2011年9月24日土曜日

一般のための解剖学

 私たちは皆、一人につき一体の体を持っている。心身二元論的な言い方だが、そのように感じられるのも事実だ。体は超自然的な力によって生きているのではなく、眼前に広がる自然界と同様の物理原則に則って物質や情報が移動することで成り立っている。緩やかに流れている小川でもひとたび石などで流れが遮られれば氾濫を起こすように、体内でも何らかの原因で不具合が起こればたちまち体調不良という形でそれが現れる。小川と違う点は、不具合を積極的に取り除こうとする働きが起こる点だ。しかし、それとて「超自然」ではない。そこに何らかの意志を置こうと考えるのは私たちの脳の働きによるものに過ぎず、より大きな視点で見るなら、身体を一定に保とうとする機構もまた、そのような自然の系の現れのひとつに過ぎないと言える。
 人間を心と体に分けるというのは、私たちにとって非常に馴染みやすく、そこに違和感を感じることが少ない。だからこそ、世界中の宗教でも”物質的な体のない体=霊体”という、冷静に考えると矛盾した存在概念を受け入れている。しかし、脳の機能や体の機構が明らかになるにつれ、心と体が全く分けることの出来ない同列の存在であることも理解されてきた。個人は細胞の集まりという点では集合体であるし、「私」という自己同一性は、右脳と左脳とですでに違う。同様に、「私らしさ」も決して不動のものではなく、脳の特定領域が侵されれば、いとも簡単に別人格になってしまうことも分かっている。これらは、私たちの心というソフト的概念が、体というハード的存在に依っているという事実を示している。これらのような例を挙げるまでもなく、例えば、口内炎の一つも出来ればそれだけで、一日が憂鬱になってしまうことを思えば、どれだけ身体が心に影響を及ぼすのかが分かる。
 それでも、普段、体の調子が良いときは、私たちは身体について忘れがちである。「今日は体の調子が良いぞ」と毎朝考える子供はいないだろう。体の各所にがたが出始める大人になってこそ、そう思うようになるものだ。つまり、どこかに不具合を感じて初めて自己の身体を意識するのである。これはしかし、外傷や内臓疾患など明確に身体に関わるときであって、「気分が優れない」など、感覚的なものは最近まで身体と別の領域で捉えられていたように思われる。それが心理学という一領域を作ったのではないか。今では、それらも脳内物質との関連性から捉えられるようになっているが、家庭レベルでは今でも「それは怠けだ」で片付けられていることも多いだろう。

 書店などでは、いわゆる「こころの問題」に関する書籍が実に多い。こころというソフトに区分けすることで、それを身体というハードと別にし、論理的解釈で解決していこうとするわけである。それらは「こころと体」に分けることに慣れた私たちに非常に親和性が高く、実際、効果もある。これが身体性が更に希薄になり独自理論が組み合わさると「霊感」や「占い」など超自然的な解釈となってゆく。
 肉体の構造という「おもいっきりハード」として身体を見つめてきた解剖学の歴史は、この目に見える物質に、私たちが心と呼ぶものがどこに宿るのかを探る行為でもあった。現在、自然科学の領域である西洋医学において、身体が超自然的な働きで動いているという考える者はいないだろう。しかし、一般の人々にとってそれが全て飲み込める事実でもない。いや、多くの人にとって、医学的事実は理解できる。しかし、「こころ」がそれを受け入れない。脳死臓器移植問題などはそのギャップの表れである。
 書店では、身体についての書棚にあるのは、こころの扱いの書籍と、「家庭の医学」といった不具合に対処する書籍が大半で、シンプルな体の正常構造を記述した解剖書は目立たない。需要と供給のバランスがそこには現れている。多くの人にとって「正常な状態」の自分の体には興味が持てないのだ。「うまく行っているなら、それでいい」。これは、自動車などの所有物の構造にいちいち興味を持たないのと似ている。壊れて初めて「ラジエター」が何なのかを調べる。
 しかし、車と自分の体は違う。身体というハードは、そのまま「私自身」を構成しているのだ。解剖学を知ることは、正に「セルフ・コンシャス」な行為であり、自身の物質性というものに意識的になれる刺激的な学問である。わたしたちは自然状態(かつ健康)だと、どうしても「こころ」というソフトに傾きがちだ。巷では、骨盤矯正や頭蓋骨矯正など身体を改善させる行為やグッズがあふれているが、どうも情報のいいとこ取りで済ませている印象を受けることがある。自分の身体がどのように出来ているのかを基本知識として知っているなら、乱れがちなこれらの情報に流されずに済むかもしれない。このようなメディア・リテラシー的な目的でなくとも、せっかく生きている間お世話になる身体だと思えば、知っているのも損ではないと思う。
 解剖学に詳しい知人が以前、「全身骨格を一体分持っているよ。体の中にね」と言った。そのような身体感覚は面白いと思う。私自身の感想だが、解剖学を知ることで、身体性の扉が一つ開く。それは、自分自身そして自分以外の生きている存在に対する見え方を大きく変えるほどの刺激に満ちている。これほど身近で(何せ自分自身の問題なのだから)、全てに関わってくる学問が、「医学のもの」のように思われていることが残念に感じる。自身の身体は、誰のものでもない。知識の扉に鍵は掛けられていない。多くの人にその扉を開けてもらえればと思う。

2011年9月21日水曜日

芸術家のための解剖学

 美術解剖学というジャンルは海外にはない、と思う。「Artistic Anatomy」や「Anatomy for Artist」と言われるが、何も「〜学」として、学問体系として成り立たせようとしているわけではない。つまり、純粋に解剖学から知識を拝借して、必要な知識を応用しようという、それだけの事なのだと思う。
 我が国の美術解剖学というものも、そもそもは「美術解剖+学」ではなくて、「美術+解剖学」という意味であると思われる。つまり「美術のために用いる解剖学」の省略である。
 しかし、出来上がったこの単語を見た人はそうは思わないだろう。美術解剖学という学問があると考えるに違いない。そして、実際に、美術解剖という学問体系を成り立たせようという流れもある。日本には現在、美術解剖学という名称のつく学会が2つ存在する。

 学会とは離れて、美術大学では学生へ向けて美術解剖学の講義が広く行われている。私もかつて受講した。各美大で行われる講義の内容に大きな違いはないと思われる。骨と筋の位置と名称、働き。年齢による変化。性別による変化。表現された人体の検証・・。
 私がかつて受講した内容も、上記のようなものであったと思う。ひとつ大きな特徴として、”鑑賞者の視点から語られる”点がある。絵画や彫刻などに表された人体に見られる解剖学的特徴の洗い出しなどは、話としては面白いものが多く、美術作品の鑑賞の足場として興味深いものだ。しかし、美大という作家を養成する機関において、「作品の見方」ばかりを講義するのでは物足りないようにも感じる。いや、結局は最後の持って行き方次第で、造形者の知識にもなり得るのは事実であるから、決して無駄ではないが。
 アメリカでは、実益的な内容の講義を行っている団体がいくつもあるようで、その内容を見ると、純粋に人体の形状を追っていくという、日本の美術解剖学の講義と比べるとドライとも思えるものだ。しかし、ある団体では、講義を受けに来る人は既に現場に出ている作家や映像スタジオの芸術家などであり、そういった人々に「鑑賞者的な解剖学うんちく」を語るのは意味がないし彼らも求めていないのだろう。
 この、実質的内容か物語性かという2者の対比は、日本の美術番組や書籍などでも感じる特徴で、どうも、日本では芸術作品よりもそれを生み出した作家の人生や人間関係などが受けるようだ。ロダンとなるとカミーユとのドロドロ関係だったり、ゴッホだと気が狂う過程だったり・・。だから、作家が作品に応用した様々な技法やその効果などについてはほとんど取り上げられない。これは、純粋な鑑賞者的視点であって、それ自体に問題はないのだが、美大の学生など作家側に立つ人まで、鑑賞者的な内容しか与えられず、またそれを良しとして受け入れてしまうことには少々物足りなさを感じる。作る側の人間にとって、ロダンの作品の良さを探る時に、カミーユとの人間関係はそれほど重要ではない。ロダンがどのように人体を観察し、どのように粘土付けの効果を探求したのかがより重要なはずだ。

 もう一つ、人体を作っている作家で、解剖学に興味を示さないひとが多いのも不思議ではある。だが、彼らが造形者のための解剖学を学ばず、その効果を知らなければ、結果的に解剖学に興味を示さなくなることも理解できる。
 西洋の美学校において、人体を造形していこうというする学生が解剖学的な構造を知ることは、基礎過程に過ぎない。それは、人体を通して自らの芸術を語らせようとする者にとっての基本的な文法なのだ。解剖学を知らずして人体を作るのは、文法を知らずして詩を書こうというのに等しい。
 人体を作ろうとする芸術家にとって、解剖学は「知っていれば役立つかもしれない」ものではなく、「知っていなければならない」ものだ。人体作品において、そこに表されている構造が、「知っている上での省略」か、「知らないから作れない」のかは見て分かる。

 私は、人体の構造と形状に魅せられて造形の現場から遠ざかったが、解剖学を知ることで、人体の見え方が大きく変化したことを身を以て感じている。対象の見え方はいつでも同じではない。前提となる知識が用意されることで、見えなかったものが見えるようになる。混沌から秩序を見出すことができる。
 16世紀に見出されたこのアプローチが現代でも採用されていることが、それだけ人体形状を捉えるための強力なサポートになるということを、証明している。どうすれば、この有用なツールを作家が効果的に用いられるのかを、最近考えている。

2011年9月4日日曜日

報告:彫刻展「From NUDE」

先日9月3日、台風12号の影響で晴れと豪雨を繰り返す天気のなか、無事にトークイベント開催されました。冷静沈着な森啓輔さんのトークに助けられ、楽しい時間でした。進行の藤原彩人さん、清水淳さんのお気遣いに感謝します。

2011年8月19日金曜日

告知:彫刻展「From NUDE」

 東京芸術大学彫刻科の若手教員を中心メンバーとして、毎回彫刻に関する様々なテーマをとりあげ、作品を通して議論・考察することを目的に今年度より開催されるものです。
 第1回となる今回は彫刻におけるヌード/裸体をキーワードに掲げ、各参加作家による作品展示を行うとともに、新進気鋭の評論家を招いたトークイベントを開催いたします。
 展示とディスカッションを両軸に、1つのテーマをより深く掘り下げていくという新たな試みにご期待下さい。

会期 2011年9月1日(木)〜9月6日(火) 時間 10時〜17時(入場は30分前迄、最終日16時閉館)
会場 上野の森美術館ギャラリー 住所 東京都台東区上野公園1−2(JR上野駅公園口より徒歩3分) 電話03−3833−4191

主催 東京芸術大学美術学部彫刻科、Sculpture Times #1 From NUDE展実行委員会
助成 藝大フレンズ賛助金
協力 上野の森美術館
ロゴデザイン 長井崇行

出品作家 佐々木速人、清水淳、鈴木貴雄、鈴木友晴、高畑一彰、竹内智美、田中圭介、名倉達了、深谷直之、藤原彩人、宮田将寛、森一朗、森靖、森田太初、山口桂志郎

パネリスト+テキスト 森啓輔(美術評論家/武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科助手)、阿久津裕彦(美術解剖/東京芸術大学大学院美術研究科芸術学専攻非常勤講師)

テキスト(各作家へのインタビューによる作品解説) 勝俣涼、金坂園子、沢田朔、菅原美穂、杉田明花、鈴木晴奈、知久眞也、豊田有里、山崎泰行、吉田佳寿美

トークイベント「ヌードと彫刻の現在」9月3日(土)13:30〜15:30 パネリスト 森啓輔(美術評論)、阿久津裕彦(美術解剖)

レセプションパーティー 9月3日(土)17:00〜19:00

2011年3月10日木曜日

顔と手は裸

 私たち人類は,遠い昔に体表を覆っていた厚い体毛を棄て,代わりに別の物で体表を覆った.それは他の動物の毛皮であったろうし,やがては植物から取り出した線維へと変わり,現代では石油から作り出した線維も用いられる.この「衣類」の発明によって,体表のほとんどの部分は他人には,おいそれと晒さない部位となり,プライバシーを象徴的に表す意味を持った.
 しかし,顔面と手の平は裸のままである.顔面は人類のコミュニケーションの最も重要な手段である表情を作る部位だ.芸術でも,顔とそれが乗っている頭部は,長らく興味の対象となってきた.首像や肖像,胸像などのジャンルとして呼ばれている.人類以外の動物は,感情表現に全身を用いる.人類はそれを顔面だけでも行えるようにした.私たちは相手のわずかな表情の変化にも気づくことが出来る.

 頭部は,彫刻的に見ても,興味深い部位である.頭部をごく単純化して捉えるならひとつの卵形の塊になるだろう.そのようなまとまりのある形状は量としての強さを表し,彫刻的に「絵になる」.このように理想的なベースのなかに,顎や鼻筋などの直線的要素が組み込まれることで形状に抑揚を与えている.眼窩や首と頭の付け根の凹みも頭部の膨らみとの関係性でボリュームのハーモニーを生み出す.人間の顔面は,その他の動物と比べれば平坦だが,実際のところはかなりの凹凸と複雑な面の組み合わせから出来ている.私たちは,コミュニケーションにおいては相手を正面から見て表情を読み取るという歴史を経たので,どうしても顔面を平坦に捉えてしまうが,それを造形する立場ならば,立体的な構造として捉え直さなければならない.頭部を作ると,どうしても前後に平たいものを作ってしまうのはそのためで,「かお」という概念を一度棄てるくらいの気持ちで,頭部の構造を見直さなければ,そこから先に進めないものだ.一流の彫刻家でも,家族や知人ほど,その首像を造ることが難しいという.単にパーツの形状を似せればいいというものでもない.モデルの特徴を強調すれば良いというものでもない.そこに注力しすぎると「似顔絵彫刻」に陥る.作家が感じている「その人らしさ」が,彫刻的な構造のなかに再現されるときに,理想的な肖像ができるのだろう.

 かつて,古代ギリシアでは,裸のアスリートを芸術家が観察し,それらが素晴らしい彫刻となった.やがて裸は隠されるべきものとなり,芸術家はそれを観察するのに苦心するようになり,手助けとして解剖学をも応用した.それでも,本当の裸を常に観察できる環境には敵わないだろう.現代の芸術家は,裸体をモチーフにするのに様々な努力をしているはずだ.人々にとっての裸の意味合いも時代によって変化し,「ヌード」に対する鑑賞者のとらえ方も時代で違うだろう.「何でヌードなの?」という疑問を聞くこともある.裸を見るということは,それほどまでに非日常的なものとなっている.
 裸という状態に,様々な意味合いが付加されている現代では,純粋に人体の構造美というものに興味を落ち着かせることは難しいかもしれない.どうしても我々はそこに「裸であることの特別な意味」を求めてしまう.
 一方で,顔と手は,相変わらず裸のままなのである.顔を作る難しさは先に述べたが,手も芸術家にとってチャレンジであり,その表現如何では,その作品が滑稽なものとなってしまうほどのものだ.手が持つ表情性については高村光太郎の彫刻「」が素晴らしい参考である.手が持つ,表現力と芸術性との関連性に言及した彫刻作品は,先だってロダンがある.「カテドラル」は有名だが,もはや手を超えた,より大きな構造体として見えてくる.

 全身のヌードが,特別なものとなっている現代においても,芸術家は私たち自身の探求の主題として「肉体の美」を忘れないだろう.だがそれは,今後はさらに,限られたジャンルとして切り離されていくかもしれない.そのような流れの中にあって,未だにごく身近な裸(=特殊な意味合いの込められていない裸)として寄り添っている頭部と手には,古代ギリシアの芸術家達が追った芸術性と似たものを追求する余地が,そこに残されているのかもしれない.

2011年2月23日水曜日

Locking Piece 彫刻の強度


 「噛み合った形」という作品.彫刻に必要な要素のほとんどが理想的な形状によって表現されている.1963年にヘンリー・ムアによって作られたこの彫刻は,3つのピースの組み合わせで成り立っている.大きな形状が上下に重なり,その間に小さな板状の形状が挟まれている.これらのピースが実際に3つであるのか,実際には単体で作られているのかは知らない.
 ムアが,作品のヒントとして,彼が拾い上げた様々な自然物の形状を用いていたことは知られている.この作品が,骨をヒントとしていることはこの形状から明らかだ.上下の大きなピースは,主に2カ所で合わさっており,その片方は上の部位を下側が包み込むように噛み合って(ロッキング)いる.もう1つは,間に小さな板を介して合わさっている.骨で言えば,噛み合っている部分が関節部位である.板を介している方は,さながら椎骨と椎間板である.実際,椎骨の関節部位は,この作品と似た組み合わせを見せる.更に言えば,人体での腰椎の関節に近い.それは多分,他のほ乳類でも似ているだろう.椎骨は,ダルマ落としのように似た形状の骨が上下に重なっている.そして,上と下が重なることで,その間に神経が通るトンネルが作り出される.単体ではなく,複合体となることで形状に意味が現れるのは,この作品と同じである.
 骨の美しさに気がつく芸術家は少なくないが,その美的要素を抽出し,彫刻として自立させることに成功した作家はムアしかいない.これは,ムアが,美に流されず,それをコントロールする術を身につけていたことを意味している.自然物の美しさの要素は「きりがない」ので,受け取る側に明確な意志がないと,まとまりが付かないものである.ムアの作品から読み取れる要素を集約すると,大きな面と大きな量,になると思われる.実はこれは,彫刻に強度を与える重要な要素である.

 かつて,彫刻家の佐藤忠良が,ムアの凄さとして,小さなマケットを拡大しても作品の強さが変わらないことをあげていた.ムアは,掌に収まるような小さな試作から始めて,それを1メートルほどの「ワーキングモデル」に拡大し,最終的には数メートルに及ぶ作品に拡大するという行程を取っていた.大作の構成は全て掌の上で生まれたものである.作品の密度が,サイズによって変化することを知っていた佐藤忠良は,マケットと巨大な完成作が同様の緊張感を保っているムアの作品に驚いたのである.
 この「マジック」のタネこそが,「大きな面と大きな量」にあると私は考えている.この作品に近づいて見ると,表面にはヘラやヤスリによるおおざっぱなテクスチュアが付けられているに過ぎない(これも重要な要素だが).ムアはとにかく,「大きな面と大きな量」を動かすという,”軸”から外れることなく作品を作っていたことで,作品の強さを変化させなかった.また,掌でマケットを作っているときから,頭の中ではそれが数メートルに拡大された時の事を考えていたはずだ.彼は,作品を小さな物から拡大するのではなく,自身が小さくなったり大きくなったりして,自分の作品を見ていたのだろう.

 大きな量と量がぶつかり合って,1つの形を成す.その間にはトンネルが作られ,「実」の量の挟まれた「虚」の量が表される.それは,何かが通る予感である.それらは,全体をまとめる大きな面を乱すことはない.いや,それらの要素によって大きな面が作られている.
 彫刻的な強さ,美しさには,細部など重要ではない.作品がそれを証明している.

 画像はネット上から無断で転載

2011年2月16日水曜日

立体の視覚的要素

 私たちの眼前に広がる世界は,全て「量」を持っている.つまり,立体物であるわけだが,脳はどうやってそれらが立体であることを認識しているのだろうか.写真が開発され,目で見ている世界観と近いものが,平面上で再現されるようなったが,それは明らかに肉眼で見ているものとは違う.両眼視差の有無に目を瞑ったとしても,目で見て感動したものを撮影して後で見て,その時の感動とは違うことに気がつくことはよくある.写真は,レンズとフィルム(デジタル化した今ならば,画像素子)の距離を,広角から望遠まで自在に変えることが出来る.焦点距離が変わることで,素子上に結像する絵には特有の歪みが生じるが,それらは私たちの肉眼では起こりえない現象だ.一般的には35㎜フィルムカメラの焦点距離50㎜レンズの結像が,肉眼で見る像に近いと言われる.しかし,50㎜レンズで撮影された写真であっても,私たちの主観的視覚とは,明らかに違う.なぜなら,50㎜レンズの結像は,眼球におけるレンズから網膜までの焦点距離という,光学的現象の近似性だけを言っているに過ぎないからだ.
 私たちにおける「見る」という行為は,カメラのレンズに”勝手に”光が入り込んで,フィルムに化学変化を起こすような受動的な現象ではない.厳密に言えば,まぶたを開いたときに,光が目の中に入り込み,網膜の視細胞を刺激するところまでは受動的だろう.しかし,その後,刺激が脳へ運ばれ,分解,再統合され,最終的に意識下に上る間には,能動的な処理が行われている.つまり,私たちはそもそも,写された写真のようには世界を見ていない.
 話が横にずれるが,日本において「絵がうまい」ことの判断基準として,”写真のように描ける”というものが通底してあるように思う.絵が趣味という人が,実は写真に撮ったものを紙に描き写していたりする.それをカムアウトしている人もいれば,言わない人もいるが,出来上がった絵を見れば分かる.焦点距離が肉眼と違うからだ.表現として,あえて撮影されたものを描くという手段をとる作家もいる.意識しているなら,それでいいのだが,写真を通して2次元化されたものを描き写すことは,技術的に大したことではない.また,視覚による主観のフィルターを通していないものは,その人の個性も含まれておらず,作品としての面白みの大半が失われているように感じる.つまりそれは,「写真のようだから上手」という安直な価値基準でしか計ることが出来ず,さらに言うなら,それらはもはや「写真でいい」ものなのだ.
 しかし,写真機が発明されるより前の時代では,むしろそれが渇望されていた.光学的な規則性が発見される前の絵画では,視覚的な主観性のみが前面に大きく出ており,いわゆる前後関係などがばらばらである.西洋絵画において大きな発展を成したのは,16世紀のイタリア・ルネサンスにおいてだった.建築家や芸術家が,主観に依らない立体感の表現技法,すなわち遠近法を発明した.遠近法には,幾つかの種類があるが,そのどれもに共通する手順として「線」を用いる.厳密に言うなら,それらの線は,計測基準となる点と点とを結んだものであり,言わば,視覚的補助である.なぜ,視覚的補助が必要なのか.それは,私たちの脳がそれを必要としているからという結論になる.点と点が無数に集まると,私たちはそれらに規則性を見いだそうとする.しかし,点の多さから,そこに混乱が生じる.線が引かれることによって,その混乱が排除される.線とは,方向性の概念でもある.
 遠近法の確立によって,私たちは,無限に広がる外世界に,点と線で区切りを作った.そのグリッドを頼りにすることで,自然界のランダムさに惑わされない,空間の規則性を把握する術を手にしたのである.空間を点と線で区切る,これは私たちが「発明」したものだろうか.同じ長さの線なのに,その周囲に付随する斜線によって,違う長さに見えてしまう錯視画がある.似た類の錯視画を誰もが見たことがあるはずだ.錯視のトリックを明かすと「目がだまされた」と言うが,正しく言うなら,「騙されているから,生きられる」のである.錯視とは,光学的普遍性に対する視覚脳の高度な適応の結果であり,このシステムが働いているから私たちは,世界を正しく見ることが出来ている.私たちは,真実のままには生きられない.
 錯視で用いられる点と線は,遠近法と基本的な概念は同じである.つまり,遠近法は「発明」ではなく,むしろ「発見」である.遠近法の元には,万人が「騙される」のである.16世紀の遠近法の発見によって,世界は点と線で表現可能であることが確かめられた.これは,視覚的に立体感を捉えるための,おそらく最も還元された視覚世界であろう.なぜなら,そこにはもはや光が必要ないのである.現実世界で私たちが外界を見るとき,そこには常に光りがある.目とは,光を捉える器官である.視覚による外界の理解には,その進化において,常に光りが共にあった.光と影.それによって立体感も作られている.そうして,世界を見てきた脳が,視覚的経験から,概念としての空間性を認知するに至った.その表象が点と線による空間表現に他ならない.
 点と線による,立体感の表現は,絵画における表現で長らく用いられている.線によって陰影を表す版画ではクロスハッチングのように,その線の交差と角度で,対象の立体感を表す補助としている.クロスハッチングを独自に発展させて,立体物のドローイングに応用させたのは,20世紀の彫刻家ヘンリー・ムアである.線を一本走らせ,任意の点で直角に曲げる.それを繰り返すことで,紙面上に”光線に依らない”立体感を生み出している.これは,彼がその時に,どのように対象物を観察していたのかを表すものとしても興味深い.また,この描法で,平面である紙面において彫刻的存在感の再現を模索していたのかもしれない.
 20世紀後半から,コンピュータグラフィックが身近になり,三次元CGも一般の趣味のレベルまで降りてきた.これは,平面であるモニター内に仮想的な立体物を描き出す技術で,言わば,16世紀に生まれた遠近法の発展形である.モニターに向かって作業をする時,オペレーターは,大抵いくつかの「見え方」を選ぶことが出来る.その1つであり,もっとも基本的な見え方に,ワイヤーフレームがある.字の如く,対象物を点と線とで構成された”枠組み”で表す.コンピュータは点の位置情報を扱うだけでいいので,処理が軽く,マシンへの負担が少ない利点がある.オペレーターも,点と線だけで,十分に立体感を捉えることが出来る.それは,かつてムアが紙の上で試みたものと大差がない.
 点と線で強調される,視覚的立体感は,実は,私たちの生活空間にも多用されている.板金技術の発展した現代の自動車では,車体にはしるパーツの合わせ目が,高度にデザインされている.それは,意図された車のイメージを強調させる素材ともなっているのだろう.六本木の東京ミッドタウンの中庭で見られる,フロリアン・クラールによる大型の工業金型の様な屋外彫刻は,作品の表面を走る部品の接合部の線が作品の立体感を視覚的に高める効果的な要素となっていることが分かる.
 視覚的に立体感を与える要素としての点と線.このコントロールによって立体物の見え方は大きく変わる.それこそ「騙される」.3DCGの作業画面でも,点と線を扱う数式の違いで,描かれる格子(グリッド)は違う.
 永く感覚に頼ってきた絵画における立体感の描写は,16世紀に数式が入り込むことで,大きく変化した.それらは主に空間表現に限っていたが,現代では,それがCGにおいて個別の物体にも応用されるようになった.遠近法が,絵画のみならず立体物である彫刻へも応用される時代が到来しているのかもしれない.かつて,ムアが試みた視覚的実験に世界が今追い着きつつある.