2015年8月12日水曜日

盗用疑惑からAI(人工知能)を思う

 一般人の純粋な眼が厳しい。最近は、様々な発表物に対する”盗用疑惑”の報道が多い。それらの多くがネット上での指摘に端を発する。始めの小さな指摘から次々と類似性のある「問題点」が掘り返され、”ターゲットの悪事”が決定的と言われるまでそれは続く。そう。あたかもそれは、初めから「盗人」と決められたゴールへ向けてひたすらに情報を集め邁進しているかのようだ。
 このターゲットに選ばれるのは、作曲家や漫画家やデザイナーなど、自身の作品のオリジナリティが作品性と関係してくる職種である。なかでも比較検証が容易である視覚伝達系、つまり図やイラストなど、が頻繁に取り上げられるようだ。
 最近、そして現在進行形が、東京オリンピックの公式エンブレムのデザインとそのデザイナーだ。デザインが発表されると直ぐに海外のデザイナーから私の盗用だと声が上がった。エンブレムのデザインは単純な幾何図形の組み合わせからできている。同じような美的センスを持つ人間がそれら単純な組み合わせからデザインを起こそうとすれば偶然に似た配置を選ぶことは考えられると私は思うのだが、許せない人たちもたくさんいる。彼らにとっては、とにかく決定的に”違っていなければダメ”なのだろう。そこから波及して、デザイナーの過去の仕事まで洗いざらいチェックされ(誰がしているのかは分からないが)、あれもこれも似ていたと、ネット上に張り出されている。端から見ていると、このデザイナーを陥れようとする”黒い意思”のようなものまで感じてしまうほどだ。
 こういった、盗用疑惑系ニュースの盛り上がりを見ると、どうしても原理主義的な極端さを感じてしまう。もはや、ほんの僅かでも「似ている気配」が漂っていればもうアウトになってしまうのだ。ここからは私の推測だが、クリエイション系の仕事人ほど同様の案件を問題視しないのではないかと思う。彼らは創造的な作品は全くのゼロから生み出されるのではないことを経験的に知っているからだ。「盗用とインスパイアやオマージュは違う」そういう声も聞こえるが、実際はどうなのだろう。少なくとも、美術史を振り返れば、今だったら「盗用だ」で片付けられてしまうような作品達で溢れかえっている。むしろ盗用の歴史でさえある。そっくり真似したかったが真似しきれず、その結果うまれた表現などもあるほどだ。そう言うと「美術とデザインは違う」という返しが聞こえるけれど、ここも”違って、かつ、同じ”なので踏み込まない。

 それにしても、こうした「一般人の意見」の総体が直接的なちからを持つのは、正にネット時代的であると感じる。かつてならば個人の意見が社会に対して圧を持つまでになるには、「集会」やら「会報誌」やらで意思疎通や意見統一を図らねばならず、それなりの段階が必ず必要だった。顔を合わせれば、そこにはやがて場を収める「長」が生まれ全体の意見の統一と増長を図るわけだが、ネット上ではそれがない。中枢がない。これはインターネットの仕組みそのものと似ている。これは、新しい時代の始まりなのだろうか。

 生物の神経系の発展史を見返せば、それは多細胞化に伴う細胞局所の働きの分化から始まるわけで、神経系の原始形においては、中枢は存在しない。中枢が存在しない状態の神経系の働きは実にシンプルで、受け取った刺激に対応した反応命令を”反射的に”効果器へ返すのみだ。やがて、両者の間に介在ニューロンが入り込み、それが他のニューロンと結びつくことで、単なる反射からバリエーションが生まれた。その繋がりを網の目のように広げていくことで、膨大な反応可能性を作り出すことが可能となった。つまり、ある刺激に対して、単なる反射ではなく、状況に応じた適切であろう反応を選択して返すための神経ネットワーク、すなわち中枢がこうしてできあがる。

 神経系の状態で見るならば、現在のネット上での「中枢なき意見の集合」は、単なる反射の集合意見に過ぎない。確かに、それらの意見が状況に対して益なのか不益なのかの考慮は無いに等しい。そうしてみると、現状は、確かに新しい時代ではあるが、同時にとても原始的でもある。

 最近、AI(人工知能)が現実的になりつつあり、それにともなって、AI化が進む近未来の危機についても予想的意見が出るようになった。いわく、いずれAIは人間の知能を越え、我々の制御の効かない驚異となるだろうと。AIは、入力に対する回答が完全に自律している点で、従来のプログラムと異なる。例えば、AIに「茶色でワンと言うのは何」と尋ねて「柴犬」と回答があったとして、どのような論理回路を経由して柴犬という回答に至ったのかは分からない。もしかしたら、「日に焼けた外国人」と答えるかも知れない。それは、誰か人間に同様の質問をしたときと同じことだ。その回答は、その質問の前後の状況が大きな影響を与える可能性がある。イヌの話をした後ならばきっと柴犬やラブラドールと答えるわけだ。つまり、AIとはネット上に現れる「中枢」である。中枢が情報を統合して判断することで、単なる反射から知能(Intelligence)となる。

 インターネットがこのまま進歩していけば、いずれAIが組み込まれるだろう。そうなると、私たちのネット上での発言は一度AIに集約され、その総体的意見は、返すべき理想と判断された形に変換される。それがネット上の総体意見として発言されるようになる。めでたく私たち個人はネット上における単一のニューロンとして存在するのである。
 そうなった近未来に、今起きているような「盗用問題」的な反射発言が出たとして、AIを介したネット上の知性はどのような意見を吐き出すのだろうか。彼はそれを「価値のない盗用」と断罪するのだろうか。それが、知りたい。

 AIは人間が作るが、その働きは人間に依らない。人間に依るのでは、AIの意味がそもそもない。AIを求め、それを恐れるのは、だから当然であり矛盾もしている。AIが理想的な完成を迎えるなら、それは人類の制御を越えるのは自明である。完成したAIはもう一つの「知性」と言うよりむしろ、もう一つの「自然」であろう。

2015年8月11日火曜日

人体と人体彫刻

 私たち人類は、3万年前には自分のかたちを造形していました。それら小さな彫刻の造形表現が現在と比べて劣っているということはありません。28000年前に作られた『ヴィレンドルフのヴィーナス』像が見せる、冷静な観察に基づく大胆な変形と形態的な調和には感嘆させられます(図1)。
『ヴィレンドルフのヴィーナス』 
旧石器時代の11センチほどの石像


人体彫刻の起源は人類史的に遡ることができるものですが、現在の日本で彫刻と私たちが呼ぶときに心象に浮かぶもの、例えばブロンズ像や大理石像などの直接的起源は、2500年ほど前の古代ギリシア文明と言って良いでしょう。この西洋彫刻とも呼ばれる領域が日本に本格的に輸入されたのは文明開化後ですから、日本人にとっては”西洋彫刻を作り始めて100年ちょっと”ということになります。
 しかしここでは、文化史的な側面というよりも、人体彫刻とそのモチーフである人体との関係性に注目したいと思います。そこでは彫刻の最大の特徴である「実在」がキーワードとなるでしょう。なぜなら、私たちもまた人体として実在しているからです。彫刻と人体はこのことにおいて相互に関連しているのです。彫刻は物質の形態を操作することで非言語的に語らせようとします。人体は物質が複雑精緻に組まれた形態によって生命現象が生み出されています。どちらも実在する形態のありようが、その存在の意味を支えていることに変わりがありません。一方で、両者の由来は違います。すなわち彫刻は人類によって生み出されたものですが、人体は自然が生み出したものです。
 私たちは皆生まれたときから“人体を所有”していますが、人体のことを初めから知っているわけではありません。人体すなわち「私」とは何か。それを形態から探求する学問が人体解剖学です。解剖学は隠された内側から直接観察することで人体の認識を深めようとします。人体の内景は有史以来、長い時間をかけて少しずつ発見され、その探求は現在も続いています。こうしてみると彫刻も人体も、私たちの意識によって発見される形態という意味で同様です。このような類似性は、解剖学的な形態や構造に彫刻的な美しさを見いだせることからも分かるでしょう。
 多くの点で人体と似た”実在的な運命”を持つ人体彫刻を、解剖学的な視点も加えて眺めていきましょう。

実在のリアル

彫刻には、実在しているという事実によって生まれる特有の特徴があります。そのひとつが形状と素材の連関です。これは、彫刻の形状はその素材の特性の影響を受けると言うことです。彫刻の素材として良く用いられるものは石、粘土、木材、金属、樹脂などで、それぞれ特徴的な特性があります。たとえば、石材は硬く丈夫で屋外にも置けるが欠けやすく、木材は切削が容易で細かな表現ができるが強度はそれほどでもない、などです。大理石の彫刻は細くて長い造形は向かず、人体像の姿勢もそうならないように工夫されています。一方、素材に粘りがあるブロンズ像ではよりダイナミックな姿勢が可能になります。このように、彫刻は物理作用の影響下にあるために、その形や姿勢もそれに従う範囲でなりたっているのです。
 また彫刻が実在するということは、作品の題材(テーマ)が実在するということでもあります。鑑賞者はその作品の題材と物理空間を共有していることになります。この作品がミケランジェロ作の『ピエタ』であったとするなら、その物語の当事者であるキリストとマリアがあなたと同じ時空にあるわけです。この劇場的効果が彫刻に特有の強さを与えていることは確かでしょう。一方で絵画は、一枚の絵の中に限りなく自由な世界を繰り広げることができますが、それらは私たちの物理的空間とは隔絶されています。作品題材の存在では、”絵画はバーチャルの、彫刻はリアルの芸術”ということになります。
 作品を前にした鑑賞者は、作品がそこにあることを当然の事として捉え、その作品が持つテーマを感じ読み取ろうとするものです。先に例に挙げた『ピエタ』であれば、マリアやキリストの外見やそれに伴った物語という文脈です。しかしながら、彫刻の鑑賞においては文脈の鑑賞にくわえて、それが”実在する”という彫刻と私たちが共有する事象にも目を向けることで、彫刻特有の芸術的性質が見えてくるのです。素材と空間の制約の中で屹立する彫刻には、どこか私たちと似たものを感じます。

心も形から

心を私たちは知っています。「心と体」や「心身」といった言葉があるように、形のない心に対して物質の肉体と同程度か時にはそれ以上の存在感を感じもします。私たちは具体的な形を持たない心や意識を”意識”することができるのです。怪我をしたり病気になったりしてやがては消滅する肉体という物質的な存在と心は対極的な存在として捉えられるのです。
 医学に依れば、私たちに魂の存在を信じさせる意識は脳から生まれます。脳は神経細胞の集まり、つまり物質です。また感情や愛情といった情緒は、ホルモンなどの作用で変化することも分かっています。ホルモンとは体内に流れるごく小さなタンパク質などの物質です(図3)。
このことはつまり、心や感情といった形がない概念的なものが、物の形から生みだされていることを示しています。感情を生み出す形。それはまるで彫刻ではありませんか。彫刻が持つ形状は、鑑賞する私たちの心を動かします。それは私たちの考え方や行動さえ変える力を時に持ちます。彫刻という物質の形状と形なき心との関係性は、体内における意識や感情の立ち上がり機序と思いのほか似通っているのです。

彫刻特有の感覚

彫刻は立体物として量を持ちますが、見ることができるのはその表面だけです。表面の色彩だけを見ているのであれば絵画と変わりないのでしょうか。それでは描かれた彫刻と実物の彫刻は同じということになってしまいます。これには違和感を感じますが、実際のところ具象絵画はこの思想ゆえに成り立っているわけです。しかし描かれた彫刻を観ることが、実物の彫刻鑑賞の代わりにはならないこともまた明白です。描かれた彫刻では決定的に何かが物足りません。実在する彫刻を鑑賞するときだけに働いている感覚、それは立体感です。
 この世界は立体的にできていますが、それを立体的に見るには2つの目でひとつの対象物を捉える必要があります。2つの目で捉えられたそれぞれの映像を重ねるとズレが生じますが、脳はこのズレを元に距離感を得ます。この距離感が特定の対象物に向けられるとき立体感として感じられるのです。人間の両目は並んで前を向いているので立体視が可能なのです。視点が移動すると、このズレが連続的に起こるので立体情報をより多く捕らえられます。彫刻作品の前で鑑賞者が左右にゆらゆら動いているのは、そうやって立体感を味わっているのです。彫刻は私たちの両目が並んでいたから生まれたと芸術とも言えます。世界を立体で見ることの喜びがそこには内在されているのです。
 彫刻を写真に写してもこの立体感は残せません。平面化された時点で立体感は打ち消されてしまいます。ですから、彫刻が持つ立体感や量感を楽しむには、実物の前に立って鑑賞する意外にないのです。鑑賞者がその作品の前まで赴かなければならないという意味において、彫刻はライブショー的な側面も持っています。

彫刻の内側

ブロンズ像を間近に見ると、その表面に作者の指跡やヘラ跡が生々しく残っていることがあるので、これらは直接作られた中身の詰まった物だと漠然と思われていることがしばしばあります。しかし実際はそうではなく空洞です。ブロンズ像は始め粘土や蝋などで作られます。その粘土像から型を起こし複雑な工程を経て、最終的にブロンズつまり銅の合金へとすっかり置き換えられているのです。具体的には、型の中へ溶けた熱い金属を流し込みます。金属は冷えて固まる時に縮むので、金属の量が多いと歪みや割れが起こります。そうならないようにブロンズ像は空洞にされます。そもそもなぜブロンズに置き換えるのかと言えば、長期保存のためです。粘土で作られた彫刻はそのままでは壊れやすいので、長く保存できるようにブロンズなど別の丈夫な素材へと置き換えられるのです。置き換える素材は、金属の他にも石膏や樹脂など様々です。別の粘土で置き換える技法もあります。置き換えた粘土は焼くことで丈夫にします。このように、型を起こして置き換えられることで彫刻作品のほとんどが中空となるわけです。
 この「充実しているように見えるが実は空洞」という事実は、彫刻作品の質つまり像の表面造形とは関係のない舞台裏として取り上げられませんでした。これは、作品性は外表面だけに表れるということを意味してもいます。
 しかしながら、作品の存在に多くの芸術的な意味合いを語らせようとする現代の彫刻においては、作品の表面だけでなく、素材やその内側への意識もまた作品の一部として無視のできない要素となりうるのです。例えば、古代ギリシアのブロンズ像で象眼された目が外れて穴が開いているものがあります。それを以前なら欠損の穴と見ましたが、今では黒い影を落とす目の穴にも造形的な意味を与えよう、もしくは読み取ろうとするのです。この時、作品に開けられた穴は作品の表面と内側とを繋げる窓となって、内側はそれまでの舞台裏から作品の重要な要素として再認識されることになります。穴はそこから続く内奥を予感させ、それまで意味が与えられていなかった内側に意識の光が届けられることになるのです。さらに作品の表面は、それまでの充実した量の外面という意味合いから、内と外を隔てる境界へと意味合いが変わります。この時、境界を「膜」とするなら、ここに膜を隔てた内側の概念が彫刻に加えられたことになります。
 彫刻に開けられた穴と同様に、私たちの顔にも幾つか穴が開いています。穴と一目で分かりやすいのは鼻、耳、口です。目の瞳孔は光を通す穴で、眼球そのものも眼窩と呼ばれる穴にはまり込んでいます。顔に開いたこれらの穴もまた体の内と外とを繋げる窓です。目、鼻、耳から情報を取り入れ、鼻と口からは物質の取り込みと排出(食事、呼吸)をします。さらに目と口はコミュニケーションの道具としても重要です。口は言葉を話し、目は口ほどに物を言うのですから。

内側の外側

彫刻に穴が開くことでその内側が作品の要素として加わりましたが、この内側についてもう少し見てみましょう。人体はその中心部に限って内側に腔所があり、頭部は頭蓋腔、胸部は胸腔、腹部は腹腔といいます。これらの腔所に脳や胸腹部の内臓が納められているのです。この頭、胸、腹部を一括りに体幹と呼び、生きるために必須の器官はここにまとめられています。なぜ体幹にまとまっているのかは進化を遡ると分かります。私たち人類は4億年も遡れば魚でした。その頃の体の主要部分は体幹だけで、腕や脚は薄いヒレに過ぎません。体幹の主要な構成をごく単純に言うなら、全体を貫く腸管と運動のための筋肉からなります。
 日本の古い人体彫刻の埴輪を見ると、まず立派な体幹が像の全体観を作っており、対して腕や脚は単純化や省略がなされています。ここでは体幹部がまさに「体の幹」として表現されています。また、しばしば目や口に穴が開けられています。それらの穴は人間の顔に開いている穴すなわち目・鼻・口・耳と結びつき、その内側へと見る者の意識を誘います。私たちの目は脳へ続く意識の窓、口は腸管へ続く物質の窓です。口から始まって体幹を貫き肛門で終わる腸管は、さながら山に開けられたトンネルです。トンネル内と外は一繋がりであるのと同様に、腸管内は体の外と一繋がりです。つまり腸管内腔は体内のようで実は体外空間に他ならないのです。
 先に、彫刻に穴が開くことで表面の膜性が明らかになり、その膜によって内と外とが規定されましたが、ここで新たに口と肛門を繋ぐ腸管によって「内側の外」が加えられました。彫刻に穴が開けられたとき、その内側の空間を外と認識することで表面が拡張され、作品を取り囲む空間性も一気に広がりを見せるのです。穴による「内側の外」を作品に意識的に取り込んだのがヘンリー・ムーアです。ムーアの作品を特徴付ける穴。この穴を通して「内側の外」が提示され、さらに外と内の間にある量塊によって表裏一体だった「膜」は量塊を包み込む面となるのです。それはさながら、細胞膜から皮膚へと膜の存在意義が拡張されたかのようです。ムーアの作品は、それが一見では人体彫刻に見えなくとも、その存在思想が人体と似ていることに気付かされるのです。

胸像は魚の頭

人体彫刻には全身像だけでなく部位で切った表現もあります。胴体だけのものをトルソーと呼びます。その他でよく作られる部位はなんと言っても頭部です。それはもちろん、作られるその人の顔が作りたいからです。顔は個性の象徴ですから、全身を表さずとも顔だけでその人の全てを表すこともできるのです。特に印象を似せた顔の像を肖像と言います。しかし、実際の肖像では頭部だけが作られることはまれで、普通はその下に首がつき、更にその下の胸までがあります。この部位で切られた像は胸像とも呼ばれます。胸像の切断位置で多いのは胸の上部までを入れたものです。
 さて、首や胸など体の部位名が出てきましたが、その明確は境界はあるのでしょうか? これは外見で目立つ形の違いや、動いたときの変化の度合いなどから経験的にその部位の境界が決められているのでしょう。共通の認識を持つ必要のある医療分野では、体の部位分けと名称を決めています(図4)。
体表区分図
頭をひとつの塊として見ることは簡単です。頭には、目・鼻・口・耳という特殊感覚器が勢揃いしています。これらの特殊センサー付きの頭を身軽に動かせるのは首があるからです。後ろから不穏な物音が聞こえたら、頭だけ振り向けばいいのです。もし首がなければそのつど重たい全身を向けなければなりません。これが水中ならば話しは別です。水に浮かぶ魚に体重はありませんから、後ろを向くには尾びれを鞭打って全身の向きを変えてしまえば良いのです。ですから首のある魚はいません。首は私たちの遠い祖先が水から陸に上がってから頭と胸の間がくびれてできた、言わば新しい部位なのです。人体の外見では頭部と胸部は細い首で明確に部位分けできますが、その内側は外見ほど明確ではありません。例えば、首から肩にかけて目立つ胸鎖乳突筋と僧帽筋は、実は首の筋と言うより腕の筋とも言えるもので、本当の意味での首の筋はこれらの筋より深いところにあります。更に興味深いのは、首から胸にかけての血管です。胸の血管と言えば大事な心臓を思い出されるでしょう。ちょうど左右の胸の間にある心臓はその頭側へ大きな動脈を出します。それは直ぐに背中側へとカーブして腹の方へと向かっていきます。このカーブを大動脈弓といいますが、これはかつて魚だった時代のエラに通っていた血管でした(図5)。
鰓弓動脈概念図 
第3鰓弓の部位が首に、4番目の鰓弓動脈が大動脈弓となる

つまり、私たちの胸の高さほどまでがかつてのエラがあった部位なのです。魚の「頭を落とす」ときはエラより尾っぽ側を切りますが、これがちょうど胸像の境界とあいます。胸像は偶然にも魚時代の頭の領域までを選んでいるのです。

運動器と臓器

人体のかたちをごく単純に描くと、漢字の「大」のような棒人間になります。この横棒と斜め棒が腕と脚を表していることから分かるように、腕と脚は人のかたちのイメージの重要な要素です。大きく太い腕と脚は、上述したように、そもそもは魚の体位を安定させるヒレでした。およそ3億5千万年前に魚類が陸に上がることで運動の主役は体幹からヒレへと移行します。それ以降、ヒレは筋骨たくましい四肢となって体幹を支え、運搬する重要な役割を担うようになったのです。人類では体幹の運搬という役務から解放された腕が、器用な指先を活かして多彩な仕事をこなすようになりました。今では身振り手振りで自らの感情を伝えることさえできます。一方の脚は体の運搬に終始してきました。腕と比べてずっと太い脚は、その仕事の一途さを誇っているようにも見えます。
 ところで、この運動器と先に見た腸管とでは、そこに分布する神経の種類が違います。運動器への神経は、感覚と意識的に動かせる体を制御する「体性神経系」が分布します。脳はこの中枢です。つまり自意識や運動は全てここに属します。一方の腸管への神経は、意識が関与することなく自律的に活動を続けているので「自律神経系」と呼ばれます。腸管つまり内臓は意識がアクセスできない言わばブラックボックスですが、それは意識的行動の根源を成しています。私たちは体幹の内側にある無意識の自己(つまり内臓)から湧き起こる要求を、あたかも自意識(つまり脳)で決めたかのように思い込まされているだけなのかもしれません。
 「自分でもどうしようもない自分」は誰もが実感するものです。それらは実感してもなお制御できるものではありません。喜びや悲しみといった感情はどこか深いところから湧き起こってきます。この制御不能な自己とそれを認識する自己との対話が、近代以降の芸術表現のモチベーションの大きな部分を占めているのです。

 彫刻家も鑑賞者も、人体彫刻を通して人間という無数のスペクトルを放つ存在をそこに見ます。それは私たち自身の姿でもあります。自己存在とは何かという答えのない疑問を私たちは持ち続けます。3万年前の人間に小像を彫らせた欲求の根源には、初めて気付いた自己存在を確認する意味があったのではないでしょうか。人が人のかたちを作る。これは自分の存在という驚異に向けられた、ほとんど本能的とも言える営為です。私たちが人である限り人体彫刻という自己確認は続いていくのでしょう。

魔女狩りと科学

 最近はネットニュースに、閲覧者が感想文を寄せてそれが表示されるようになっている。様々な人がニュースに対しての感想や意見を気軽に投稿している。それらを閲覧すると、ネガティブな意見や独断的な意見が圧倒的に多い。匿名であることが、普段は言えないような心の暗い部分を吐き出させる場となっているのだろう。
 先日、国際欄で『インドで魔女狩りとして5人が殺害された』というニュースが載った。それに対する意見は想像通り「時代錯誤」を指摘するものばかりで、そこからインドという国のプリミティヴさを嘲笑するような方向に向かっていた。つまり、「科学が進んだ現代において、未だに魔女や呪術といった非科学的な宗教とそれに通じる過激な行為がまかり通っていることなど信じられない。何という未開拓な人々なのか」と言っている。もちろん、5人が殺害されたという事に対する否定的な感情がこれらの意見と結びついていることはあるにせよ、ここには、科学の優越性がにじみ出ている。
 
 今回のニュースではなくても、人類の歴史を少し振り返れば世界中で宗教や呪術の名の下に生け贄や魔女狩りなど様々な理由で人が殺されてきている。人が殺されないにしても、現代の私たちが見ると、非科学的で根拠のないような理由で、宗教的、呪術的行為がごく普通に行われてきた。人類の発展史と科学史を比べれば分かるように、現実には人類のほとんどの時代は呪術と共にあった。例えば、天気予報が「雨乞い」の呪術から、人工衛星とレーダーによる科学に”鞍替え”したのは前世紀になってからのことだ。

 インターネットやパソコンを使いこなしている私たちは本当に呪術など過去の物として捨て去り、科学的事実だけを信じているだろうか。決してそうではなく、むしろ、実は全く変わってなどいないということを、2011年の大地震の後に実感した。地震直後は大きな余震が続き、テレビでも津波被害や放射線洩れ被害のニュースが続いて、人々は常に不安の中にいた。あの地震は、それまで多くの人が漠然と信じていた科学の力やそれを使いこなす人間の自然に対する力が、あまりに無力であることを思い知らせた。「想定外」という言葉が連日使われた。そこでの”想定”とは、人類の科学的能力をそのまま指している。科学力は自然の針がほんの少し規定を越えると、それだけでほとんど無力と化すことが”痛いほど”明らかとなった。科学が無力だと感じ取った人々がどうしたか。呪術、宗教、超能力といった非科学的な領域に助けを求めたのである。あの頃、ネット上で次の地震がどこで起こるかを予知するという超能力者のサイトが数多く立った。内容はと言えば「予知夢を見た。何日にどこそこが揺れる。」という、ほとんど誰でも言えるような無根拠なものだが、レス欄には助けやアドバイスを請う人たちが群がっていた。それ以外にも、多くの非科学的情報に多くの人々が右往左往したことを覚えている。

 私たちは、自分の考えを越える、何か大きな拠り所となるものをいつも求めている。きっとこれは集団で社会を築くという生き方を選んだ人類に特徴的な性質なのだろう。それが指導者や王やシャーマンや宗教や政治を生み、ムラや国家といった全体をまとめることに役立ってきたのだ。もちろんそれは、個に対して集団を築くメリットを体感してきたからであろう。集団がまとめてかかっても、決して統治できない対象が大自然であって、それに対する拠り所として呪術的な行為が人類史の永きに渡って担っていたのだ。科学がその一部を横取りしたのはこの100年ほどに過ぎない。だから、その科学が無能と知れれば、私たちは直ぐに長年信じてきた「超自然的な能力」に逆戻りする。「科学がダメだから、何も信じられない」とはならないのである。

 魔女狩りのニュースを見て、非科学的だと断罪する人たち。その強い口調は、自分たち人類が永きに渡って信じてきた間違いに対する嫌悪さえ感じさせる。けれども、魔女狩りをする人たちの心理傾向は、間違いなく今の私たちの内にもあるはずだ。もし、私たちが信じる科学の非力さが再び知らしめられるならば、いつでも呪術的世界に戻る心の準備は整っているのだ。

2015年8月10日月曜日

芸術作品と100円のコップ

 知人作家の立体作品が、あるモニュメントの構成部分として二次利用された。作家には一切連絡されていなかった。事前にも事後にも。ではなぜ、そのことが分かったかというとそのモニュメント完成が一般記事としてメディアに出たからだ。
 その作品は、何年も前にある著名人によって購入され自宅に設置された。その作品が今回のモニュメントの構成部分として再利用されたのだ。モニュメントの企画者は作品を購入した著名人である。著名人からすれば、自分が購入した物だからそれをどう使おうと本人の自由と言うことなのだろう。それは、私たちが日常購入している物品の使い方となんら変わりが無く、当然のこととも思える。100円ショップで買ったコップに金魚を入れて飼っても文句はない。
 ただ、芸術作品もコップと同じなのだろうか。確かに、日常道具でなくても、二次的に別の使用目的に転化されることも確かにある。特に古い道具やそれこそ芸術作品も時代を経て本来とは別の目的として鑑賞されたり使用されることはそれほど特別なことではない。だが、それは”時代や場所が制作時期から大きく離れたために本来の目的が曖昧になった”からである。

 今回の件で、私が気になった点を始めにまとめると、作品購入時の意図からの変更と作品の独立性についての2点である。それらをこれから見ていきたい。

 まず始めに、作品購入時の意図からの変更とはすなわち、その作品が作家から購入されるときの両者の間に共通していたであろう作品の作品性への共通理解が基本としてあって、それが今回、購入者側によって一方的に変更させられたという事を指す。そもそも、問題となる作品は、作家が既に制作済みであり、そこには作家の作品に対する意思があった。簡単に言えば、作家の持つ「作品のイメージ」があってそれを具現化したものがその作品である。そのイメージが完全に作品によって伝達されるはずもないが、作家と購入者との意思交流の間にある程度のイメージは伝わっていたはずだろう。そうした意思交流のもとに作品の購入が進み、作品は購入者の自宅に設置されたのである。ところが今回、その作品がモニュメントの一部分として再利用された。それは作家がかつてその作品を制作したときには全く意図していなかったコンセプトである。もしも、今回のモニュメントのために制作が発注されていたなら、作家は全く違った形の作品を制作していただろうと想像できる。ここには、作家の意思が全く考慮されておらず、言わば無視されているのである。作家が生きているにも関わらず。こういう事が出来てしまう購入者の行為を「失礼だ」と言うのも簡単だが、なぜそのような行為が出来てしまったのかも考えなければならない。そこで、作品の独立性がキーワードとして見えてくる。

 この作品の独立性をめぐる諸問題は、作家・作品・購入者の問題として永遠のものかもしれない。そして、このような問題が起こる物こそが、芸術作品が日用品とは違う物という証しでもあろう。ともあれ、先にも書いたように、今回の件では、作品が作家の制作意図を全く離れて二次利用された。それは別の見方をするなら、その作品には既に作家(とその作成意図)は不要とされている。つまり、作品が作家から完全に”独立”しているのである。作家が親で作品がその子供であるなら、その子供はすでに”大人”として見なされている訳だ。大人が何をしようとその親の監督は受けないのである。まあ、そう考えれば多少納得するような気分にもなるかもしれないが、実際のところ、作品に自意識があるわけもなく、作品がどのように扱われるかは、作品を巡る人間に常に依存しているのは当然のことで、つまり作家と購入者との2者の関係こそが実は重要なのである。つまり、今回のように作家が健在であるなら、作品が独立しているなどということは言い訳のようなもので、つまりは作家がないがしろにされているという事に過ぎないのである。親子に例えるなら、作品という”子供”は決して親離れせず、その子供をどうするのかについては親つまり作家の意見を聞かなければならないのだ。

 今回の件について作家である私の知人はこれと言って声を上げていない。だから、周囲が事を荒げる事もないのだが、固有の事例として見るのではなく、同様の問題はこれまでもそしてこれからも大小様々な段階で起こることだろうと考えると、見過ごして良いものだろうかと疑問が残る。
 ある時、別の知人作家が、一般鑑賞者の「作品に対峙する作法の不在」を話していた。つまり、簡単に言えば作品へのリスペクトがそもそも足りないのではないかという話だ。一般鑑賞者にとって、芸術作品も100円ショップの日用品も同様なのだろうか。

 「芸術」や「作品」という単語が指し示す範疇は雲の境界線を探すようなもので、近づけば曖昧となって分からないものだ。しかし、そのように曖昧な物事に線を引くのは、本来私たち人間の得意とする行為なのである。今回の作品購入者は世間一般では「知識人」と言われる類の著名人で、なおさらそういった無形の事象を認識するのは得意とするはずだ。そのような人が、本当に「芸術作品もコップも同じ」と思っているだろうか。彼は、「芸術作品もコップも同じ」とさえ言える側面性を逆手にとって、結局は様々な権利の話しが浮上してくることを面倒くさがったのに過ぎないのではないだろうか。まあ、その辺りは推測の域を出ない。ただ現実として見えているのはあくまで作品の作品性と作家存在を無視した行為で、そこから分かることは、彼にとって所詮芸術作品は100円ショップのコップと同じであったという寂しい事実である。