2元を「脳と肉体」と言い換えたのに過ぎないのではないか。
先日のテレビ番組で、延命の行き着く先の技術として、脳を若い肉体と入れ替えるというアイデアを紹介していた。ほぼSFだが、このアイデアが理解し納得されるところに、「脳=自己存在」という暗黙の了解を見る。

解剖すれば、確かに脳は物体として分離出来る。しかし、それは工場で作られるパソコンに最後にCPUを差し込むようなものではなく、たった一つの卵から分岐した最終結果としての形状である。両者は概念こそ似ているだけでむしろ真っ向逆を行くものと言えるだろう。
脳はどうやって出来るのか。それは、個体発生学が見せてくれる。なぜ、脳があるのか。それは系統発生学が見せてくれる。そして、その両者を比較解剖学が取り持ってくれる。
そこで見えてくるのは、脳と肉体は不可分である、という事実に他ならない。肉体は脳の為の労働者ではなく、私たちの人格は脳だけで完結しているのでもない。そもそも、脳と肉体の分化は単に 必要に応じた機能分けの結果に過ぎないはずだ。私たちが、生物として今ここに立っているのは、脳が肉体を操ってきたからではなく、両者不可分の協力によるものだろう。つまり、精神も心も肉体全てから生み出されると言って良いのだ。

私たちは、肉体という物質だ。それが、様々に考え、思い、文化を生み出すことが驚異なのだと思う。あえてもう少し意識的に、自己を物質性から見直すのも悪くない。解剖学はその大きな手助けになる。

フランチェスコ・メッシーナ


現代イタリア彫刻を代表する作家の一人に数えられる。日本では、恐らく60〜80年代あたりにマリーニやマンズー、グレコ、ファッツィーニらと共に紹介されたのではないかと思う。しかし、コンセプチュアル・アートの台頭と引き替えに具象は陰を潜め、輝かしい現代イタリア具象彫刻たちはいまや各地の美術館や街角でひっそりと佇むばかりである。

メッシーナの彫刻をふと検索してまとめて見た。私は箱根彫刻の森のイヴしか知らなかった。イヴは素晴らしい存在感を放っている作品で、幾分引き延ばされた腕や作りかけで終わらせている手の表現などから近代的な雰囲気も伝わってくるのだが、他の作品の多くはもっと軽やかなものが多く、モチーフ、題材、手法などが近代イタリア彫刻の流れに沿っていることが分かる。とは言え、時代のスタイルに流されすぎず古典を踏まえた造形を押さえている。若くして認められた作家というが、その造形力あればこそだったろう。

「少年の海」という作品は、これが古代ローマの作品だと言われても信じてしまいそうだ。パティーナの仕上げを見ると、それも意識してのことかもしれない。
どうあれ、素晴らしいの一言しか出ない。
この画像だと、胸のあたりが張り出しすぎているように見えるが、気にならないどころか、それが作品に現実味さえ与えている。闇雲に解剖学的に正確ならば良いということは芸術では言えないことの証明である。
しかし、同時にそれは全体が解剖学的にも破綻を来していなければ、という但し書き付きであることも忘れてはいけないだろう。人体彫刻の構造美は、人体の構造美とイコールである。

この作品が仮に、時を経て災いに遭い、断片と化してもなお彫刻としての強さを保つだろう。頭部だけでも良く、トルソーでも良く、脚だけ取っても良い。
素晴らしい彫刻は美という命を全体に宿している。切り離されても死なないのだ。失われたミロのヴィナスの両腕やサモトラケのニケの頭部を嘆くだろうか。ベルヴェデーレのトルソはあれで完成している。

この作品を日本で収蔵展示しているところは無いのだろうか。

なお、画像はhttp://www.thais.itからの無断借用。メッシーナ画像多数あり。

2009年12月19日土曜日

彫刻と色彩

現代、私たちが彫刻と聞いて思い出す物に色彩はあるだろうか。ブロンズ像、大理石像、木彫と材質は様々あるが、ほとんどはその素材がそのまま作品の表面である。寺の仏像も彫刻だが、私たちのイメージのそれは木や漆の地肌が剥き出しになっているものだ。
芸術の起源は信仰と結びついており、彫刻も起源をさかのぼると各時代、地域の信仰との関係が強くなる。そして、信仰色が強まるほどに作品に色彩が施されているように見える。くすんだ表面のイメージが強い仏像も建立当初の復元などを見るとどぎついばかりの原色に彩られていた。ギリシアの大理石像たちも、当時は鮮やかに彩色されていたという。それはつまり、リアリティーを追い求めていたということだろう。私たちの肌や衣類と同じ色が欲しい。より高貴ならば貴重な色で差別化を計ろうと金箔や希少原材料の色が選ばれた。
彫刻から色彩が分離されたのは、彫刻が表現技法としての自立を果たしたことの表れとも言えないだろうか。そもそも、絵画も彫刻も実世界の再現という同一の目的が根底にあったはずで、だからこそ色彩があるものを再現するなら色彩を施すのは当然だったろう。やがて、芸術が宗教からの自立を図ろうという「自我」を持ち始めたとき、絵画と彫刻もその方向性を明確に意識するようになったのではないか。

ともかく、現代において芸術の彫刻は一般的に彩色されない。それは、現代の彫刻が必要とする本質的命題にそった正しい方向性であると思う。つまり、存在感の追求である。
芸術は自然の再現である。私たちの言う自然とは、人工物を除いたそれ以外の存在であり、それは色彩にあふれている。それを再現しようという欲求が人類に「絵の具」を発明せしめ、絵画が誕生したが、彫刻はやがてそれを放棄するに至った。それはしかし、当然の成り行きなのだ。なぜなら、色の付いた彫刻は「うそっぽい」からだ。色付きの彫刻が嘘っぽいのに色付きの風景画に魅せられるのは何故か。それは、再現対象が違うからに他ならない。

在る人物のポートレイトを画家と彫刻家がそれぞれに制作するとき、勿論、両者ともに色付きの人物を見ている。では、色とは何だろうか。根源的なことを言ってしまえば、そもそも色は外界には存在しない。それは、脳が生み出す感覚に過ぎない。私たち生物が生きるために外界を視覚的に判断するために生み出された感覚の一つである。私たちが色と感じているのは、特定領域の光である。つまり、この場合では、モデルの人物に反射した光線を眼が拾ったものが作家が感じる色となり、画家が描く人物画とはモデルに反射した光を描いていると言い換えられる。それに対して、彫刻家が作るのはモデルそのものであるから、もし彼がそれに色を付けるとすると、光が反射する対象の色を作っていることになる。絵画は、自然が目に映ったものを再現するのに対して、彫刻は自然物そのものを再現しようとする。自然物に色を塗れば嘘っぽく感じるのは当然である。

彩色彫刻の違和感は昔のひとも感じていただろうが、信仰彫刻は言わば記号であるから、構わなかったのだろう。彫刻が「芸術」として独り立ちをすると、速やかにそれは捨て去られた。発掘されたギリシアの(色は消えている)彫刻を見れば、彫刻的感動に色は必要ないのが体感できる。

感動は、付随する要素が多すぎると散漫になり希薄になる。単純すぎてもいけないが。彫刻的な感動は、量と構造で生み出し得るものであり、色彩は時に助長に過ぎないのだ。

2009年12月8日火曜日

境界 「在る、居る」ということ

ある空間内において、「有る」、「居る」を定義するには、境界が必要だ。私たちの感覚では視覚と触覚がそれを認識する。
視覚で境界を認識するとは、要は「見える」ということだが、外部現象としてもう少し細かく言えば、光線がぶつかる対象が在るということだ。視覚器は光を捉える器官だから、空間内である物が見えるというのは、そこに光線が反射できる対象が存在することを意味している。机が見えるというのは、それに反射した光線を網膜が拾い上げているということだ。机の前まで行けば、当然それに触れることが出来る。「見える=触れる」という経験の進化的な積み重ねで、私たちは見えるものは存在するという感覚的常識を強くしてきた。しかし、「見える」とは光線の反射に過ぎないのだから、厳密に言えばその限りではない。夏に現れる陽炎(かげろう)や蜃気楼などは、目に見えてもそこに存在しない。鏡やテレビなどの映像もその列に並ぶ。目に見えてかつ存在もするが、捉えられないものとしては雲や蒸気などがある。夏空の積乱雲などは大山のごとき存在感であるが、飛行機などでそこに近づくとその輪郭は曖昧になってゆき、遠目で見えていた実体感がなくなってしまう。
目に見えるのに触れられないという対象は、私たちの体験においてまれであったために、そういう状態を体験すると違和感を感じ、不安感を覚える。幽霊などが、見えるけれども触れられないような存在として登場するのもそこが関連しているだろう。

触覚で境界を認識するとは、つまりは「触れる」ということで、触れたときに押し返される刺激があることでそこに物が在るということを認識する。これは、触れる対象によって様々な触覚としてフィードバックされる。私たちが日常触れる物はコップや鞄などのように多くが「硬い」。つまり、明確な形を持っている。それ以外にも、水のように形を持たない物もあるが、それらは触れたときも明確な形としてのフィードバックはない。視覚でも登場した雲なども触れることが出来るが、触覚のフィードバックはもはや無いと言える。

こうしてみると、物が「在る」ことを認識するための境界は、空間中の壁のように確固たるものではないことが分かる。それは言わば、空間中の物質の濃度差のようなものだ。
大気中には水分子は漂っているが、普通は見えない。それが一定の条件下では凝縮し、光線の多くを反射しうるようになると雲として目に見えるようになる。その濃度がさらに高くなると水になり、曖昧ながら触覚に訴えるようになる。固体の氷となると、不動の確固たる物質然とする。水の液体相と固体相を鑑みると、濃度差に加えて分子のふるまいも関係すると言える。

彫刻は空間に素材の境界を持って存在する。私たちも同様に空間中に境界を持って存在している。彫刻という「物」と、人間という動く「物」。「在る」、「居る」ということを掘り下げて考えたい。

2009年12月2日水曜日

形の根源的要素 球


世界はかたちで出来ている。私たちの目はそれを捉え、手はその質量を感じ取る。全てが実に複雑な形態をしている。殊に自然物は一見とらえどころがないほどに複雑に要素が絡み合った形態を見せる。対して人工物は比較的分かりやすい。それは、私たちの脳から生み出された、概念を根源とする形状だからだろう。
その頭の中で見いだされた、根源的な形状がある。幾何形体ともプリミティヴ・オブジェクトとも言われるが、いわゆる球体や立方体や円錐などのことだ。その中でも、球体は特殊である。それが、球体以外の形状とは全く別次元ほども違うということは、誰でも言葉に出来なくても何となく分かるのではないだろうか。球体の定義は色々あるだろうが、完全対称性ということが球をそのほかと分ける一番目立つ性格のように思う。完全対称とは、究極の無性格と言い換えても良いだろう。

私たちは、形を見るとき、そこに何らかの性格を見いだす。円錐形を見ればそれはとがった方向に進みそうな印象を与えるし、長い円柱なら長軸方向の動きを見いだすかもしれない。私たちのそういうクセを使って様々なものが「デザイン」されている。スポーティな商品は鋭角な要素を、安心感が売りならば角は落として・・。そういう目で見たとき、完全な球体ほど退屈な形状はない。そこにはいかなる動きも性格も見えてこない。

体積比で最小の表面積である球は、自然界の振る舞いから見えてくる最も根源的な形態である。雨粒のように空中に放たれた水は速やかに球体になる。渓流の尖った岩は下流に転がされる過程で角が取れ磨かれ丸石となる。標高8000メートルから水深10000メートルまでの凹凸を持つ地球は少しずつ浸食と堆積によってならされ続ける。全ての物質は、その振る舞いとして球体を目指しているように見える。動きのある形態から動きのない球体へ。完全な球体、つまりそれは、全ての動きを吸収しきった状態である。これは、エントロピーが最大の状態と言い換えられないだろうか。もしも、物質が完全な球体になり、そこで活動が停止するのならば、それはエネルギーとしての死を意味する。ならば、球体は死を意味する形なのだろうか。
ところで、生き物が生まれてくる始まりはどんな形をしていただろう。

私たちは初め、卵という球体だった。それは単一の細胞で、初めから人の形をしているのではなく、丸い球だ。球体が未知の機序に従って設計図に則り、次々と分裂、分化を繰り返して複雑な生命体へと成長してゆく。
「玉にきず」という言葉がある。この玉は球ではなく「ぎょく」を表しているのだろうが、美しく磨かれたものという意味において、球と置き換えてもいいだろう。完全に近いものほど、小さな傷が目立つ。全ての物質が球を目指していながら、完全な球を見ることはない。研究機関で研磨して作る試みが続けられているそうだ。精密な球もひとたび落としてしまえばそれが失われる。物質は球を目指しながらも、外力によって球から引き離される。それは、静から動が生まれる瞬間であり、満たされたエントロピーが消され、再びエネルギーが与えられる。
私たちを構成する細胞には分裂可能回数に限りがある。細胞が分裂出来なくなれば、体は死へと向かうしかない。しかし、減数分裂している卵と精子が出会う時に、この分裂回数はリセットされる。老いから若さが生み出されるのだ。このとき、球体は生命を意味する形となる。

こうして見ると、物質と現象は、球を中心にすえた「ゆらぎ」であるように思えてならない。それは、何らかのかたちで外的にエネルギーを与えられることで、いったん球体から離されそこから性質として球へと戻ろうとする。その繰り返しが続く限りは、揺らぎが止まることはなく、現象は持続される。それは、宇宙全体のエントロピーが満たされるまで続くだろう。

球体は、その無性格さのなかに生と死をはらんでいる。その意味でも形の根源的な概念と言える。命ある形態を現そうとする彫刻においてもその潜在的な重要性を見落としてはいけないだろう。