2017年11月29日水曜日

彫刻考 技術と人間性

   禄山を通して色々考え続けている。
   近代彫刻は即興性である。すなわち過程である。それは終わりなき行為の永遠なる途中なのだ。そうなると、大事なのは技術ではなくなる。技術とは暫定的であれ完成を終着点として見据えているからである。彫刻に技術が重要でないのならば、大事なのは作る人間の人間性である。だから、禄山もそれを磨こうとした。この重要性は時代を問わない。
   しかし、作品として表す以上は必ず行為が伴い、そこには技術が現れる。この両者をどうやって共存させ昇華せしめるか。それが命題である。結局、技術もまた常に磨き続けなければならない。それはあって当然のものとしなければならぬ。人間性、もしくはセンスと呼ぶものだけを重視すると畢竟彫刻ではなくなる。技術と人間性は切り離せないのである。なぜなら技術は表現力を高め、彼の人間性をも広げるのであるから。
   そして、教えられるもの、学べるものはこの技術しかないのである。完成した作品もまた技術によって成り立っているのだ。

   技術をないがしろにするべからず。併しそれに飲まれるなかれ。

2017年11月20日月曜日

告知 手の美術解剖学特別講座

 12月3日(日)に新宿美術学院にて、美術解剖学特別講座を開講します。
 実習形式で、油土を用いて手を骨から造形していきます。皮膚はまとわせません。

 手は、運動器が”身体を運ぶ”働きから解放され、マルチツール化したものだとも言えるでしょう。私たちの身の回りにあるほとんど全ては、この手によって動かされ変形された物です。手は最も鋭敏な感覚器であると同時に、脳内の想像物に形を与えるための出力器なのです。
 どのようにして指は動いているのでしょうか。ロボットのように関節毎にモーターが仕込まれているわけではありません。指や手首の曲げ伸ばしは、紐のような腱によって引っ張っているのです。それはマリオネット人形やワイヤーで動く自転車のブレーキに似ています。更に、親指と人差し指で小さな物をつまめるように、親指を根元から小指側へ倒すための筋肉が手のひらにあります。同様の筋は小指にもあって、そのお陰で親指と小指の腹同士を触れさせることができます。これら、指の”対立”は手の機能上最も重要ですが、その形状においてもまた重要だと言えます。手のひらの親指と小指側にある特徴的な膨らみは、この筋肉によってできています。
 手は、造形的観点に基づく構造から言えば、骨格と腱で大枠が作られ、手のひら側だけにある筋が独特な曲線的な印象を与えています。一方、筋のない手の甲側ははるかにごつごつして直線的です。

 微細な動きが可能な手は、私たちの精神面とも連動して動いています。ジェスチャーやそぶりにおいて手が作り出す視覚的情報は重要です。例えば、手をグーにして人差し指だけを伸ばせば、何かを”指す”メッセージになりますが、これはほとんど世界中の人に共通する視覚的言語だと言えるでしょう。
 音声を発しない絵画や彫刻などの視覚芸術では、全身のポーズや表情に加えて、手の姿勢が重要です。人体が表現されている殆どの作品において、手は何らかのメッセージを伝えるための手段として用いられているのです。

 この講座では、表現された手を通して、その伝達ツールとしての働きを改めて確認し、続いて粘土を用いて構造を自作することで、コンパクトかつ機能的な内部配置を理解します。自らの手で手を造形し内側の構造と働きの連動を理解することで、今後の制作に現実的な説得力を与えることができるようになります。

 詳細は新宿美術学院のサイトをご覧下さい。

2017年11月19日日曜日

Susan ciancioloの『The Great Tetrahedral Kite』

 ”ジャケ買い”したアートブック。Susan ciancioloの『The Great Tetrahedral Kite』。


 色々なモノを貼り付けたノートブックをそのまま再現したような本。31ページほどしかない薄い物。
 こういう落書き的な、雑多としたコラージュものに惹かれてしまう。似た物が他にも色々とあるが、例えばキャプションやページ数などがキレイなフォントで印刷されていたりすると、それだけでもう興ざめだ。日本ものに時々そういうものがある。まったく、整ったフォントの破壊力は恐ろしい。

 ”雑多コラージュもの”は魅力的だし簡単だから自分でもやってみようかと思うと、なかなかできるものでもない。それに自分で作った物はその作為を”底まで知っている”から、全く面白くもない。知らない誰かの作だからこそ”底が知れない”ので良い。また、切ったり貼ったりした物を再度撮影して平面化するという行為と出来上がって情報が統一された状態が、不思議と心地よいのである。色々な素材を投入して、1つの料理として完成させたようなまとまり感がそこにはある。だからこれは、生のコラージュ作品の単なるコピーというのではなく、これで完成品なのだ。

 書店に置いてあるこれをパラパラめくって、もう心を掴まれているわけだが、理性的なもう1人の自分が、これのどこに買うほどの価値があるのだと尋ねてくる。誰かの個人的な満足に過ぎないし、この手の”落書き系アート”なら他にも幾らでもある。それに、惹かれると同時に嫌悪に似た感覚も引き出されるのである。それが何かハッキリとは掴みかねるが、振り返る必要も無い古い記憶の抽斗が開けられるような感覚が近いかもしれぬ。
 そんなわけで、考え直して元の場所に戻しては、また手にとってめくることを繰り返して、結局購入した。

2017年11月14日火曜日

鑑賞者の必要性 ー作品の価値判断ー

 彫刻家や芸術家は格闘家やアスリートのようだ。彼らが何を言っても結局はその作品の良し悪しで判断される。それも作品の良し悪しは見た瞬間にわかってしまうから、勝負は一瞬で片がつく。
良いと言われるような作家でも、その作品の全てが良いことなど無い。「良い作家」を維持するには、良い作品を生み出す割合が高いことが大事である。長く続けている作家の作品を見ると、良し悪しの特徴が分かることがある。しかし、良くないような作風も作り続けていたりするから、作っている本人には分からないものなのだろう。実際それどころか、作家に言わせれば、全ての作品がその時々の最高傑作を作るつもりで対峙している訳である。それもアスリートを似ている。誰も負けると思いながら勝負はしていないのだ。

 若い作家が期待されるのはただ単に作品数が少ないからである。始めの勝負で勝てば、取り敢えず勝算は高くなる。しかし、その先も勝ち続けるかどうかは未知である。

 また、作家が自分に下す価値観を分からないように、鑑賞者も自分の判断に自信がない。だから、それを誰かが言葉にしてくれるとその判断をありがたがるのである。だがそこで多くの間違いが生じる。刃物のような他人の言葉の強さに負けて、自分の判断を捨て、他人の判断に寄り掛かってしまうのである。難解に見える作品ほどその傾向が強い。これが横行すると、本来の本質的な勝負の結果が変わってしまう。つまり、実際は大した価値を見出せないような作品が素晴らしい物として扱われるのである。この様な間違いは、作品そのもので判断せずに言葉に寄り掛かった結果起こるのである。芸術の価値を揺るがさないためには、鑑賞者が自分の眼で見て、自らの価値観で判断を下さなければならない。それも、誰かの言葉にはなるべく影響されずに、である。そうは言っても、影響されない価値判断は簡単ではない。むしろ、何らかの信念を抱いているほど、自分でも気付かないうちに「色眼鏡」を掛けてしまっている。一体、専門家と言われる者ほど強い色のそれを掛けている。私たちは皆、無垢な幼児でもなければ、何らかの色眼鏡をして世界を見ているのだと言えるだろう。それは芸術家も同じである。芸術家は、言わば酷く変わった色のそれを掛けている人種である。だから、鑑賞者は自分の色眼鏡をしたままでは、受け入れがたいものとしてそれが映る事もあろう。作品を前にする時は、半ば意識的に自らの色眼鏡を外したり、作家のそれが何色なのかを想像する必要があろう。しかし、最終的な判断は自ら下さなければならない。そして、その判断には自信を持つべきである。鑑賞者の全てがそうなることが理想であって、そうなることで、作品の真実の価値が判断されるのであるから。

 そして、鑑賞者による真実の価値こそが、芸術家にとって必要なのである。芸術は作家による一方的な価値観の押し付けではない。人間が行う行為はすべからく対話的であって、作品もまたその内にある。鑑賞者が正しく判断し、それを作家が受け取ることで次の作品へと繋がるのである。しかしながら、自分のことを芸術家だと信じている人の中には、この対話の重要性を積極的に破棄しようとしているように見受けられる者もいる。彼らの作品はしばしば独善的で、攻撃的に映る。攻撃は一方的で、相手を打ち負かす事だけを目的とした行為である。それらは高圧的で、それに対する鑑賞者の返信を求めていない。独善的な会話がジャルゴンであるように、一方的な作品は対話的価値を持たない。鑑賞者は、対話の可能性を感じられない作品に対して、それを振り向かせようと無駄な努力をする必要はない。作られた物はそこに在る以上の何ものでも無く変化することもないのだから。変わるとするなら、それは鑑賞者の視点や感性である。しかし、変わろうと努力しなければならないのならば、それは作品が放つ魅力とは言い難い。”努力を伴う理解”は芸術的感受性とは異なるものである。

 本当ならば、誰の作品であれ、鑑賞者は自らの感性で感じ取ったものを素直に表明すべきである。無名であっても良いものは良いし、有名であっても詰まらぬものは詰まらないのだ。しかし、社会人である以上、そのように言えないこともあり、その態度が芸術の質を少なからず引き下げているのだろうと思う。だから、芸術家は身近な人間の批評は信じないのが賢明である。自分のことなど知らない者が言う言葉こそがむしろ真実に近いだろう。

 映画『ミッドナイト・イン・パリ』で、主人公がヘミングウェイに自作小説の批評を打診すると、ヘミングウェイは読みもせずに「君の作品は不快だ」と言う。「下手なら不快。上手でも嫉妬で不快。作家同士はライバルなのだ。意見など求めるな」と。なかなか良い返しだ。

2017年11月6日月曜日

自然物と決め事

 化石研究者の発掘現場をテレビ番組が取材していた。今までほとんど発掘が行われていない砂漠の辺境地だが、めぼしいところは既に発掘されていた。それは盗掘だと言う。化石の採掘は国レベルで管理していることが良くある。それゆえ、許可なく掘れば盗掘となる。現場を前にして研究者は憤りを露わにしていた。盗掘者は乱暴に掘り出してお金になる頭部などだけを持ち去るのだと。

 確かに、許可なく採掘するという違法行為だが、一方でその現場を映像で見ると、周囲数100キロは誰も住んでいない砂漠の真っ直中である。おまけに、歩いていればそこら中で化石が落ちているような環境で、ここにいたら「取っちゃだめ」という決め事など意味がなくなるだろうとも感じる。周囲数100キロは誰もいない砂漠の交差点で、信号が赤だから止まって待ちましょうと言っているような感覚。
 無数に埋まっているであろう化石の産状の中でわずか数平方メートルが持ち去られてどれほどの実質的ロスが生じるのだろうか。それよりも、”多くの手間と手続きの果てにやっとたどり着いたら、気ままに来たであろう盗掘者に先を越されていた”という悔しさこそが本音なのではないかと感じた。

 確かにまれにしか産出しない化石もあって貴重であろう。ただ、”化石は古生物学の所有物”であることが前提であるかのように見せられると、若干の違和感も感じる。始まりは好奇心から拾い集めた生物の痕跡を学術領域へと高めた歴史的経緯は偉大だが、その管理権力が大きくなって採集や所有の自由まで失われることには抵抗を感じる。

 化石に限らず、遺跡などの多くが盗掘に合っているという。「盗掘」という言葉は後から来た者が付けた呼称で、始めに見つけた者にとってそれは「宝探し」だったはずだ。盗掘者は、それが金になるかの判断だけで後先考えないので現場が荒らされる。結果、貴重な”情報”が失われる。しかし、発見されなければ情報そのものも無いと言えるのだから、失われたと言うのは妥当ではなく、せめて「(取り分が)減った」とすべきであろう。いずれにせよ”始めに見つけた者”を盗掘者と呼ぶのは、先を越された悔しさがにじみ出ている。
 古生物学にせよ考古学にせよ、新たな遺物を見つけるのは、圧倒的に非研究者のはずだ。彼らが見つけたならば、その物にどのような価値を見出すかは、本来は見つけた者にあっても良いのである。
 中国では古来、化石を竜骨として粉末にして薬にしていたそうだ。神話に登場するような怪獣も化石からインスパイアされたのではないかとされる物もある。化石は遺跡とは違い自然産物である。そこにどのような価値を見出すのかは本来は自由である。竜と言っても良いし、薬だと言っても良いし、怪獣の骨だと言っても間違いではない。

 今回の番組のように、古生物学の権威が「盗掘だ!」と憤慨するのももちろん間違いではない。ただ、その価値観だけが絶対のように、当然のように放送され受け入れてしまう「価値観の固定化」の浸透をふと感じたという感想である。