2017年7月29日土曜日

ジャコメッティとロダンの『歩く男』

現在開催中のジャコメッティ展のメイン作品の1つである、『歩く男』(1960)は、動きの少ない人物像がほとんどのジャコメッティ作品の中で目立つ存在だ。
 彫刻家は、それぞれの感性において、人間の存在について考えている。ジャコメッティもそれは同じだろう。細くなったことはその回答の1つであり、上へ伸びたこともそうである。

 確かに、脊椎動物で脊柱を天に向けて縦に立たせるという大胆な姿勢を取った動物は人間しかいない。この”他にない”という特徴は、そのまま”人間しか持っていない”特殊性を生み出した。大きく重たい脳の獲得や両手の移動運動からの解放は分かりやすい例である。他にも、動物として決定的な違いを生み出した。それが移動運動(locomotion)である。脊柱が横を向いて、四つ脚で移動する多くの動物では、後ろ脚で地面を蹴って生まれる推進力を脊柱を通しで前方へ伝達させる。ところが人類では、脊柱が天を向いているので、脊柱を貫く力は、ぴょんとジャンプさせる運動になってしまう。そこで私たちが前へ進むためにしていることは、脊柱を進行方向へ傾け、前へと倒れていく落下エネルギーを一歩踏み出した脚へと伝達して、振り子のように次の一歩へと繋げているのだ。このような運動は四足動物と比べるとバランス維持は格段に難しく、そのまま転倒してしまう高いリスクを負っている。このような危険な姿勢で成功しているのは、人類が社会性動物であることも関係していることは想像に難くない。互いに守り合う集団内でなければ、維持できないだろう。ともあれ、”体幹を前方へ傾けて歩く”という特徴がそのまま『歩く男』には表れている。
 しかし、街で往来する人々を見ても、この像ほど傾けて歩いてはいない。この像は歩くとは行っても、かなりの早歩きで、数歩先では小走りに変わっているかも知れないほど、急ぎ足に歩いている。こんな姿勢で急ぎ足の男が目に付くのは時間に追われる都会だろう。現代の日本ならば、東京の駅周辺で朝の通勤時間には良く見られる。


 『歩く男』という題名では、他にロダンの彫刻(1878)がある。『説教する洗礼者ヨハネ』と関連する同作は、”歩く”と言ってはいるが、そのようには見えない。人体の重心は2本の脚の間に収まって、骨盤は後ろに傾いており、前進運動のさなかの姿勢と言うより、左脚を大きく後ろへ引いて立っている。ロダンは、写真が時間を切り取ったような動きの表現をそのまま彫刻に持ち込むべきではないと考えていたようだ。確かに、実際に動くことのない彫刻としての、構築的堅牢性は強く感じ取ることができる。歩こうとしているような傾きが生み出す”倒れそうな姿勢”は彫刻としてはふさわしくないと考えていたのかもしれない。

 ロダンとジャコメッティは、共にモデリング、ブロンズ鋳造の技法で、主題が人体と同じだが、その示そうとした内容が全く異なるのである。ジャコメッティがロダンの同作を知らなかったはずはない。とは言え、それを意識していたのかは分からない。いずれにせよ、両作品の違いには、時代における人間の在り方の差が垣間見えるようで、興味深い。

2017年7月25日火曜日

「レオナルド×ミケランジェロ」展の感想

 先日、「レオナルド×ミケランジェロ」展へ行った。当日は、仕事の合間、前夜睡眠不足、猛暑日など重なって疲労感を感じつつの鑑賞だった。もう一度、万全の体調で鑑賞し直したい。それ位思うほどには良い展示だった。

 ポスターにもなっているメインの素描2点が、入ってすぐに展示されていて驚いた。メイン以外も良い素描が多く来ていた。裏テーマ(?)のパラゴーネ、すなわち絵画か彫刻かという比較競争も随所で感じられる。私にとって最大の期待であったミケランジェロ作のワックス製マケット(試作彫刻)は素晴らしかった。今は現代なのだから、これをデジタルスキャンして拡大出力して展示するくらいの事をして欲しい。スキャンデータの権利やら維持やらで面倒なのでやりたがらないかも知れないが、いつか誰かがやるだろう。


 展示の中盤過ぎ頃に、真横から描かれた女性の肖像画が飾られている。これと言って素晴らしいわけでもない。なぜ、この絵があるか。実は、もう1枚別の絵が展示される予定だったのだが、中止になったのだ。それは、図録を買うと載せられている。図録を作成した段階では展示予定だったことが分かる。土壇場での中止だったのだろう。現場は慌てただろう。中止された絵は、数年前に世界的ニュースになった『美しき姫君』で、レオナルドの真筆画ではないかとも言われている。何より状態が良い。そうか、この展示の当初の企画では、この絵がメインだったのだろう。展覧会メインの作品は通常、途中に置かれることを考えても納得がいく。この絵が来日していれば来場者数は増えていたことだろう。何せ綺麗で、分かりやすい。

 私は『美しき姫君』はレオナルドの真筆画ではないと思う。確かに綺麗で上手な絵だが、レオナルドの表現指向とは違うように感じる。これに限らず、レオの絵、ミケの絵、と言われているものの中にも実は違うものが混在しているはずで、そんなことを勝手に考えながら見ていくのもこの展覧会では楽しいかも知れない。実際、ミケ帰属とされる素描の幾つかは、非常に疑わしい。工房の弟子に練習させたような素描も幾つか混ざっているようだ。

 最後に置かれている大理石のキリスト像は、残念な作品だ。ミケが途中まで作成したものだろうと言われている。全身の比率、広い胴体、そして手足の指の表現などはミケらしさが感じられるので、そうなのかも知れない。特に右手の手首から指先までが最もミケっぽく思う。しかし、仕上げがいけない。表面はさざ波だって緊張感が無く、水に濡れて溶けた石けんのようだ。その顔はまるで置物彫刻である。

2017年7月24日月曜日

エヴァは重荷を背負っているか

 ふと、街で重たそうな荷物を背中に担いでいる年配の女性が目に入った。細身の体でそれを支えるために、背中を丸めて立っている。頭は下垂し、視線は下を向いていた。

 体型や年齢は全く違うが、メッシーナ作のエヴァが思い出された。この、イタリア人彫刻家の手による等身大の女性裸体像は、いわゆる休めの姿勢をしているが、その片脚に全体重を乗せんばかりで、背中は丸められ頭部は前方へと落とされている。その印象は、ぐったり疲れ切ったと言うところだ。

 しかし、あの丸められた背中と落とされた頭部は、その背中に重荷を背負っているようでもあることに、今回気がついた。エヴァという名前だけで連想すれば、人類最初の女性だが、そうであるなら、その原罪の重荷に、知ってしまった事の後悔に、うなだれているのだろうか。

デジデリオダセッティニャーノ

 癖になる語感。長いけれど、つい口にしたくなるので、覚えてしまう。

 ルネサンス期イタリアの彫刻家の名前だ。最近まで知らなかったのだけど、著名な彫刻家の方が最も好きな彫刻の1つの作家の名前として教えてもらった。

 正しくは、デジデリオ・ダ・セッティニャーノなので、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、”セッティニャーノ村のデジデリオ”という意味合いの名前だ。

2017年7月12日水曜日

作家の守護神

   芸術作品群は、まるでその作家の守護神たちのように見える。

   縁あって、素晴らしい芸術家と話しをする機会に恵まれている。いつも心を開いて気さくに話して下さる。そういう時は、彼の作品が近くにあるわけではないから、共通の話題などで気軽に話してしまったりもするのだが、作品を目の当たりにするとハッと思い出して、畏怖感に似た感情が沸き起こる。

   1つ1つの作品は自律しているかのようだ。それら作品群は、集団となって、その人を芸術家たらしめている。彼の巨きさは、紛れもなくその作品群によって担保されているのである。
   それら自律した存在は、しかし、全てが彼自身の存在から生み出されている。自ら生み出した作品たちによって守られるそれは、女王蜂や女王蟻を思い出させる。

   話している時、作品が同じ空間に無くとも、”守護神たち”の存在は周囲に漂っている。彼の言葉、視線、仕草がそれを感じさせる。自らを守り高める存在を作り生み出す能力が、その人をあれだけ優しい人柄でいる事を可能にしているのだろう。