2010年11月22日月曜日

原始的感覚と彫刻

 私は、彫刻という芸術のジャンルこそ、全ての純粋芸術において、もっとも原始的な感覚を保持しているものだと信じている。そして、芸術というものが人に与える快楽が、感覚の原始的な部分から沸き上がってくるものであるなら、彫刻こそが、人々をそこへ「直接的に」導くことが出来るものであろう。その純粋性の高さゆえに、もはやその感覚は動物的でさえあり、その原始性によって理性やら論理やらに惑わされることから守られている。

 新生児は、まだほとんど視力が働いていない時から、その小さな掌に大人が指を置けば、力一杯に握ってくる。私たちがこの世に生まれて初めてたよりにする感覚は触覚である。そして、やがて追いついてくる視覚と触覚が結びつくことで私たちの「触覚的経験」は奥行きを増してゆく。尖ったものを「見て」、それに「触れる」ことで、次からは尖ったものを見るだけでもあのチクリとした感覚をありありと蘇らせることが可能になる。

 物をつかむ、物に触れるという感覚は、私たちに安心感をもたらす。それは、幼い頃に親に抱かれた肌の感覚もあるだろう。
 しかし、幼少時の記憶といった個人的追憶に依らなくとも、私たちは物をつかむことに安心感を得る理由を見つけることが出来る。それには、手を見ればいい。手の平を開けば、5本の指の腹が見えている。親指の腹だけは、斜めに内側を向いている。そこで物をつかむように指を徐々に曲げ始めると、人差し指から小指の4本はそろって曲がってゆくが、親指だけはその根本から他の指とは違うダイナミックな動きを始めるのが分かる。伸ばしていたときは皆一列に並んでいたのが、曲げ始めると同時に、親指だけはそこから急速に離れ、その腹は弧を描くように回転し、たちまち他の4本の指の腹と対向する向きを取るのである。
 物を握って離さないための手。私たちの体には、物をつかむための機構が生まれつき備わっている。この手は、私たち人類がここまでやってきた道程を示している。この手は、かつて木の枝をしっかりと握り全体重を支えるものだった。長い腕、可動域の広い肩、そして4指と対向する母指。そして、立体視の出来る眼。この組み合わせが、私たち人類を他の動物より優位に立たせる強力なツールとなった。やがて、木から下りると、この手は道具を作るようになる。身を守る武器を握った。大きな獲物を運んだ。火をおこした。
 私たち人類の進化は、物をにぎるという動作と切り離すことが出来ない。極端に言うなら、”握るために変形した手”を持つほどに、物を握ることを宿命づけられている動物なのだ。脳における体性感覚の分布を視覚的に表した有名な図(もしくは像)があり、「感覚のホムンクルス(人造人間)」と呼ばれる。これを見ると、人間にとって掌から得る触覚がどれだけ重要なのかが一目で分かるだろう。
 これほどに、握ることに頼り、生きてきた人類。触れる感覚からもたらされる安心感は、触覚に対する信頼感に繋がっているに違いない。

 この人類の存在に関わる、深い部分に根ざした感覚を揺さぶる芸術が彫刻である。歴史に残る傑作といわれる彫刻の多くは、かならずこの触覚をくすぐる要素を持っている。芸術のクライアントは、鑑賞者の感性つまり原始的感覚であり、ならば、そこが共鳴する作品が多くの共感を得るのも納得がいくのではないか。

2010年11月21日日曜日

体の基本は骨?

 骨は体の中にあり生前はそれを見ることはできない。体を強打して、内側にある骨を折ってしまえばたちまち動きを奪われる。また、死して最後まで残るのは骨であり、それは内側に一本のスジを通しているかのように見える。それらの経験的な理由から、私たちは、体を柔らかい部分と硬い部分に大まかにわけ、硬い部分は骨格が担うことになった。そして、内側にあって、硬く、体を支えるという性質から、そこに「芯棒」と同様の性質を結びつける。すなわち、体の基礎は骨格にあり、というものだ。これは、芸術の実技においても同様であり、まず内なる骨を理解すべき、という考え方は古くルネサンス期からある。

 骨、骨格。その印象は、白いもしくは象牙色で、硬く、乾いている。それは、紛れもなく「死んだ骨」から来ている。「生きた骨」と聞くと、ガイコツがカタカタと動いている様を想像もするが、そうではなく、生きている私たちの体内にある骨のことだ。生きている骨と死んだ骨は、その性状がだいぶ違う。生きた骨は血が通い、外部刺激に対応して刻一刻とその形状を変えている。そしてそれは、死んだそれと違い、柔軟性を持っている。細かく、細部へと眼をやれば、骨から骨膜、そして軟部組織へと性状は徐々に変化してゆく様が観察される。料理屋で出される「骨に肉を巻き付けて焼いた」ものとは違って、本質的には両者は分けられるものではない。
 それでも、「骨は体の芯」という概念は一般に理解しやすいので、広く浸透している。体は骨とそれ以外から出来ていて、全体の運命を握っているのは芯である骨という考えだ。「骨の歪みを直す」といううたい文句は良く目にする。

 粘土で造形する彫刻を塑造と言うが、そこでは、まず始めに心棒を組み立てる。そうして、そこに粘土を付けて造形してゆく。このときは、まさに、芯棒こそが重要であって、いくら顔のしわが上手に作れようとも、心棒のバランスが崩れていれば、全体の比率の狂いは直しようもない。それを修正するには、それこそ芯棒という「骨」の歪みを直さなければならない。芯棒は、その像のサイズによって素材は様々だが、平均的な人体像ならば、木の角材に針金や縄などが用いられる。
 さて、人間の骨格は角材のようにシンプルだろうか。骨格を構成する骨の一つ一つにはその周りを囲っている組織(ほぼ筋や腱)のありようが、表面に刻まれている。つまり、骨の形状は、骨以外のものに依っているのである。こういうところからも、体は”まず骨があって、そこにそれ以外がつく”のではないことがわかる。
 発生学的に見ても、まず骨ありきではないことがわかる。体で一番始めに作られるのは腸であって、硬い骨を手に入れるのはむしろずっと後のことである。しかしながら、私たちの遠い祖先が、太古の海を離れ、川を遡り、陸へ上がるという大業を成し遂げられたのは、この体内にある硬い骨を手に入れたからこそであり、さらに言えば、生物の生存競争において優位に立てたのも、硬い骨による運動エネルギーの効率的伝搬があったからである。私たちが、死後残された骨になにがしかを感じ取るのは、そんな、ここに至る成功への道程を本能的に思い至っているのかとさえ思う。

 人体という、とりとめのない相手を理解しようとするときに、硬くて扱いやすい骨がランドマークとして適していることは明らかである。しかし、生体においては、それが塑像の芯棒のように存在しているわけではないことも同時に理解しておきたい。