2016年12月14日水曜日

科博『ラスコー展』感想

 科博で開催している『ラスコー展』。平日午後に行くと空いていた。展示内容は、有名な壁画をただ羅列して見せるというものではなく、発見の経緯や調査技術と関わった人物なども展示することで、子供が見つけた古い壁画が人類の遺産となる経緯も示されている。洞窟の内側はレーザースキャンされ、縮小模型として出力された。それらの展示は、洞窟の壁を1枚の層として、その外側がまず目に入る。細長い様はいびつなヤマイモか何かのようだ。鑑賞者はその両側に開いた穴から、巨人のように洞窟内をのぞき込む。ラスコー洞窟の壁画という言葉の響きや、褐色で描かれた動物の姿は日本人にも有名だが、その洞窟そのものがどういった形の空間なのかはあまり意識されない。洞窟の縮小模型はそれを意識させるために置かれたのだろう。その次に、本展示のメインである、壁画の実物大再現エリアが始まる。主要な壁画の壁そのものが立体的に再現されている。そのユニットが幾つか連続的に続き、さながら洞窟内のようでもある。数分眺めていると部屋が暗転しブラックライトが点灯すると、壁面を引っ掻いて描かれている線描が緑色に光って浮かび上がる。これは素晴らしいアイデアだし、実際、色彩部にそのような線描が刻まれていることなど知らなかった。壁画を含む壁面の再現度は高い。もちろん実際を知らないのでその限りではあるが、一見、本物のように見える。とは言え、洞窟全体がトンネルのように再現されているわけではないし、そこに描かれている動物画も絵画そのものとしての強さが”売り”というのでもないから、そこはかとない白々しさを感じてしまう。それは、皮肉なことに壁面レプリカの再現度が高いゆえなのだ。ラスコーのリアリティは、その現場に立たなければ感じることはできないだろう。

 壁面レプリカのコーナーを越えると、息抜き的な展示が少し続いて、別の部屋へ移ると、次のハイライトがあった。古代人の石器と共にさまざまな芸術的加工品である。私は壁画レプリカよりずっとこちらに目を奪われた。なぜならそのほとんどが実物なのだ。残念なことに日本の博物館展示はとにかくレプリカのオンパレードが当然なので、私はいつも「どうせレプリカだろう」と思いながら冷めて鑑賞する癖が付いている。そんなつもりでアクリルケースを覗くと古代美術の書籍で有名な「体をなめるバイソン」が置かれている。しかし、刻まれた描線の影にキャスト特有の”ぬるさ”がない。キャプションにもレプリカの文字がない!何と、実物が来日していた。半レリーフ状の小品だが、輪郭はバイソンの形に切り出されている。前側から見ると厚みはないものの縁は丸く削られ、裏側も動物の胴体の丸みへの造形配慮が成されていた。隣りのアクリルケースには、殿部突出型ヴィーナスの実物まである!殿部突出型ヴィーナスと言えば「ヴィレンドルフ・ヴィーナス」が有名だが、実際は数多くの同系像が発見されている。これもその1つで、サイズは切手ほどしかない。きれいな半透明の茶色い石を加工してある。透過する素材と像のサイズは考慮された可能性を感じる。それにしてもこの小ささが愛らしく、護符として身につけていたのかも知れないなど想像が拡がる。他にも、トナカイなどの線描が刻まれた石版や骨などの実物が数多く展示されており、素晴らしい。
 その中に、不思議な人物の横顔があった。右を向いた頭部は、鼻と口つまり吻部が突出している。頸は頭部の真下に落ちている。小さな耳が頭部側面に描かれている。頬には縦線が幾筋も彫られている。目頭から鼻へかけて線が引かれている。つまり、この頭部は半獣半人なのだ。どういう訳かキャプションにはその事には全く触れていないが、ほぼ間違いない。もう一つ別に、同様のモチーフが刻まれている物がある。バイソンの細長い骨(棘突起か)に人物が縦に2人。両端は欠損しているがどうやら同じ人物画を繰り返しているようだ。その頭部は鼻面が長く、縦の縞模様が刻まれる。首輪と腕輪をしている。横から描かれた胴体は腹背に広く四足動物の様でありながら腰椎の前弯も表されている。腕は上腕が短く前腕が長く、これもネコ科など四足動物を彷彿とさせるけれども人のように分かれた指を持つ。脚も脚部が短く踵から先が長そう。「長そう」と憶測なのは、足の途中で骨が終わっているため描かれていないからだ。足首には足輪が描かれている。脇の下には垂れて伸びたような乳房がある。背中にはたてがみのような描線がある。このように、全身に渡って半獣半人の特徴が描かれている。それも顎の出たネコ科の風貌はライオンであろう。ライオンと人間女性の特徴を併せ持った何かが崇拝対象だったのか。図録にはもう一つ『ヒトの頭蓋骨の彫像』と名付けられた骨製小品が載っている。これは会場には無かった。キャプションには頭蓋骨とされているが、両耳が作られているので頭蓋骨ではない。両目は窪みになっているので眼窩に見えるが、思うにここには別素材の目が入れられていたのではないか。そして、鼻と口の部分は人間の様には造形されておらず両目の間からハの字型に下へ拡がって吻部を形成している。つまり、この頭部もまた半獣半人である。

 他にも多数、数万年前の人々が作り出した古代芸術の実物が展示されている。カタログを見るとこれらのほとんど全てが東京会場のみの限定展示である。他の会場ではこれらはレプリカ展示となってしまう。何という不平等!ともあれ、非常に貴重な機会なので、むしろこれらを見るために同展(東京会場)へ足を運ぶことをお勧めしたい。

 同展の売り文句のひとつが「芸術はいつ始まったか」である。当然ながらこれら洞窟壁画の古さがそう言わせるわけだが、この言葉は見る人たちを誘導してしまう危険性がある。つまり、これら壁画や小品たちが「人類の芸術活動の最初期のもの」であるという錯覚を抱かせるのである。この思い込みは、「初期のものだから稚拙である」という見方にも繋がる。例えば、「ラスコーは素晴らしい!」という発言の裏には「現代人より劣っている割りには」という但し書きが隠れているだろう。展示会場には、クロマニョン人の復元模型が置かれている。それを見ると、彼らが現代人と全く同じ外形をしていたことが分かる。ショーウィンドウのマネキンに毛皮の衣装を着せただけに見えるのだ。それほどに3万年前の人間は既に我々と同じであって、同じ構造をしているのであればその機能もまた同様であるに決まっている。同じ彼らが生み出した芸術がもし稚拙に見えるのであれば、それは現代の私たちもまた稚拙であるということであるし、彼らの芸術が原始的であるというなら現代の芸術も原始的であると言わざるを得ないだろう。しかし、こんな逆説的な言い方をする必要はもちろんなく、つまり、ラスコーや古代芸術は「既に古くなく、稚拙でもない」のである。別の言い方をすれば、既に芸術行為としての完成を済ませているのである。ラスコーや古代芸術が私を驚かせるのは正にこれで、3万年前に既に今と同じ創作行為とそのための思想が完成していた、という事実である。だから、これらは決して芸術の起源を示す遺産ではない。

 それにしても、2万年前の人物が、真っ暗闇の洞窟内へランプの灯火だけを頼りに侵入して、あれだけの大きさの壁画を描き続けた事実には畏敬の念を抱く。これらの壁画が始めて描かれてから、描かれなくなるまでの期間がどれほどだったのかは分からないが、もしかすると、数万年は開いているかも知れない。引っ掻き傷の線描と色彩描写は違う時代背景を彷彿とさせる。壁画と呼ばれるが、いくつかはほとんど天井画である。それも手を伸ばして描ききれるサイズではない。はしごを動かしながら描いたことだろう。助手もいたのかも知れない。そうやって想像を巡らせることは楽しい。彼らが洞窟から出ても、そこには道路も自動車もなく、食べる物もパンさえまだ発明されていないのだ。この時代、牛は私たちが思う牛ではなかった。ライオンは”大型のネコ科動物”ではなかった。線や色は光学現象ではなく、女性は性別ではなかったのである。そういった、同じであっても全く違う世界に生きた人々の感性の記録がこれら古代芸術には封入されている。

2016年12月10日土曜日

「今」を紡いで作られる物語

 どんな人生だったとしても、死によって終わる。それは究極的な平等のようにも感じられる。そして、死は生とは異なる現象にも見える。もちろん人生で出会う他者の死(家族や身近な者の死も含めて)は特別な意味を持つが、ここでは主観的、つまり一人称の死について記述する。死は全てを奪うと言われる。ここで奪われる全てとは、記憶のことだ。私たちが今ここに居ると実感するのは、その瞬間までの記憶に基づいている。その記憶に基づいた上に現在を実感するが、その現在の認識もまた直前の事象の記憶に他ならない。そうして継続された記憶と直前の記憶を足がかりにしてこれから起こるであろう未来を想像する。生の実感とはこの内的な物語に由来する感情のことだ。この実感は強力で、そのお陰で私達は自分が疑いなく生きて存在しているのだと信じ切れる。この記憶に基づく生の実感が死によって失われる。記憶は情報に過ぎないのだから実体はない。未来も過去も私たちの主観世界に作られた虚像という意味で同列である。過ぎた事から未来までを同様に感じられるのはこのような性質の同一性によるのだろう。現象として起こっているのは、瞬間瞬間の「今」だけであり、それを紡ぎ合わせて作り上げた記憶の物語が、自分が今ここに存在する実感を生み出している。強調すべきことは、瞬間瞬間の「今」には、何らの継続性や物語性が存在していない事だ。たとえば、朝に顔を合わせた家族が夜に帰宅して再び会うことは当然に思われるが、それは目の前のコップから目を反らせて再び見たときに相変わらずそこにあることの当然性と本質的には同列で、「さっき存在したのだから、いまも存在する」という物語は我々が作り出している。目の前のコップの存在継続性を納得させるものとして物理学などを持ち出すこともできるだろうが、それを知らずともコップが存在し続けることは記憶という主観が担保してくれるのである。ところで、朝に顔を合わせた家族は目を一瞬そらせたコップより不確実性がはるかに高い。つまり、朝に顔を合わせた家族とその晩に再び顔を合わせるとは限らず、何らかの理由で再び会うことがなくなるかもしれない。そうなった時、見慣れた室内はそれまでとは違って見えるようになるだろう。だが、物理的な世界そのものは変わってはいない。世界を感じ取る我々が変わったのである。この様に、生の実感をもたらす主観的な世界は決して不変ではない。物語は世界には無く、それは私たちの中にあるのだから。一人称の死はその物語の消失を意味する。すなわち、死は全てを奪うと言うよりむしろ人生の「語り部」の消失を意味する。奇妙に聞こえるが、物質的な側面から言うなら私たちは死後の世界にそもそも存在しているのだとさえ言い換えられよう。生は、瞬間瞬間の「今」しかない死の世界の事象を紡いで作り上げられる形なき、そしてかけがえのない一度きりの物語なのだ。

モチーフとモデルの所在(12月2日・造形大・ラフ)

 美術のモデル。造形において作家が参考とする物。その物自体ではなく代わりとして置かれた物、言わばそっくりさんである。美術で用いられるモデル(それがリンゴや椅子であってもヌードであっても)は、形の参考として見られる。画家はそこに置かれたモデルその物を描くことが目的ではない。描きたい”主人公”は画家自身の内にあって、モデルはそれを誠実に引き出すための参考物である。言わば主人公の代替物ということになる。美大の授業で用いられるヌードモデルもこの類である(注1)。
 写真にもモデルがある。写真のモデルは被写体のことで、対象は何でもなり得る。写真は光学的対象を「切り取る」行為であって、彫刻や絵画のように何も無いところから造形する行為と異なる。それでは撮影行為は、彫刻絵画と違うのだろうか。まず、写真家の中にある対象の印象「らしさ」を、実物「モデル」から感受しようという行為の発端は同じである。ファインダーを覗けばそこに光学的に正しい対象が映し出されているという点が異なるが、シャッターを押せば「らしさ」が捉えられる訳ではなく、陰影や構図など様々な構成要素をコントロールすることで「らしさ」に近づけていくという点では、彫刻や絵画と同様である。

 反対に作品から作家がどのようなモデルとして対象を見たのかを推測できる。人体表現に絞って見ると、発見されている人類最古の彫刻の1つであるヴィレンドルフ・ヴィーナスの姿勢や変形には作家の強い意志が感じ取れる。よく似た姿勢と変形の女性小像が複数発見されていることから、この像の特徴的なスタイルはたったひとりの古代の芸術家のセンスというより、確立された様式美である。3万年以上前に女神のような理想の存在があり、そのモデルとして女性が見られていた事が想像できる。古代ギリシアでも、神の理想形態のモデルとして人体は見られた。中世ヨーロッパでは、人体は単純化され言語や記号のように扱われていた。人体がモデルとして再び重要視されるイタリアルネサンスでは、人体解剖学が発展し芸術の人体表現に応用された。フィレンツェ派の掴めるような実在感は体表のみならずその内側の構造まで明確に認識しているという自信の表れでもある。解剖学が人体を統一する新しい根拠となり、関節をまたいだ骨の両者を腱で繋ぐことで彼らが理想としていた古典的人体像が持たなかった有機的調和を手に入れた。長い間モデルとしての人体は形態的な基盤として揺るぎのない地位にあったが、これが近代では変化する。恐らくは写真機の普及によって個人的感覚だった視覚経験の他者との共感が可能となり、また私たちは写真のように視覚するという感覚が根付いた。それを批判するように間もなく印象派が起こる。これが表現を人体形状から解き放つ契機となったのである。ロダンの作る人体像は表面が激しく波打ち、その作品たちは古典的な彫刻と違って、特定の個人のように見える。ひとつひとつは、ギリシア的なプロポーションや解剖学的なマニエラの呪縛から逃れて自由である。ロダンは「モデルを見なければ作れない」と言ったが、彼にとってのモデルとは代替物ではあっても、もはや形態的基盤ではなく彼が”感受するための”対象であった。

 人体は変わらなくても見方が変わると表現が変わる。視覚は写真とは違う。眼に入った光学刺激は網膜の段階で情報処理が始まり、それが脳へ届いてから諸要素に分解された後に様々な付加情報と共に再合成されたものが視知覚として意識に上る。つまり視覚は「見える世界を作る」能動的行為であって、視覚は写真の様に世界を捉えてはいない(注2)。印象派の芸術家だけではなく、実はこの事実を私たちは経験上よく知っている。それは、小さな頃に描いた家族の顔。紙いっぱいの顔面に目と口や輪郭全体に髪の毛といったものだ。あの奇妙に誇張された顔が、あの頃そう視覚していたことを示しているのである。必要な視覚情報だけが強調され、それらが私たちの行動のきっかけとなっている。行動のきっかけとなる特定の外部情報を行動生物学でシグナルと言うが、視覚は光学的シグナルを受容する器官だと言える。乳児は始め実際の母親をシグナルとして反応するが、やがて思い起こした内なる母親像に対しての反応もするようになる。この時の母親像をシンボルと言う。また「母親」という単語を目にした時、私たちは自分の母親を思い起こす。この時、母親という単語をサインと言う。私たちは様々なシグナルをシンボル化して扱う事に秀でている。例えば、「汲み取る」という行為がシンボル化する結果、汲み取る手段は手でもコップでも大きな葉っぱでも良くなり、さらには「話しの意図を汲み取る」のような使い方も可能になった。
 モデルはシグナルとして作用し、芸術家はそこからシンボルを形成する。単純な写真はシグナルの出力に過ぎず、印象派の芸術家が反発したのはそこである。シンボル化を経ている芸術作品は下位構造であるシグナルも含み、鑑賞者は更にそこからサインを読み取ることもできるだろう。芸術作品からシンボルやサインを受け取る事ができるのは人間だけである(注3)。


(注1)モデルの事をモチーフと呼ぶことがある。Motifは本来なら「主題」だが、同時にMotiveつまり「動機、原動力」の意味もあって、これらの意味合いが投影された物体としてモデルと同義に扱われているのだろう。

(注2)歴史的に見ても視る行為がずっと受動的行為として考えられていたわけではない。プラトンは目から出た光が世界を捉えると考えた。眼球の解剖をしたレオナルド・ダ・ヴィンチはそれが光学的器官だと直感したが、視覚を得るのは脳室における魂の働きと信じていたし、デカルトも魂の所在地が松果体へ移ったものの考え方は似ていて、どれもが視覚に「視ようとする」能動性が根底にある。それとは反対の「眼は世界を写真のように写す」という受動的な感覚を強めさせたのは、やはり写真の一般化が関係しているように思える。私たちの眼の焦点距離は決まっているのに、様々な焦点距離の写真を違和感なく認識していることも、私たちが写真のように世界を見ていない事を証明するひとつの事例と言える。


(注3)シグナルをシンボル化できる人間の能力をハイデガーは「(シンボル体系の)世界への超越」と言い、人間たらしめる行為とした。世界のシンボル化、サイン化はシグナル世界(生物学的世界とも言い換えられるか)からの超越であり、それを示す芸術は鑑賞者にそれを気付かせる可能性を秘めている。そう見れば芸術は、本質的には私的行為というよりむしろ公の認識可能性をおし拡げる行為であり、哲学に近い。哲学が諸科学の種であるように、芸術は広く人類の知的行為の種である。


生と死の所属

 自死がなぜあるのかと考えて、しかし、それは個体死の一形態だと考えれば、違和感も薄まる。種としては一個体の死はさほど問題とならない。種存続が本能であるなら、死なない方が良いではないかと思うが、それも同様だ。種存続には個体死が必要であり、その死のバリエーションとしては自死があると言う事だ。しかし、意識は死なない方が良い、と考えてしまう。これは個と全体の振る舞いの違いが現れている。種全体の存続は個レベルの継続性の積み重ねだからだ。そうなると、生死には所属の違いがある様だ。すなわち生は個の欲求で、死は全体(を維持するため)の機能である。より正確に言うなら、どちらもが全体の機能として働いているが、個体はより生を欲求する意識を持った。それはどうしてか。まず単純に、死を選んだなら存続しないからである。我々は選ばなかった側である。それに従って、意識は生に肯定的になるだろう。正しくは、肯定と言う自己内環境がそうして現れる。生が「拾われ」生き残る事でより生を拾う向きに偏る。それが社会性コミュニケーションの中で意識化され、「生きた方が良い」と口走らせる。

2016年10月26日記す

知覚の前の感覚で、外世界は単純化、強調化が成される

 知覚の前の感覚で、外世界は単純化、強調化が成される。そうして選択が行われ、その結果が意識的な選択として提示される。私たちは世界を生のまま感じ取っていない。頭に浮かぶ道のりや落書きの顔、ああ言ったものが捉えられている。むしろ、知覚としての外現象は、それら単純化強調化された感覚と現実の擦り合わせに働きさえしているだろう。話を戻すが、単純化強調化された外世界は情報の少なさと強さから、選ぶ対象にバイアスがかかる。普段、ことさら意識せずに捉えている外世界はこの様な単純化されたものだろう。意識化の貢献はそれを浮き立たせ、内なる外世界として改めて提示した事だ。無意識的判断はそれらをさらに単純化させて判断の材料として用いる。単純化、強調化、そしてそれらの意識化つまり記憶と言語が人類文明を生み出したと言っても過言ではない。実世界には存在しないのに誰もが知っている丸や直線などの幾何形態は脳が世界を捉える過程で生まれ、世界の認知と選択に常に用いられている計測道具なのだ。

 ところで、ホフマンが言う、我々が世界をそのままで見てはいないと言うのは、無意識的な状態に限られるのではないか。いやカントが言う様なそのもの自体が見る事はできないと言うのは納得する。何故なら、私たちは写真の様な絵を描けるし、何より写真機で撮られたものを認識できるではないか。正確に言うなら、私たちは普段はラフに世界を捉えているが意識によって詳細に捉えることもできるのである。網膜で情報の初期処理が成される、その次段階、具体的にはV1まで我々の意識は遡って到達できるだろう。つまり、視覚的発見は外世界の探索ではなく、内世界でのそれである。そう思えば、科学的発見も同様だ。我々は既に感覚が認識済みの外情報から再構築された内なる外世界を探索しているのであろう。何故なら私たちは自身の知覚器官で感受できる以上の世界は知る事ができないのだから。
 ところで、私たちの感覚器官が種類ごとに分かれている事は注目すべきだ。始め、体は世界を感覚的に分断されているのである。それが、脳内で組み立てられる事で私たちの知覚となっている。皮質では機能は局在している。その、いわゆる感覚のゴール近くまで感覚は統一されないままである。私たちが意識で、見る、聞く、などと言い分けられるのも、機能局在の感覚まで遡ることができるからであろう。


 話をまとめると、意識は無意識によって単純化強調化された外世界を、内なる外世界として再提示する。それがさらなる無意識的判断へと繋がる事が、世界に秩序を見出し、結果文明を作るにまで至った。

2016年10月28日記す

自由意志考

 意識と自由意志を混同しない事。私が疑っているのは自由意志である。自由意志とはすなわち意識的な選択を本当にしているのかという事だが、もし動物のように本能だけならば、皆が皆同じ選択をするはずだ。確かに人間と言えども行動を大きなくくりで見れば似ているが、個々の細かな選択においては、自由に選んでいるようにも見える、もしくは感じられる。確固たる自由意志に見えるそれらも真実はそうではないと言えるような根拠はどこに見られるだろうか。意識的に選ばれたと感じられる事例をもとに考えたい。

 意識で選択すると信じられる大きな決断として自殺がある。自殺を遂行するには体性神経系と骨格筋が導入される。何故なら自律神経系と平滑筋は「意志に従わず」それらは一途に生きようとするからである。自殺とは生きようとする植物的身体を動物的身体を持って力尽くで殺す行為だとも言える。しかし、本当にそうだろうか。自殺をしようというのは意識だが、その決定に至る過程を遡れば結局無意識に突き当たる。その先は意識では分からない領域である。そう考えるなら、自殺もまた自由意志ではないということになる。
 結局のところ、体性神経系も随意筋も根っこは「不随意」なのだ。そうすると、身体とは状況次第では自らを殺そうとする性質がそもそも備わっているということか。細胞レベルではアポトーシスがある。アポトーシスは人個体の存続に役立っている。自殺が人個体レベルでのアポトーシスと呼べるなら、それは種の存続に役立っているのであろうか。なるほど自殺は耐え難い苦痛からの逃避とも捉えられよう。その苦痛の原因はいくつもある。まず、自身から発する肉体的なもの。これは分かりやすい。そうではない原因は自己を取り囲む環境によって与えられる。借金やいじめなどである。こう言った環境苦痛が自殺を選ばせるとはどういう事か。自殺が種の存続に役立つ判断として起こるなら、彼の死はその環境に益をもたらさなければならない。しかし、どうもそうとは考え辛い。第一、そうであれば、我々は自殺に肯定的になっているはずであろう。だが一方で自殺はその発生頻度を見ると、ことさら異常な現象とも言えないのも事実である。自殺を肯定的に取らえないのは、普通死を肯定的に取られないことと同じ事かもしれない。普通死もしくは自然死と自殺の違いは、やはりそこに体性神経系と骨格筋が積極的に関わっているか否かという事に尽きるようだ。換言すればそこしか違わない。ただし、それは小さな違いではない。自然死が人個体の生命現象な継続不能性の結果であるのに対して自殺は動物的身体によって積極的にその継続をやめさせるのである。その最終決定はどのようにして下されるのであろうか。動物的身体が自らを殺す行為がそもそも身体に備わっている機能であるなら、人以外の動物にも自殺が見られても良いようなものだが、どうもそうではない。仲間外れで自殺したり、身体的苦痛から逃れるように自ら命を絶つ野生動物がいるという話は聞かない。そうなると、自殺は人に特有の死の様式であるように思われる。では人間とそれ以外の動物との違いはなんであろうか。その最たるもの、人を人たらしめているものは社会性に他ならない。社会性とは集団にあって個体の意思決定より集団のそれを重視する性質である。全体を維持する事が結果的に構成要素である個体の生存を担保している。確かに我々は小さなコミュニティのレベルでは個人を尊重するが、マクロで見れば個人より社会性を優先する動物である。自殺の原因として目立つイジメ、疎外、借金苦などはなるほど社会性を帯びた問題だと言える。つまり、自殺を選ぶ人は間接的に周囲環境から自己の存在を否定され、不必要とするメッセージを与えられている。まるで環境が彼に死になさいと言っているかのようだ。社会的に作られた私たちはその環境から与えられるメッセージに応えようとする。社会性動物の性質が自死を選ばせるのである。
 それでは、病気や怪我などによる身体的苦痛からの自殺はどうか。先にも触れたが身体的苦痛から自殺を選ぶ動物は人以外にはいない。ここにも人間に特有の生き方が関係している。まず、自然界では身体的不自由が生じた個体は速やかに死ぬ。つまり、他の捕食者に殺される。我々だけが他者に守られる。その結果、苦しみが長く続く。つまり、苦しくとも、植物的身体は可能な限り命を続けようとする。それが何かのきっかけで自死へと舵を切るのである。そこにはいくつかの先だった情報があるだろう。その病は治らないであるとか、我々は自殺ができるといったことだ。それらの情報は環境から与えられたものである。そうなれば、やはり自殺は環境が自死を選ばせたと言えるだろう。つまり、自殺という究極的な自由意志、自由選択に見える行為も実はその発端は環境によって与えられていたのである。

 自殺という言葉と、我々は自由意志を持つという前提から、自殺の判断は本人によって為されたと一般には思われているが、実際はそうではないと分かった。それは周囲の環境によるものであり、言わば、環境による殺人とでも呼ぶべきものだった。


 以上から、自殺のきっかけは環境から与えられると了解するが、それに応える性質を我々が備えている事も驚きである。つまり私たちは自分で自分を殺すことができることを予め知っている。その様な動物が他にあるだろうか。これにも意識の獲得が関わっている様に思われる。そもそも、意識をなぜ獲得したか、その必要性は何かについてはすでに考察している。それは個体自身のためではなかった。自己経験を他者へ伝達するための機能として登場したと私は考えている。だから意識は言語と密接な関係性がある。言語は区切りがなく曖昧な自然現象に明確な境界線を引き、様々な概念を「切り出した」。そして、個体の終わりを死と名付けた。そうして死は連続的な生命現象の一過程から独立を果たしたのである。独立した死は、今や生命現象のどこにでも割当てることが可能となった。意識が死を作ったことからも自殺の発見は意識的な行為である。自意識が無ければ、死は存在せず自殺も起こり得ない。野生動物に自殺が無いのはこのためであろう。しかし、繰り返し言うが、人生の何処に自分の死を置くのかは、個体が自由に決めているのではない。それは環境が決めている。意識の発達が死を作り、環境がそれを何処に置くのかを決め、実行はその判断に反応した個体の動物的身体という意識制御系に行わせるのである。

2016年10月19日記す

アングル『浴女』ポーズの実際

19世紀の新古典主義の画家アングルによる『浴女』をモチーフに、実際のモデルにポーズを取ってもらった。今回のモデルさんは痩身だったので『浴女』の豊満な体では隠されてしまう骨格や筋肉の位置や形状がよく確認できた。この絵が背中を描いているので、モデルでの確認も体幹部分の背面に注力することになった。

 つくづく、アングルは表現者としてプロフェッショナルであったと再確認する。浴女のお尻を見ると尻の割れ目の上端がわずかに見えるが、彼女が腰掛けている柔らかそうなベッドのクッションならば実際には深く沈み込んで割れ目まで見えることはない。しかし、その真実を描くよりも尻の割れ目が見えるレベルまで体を持ち上げて(沈み込ませないで)描くことで、体幹部分の下端が暗示させられ、モチーフ形状がずっと締まったものになる。
 座ることで腰椎の生理的前弯は影を潜め、その代わりに体幹全体に渡った大きなカーブがまとまりを与えている。広い背部が目に入るが、そこには繊細な色彩のグラデーションで内部構造が示されている。尻の割れ目の上部左右にはくぼみが描かれているが、これは通称ヴィーナスのえくぼと呼ばれる腰小窩で、内部に骨盤の上後腸骨棘があることを示すランドマークである。平たく言えば、この左右の窪みと尻の割れ目の始まり部分を結んだ三角が仙骨であって、それが見えてくれば背骨の下端が見えたことになる。更に、この窪みからは左右のに骨盤の上縁が続いていくので、腰の内部構造の要である骨盤の上部を同定するきっかけにもなる。つまり、人体観察において比較的重要な構造と言える。
さて、背骨の曲線を上へと追って行くと両肩の部分で左右の膨らみが表現されていることに気づく。もちろんそれは左右の肩甲骨とそこに付属する筋肉だが、実際のそれと違って、膨らみが背骨にとても近い。この事は今回モデルと比較する事で明確な違いがとして映った。それほど事実と異なるにも関わらず、こうして描かれているとそこには不自然さがない。このようなフィクションを巧みに混ぜ込んで、結果的に説得力のある描写としてまとめる事がアングルの技量の高さを示している。

 浴女の頭部は大きく右を向いている。後頭部にある布が頭部の前後方向の長さを強め、それが頭部の回転方向をより強く視覚的に示す事を助けている。それにしても頭部は実際より前突している。これも古典表現にしばしば見られる実際の構造との強調表現である。

2016年8月10日記す

人間は世界を対で捉える

人間は世界を対で捉える。それは1ビットであり、情報の最小単位である。

2016年7月22日記す

他者にとっての表象

強烈な夏の陽射しのなか、緑の木をバックにセーラー服の女子高生が遠方に見えた。夏を表す永遠の表象に見えた。我々は皆、他者にとっての表象だ。小学生たちは永遠の小学生たちだし、サラリーマンも老人もそうだ。

2016年7月21日記す

生物学的な生と、美的な生

生物学的な生と、美的な生とは別のものである。美的な生は感じ取られるものだ。美術解剖学においても、その違いは良く意識しなければならない。両者を混同しては無駄な混乱を招く。

2016年7月14日記す

形は死、形成が生。

 形は死、形成が生。私たちは形を通して動きを捉える。その「形の動くさま」に命を見る。だから両者は切り離せない。対象の形だけを切り取るならばそこには生は存在しない。私たちが生きているのは時の流れの中で動いているからであって、だから仮に、瞬間瞬間を切り取れるならば、その瞬間ごとは止まっているのだから生は見られないのである。 

 では、止まった形を表す絵画や彫刻たちは皆死んでいるのか。ここまでの意味合いならば死んでいるのである。実際それらは息をしていない。しかし、私達は芸術に命を見る。実はそここそが芸術表現の本質なのだ。芸術が自然の模倣ではなく翻訳であると言われる所以はここにある。良い芸術は止まっていながら生を"感じさせる"ものである。そのためには単なる形の模倣ではならず(それは死体である)、止まっていながら前後の時間の流れを感じさせなければならない。それは写真機で撮影するのとは違う。写真機が切り取るのは時間の一瞬であって、言わばそれは死に近いものだ。カメラが発明されるまで、人類の目は静止した日常など目撃したことなど無かった事を思い出さなければならない。動くもの(生きているもの)を見て、そのものとして再現を試みた絵画や彫刻が写真よりずっと我々が生きたものとして自然に捉えられるのはそういった理由もあるに違いない。


  現代は写真が生活に身近になった。それでも生は動きにあることに変わりない。生を表そうとするならば、自分の目で生きたものを見なければならない。安易に写真を見て造形するなら、それは容易く命のない形だけの物になってしまうだろう。

2016年7月14日記す

新美での頭頸部造形講座の感想と反省点

 新美で12月4日(日)に行った、頭頸部を骨から造形する実技講座は、募集定員を超えて69名で締め切る盛況を見せた。事前準備を整えたので、当日の手順は滞りなく進んだ。当日の教室は手前から奥まで学生で埋まり壮観である。造形物はせいぜい20センチほどなので、私の手元をカメラで捕らえ、それをプロジェクターと大型モニターに映しての実演形式を取り、それを見ながら受講生も自ら造形していった。新美の講師が2名学生サポートとして教室内を常に見回った。
 おそらく、ほとんど全ての学生が頭頸部の内部構造を知らないうえで作り始めたにも関わらず、そして9時から5時までの1日だけで、それなりの完成度まで到達することができた。これは、学生の主体的なモチベーションがなければ無理だったろう。

 基本的には、出版した自著に沿った材料と手順で行い、用意した油土はひとり2キロ。始めパッケージ(1パック1キロ)を見て足りないかと感じて、若干小さめに造形したところ結局多くの粘土の余りが出た。油土はレオンクレイの赤色パッケージ、つまりもっとも柔らかいものを選んだ。驚いた事に、レオンクレイの品質は非常にムラがある事が今回明らかになった。これは60人以上が一斉に使用した事で判った事実だが、赤パッケージでも随分と硬い粘土が混ざっていて、ほとんど黄色パッケージの包み間違いでは無いかと思うものや、同一の塊の中で硬軟混ざり込んでいたりと、結構酷いものだった。匂いがなく良い粘土なだけに、品質の均一化というごく当たり前の部分は整えて欲しいものだ。しかし、油土のような市場規模が限られている商品がそう直ぐに改良されるとは考えづらく、今後大量に使用する際は、価格が高くなるが海外製品を選ばざるを得ないかもしれない。
 使い始めにヘラで油土の塊をスライスする事で指で練りやすくなるが、今回はヘラは予備校内からかき集めたので、鉄ベラやつげベラが混ざり、厚みのあるつげベラが回った学生はスライスするのに苦労していた。今後は薄い金属ベラもしくは100円ショップで売っている包丁の刃を殺したものを用意すべきと感じた。
 私の造形過程はカメラで撮影して映し出していたが、背景が一緒に映り込むと随分と見辛くなることが判った。背景が均一色となるようにシートや紙を用意するようにしたい。
 内容は、同時間ならばもっと効率化を図り、余裕をもって造形する時間を確保しなければならない。今回と同程度の造形密度は本来なら2日は欲しいところだった。


 反省点が色々と見えたが、従来の造形学習とは異なる内容に多くの若い学生が興味を示してくれたことは嬉しい。

2016年12月3日土曜日

『立体像で理解する美術解剖』出版

自著『立体像で理解する美術解剖』が11月26日(土)に出版されました。

 長文テキストはなく、ほとんど全てが造形プロセスの写真によって構成されています。読むというより見る造形参考書として作りました。立体である利点を活かすべく、イラストでは描かれないような視点アングルの写真カットを多くしました。内容は、人体全身の他に、肘から先の前腕と手、足首から先の足、肩から頭部を、単独で記載しました。これらの部位は細かな筋肉や腱が多いからです。また、小児と老人の頭部を比較のために記載しました。

 全国の主要書店の美術技法書棚に置かれています。また、アマゾンでもご覧いただけます。