2019年10月20日日曜日

結果としての言葉

人間は世界を言葉とし、言葉を信じることで繁栄を築いた。
それゆえか、人間は時に言葉を信じすぎ、目の前の真実さえ無視する。
白を目の前にして黒だと言われ続けると、それが黒にさえなってしまう。

これが意味するのは、本質的に言葉は無意味であるということだ。
無意味だから、どんな意味も与えられるのである。

言葉を盲目的に信じてしまう人間が、人々が理性的であろうとすればするほど、増えていく。
しかし、本来無意味な言葉が人間を正しい方向へ導けるだろうか。
無意味な言葉に正しい意味を置くのは、言葉ではなく、人間である。
結局、人間は正しい人間であろうとする欲求と、それが本当に正しいのかという反省を、言葉に頼らずに、人と人の間において確かめ続けなければならないのだろう。
それがどのようなものとなるのか、それが言葉で表され、私たちは初めて自らの行為を振り返り、他者へ語ることができる。

言葉は人の前にあるのではない。人の人間たらんとする行為の結果として言葉があるのだ。

Oct 3.

2019年8月13日火曜日

彫刻の現象学


彫刻や絵画と分けることは今や本質的ではないとも言われる。それでもその言葉は別れたままであり、それは私たちに中に両者の違いが確固たるものとしてあるからに違いない。本質的ではないと口走るその反対側に、両者はあくまで異なるという叫びがある。両者が同じだという本質を探るなら、それでも両者を分ける原因を探さなければならないだろう。私たちの中には彫刻が確たるものとして在るのだ。その、彫刻も絵画も一緒くたに見える混沌から彫刻の探すことが求められる。それは、石彫やブロンズ像のように明確な表面性を持った非時間的かつ実在的な在り方ではなく、現象学的な内面への立ち上がりとして感じ取られるものである。彫刻とは何か。それに肉薄できるものは現象学において他にない。
2019/08/05

2019年7月21日日曜日

思考の時系列

 記述言語はほとんどが時系列を内在している。つまり、読み始めと読み終わりが存在する。わたし達は文章を読むことに慣れているので、思考もそうであるように感じる。実際、頭の中で文章を“語る”こともある。しかし、普段の思考は本当に記述言語のように文章化されているだろうか。おそらく、そうではない。非言語的な思考の立ち上がりがあり、次にそれを言語的に置き換えている。もし口述や記述するなら、それは完全に言語化された証である。
 つまり、非言語的な思考が言語化される過程において、そこに時系列が組み込まれた可能性がある。読んでしまう前はそうではなかった。なぜそう言えるか。非言語的な伝達手段があるからである。つまり、芸術だ。私たちの世界認識は言語だけではない。周囲を見回しても言語以外のものが多く目に入るが、私たちはそれをいちいち言語化せずに認識している。本棚が“本棚”になるのは、そう言おうと(書こうと)した時である。
 だから、記述言語は自由な思考を制限するものでもある。文法を知らなければ、その言語で考えることはできない。言語は階段に似ている。そこを通る人は皆歩幅を強制的に合わせられてしまう。しかし、階段を作る原因は高低差で、本質はその高低差をクリアすることにある。坂道でも構わないのだ。しかし、坂道では歩みの遅い人、歩幅の小さい人など個人の特性に進度を委ねているので、進み方にブレが大きい。階段にすれば、皆同じ歩幅となり、使う筋肉も合わせられ、より効率的となる。
 しかし、記述言語は始まりと終わりがあるので、絵画を一瞥するような、瞬間的な全体理解ができないという致命的な欠陥がある。それでも巻物から書籍となり、ページ数と目次が加わったことは大きな飛躍だったろう。しかし、文章である以上、そこに時系列は常に存在する。文章を構成する単語にはそれがない。「文章」「構成」「単語」「それ」「ない」などには時系列がない。それが組み合うとそこに時系列が現れる。「文章を構成する」は「文章を構成」までは結果が分からず、最後の「する」を読んで意味が決定する。決定する最後までは「しない」かも知れない。ならばそれも単語化すればよいか。「構成文章」「非構成文章」とすればどうか。これは結局、英語や中国語の文法体系である。つまりこれが長くなり、複雑化すればそれを初めから読まざるを得ないので、時系列が組み込まれる。既存の言語は時系列がある前提だから、これに乗っている限りは、時系列に従わざるを得ない。
 しかし、生物が今ある身体を基盤としながら進化してきたように、言語も今ある形から進化することができる。新しい言語へと、よりわたし達の思考に近い、つまり自由自在に飛翔できる思考に寄り添った記述言語へと進化することは不可能ではない。

 わたし達は言語によって自らの思考に形を与え、他者との認識共有を果たし、文化を構成してきた。とは言え、その形式が固まったわけでもない。もしその思考に限界を感じるなら、窮屈さを覚えるなら、それはこの思考の体系の限界が透けて見えているのだ。
 芸術は非言語的思考体系の一つだと言える。しかし、それはあえて原初的段階で常に止められる傾向があるので、意思疎通の道具としては機能していない。少なくとも厳密性に欠ける。言語としての厳密性があり、かつ、時系列の呪縛からも逃れた体系が構築されれば、その時はわたし達の知性は次の領域へと飛躍するかもしれない。

2019年7月8日月曜日

ポリュクレイトスのキャノン かたちの先

   ポリュクレイトスのキャノンは比例だと言う。しかし、何かを区切って計測してみればすぐに気付くことだが、比例計測には終わりがない。どこまでも細かくなって行き、その極限は結局、その無限の数によって、計測する前と同じようなものになってしまう。

   神の形である完璧な人体像を作ろうとするとき、指と手のひらの比率などという大雑把な捉え方だけで作るだろうか。その間の無限の曲げ率の変化は芸術家の感性に任せたのだと言い切っていいのか。彼らはそのように、現代人のように、都合主義の適当さを持っていただろうか。彼らは気になったはずだ。無限に比率を細かくすることは無意味であり、特定の領域間の曲げ率を支配する法則があるのではないか。そういった法則に宇宙の形は従っているのではないかと。同時代は実際にも、ピュタゴラス学派など、数学に基づく真理探究も行われていた。三角関数は相似の重要性を示すが、それは彼らにとっては単なる“便利な考え方“ではなく、真理と繋がっていたはずだ。何となれば、数によるなら、完全なる神の形を示すことが可能なばかりか、その相似形と神とは真理において同一であるとも言える。さらに、真理は形をかえて偏在する事実をも、そこに内在している。今は失われたポリュクレイトスのキャノンも関数だったのではないか。
   事物の理解が言語化によるものとしても、結局全てを語り尽くすことは、ある1つの側面しか見ていないなら、不可能である。人体の理解もそうで、ある細かさから先は、同じ見方が通用しなくなる。そのような見方は、実はより大きな法則の一部に過ぎないのかも知れない。
   さらに、「アキレスと亀」や「飛ぶ矢」で知られるゼノンのパラドクスからも分かるように、宇宙の事物の理解には時間の概念が必要である。空間内で永遠に静止している存在などあり得なのだから。彫刻を作るという行為はこの大きなパラドクスを超えなければならない。しかしそれは、嘘であってもならない。真実が数式にしか表せないイデアならそれを基にした彫刻は常にその影であり、この限界は全てに同一であるという点で、彫刻は決して嘘ではない。

   古代ギリシアの彫刻家は、それ以前もそうだったように、装飾的な人形として彫刻と対峙していたのではない。彼らは真理を探求し、それに同調し、それを理論的世界から現実的世界へと引き出す役割を担っていたのだ。2019/07/02

2019年7月2日火曜日

芸術と言葉

   意識の起源は記憶の獲得にある。記憶は組み立てられるもの。そこに構造がある。そうして言語化される。言語は世界の見方が現れる。いや、言語的にしか世界は見えない。ただし、言語の表象の隙間が無数に生まれる。自然は本来は、恐らく、区切りがないからだ(要考察)。言語を知らない幼児が見る世界は曖昧だ。同様に、言語で区切らない芸術もその隙間を表すことができるが、それが決して確固たるものにはなり得ないのは自明のことなのだ。認識が捉える世界は形から始まるのではなく、言語からかもしれない。もちろん、それが何語かは副次的な問題で、言語的認識とでも言えるものである。そうであるなら、言語野の破壊は認識の破壊を意味する。幼児は直線と言う図形や概念を知る以前に指差しをするが、そこには直線の概念が既存していなければならない。
なぜ、意識を振り返ること(記憶)ができるのか。語るためだ。もちろん、他者に語るのである。他者と語ることで認識の幅を広がるのは、表現の幅か広がるからである。認識を広げるには他者との対話が不可欠なのだ。そして、それを体系立てたものを学問と言う。

   用語なき解剖図は決して決定しない。解剖図は言語の図像化に他ならない。ポリュクレイトスは数値を人体に当てはめたが、そのキャノンと彫像の間に言語が介在する事は言うまでもないだろう。だからギリシア芸術を真に理解するには古代ギリシア語を知る必要がある。ギリシャ彫刻は、語れること以外は作られていないと言える。論理学や哲学、数学が発達した時代、世界の対象は言語的に構築し捕らえられていた。その厳密さは現代を凌ぐだろう。リアーチェの戦士像を見ただけで彫刻が上手になったと坂東先生が言ったが、これは含蓄ある言葉である。ギリシア彫刻に分からないけれども作ってみたは無いのだ。全てが論理的に組み上げられた、いわば芸術的な言語なのである。それゆえ、その言葉を読み取れる者にとっては見ることは読むこと、聞くことなのである。

   このように考えると、芸術家に言葉が求められるのも理解できる。少なくともその芸術家は、語れるところまでは表現できるのだから。彼らは常に先端に立っているから、既存の言葉では足りないかも知れない。ならば新たな言葉を作れば良いのだ。いや、そうしなければ、新たな地平へは進めない。ミケランジェロがフィギュラ セルペンティナータと言わなければ、それは無かったのだ。
   これは、美術解剖学とて同じで、形態認識の固定化も言語によってのみ可能なのだから、本質的には図像ではなく記述、言語なのである。言語化されていない部位や形状はあくまでも認識の隙間で流れ行く不確定なもの、動きの間に現れるブレのようなものでしかない。

2019年6月19日水曜日

生きる喜びについて

   そもそも生きる事と喜びとを単純に結びつけるべきではないのかも知れない。それは意識的に創り出したものではなく、見つけたものだ。つまり、生の喜びはそもそも与えられていたのである。重要なまちがいは、生を一生の事として、たった一つの事象としてまとめてしまうことにある。現実の生は一色ではなく常に変わっていく。幼少期、少年期、青年期、成人期、壮年期、老年期、そして晩年期と分ける言葉を我々が知っていることからもそれが分かるだろう。色合いが変わるのは人生の後半で、壮年期から人生の憂いは色濃くなり、老年期は諦めの色を帯び、晩年期ともなると達観の領域となる。ここで重要なのは、これら世代ごとの変化の主観が世代ごとに異なる点である。すなわち、晩年期の達観は、青年期の諦めとは本質的に異なるもので、ゆっくりと動き、滅多な事で驚きもせず笑いもしない老人の心境は若者には理解しがたい。その達観は若者が何か衝動をじっと我慢しているのとは本質的に異なる。それは、多くの経験を積んだから心が動かなくなっているのとも違って脳の器質的な変化によるもので、つまりは本質的に若者のようには心が動かなくなっているのである。これは、私たちが、5歳児のように遊べない事と同じである。

   生の喜びはなぜ老齢とともに失われるのか。残酷な表現ならそれは死への準備と言うことになろうか。別の視点で言えば、種としての存在必要性の減少とも言える。加齢による肉体の衰えは雪が必ず融けるような自然現象とは異なり、進化によって作られた現象である。それは動物種ごとに寿命が異なることからも明らかである。加齢による身体の衰えはだから周到に準備された現象として見るべきだ。壮年期以降になると、身体には様々な不具合が生じ、身体機能の調和が徐々に失われていく。青年期以降の人生は、それまでに得てきた身体的能力の喪失の期間だとさえ言える。人類という生物の寿命のデザインは青年期が終わって壮年期に入る頃までで終わることを想定しているのかもしれない。そうすると本来は、せいぜい長くがんばっても人生50年ということになろうか。
   ところで身体は全ての器官が同じ速さで衰えるのではなく、これは実感できるものだが、運動器系の衰えが早く、中枢神経系はそれより遅れて衰え、消化器系は最後まで働く。野生では運動器系の衰えは死に直結するので、自然界では老齢個体はほとんどいない。運動器系が衰えても他者によって保護されれば個体はより長く生命を維持できる。人類はそれを実行した動物種で、当然そこにはメリットが存在する。それは、より長く維持される中枢神経系の機能すなわち知識の維持である。人類は互いに身体機能劣化を保護しあい知識の伝達共有のメリットを最大限に利用してきた。さてそれが個人では種とは異なる意味合いを持つ。身体の運動機能より長く保たれる脳は、運動機能の低下の後も記憶というその主な仕事を継続する。記憶の呼び起こしは過去と今の比較に他ならない。それが、かつては可能だったことの喪失に気付かさせ、喜びを失わせる一因ともなる。


   ところで、自分でこうして考えて大事な視点に気付く。それは私が老年期未経験者であることだ。老年期に達していない者が、観察と経験に基づいて、老年期は喜びが失われると言っていることが全幅において正しいとは当然思えない。しかし同時に未経験者は何も知ることができないというのもうなずき難い。結局のところ、喜びや悲しみといった感情は主観の最も深いところに根ざしたもので、個人的な彩りが強く、また同時に年齢期ごとにも異なるものとしか言いようがない。ただし、経験してもいないことを語れるのは人類に特有の性質である。

2019年6月10日月曜日

芸術は人

   芸術はその作品を鑑賞するものだが、その作品性が作家の性格を色濃く反映する事実は特筆するまでもない。それはつまり、良い作品を生み出すには、まず作家がよい芸術家でなければならないことを意味している。何もこれは芸術に特別な話ではなく、人の成すことはその人以上のものは現れないという事実を言っているだけだ。ただ、世間的な価値観との差異で気をつけなければならないのは、「良い芸術家=良い人」という図式ではない。もちろん、それが成り立つ人もいるだろうし、その人は社会的にも生きやすいだろうが、明らかに社会的には問題のある人が良い芸術家である事実は少なくない。ただ、個人的に感じることは、良い芸術を創り出す人は、魅力的な性格者であることが多いように思う。人に好まれたり目が離せないような作品を作る人は、やはりその人自身が、そういった性格の人物なのだと思う。作品はそれを作った人物の性格をかなり深いところまで明らかにする。おそらく、そのいくつかは作家自身でさえ気付いていないようなものだったり、気づいて欲しくないようなものかもしれない。制作者の内面性がそのように現れる媒体を芸術の定義としても良いだろう。もちろんそれが本当に正しく内面性を読み取っているのかは分からないし判断が付かないが、それは、自分の性格を自分が本当に知っているとも限らない事とさほど変わらない。

   作品の魅力と作家とが分かち難く結びついているので、芸術は商業や工業のような匿名性がない。かつて、芸術家が自覚的になる以前は、作品に記名しなかったが、それでも作品の造形性に作家性が残っている。そして本質的に重要なのもそれである。これは個人の存在とその者の氏名との関係性と似ている。芸術の歴史を振り返ると、数千年の間に、ほんの数名の芸術家だけによってその方向性が決められてきた驚くべき事実に気付く。フェイディアスのように幸運にも芸術家の名前が残っていれば数千年の時を超えて名が呼ばれるが、そうでなくとも、例えばアマルナ美術やメソポタミアなど一度見たら忘れられないような表現に名の知られぬ芸術家の個性を見るだろう。私たちはその形が継承された時間の長さからそれを様式と呼んでまとめてしまうが、それらは時間の総体として生まれたのではなく、私たちの身体形状が環境と時間ーつまり進化ーによって磨かれたのとは異なり、まず強烈な個性の芸術家が1人だけ居たのに違いない。


   日本語で「芸術」とはよく言ったものだ。それは理論と実践が高度に融合しなければならず、そのためには時間が必要で、それも数年というような短いものでなく、人生と呼んでもいいような長いスパンが要求される。それも学校の時間割のように、もしくは日曜大工のように、もっとはっきり言えば趣味のように、人生の空き時間で飛び飛びに行えるレクリエーションの類ではない。芸術は芸術家の考え方(感性)と手業(芸)を高度に融合させるべく継続を続ける完成なき行為、そのような芸(わざ)の術である。

2019年6月3日月曜日

時が経つ

   時は流れ、私が通った大学の校舎は最新設備の高層ビルとなり、お世話になった教授は3月末日で退官された。
   かつて通い始めた頃の校舎は昭和一桁の竣工で、その一帯でもそこだけ取り残されたような古さを漂わす趣のあるものだった。もちろんそれは外見に留まらず、その内部もひと昔どころか五つ昔いやそれ以上といった歴史的な蓄積を思わせるもので、古くさいと言ってしまえばそれまでだが、私は時の止まったようなその感じを好んでいた。教室の秘書さんや技官の方々も、それこそ教授より長く籍を置いていて、教室の歴史を体現しているようにも見えた。やがてその建物を立て直す事になり、在籍していた教室は近所の廃校小学校へ一時移ったが、それも区で保存していたほどの建物なので、床は廊下も含めて総板張りのクラッシックな趣あるものだった。エレベーターなどもちろんなく、日が傾き夕陽が差し込むとそこはかとない寂しさに包まれる、小学校建築だけが持つ不思議な空気を漂わせていた。軋む床を教授や教員、学生らが靴の音を響かせて歩いていた日々がもはや懐かしい。天井からは雨漏りがするのでビニールシートで滴る水をバケツへと誘導させていた。これらは遠い昔の話ではない。つい数年前のことだ。私の学生生活はこの廃小学校で終わったが、時折、諸用で教室へはお邪魔していた。それがついに今年、新校舎が完成し教室はそこへ移動することとなった。

   免震構造の新校舎ビルは、エリアごとにロックされており、個人管理されたカードキーを持っていなければ建物内部へ入ったところでどこへも進めない。ビルの上層階の新しい教室は、全面ガラス張りで、こちらの廊下から反対側の廊下まで見通せるほどだ。つい数ヶ月前までの、木の床の小学校とあまりにも差が大きく、おかしな感覚になる。それまでの古めかしい環境との連続性が断たれ、全く新しい大学か、はたまた新しい組織か、それとも未来へでもタイムスリップしたように感じるほどだ。真新しい建物の内部はどこまでも直線的で無機質で、これまでの時に置いて行かれたようなのどかさはどこにも無い。そこにいる人々だけが以前と同じだが、それだけに何か、人間が建物に順応させられているように思えて仕方がない。長い期間、このような金属とガラスでできたカゴのような施設にいる事が、人間精神に何らかの影響を与えないとも限らないだろう。

   今年度から来た学生は、つい先日までの教室ののどかさを知らず、この教室を長く取りまとめていた前教授も知らない。そして真新しく近代的な校舎を当然なものとして受け入れていく。時が経つとはそういうことなのだ。

   

2019年3月5日火曜日

蛇口を操るカラス

   公園の水飲みを器用に使うカラスが話題になっている。付近では知っている人が多いようで、以前からしばしば目撃されていたようだ。それを鳥類学者が調査して、これは確かに賢いというので発表したところ今回の評判となった。カラスが賢いというのはよく知られているが、学者曰く水の量までコントロールするのは相当なもの。映像で見ると水飲み用の上向き水道の栓を嘴で少し回して数センチ水を出し、そこに嘴を付けて飲んでいる。次は栓を更に回し噴水のように水を出して水浴びをする。楽しそうだ。少し前には駅の自動券売機で切符購入の振りをするカラスも話題になったが、学者曰く、これは飼いカラスが真似遊びをしているのであって、今回の野生カラスの行動とは本質的に異なると。

   何が賢くて、何が賢くないか、それは捉える側の判断で異なってしまう。券売機のカラスはもちろん電車に乗るために必要な券を購入しようとしていたのではなく人間の行為を真似に過ぎない。つまり、行為と目的が一致していない。水飲みカラスは、それが一致している。だからこちらが賢いのだと言う。しかし、水飲みカラスの栓回しもおそらく人間の行為を真似たのだ。こちらは、「栓を回す、水が出る」と行為と結果が単純である。結果としての水の使用目的はカラスはすでに知っている。つまり、これは飲むもの浴びるものだと。対しての券売機を使う理由と使いかたを理解するのは、単に機械のボタンが押せたところで理解できるものではない。行為と目的の複雑さが比較にならない。仮に券売機ではなく、タッチディスプレイを押したら水が出る機械だったなら、モノマネ券売機カラスもおそらく水を出して飲んでいただろう。
   公園の水飲みなど一度も見たことのないカラスが今回の行為に至ったのなら、それは相当な知性を感じさせる。また、このカラスが飛び立つ前に栓を閉めているなら、それも知性的である。しかしそれはしていない。当然である。カラスは水道水に料金が掛かるなど知らないし税金も払っていないのだから。人間でも23歳の幼児では水道をうまく使えないと言っていたが、幼児は自分で水道を使う必要がそもそもない。


   人間の作った道具を操っているから高度、なのだそうだが、カラスが自然物と人工物を区別している訳でもない。私はむしろこう言ってほしい。我々が知性的だと信じていた行為が実はカラスができる程度のことだったと。

2019年2月14日木曜日

革製品とその強さ

 革製品は丈夫だと言われるが、それは素材の革が丈夫だからで、長く使用していると大抵は縫い合わせがほつれて使えなくなる。つまり結局は、縫製の強度、糸の強さが革製品の寿命を決めている。

 革の元である真皮はコラーゲン線維を絡み合わせたようになっている。これを植物線維で人工的に再現したような物が紙だ。ただ紙の線維の絡み合いは皮とは比べ物にならないほどゆるく薄いので簡単に引きちぎれる。コラーゲン線維はそれ自体が強靭であるうえに、非常に緊密に絡み合っているので、全体としての引っ張り強度が高い。線維のランダムな絡み合いなのでどこかの線維が千切れたとしてもそこからほつれていくこともない。ランダムであることが全方向への強度を担保している。線維を編んだ布は当然ながら糸の並びが一定であり、そのため強度にも方向性がある。また、編まれている糸も整然と並んでいるので、その一本が切れると、その糸の列全体の力学が乱れ、そこと直行する糸列との力関係も乱れる。だから人工的な布はその整然さ故に、最高のパフォーマンスは新品時にあって、使っていくほどにそれは減弱の一途を辿る。いっぽう革にはそれがない。一本のコラーゲン線維は長くはないし、整然さとは真逆の混沌とした並びをしているので、どこかの線維が切れてもその影響は最小限に抑えられる。同様の強度がある人工物としてはフェルトがある。フェルトは動物の毛を使っているので、紙とは違って動物性であり、その点でも革と近い。ただ、組織学的には体毛は表皮由来で、真皮由来の革とはわずかに異なる。フェルト製品を手で引きちぎろうとしてもまず無理である。見た目にはふわふわして弱そうに見えるが、そのゆるさ故に、引っ張ると線維が一斉に牽引方向を向き一本の太い縄を指でちぎろうと努力するような力学関係となる。

 織られた物、ファブリックとしての革やフェルトは、柔軟さと強靭さを併せ持った理想的な素材である。そのうえ革は皮としてすでに織りあがっている。人類が初めて使用したファブリックは狩った獲物の皮だったろう。皮(スキン)を腐らないように加工した革(レザー)を身にまとうには、穴を開けて紐でくくる必要がある。衣類として快適に用いようとすればいくつかの部品に分けて縫い合わせる必要も出てくる。「縫う」という行為もしくは技は、革と革とを結びつける必要性から生まれたのではないだろうか。木綿の衣類が現れるのはずっと先になってからだ。おそらく、初期は革同士を革紐で縫っていただろう。太い革紐は強靭である。やがて、植物繊維から糸が作られ織物が生まれた。織物を縫い合わせるのに植物性糸は相性が良い。強度も似ているからだ。しかし強度問題はこの時生まれた。つまり、強靭な革素材を植物性糸で縫い合わせるようになったのである。引っ張り力が加わると、線維がランダムな革では張力は分散し減弱していくのに対して、方向がまとまっている糸は張力が逃げず張力に負けて断線する。

 現在の革製品は、人類が手にした素材として最も古いであろう革と、それより新しい素材の植物性糸からなる。両者はそもそも作られた目的が異なるのだから、その間に強度差があるのは当然である。縫製が切れないようにナイロンなどの強い糸を用いることもあるかもしれないが、今度は縫い穴に過度な負荷が掛かって縫い目から切れるだろう。糸の強さは本質的な解決策ではない。問題は張力の伝達である。革の線維同様に短い線維をランダムかつ緊密に絡めされることができれば理想的だが難しいだろう。革の裁断方向とその形、そして縫い方の工夫によって張力を減衰させるやり方が現実的である。動物の皮は概ね全方位への引っ張り強度を持つが、縫製でそれを再現することは厳しいだろう。しかし、ジャケットやバッグ、靴などそれぞれの製品ごとに張力の向きはある程度規則性が見られるはずだから、それに見合った形の裁断と縫製を工夫することで、相当の商品強度を持たせることは可能だと思われる。特にジャケット(やパンツ)であれば、人体の外形研究だけではなく、筋の走行が相当なヒントを与えてくれるはずだ。そのようなアプローチを研究して開発された製品を私は未だ知らない。作って見たい気もする。











2019年2月8日金曜日

本の使い方

   本を分解してしまう。本を購入して先ず最初にすることはカバーを取ることだ。カバーが付いていると読む時に本が上下にずれて煩わしい。著者の情報や価格などカバーにしか書かれないこともあるのだが、読む時の煩わしさが優って結局は取り外す。カバーは人の外着のようだ。自分を包み込みながら、それが何なのかを表現し、手に取ってもらうアピールも兼ねている。だから、専門書のように値段が張る本になるとカバーも凝ったものが多い。そういうものは紙質も厚くて良く捨てる気がひけるのでしばらく取っておくのだが、いずれは結局捨てる事になる。
   専門書だと、表紙と裏表紙が硬い厚紙のハードカバー版も多い。これも本によっては切り取ってしまう。硬い表紙だと手に持った時に曲がらず板を保持しているようで疲れる。硬い表紙を開いたところに刃を入れて切り取るのだが、ひとつながりの背表紙も無くなるので、いかにも作り途中と言うか、もしくは壊れかけのような見た目になって、書籍が纏っていた威厳はいっぺんに失われる。しかし、背表紙が妨げていた折り広げが解放され、それがしなる紙葉の束と相まって保持しやすさは格段に向上する。硬い表紙の無い書籍は、紙の厚い束のような物なので、棚に立てておくと簡単に自重でひしゃげてしまう。物としての寿命は確実に縮むだろうが、読んでいるうちにページが取れてしまうというような事は今まで無い。表紙はあくまで出来上がった書籍にかぶせる下着のようなものだ。
   雑誌は読むページだけを切り取る。厚い専門書のいくつかは、章ごとに切り分けてしまったが、これは持ち運ぶのに便利で、医学部学生のアイデアを参考にした。本によっては、必要ない情報の章やページがあるので、そこは切り取ってしまう。
   書き込みや線引きも多くするのでペンを手元に置いておく。もちろんそれらは、読み返した時のためなのだが、最近は読んだことの記録に過ぎないというか、犬のマーキングに近いような気もする。年齢とともに、読んだ事が頭に素直に入らなくなった。そのおかげで、毎回新鮮なのだが、そこに書き込みがしてあると、忘れていた過去に再開したような感覚がある。今考えているような内容のメモ書きを見つけて、その日付けが10年前だったりすると、停止している自分に唖然とする。付箋も多用する。だんだん増えて付箋だらけで返って読みづらいという逆転現象に陥ってから抑えるようにしている。久しぶりに開く本などで用済みの付箋を剥がしていくのは気持ちが良い。
   
   先日立ち読みした本で、養老孟司先生が本のページは破ってしまうと言っていた。切るのではなく破るというところがすごい。した事がある人は分かるだろうが、本のページをきれいに破り取ることは非常に難しい。ただ引っ張ると根元から取れるが、雑誌などでは繋がっている反対側のページも取れてしまう。それを気にして力加減を誤るとページ途中から切れる。養老先生が破ったページを見てみたい。
   朝カルを受講頂いている方が、本は2冊買って1冊はばらして読むと言っていた。本は買ったままで読まなければいけない訳はなく、自分のスタイルがあって当然なのだ。


   グッゲンハイムのジャコメッティ展には、彼がボールペンでデッサンを描きこんだ新聞紙や本も展示されていた。中にはエジプト彫刻の大きな写真集もあって、その解説ページの広い余白に写真の彫像を模写しているのだ。白い余白は描ける場所。確かに高校生の頃は教科書の余白はそう見えたが、画集の余白に模写しようと思ったことはない。目的と対象との関係について、その重要性の比較について、ジャコメッティのボールペン素描を時々思い出す。書籍を物として大事に扱う事と、分解して書き込んでしまう事の間にも同じ比較が横たわっている。

2019年2月4日月曜日

レンズ

   レンズは道具として作られるので、それ自体はあまり注目されない。カメラなどの光学機器の価格は安くないが、それは高級一眼レフの交換レンズを見れば分かるように、レンズの価格である。レンズの表面で進行角度を変える光線の向きがバラつかないように、表面は厳密に角度を変えて磨かれていなければならないので、加工技術には精密さが求められる。結局はその工程がレンズの価格に反映しているのだろう。良いレンズかどうかは、良く見えるかどうかで測られる。レンズを通した現象がそのものの価値となっている。だから、良くできたレンズはその存在を感じさせない。実際にもレンズに用いられるガラスは非常に透過性が高い。

 レンズが単体で置かれている時、私たちの目はそれを見分けるが、それは石や本を見ているのとは少し異なる。そこで見ているのは、実はレンズそのものではなく、それが曲げた光線の先にある反射物である。レンズは決してそれ自体を見せないのである。
 景色を反射する水面や、光を集めて輝く水滴などは純粋に我々の興味を引く。水のように光を透過したり反射させる天然の水晶や人工的なガラスは、古くから人々の興味を惹いてきた。水晶玉は占いの象徴だが、世界を違った形に歪ませてみせるそれは、異界を覗かせるレンズのようだ。肉眼では見通せない限界の先を、レンズを通すことで見ることが可能となる。
 ところで、水晶やタロットカードやロールシャッハテストでは、一見では何か分からない視覚的対象を見て、それをどう見るかもしくはどう読むかが判断対象になる。そこで大事なのは意識的にコントロールできないランダムさである。そうするためにタロットはシャッフルされ、ロールシャッハは紙を二つ折りにする。天然の水晶玉は結晶ゆえの透過の歪みや不純物があり、それが占う際の読み取りに重要だったのではないだろうか。

 光を曲げる玉は、その純度を高めていくことで占術から離れ工学の材料となった。ここで求められるコントロール可能な精密さは、水晶玉の方向とは真逆とも言える。制御された透明なレンズは、人間の視覚能力の拡大に貢献しつつ、自らの存在感をどこまでも透明にしていく。

2019年1月15日火曜日

日本美術解剖学会の記録


 取り立てて喧伝するような活動をしているわけでもない私に、発表の機会を頂いた。同学会幹事でもあり今回の(そして常連の)発表者でもある小田先生の発案との事で、とても嬉しい。小田先生とは、多く話せなかったが、「(私が)いつも聞いているほうだから。もっと発表すべき」と言われたことが印象深い。

   その小田先生がご自身の発表(筋骨格図の製作過程)の中で数回、「肋骨を描くのが辛くて辛くて、発狂しそうだった」という事を言っていて、そこに私は強く同感し頷いていた。「骨格に比べたら筋は簡単」というのも、全く同意である。骨格それも脊柱と肋骨は同じ形状の繰り返しで、中でも肋骨はほとんど同じカーブを何本も描く事になる。その上ただの縞模様を描くわけでもなく周辺構造との関連性や立体感を維持しながらそれをしなければならないので、非常に辛い。輪郭線から始めるとなると、一本の肋骨に対して上下に2本の線を描く事になり、また、肋骨と肋間の区別がその段階では表現されていないので、ただ何本も鉛筆のカーブが描かれているだけのように見えて、その確認でも精神を消耗するのだ。
   私自身も、解剖図作成で体幹の骨格を描くのが最も気が重い。そんなのはしかし誰とも共有できるような感覚ではないと思っていたが、やはり他にもいたのだと分かっただけで今後は気が楽になるだろう。

   私の発表内容は2016年末に出版した自著の製作過程の紹介だった。その中で、粘土写真を使った理由の説明過程で、解剖書の解剖図が現在のように前後上下の直交視点になったのは1858年のGrayからのように見えるが坂井先生にお聞きしたいと言ったところ、後の坂井先生の発表中に、Grayの木口木版で本文と同ページの印刷が可能になった事が影響しているだろうとの返答をいただいた。
   発表後すぐ、坂井先生に「いやぁ、色々やってるんですねぇ。」と言われた。

   その坂井先生の講演は、医学の立場からということで、「言葉 Literacy」を美と並置した内容であった。医学における美と言語の並置とは、つまり解剖図である。坂井先生の膨大な研究に基づく深い知識から掬い上げた簡潔な言葉で論理的かつ明解に組み上げられた発表は、ほとんどそれ自体が構築的作品である。「アルビヌスの解剖人は私たちの世界とは異なる悠久に立っているようだ」との言及は詩的で主観的にも聞こえるかもしれないが、それはアルビヌスの作画過程とその前後の解剖図と医学の変貌の流れを踏まえているからこその真実味なのだ。

   剖出(ぼうしゅつ)に技としてのアートを見出している加藤さんの発表は、まさに解剖写真の見どころを示していく内容だった。人体を内部構造を意識しながら造形する作家には直接的に役立つ情報の数々だった。よくできているものほど違和感がないので、そこに至る過程などは見えなくなるものだ。加藤さんによる剖出の丁寧さによって、そこに至る労力は見事に隠されていた。発表中の笑顔に解剖への態度が現れていた。

  東大博物館の遠藤先生による司会のMCの安心感たるや真似できるものではない。私の発表中にそっと手渡された紙の切れ端には「そろそろ終わりましょう」と走り書きされていた。これは記念に取ってある。

   会の後半は、演者の4名が前へ出て質疑やディスカッションを行う予定だったが時間がなく、数名の質疑応答のみ。「ヌードモデルの観察で、前と後の腸骨棘の関係性がずれて見えたことがあるが、動くのか」という質問には、全員から動かない、ずれないという回答。しかし質問者(学生)はずれていたという実感があるのだから、その主観的事実を重視すべきだとも答えた。ずれたり動いたりはしないが、人間が自然物である以上、個体差として前後の高さが異なることは十分に有り得る。だから、それがどのように違和感を感じさせたのか、が知りたいところではあったが時間の関係上それ以上は話は進まなかった。私としては、そういう視点で人体を構築性から観察する学生がいることが嬉しい驚きである。確か彫刻科と言っていたような。
 また、私の書籍で用いている材料が安価なものばかりなのはなぜか、という質問も受けた。まさしく、それが売りの一つと思っていた事なので気付いてもらえて嬉しかった。粘土で人体を造形するというのは非日常的行為なので、特殊な材料が必要になると実際に作ろうとするハードルが高まってしまうだろうと考えたからだ。芯材の価格は500円もしないものだが、それでも街のホームセンターなどには売っていないので、実はまだハードルは低くない。本当なら、100円ショップの材料で始めた方が良いのかもしれない。もちろん理想は、ダイソーが芯材を販売してくれることだが。懇親会にてこの質問をされた方と話すと、大学は違えど彫刻科出身との事だった。私よりずっと先輩だが。

 美術解剖学という狭い領域に興味を持つ数少ない人々が集まれるこのような場から、次の展望が広がればと思う。








2019年1月7日月曜日

告知 日本美術解剖学会


参加料が掛かりますが、どなたも参観できます。
どの時間からでも入室できます。硬い雰囲気ではありません。
芸術と学術の境界を楽しんでいただければと思います。

2019年1月6日日曜日

西洋人ヌードモデルを用いて

 2019年初の外仕事は朝カル。いつも参加される皆さんの顔ぶれに宿る芸術と人体への積極的な眼差しは相変わらずで、そこには年始も平日もない。

イメージ
3回セットの今回は外国人モデルの体型を見ることが主眼である。私たちが「芸術」と呼んでいる対象は大抵は西洋美術で、もちろんヌードを描いたり見たりする文化も西洋から来たものだ。西洋美術のヌード(のモデル)も西洋人なのでその体を実際に観察することで、色々と気づくこともありそうだ。そのうえ、受講される方の多くは常連なので、日本人のヌードは相当に目に馴染んでおり、西洋人の身体を見たときに東洋人との体型の差異をより敏感に感じ取れるだろう。実際、私自身もほとんど経験のない西洋人の身体で、改めて、同じパーツで構成されながらもこうも異なるのかと驚きの連続であった。
 モデルは白人の細身の女性で、よく言われる通り、脚が長い。それを担保しているのは短い胴である。頭は前後に長い長頭型なのも典型的である。このように一般的に言われている”違い”は、もちろんそれ以外の全身に渡って探し出せるもので、手足の先端までに至る輪郭線ひとつとっても見慣れた東洋人のそれとは異なっていて、身体に現れる曲線が全て引き伸ばされているように見えた。脊柱の弯曲も若干強いので、前面では肋骨弓が強く張り出し、骨盤下部は後方へ引っ込む。胸郭は垂直に立ち気味なので、そこから上へ伸び出る頚は垂直に近く立っている。
 「日本人のふくらはぎは低く、欧米人のそれは高く見える」と受講者からの意見。しばしば比較に出される部位で、実際そのような違いがある。ふくらはぎは、膝を曲げる筋とかかとを挙げる筋の複合体で、後者の筋腹がより低く位置し立位では足首を固定する姿勢維持筋でもある。収縮力を持つ筋腹は厚く重い。その重量物は脚の運動の起点である胴体に近いほど、前後に振り戻す際の力が少なくて済む。実際、高速移動型の動物は重たい筋腹を胴体側に集めていることは馬の体型を思い出せばよくわかる。反対に、東洋人のふくらはぎのように筋腹が作用点つまり足首に近い場合、脚の高速運動には明らかに不利に働く一方で、かかとを挙げた姿勢で”てこ棒”(モーメントアーム)を長くできる。なぜこのような違いがあるのか分からないが、東洋人の身体は高速で移動するデザインではない。
 また、頭部における耳の位置の違いも質問で出た。耳は頭部の目立つ部位でありながら、その表現においては二の次に扱われる。それはおそらく人の表情の構成要素ではないからであろう。耳は頭部の中を個人差で移動するものではない。耳の位置は頭部の位置と強く関係している。普段私たちは耳は音を聞く器官ほどしか思わないが、耳の本当の働きは頭部の位置、それも立体空間内での位置を同定するためにある。頭部以外の身体は、大げさに言えば頭部の位置に従っているに過ぎない。もしくは、頭部の望むべき場所と位置を叶えるために存在している。内耳と呼ばれる耳の奥深くは液体で満たされ、身体とは別のもう一つの空間が再現されており、頭部の動きや位置はこの空間との差異によって同定されている。そして、もうひとつがいわゆる外耳が拾う外世界の音だが、単に音を聞いているというより、音波の高低と大小の違いから外世界との相対的な位置を算定している。自分が止まっていれば周囲の音源を立体的に探索することができるのは、耳が左右についているからであり、目が左右にあることで視覚的距離感を得ることと理論的に大差がない。ただ音は光より遅く進むので、到達時間の差異を探索に利用することができる。どうするかというと頭部を動かすのである。犬や猫が頭をかしげることがあるが、それは音で距離を測っているのだ。ちなみに私たちのかしげる動作は「分からない」というメッセージになっているが、これも音による探索から来ているのかもしれない。話を戻すが、耳は音の差を拾うために、頭部の両側(互いの距離が最大)に置かれ、その回転中心に頭と頚の関節がくる。こうすることで、ちょうど回転レーダーの傘と軸のように機能している。人間の耳も同様で、外耳孔の真下に頚との関節が位置している。つまり、耳の位置は頭の中で決定するというより、頚椎と頭が連結する部位との関係性で決まるのである(もう少し細かく言えば、空間内における特定の動物ごとの頭部の運動軸)。
 西洋人は耳から前方までの距離が長く感じられるが、これは一言で言えば長頭だからで、ではなぜ長頭なのかと言うと”よく分からない”。ただ、長頭という一言でまとめてしまうと若干大づかみで、例えば化石人類は顎が丈夫で長いために長頭だが、西洋人のそれはもちろん異なる。むしろ、額の突出と大きな鼻がそう見せている。そのうちの鼻は中が空洞だが、額は脳の前頭葉によるものだから重さが相当ある。頭関節から遠方が重いのでそれを支えるには後頭部を下に引っ張らなければならない。より小さな力で引っ張るには”てこ棒”を長くすれば良いので後頭部も突出する。結果的に前後に長い長頭となる。頭関節を間に介して頭部の前後を比較すると、ちょうど脳の体積を前後に2分するような位置にあることがわかる。ただ前方には脳に加えて顔があり、顔は丈夫で重たい下顎やそれらを動かす筋が付着するので重さが増す。とは言え、獲物を捉えるためにできた顎はいたずらに短くできない(人類は十分に短いけれども)。短すぎると咀嚼力の低下か、それを補うための厚く重たい咀嚼筋を具えるかのジレンマが生まれる。その際どい拮抗点が人類の今の顔の前後長であろう。対して頭関節から後方には強力なうなじの筋を目一杯つけることができる。頭部をペンチ(はさみでもいいが)に例えれば、グリップが後頭部だ。大人が力任せに握れるならグリップは短くてもいいだろう。だから頭部を耳を起点として前後長を比べると必ず前方がより長い。一方で顎が小さくて筋力が弱い幼児では、後頭部が相対的に長く突出して見える。

 クロッキーを行う部屋の天井は蛍光灯が全面に取り付けられ全光源になっている。そのため、モデルの体にも反射光を含めると全体に光が回る。これは輪郭線を追うには良いが、身体の起伏を追うのには実は向いていないことに、今更ながら気付いた。モデルの肌は白く、日本人以上に光を吸うので数メートル離れると起伏がほとんど消えてしまう。そこで部屋の奥側の蛍光灯を消して見たところ、凹凸が強調され、全く見えなかった微細な起伏を目で追うことも可能になった。思えば西洋絵画の古典のほとんどが蛍光灯や室内灯などない時代の光線をもとに作られている。今後は光源のコントロールも念頭におきたい。

 セッション後に、西洋人の「動き」も観察したいという意見を頂いた。確かにそれも興味深い。今後は、人種の違い、光源、そして動きなど、要素の拡大を考慮していきたい。