つい最近、ある投稿スレッドで、「パソコンなどというものを、なんで人が作れたのか想像もできない」と書かれているのを見た。この、何気ないが同意できるような一言には、私たちが対象に何を投影して見ているのかを考えるきっかけがある様に思われる。このコメントを投稿した人は、パソコン画面から得られる情報の複雑さや、パソコンやコンピュータを行なっている計算の複雑さや速さを見聞きして、そのように思ったに違いない。このような、コンピューターの処理能力を身近に感じるがゆえに、もしもこの性能が人間の制御を超えてしまったならどうなってしまうだろうかという不安が生じ、数年前に良く言われた「シンギュラリティ問題」が登場するのだろう。AIがプロ並みのイラストを描くことも、ある意味においては、シンギュラリティ問題に近い。
しかし、本当にコンピューターはそれほど驚異的なのだろうか。AIが描くイラストは人間の画力を超えているのだろうか。これを考えようとする時に気をつけるべきは、描かれた物とそれを判断する者とを明確に区別することである。イラストにせよ芸術にせよ、完成した作品の質は、我々人間が見て判断しているのだから、その作品の価値判断は人間によるものである。
では、作品を作る時はどうか。作者は一枚の絵を描くために訓練を重ねる。構図や色調、人物画の均整、描線の強弱などなどである。それを身に付けるには多くの絵を見て何が良いのかを知らなければならないし、自分が良いと判断した絵が描けるように何度も繰り返し習作を描いて手の筋肉を制御できるようにしなければならない。画材の特性も知り、使い方も習熟しなければならない。画力を下支えする要素は、それぞれをマスターするだけでも多くの時間が必要である。つまり、一枚の絵を描くためには、その絵を思い描く能力と、それを具現化させる画力とが必要で、両者が高度に噛み合った時に、優れた絵が描かれるのである。画家はそれを身を持って知っているし、画家でなくても、優れた一枚の絵は簡単に描かれるはずはないと“信じている”。
だが、コンピューター上のAIは優れた絵がどういうものか知らないはずだ。AIは我々のような主観を持っていない“はず”だから、優れた絵という主観的判断を知りようがないからである。そうであるにも関わらず、我々人間が優れた絵だと感じる絵を描く。それも、何年という習熟期間もなしに。優れた絵は優れた感性と技術を持つ画家から生まれると信じている我々は、それゆえにAIの実力に脅威を抱くのである。
この考え方をひっくり返す必要がある。優れた絵を知らないAlが良い絵を描いたという事は、良い絵かどうかの判断と良い絵が描けることとは別という事実を示している。AIが改めて証明したことはこれである。実はこれについて、私たちはすでに知っていたはずである。絵の教育を受けたことのない子どもが素晴らしい絵を描くことはままあるし、良い絵についての教育など受けた事のない者による絵、いわゆるアイドサイダーアートも同様である。それどころか、絵ですらない自然界の風景に素晴らしい絵画のような光景を見出すことは誰でもある。このことから、良い絵かどうかは、絵に内在する要素ではない事が分かる。それは我々観賞する側のものなのだ。だからこそ、絵が何かなど知らずとも絵を描くことは可能であり、それゆえAlも描き得たのである。
むしろ、今回明らかになった驚きは、私たちが”良い“と感じる美的な要素が、実は何ら主観を必要とせず、言わばパターンのみによって生み出し得ることが証明されたことだろう。そこには、多くの経験や苦労どころか、一片の神秘性もなかったのだ。これは、私たちの芸術性を否定するものではないが、芸術性という響きが内在させてきた高尚さや高貴さや、人間だけの唯一性といった中心的な要素は否定される事になるだろう。意識なきコンピューターが、自分が何をしているのか分からないまま、あっという間にそれを生成するのだから。チンパンジーがただキーボードを叩き続けてもシェイクスピアは書けない。彼には“キーを叩く“という意識はあるにも関わらず。しかし、無意識のAlは、アルファベットの語順のパターンを深層学習することで、恐らく近いうちに、シェイクスピア文学に到達し追い抜くだろう。自分が何を書いているかなど知らぬままに。
良い絵が何か知らずとも、良い絵は描ける。それは確かにショックでもあるが、愉快さもある。人間だけが特殊で高能力な存在だという、限りなく高まった自意識を根底から突き崩すような潔さがもたらす自虐的な愉快さである。確かに、斜に構えた視点で様々な芸術作品を眺めてみれば、そこにある形態的要素は決して高度に複雑なものではないことに気付く。芸術作品に高尚性を与えてきたのは、鑑賞する者の意識なのだ。その意識は何となれば、転がっている石ころであっても、到達不可能な美として見ることさえできる。AIにとって、美術作品から解析する要素など大した複雑さではない。それが特定のテイスト、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ風などに限定されるなら、さらに単純であろう。
そう考えると、むしろAIにとっての最後の牙城は、日本の侘び寂びの世界かも知れない。その無造作の世界、無作為の世界の微妙さをAIは再現できるだろうか。コンピューターは「する」世界に向かっているが、侘び寂びはそれとは真逆の「しない」世界にある。しないままのしない、はあり得ず、するを知ったがゆえにしないがある。足したからこそ引くことができる。膨大な情報を足し続ける現在のコンピューターが、引くことに向かい始めることがあるだろうか。
現在のAlは、深層学習をベースにしている。膨大な量のパターンを読み込ませ、そこにあるパターンの組み合わせをさらに組み替えたパターンを作成する。これは経験から理想的な解答を見つけ出す我々の学習と同様である。ただし、コンピューターは我々とは比較にならない量を信じられないような速度で学習する。その結果の一つが今回のAIイラストである。人間がAlと決定的に異なるのもここである。人間は深層学習などしていないし、できない。そうであるにも関わらず、良い絵を生み出す。この理由を我々は直感やひらめきと表現しているが、どうしてひらめきが起こるのか、それは分からない。本当に直感なのかさえ、分からない。ただ事実として、その結果の産物が世界には存在している。人間が生み出してきた芸術的な創造物はまさにそのようにして登場したのである。現在のAIはいつかひらめくだろうか。もしそうなったなら、いよいよ人間以外が生み出す、もう一つの芸術的創造が登場することになると言えよう。しかし、それを我々人間が芸術として理解し得るのかどうか、それは未知である。
2022/10/05(水)
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