2013年12月16日月曜日

美術解剖学

 術解剖学という名称は、一般的な認知が低いとは言え、ひとつのジャンルを示す名称として定着している。ただ、この名称はとても紛らわしいもので、(かなり前にもポストしたが)名称から推測する内容の誤解を招きかねない。すなわち、「〜学」と付いていることから1つの学問体系として捉えられるだろうけれども、実際的には美術解剖の学など存在しないということだ。そもそも、仮にあるとして、”美術解剖”とは何だ!?
 美術解剖学という単語は、実のところ、「美術」と「解剖学」の合成語で、そもそもは西洋語からの訳語である。それは、Art Anatomyや、Artistic Anatomyなどという言葉だ。原語を見れば明らかなように、元は1つの単語ではない。言語のニュアンスに忠実にするならば、「美術のための解剖学」というようになる。事実、日本に輸入された当初は「芸用解剖学」と呼んだ時期もあった。
 美術のための解剖学となると、とたんに何をしているのか分かりやすくなる。解剖学と言えば人体の内側を調べる学問であって、それが美術のために使われるというのだから、つまり、人体造形に解剖学の知識を役立てようということである。 
 ところが、「美術解剖学」という呼称がとりあえず定着すると、ちょっと面白い現象が起きた。これを字面通り素直に「美術解剖の学」として捉える向きが出てきたのだ。普通、物事は事実が発生したのちにその名称が付くが、これはその逆ということになる。それも、ほとんど意味のはき違えからスタートしたようなものだが、ともかくそうなった。そうなると、では「美術解剖」とは何ぞや、ということになる。するとそれは、「美術を解剖する」という意味合いに捉えられる。この「〜を解剖する」という言い回しは良くされるものだが、それに乗ったかたちだ。これを言い直せば、「美術を分析する」ということに過ぎないのだが、ここはあえて解剖という呼称を使うのだから、分析内容を解剖学的な視点にしたり認知科学的な方向性にしたりするようになる。こうして、本来の「美術+解剖学」に新たに「美術解剖+学」が加えられたのが、現代の美術解剖学である。

 て、本来の「美術+解剖学」もまた、現在では本義と少々ずれた印象が一人歩きしているように感じられる。それはすなわち、「美術解剖学をやれば人体が描けるようになる」というものだ。これは恐らく、書店の実技書コーナーに置かれている人物画ハウツー物の宣伝文句が功を奏した結果なのだろう。勿論、そのような”奇跡”は実際には起こらない。美術解剖学の効能を正しく言うなら、「解剖学的な視点を持って人体を見ることが出来るようになれば、現実的説得力のある人体描写が可能になる」とでも言うようなもので、あくまでも描写力は別のトレーニングを必要とするのである。つまり、美術解剖学は人体描写力向上のための添加剤(ただし強力である)に過ぎない。例えば、解剖学を知って描写力が上がるのなら解剖学者こそが最上の人体画家となるわけだが、当然ながら違う。
 では、解剖学的な視点とは何か。これは、骨や筋の形状や名称を正しく知って描けるようになることを指しているのではない。いや、最終的な目標が設定されるのなら、それがそうなのかも知れないが、現実的に美術解剖学を必要とするほとんど全ての造形家にとってそれは重要ではない。美術解剖学が示すべき内容は、解剖学を基礎として美術のために咀嚼されたエッセンスのようなものであろう。それらは、単に解剖学の内容を薄めたものではなく、造形家の欲するであろう内容へと方向付けされていなければならない。そうでなければ「美術”のための”解剖学」とは呼べない。しかし一方で、この内容を満たすことも簡単ではない。なぜなら、美術という単語が指し示すフィールドはとてつもなく広範囲に及ぶからである。もしも、その全てに応用できるような内容にしようとするなら、それは最大公約数的になり、結局のところ「内容を薄めた解剖学書」となるだろう。美術と一言で言っても、例えば絵画と彫刻において、人体の捉え方で求められる要素は大きく違う。だから、本来ならば「絵画のための解剖学」や「彫刻のための解剖学」といった細分化はあって然るべきだろう。

 剖学とは、それ自身が純粋な形態学である。解剖学を学ぶことと、美術解剖学を学ぶことはだから少々意味合いが違う。美術解剖学それ自体が解剖学からの応用であるから、「美術解剖学を学ぶ」ということは本来出来ないことである。いや、そう言っても構わないのだろうが、その実は「学ぶ」ではなく「知る」に過ぎないことは留意すべきだろう。だからといって、それが解剖学より下位であるというのではない。解剖学を基礎とした美術解剖学は、人体部位の個々の名称や正確な形態というのではなく、「構造視」という新たな視点を与えるものだ。そして、これこそが美術解剖学が造形家にもたらす有用な要素であることを強調したい。人体内部の解剖学的構造の名称や形態への言及は、つまるところ、この構造視を得るための要素に過ぎない。造形家にとって大事なのは、例えば肩やわきの形の理由が理解できることであって、骨や筋の名称ではないのだから。
 また勘違いしてほしくないのは、本来これは”制作者のため”のリファレンスであり、”鑑賞者のため”の雑学ではないということだ。もし、雑学めいた内容があれば、それは本来の意義から漏れた副次的な産物に過ぎない。

 術解剖学は、人体という複雑極まりない立体物をどう見るか、という要求に、解剖学すなわち形態学的な手法を用いて応える、「対象の見方の方法論」なのである。

2013年12月8日日曜日

《告知》男性ヌード編が終わり、次回は女性ヌード編が始まります

 「人体描写のスキルアップ・男性モデル編」が終了しました。モデルさんのスタイルもポージングのセンスも良かったので、私自身も楽しく解説ができました。あのモデルさんをモチーフに彫刻を作ったら良いのができるだろうな。マッチョであるとか皮下脂肪が無ければよいとかではなく、自然であることが大事ですね。ぱっと見たときに自然な健康体として映る体格が美しいのです。舞踏をされているとの事で、あの肢体が動くのはまた見応えあるでしょう。どうせならばヌードが良いな。そうならば、クロッキー帖片手に鑑賞したいな。
 ヌードを見ていると、身体の美しさに男女の差はないことを実感します。むしろ、構造美を楽しむなら男性のほうが良いとも言えます。古代ギリシアから多くの男性ヌード彫刻が作られたのも、その美しさが認められていたことの証でもあるのでしょう。

 て、私の講座は3回セットです。残念ながらこの限られた時間内では、膨大な人体構造に関する情報を伝えきることはできません。ですので、モデル・セッション中に、注意を向けて欲しい部位を私が説明し続けるというかたちを取っています。
 講座を連続的に受講されている方も複数いらっしゃいます。その描写が平面的なものから構造的で説得力のあるものに変化しているのを拝見して、美術解剖学が持つ「構造視」の効果を実感しました。

 人体の形はすべて意味があります。それを造形的視点から組み上げていったものを美術解剖学と呼んでいます。それは医学解剖学の知識を得ることで非常に詳細に語ることができるようになっています。構造を読み取りながら造形する作業は、それまでの「いきおい」や「感覚」でのそれではなく、詳細な観察と論理的な組み立てを要求しますが、その結果としてとても説得力のある実在感を作品に与えてくれるのです。

 年、2014年の1月18日(土)から、再び新しいタームが始まります。次回のモデルは女性です。ヌードと言えば女性のイメージがありますが、形を捉えるという視点で言うならば実は男性より難易度が高いのです。それは少ない筋量と多めの皮下脂肪によるものです。しかし、脂肪によってなだらかにされた体表にも、しっかりとその深層の構造が大きな形として影響を与えています。体表に現れる目印(ランドマーク)や共通する起伏などを知ることで、深層構造を捉えることができるようになります。

 人体描写が得意という方はとても少ないはずです。その難易度、ハードルの高さが”解剖学の応用”という手段を生んだのです。人体を表現している多くの西洋古典の巨匠たちもそうしてきました。ならば、現代の私たちも使わない手はないのに、そう思いませんか。

 本講座は終了しました

2013年11月27日水曜日

身ぐるみを剥ぐ


京の雑踏には様々に着飾った人々が往来している。彼らは、そして私も、コスチュームによって対外的自己を規定しようとしている。

そんな人々から、想像で衣服を取り除いてしまう。するとどうか。さっきまでとは全く違う基準を持って人々が分けられる。年齢、体格。

そこでは、社会的身分という文化的要素が消え去り、基準が動物的になる。ここで最も美しさを放つのは若者である。

さらに、彼らから皮膚をも取り去ってしまう。そこには血管や臓器や筋肉がせわしなく動いている。こうなると、もはや個も見えなくなる。同じ器官の集合体が往来している。せいぜい男女の区別が付くくらいだ。

何という光景だろう。右も左も後ろも前も、みんな同じ構造をしている。同じ構造が、皮膚で個を分け、服で身分を分けている。


そんな風に、ときおり密かに人々から身ぐるみを剥いでいる。

2013年10月16日水曜日

『ファブリカ』の解剖図の芸術性



 今から470年前、バーゼルで大きな書籍が出版された。その書籍は出版直後から激しい議論を巻き起こしたが、歴史がそれを受け入れ、それ以前と以後とでは多くの事柄が変化し、その恩恵を現代の私たちも受け続けている。その書籍『ファブリカ』は、古代ローマから続いた誤りを含む医学権威への盲信から医学者の目を覚まさせ、近代医学・科学の礎となった解剖学書だ。同書が出版されたとき、著者である大学教授のヴェサリウスはまだ28歳だった。
 『ファブリカ』が書籍として果たした別の革命として、本文と図譜の有機的な結合がある。そこに記された図譜は、雰囲気をもり立てるだけの挿絵ではなく、全てが本文の内容とリンクすることで意味を成す”視覚的伝達手段”として置かれた。言語だけでは語り尽くせない解剖構造を、それらの図譜が補っている。
 
 『ファブリカ』は全てラテン語で書かれているうえに専門的な内容なので、誰もが本文に目を通してその素晴らしさを理解したわけではない。それでも同書が時代と国を超えて伝えられるのには、一見して素晴らしさが伝わる解剖図に依るところが大きい。事実、そこに表された「生きた人体としての解剖図」というかたちは、その後の長きに渡り解剖図の「型」ともなった。そのような図像学的にも語れることは多いだろうが、よりシンプルに見てもその解剖された人物像たちは芸術的に非常に優れている。

 第1巻には骨格人図が3葉、第2巻には筋肉人図が14葉収められている。様々な形で引用される図なので、見覚えのあるひともいるだろう。これらの図を解剖図として見ると、現代の医学書に用いられる図との大きな違いから、違和感を感じさせる。骨や筋を露出させた状態でありながら生きているという描写は、非現実的で不気味さも漂う。
 しかし、骨格人や筋肉人たちが取っている姿勢を良く見てみると、決して不気味さを与えることが目的ではないことが分かる。彼らは基本的に片足重心で立ち、それに伴う重心の移動を全身で調節している。それが全身をつらぬく曲線を生み出し、腕と手の位置と顔の表情とで心情の表現をも感じさせている。このような姿勢は、この時代の芸術では頻繁に用いられるもので、この解剖図を描いた作家が専門のトレーニングを受けていたことを表している。さらに、14葉では姿勢にバリエーションがあるが、そのどれもが姿勢に調和を保っている。

 筋肉人たちは、徐々に筋を剥がされていくので、背中を見せているある図では尻の筋が丸ごと剥ぎ取られ、脚の付け根の関節がほとんど露出している。そのような体表の輪郭が失われるほど解剖が進んだ状態であっても、周囲の構造描写が崩れていないため、人物像としての安定を保ち続けている。
 これらの骨格人図、筋肉人図が描かれるのにどれだけの忍耐と労力が必要だったろうかと思わずにはいられない。裸体の人物像を描写するだけでも、相応のトレーニングが必要である。その外見、輪郭を保ちつつ、内部構造を正確に描いているのだ。解剖図は構造の形状と位置関係にシビアである。”何となく”や”雰囲気”では描けない。ここの構造については全て著者ヴェサリウスの指示の下に進められた。しかし、これらの図を描いた画家が解剖構造について無知であったとして、ヴェサリウスの指示を正しくくみ取ることが出来ただろうか。『ファブリカ』が世に出るより半世紀以上前から、一流の芸術家達は表現のために人体解剖を行っていた。恐らく、この解剖図を描いた画家も既に解剖構造をある程度知っていたと思われる。では画家は誰であったのか。それは分かっていない。同時代の芸術家についての著名な伝記であるヴァザーリの『芸術家列伝』においてティツィアーノの項目でヴェサリウスの図を描いた画家としてカルカールの名が出るが、これは『ファブリカ』の5年前に彼が出版した別の解剖図のことである。
 『ファブリカ』の骨格人図と筋肉人図は明確な輪郭線と強い陰影描写によって、手で掴めるような実在感をもたらしている。全身の当たる光線の方向も意識的に捉えられ、それは足元に落ちる影まで統一されたものだ。筋のひとつひとつも、現代の解剖図のように筋線維の走行線を描くというより、筋のもつ”かたまり”の量を描写することを優先している。このような、立体感と遠近感を重視したのはルネサンス芸術が最も花開いたフィレンツェで活躍した芸術家たちが好んだ技法である。私はこれらの図を見るにつけ、彫刻を学んだ芸術家による作画ではないかと感じてしまう。たとえば、偉大な彫刻家ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂天井画を思い出させる。
 筋肉人図を分析し、内部の骨格を抽出してみると、一見正確に見える構造描写も曖昧な点が多いことが分かった。立体である人体を平面上に再現する際に、意図的に歪ませたと思われる部位もある。このような、「気付かれない歪み」はミケランジェロの人物画にも見られるもので、視点が固定される平面図だから出来る技法とも言えるだろう。

 『ファブリカ』の発刊は、当時の医学界に大きな衝撃を与えた。しかし、その衝撃力は文章を読まずとも一目のうちに伝わるこれらの解剖図に依るところも大きい。解剖学の知識が治療に直接結びつくにはまだ時間が必要だった。純粋科学としての色が強かった解剖学の知識-つまり、皮膚の内側の形の知識-を誰よりも必要としていたのは、人体の形を造形する芸術家たちだった。先にも書いたように、彼らは既に自らで人体解剖をしていた。しかし、人間を解剖するという行為はあらゆる意味で気軽ではない。むしろ、しなくてもいいのならしたくはない類の行為である。そういった芸術家からの要求にも『ファブリカ』は応えるものだった。事実、筋肉人図の第1図は芸術家のために用意されたのである。芸術家を想定読者に据えた解剖学書は同書が初ではないものの、「実用に叶うレベル」を付け加えるなら、『ファブリカ』が初の美術解剖学書であるとも言える。

 『ファブリカ』の発刊後まもなく多くの海賊版や複製図が生み出された。その後、数世紀にわたって、同様の筋肉人たちが解剖書に登場するが、同書の筋肉人たちほど優れた描写のものはひとつも存在しない。
 16世紀のイタリアにおいてこのような奇跡的な大著が生まれたのには、様々な理由が重なっているが、このような事象が多く起きたのがルネサンスと呼ばれる時代だった。
 ヴェサリウスが『ファブリカ』で成した医学的、科学的視点は偉大である。それと同時に、「視覚伝達・非言語的伝達」の重要性を理解し、高いスキルの芸術家を画家として採用することで画と図を非常に高いレベルで融合させることに成功させたこともまた評価され続けるべき事実である。

2013年10月15日火曜日

美しいもの


美は外にあるのではない。それを感じるあなたの内にある。美を感じるとき、あなたはそれを手にしている。

けれども、それを保持することはできない。流れ落ちる水に手を差し伸べているようだ。だから、いつもそれを欲するようになる。

内にある、美の感受性を呼び起こしてくれるもの。それをひとは美しいものと呼ぶ。

美しいものはいろいろあるが、ひとにとって、最も美しいものは何か、お分かりでしょう。

2013年10月11日金曜日

(告知)秋の特別講座 美術解剖学 上肢(腕)徹底攻略ゼミ 開催


 10月20日(日)に新宿美術学院にて、美大受験生を対象とした特別講座を開催します。

 講座は上肢に的を絞った内容となります。上肢と手の構造的な理解を深めることで、その表現にもより説得力を与えることが可能です。

 肢とは、つまりは腕と手のことです。それを上肢と呼ぶのには訳があります。腕といえば、「胴体の肩から先で棒状に飛び出て尖端は手の指で終わる身体部位」と言い表せますが、上肢はそれだけではないのです。上肢は腕の付け根の肩から首周り、さらには上半身の表面のほとんどの領域まで含まれます。これはつまり、それらが全て腕の運動と関係を持ち、その姿勢と共に形状が変化しうることを意味しています。すなわち、胴と腕の関係性は、肩で部品が連結された人形とは全く異なるものなのです。人体観察と表現において、この上肢領域の正しい把握はとても大事です。
 また、肘から手までの間には、人体ではここにしかない特殊な捻れ運動があり、それが私たちの手の多用な運動を生み出しています。そして手首の先には平たい手のひらがあり、そこから末端へ細い5本の骨っぽい棒-つまり指-が生えているわけです。しかし、手のひらの中には実は指がもう一関節分埋もれています。その埋もれた指と関節の動きによって、手はより複雑な”姿勢”を取ることができるのです。
 これまで慣れ親しんだ「手」、「指」という概念的見方はひとまず脇に置きましょう。構造から見なおし、新鮮な目で自らの手を再発見しましょう。

 らに手は、顔と並んで意思伝達と感情表現の重要な部位でもあります。私たちは、手と指のありよう-ジェスチャー-から、様々な心情を読み取ることができます。当然それは、視覚芸術においても重要な要素であり、事実多くの芸術作品の登場人物が手でストーリーを語りかけているのです。

 講座で、上肢と手の形状を捉える目を養います。それはきっとあなたの表現力を押し上げる推進力になるでしょう。

当講座は終了しました。

2013年9月28日土曜日

言葉の無能


人間は言葉を持った。けれどそれは心の全てを描写しない。言葉が巧みになればなるほど感情の真実から遠ざかる。

さえずりで語りあう鳥たちをみよ。だから我々も歌うことで言葉の無能を補っているのだ。

2013年9月7日土曜日

告知 「人体描写のスキルアップ - 美術解剖学入門」 ”男性版” 開催

 義と実技演習によって解剖学を根拠とした構造的な人体の捉え方を学ぶ本講座も、お陰様で秋冬も開講することになりました。

 ードクロッキーは初回の女性モデルから変わって、今回は男性モデルとなります。「ヌード」と聞くと女性を思い浮かべるものですが、構造を観察するという目的においては皮下脂肪が少なく筋量の多い男性がより適しています。

 女性も男性も骨格と筋肉は全く同じです。性差はプロポーションの違いが生み出しています。女性を描き慣れている方も、男性ヌードを観察することで、互いの形状の差違が改めて浮き上がって見えてくるでしょう。

 空気も涼しくなり、制作意欲も高まる秋。講義とクロッキーを通して、人体という自然物を根拠だって見ることのできる目を養いましょう。

 当講座は終了しました。

2013年8月28日水曜日

《10月5日講座告知》美術解剖学から見た ミケランジェロの人体表現


生前より「神のごとき」と言われたイタリア・ルネサンスの天才芸術家ミケランジェロ。その展覧会がこの秋、東京上野の国立西洋美術館にて開催されます。
 ミケランジェロと言えば、肉体表現。彫刻はもちろんのこと、絵画作品でさえ手で触れられるのではないかと錯覚するほどの実在感を持っています。それは、彼があくまでも「彫刻家の目」で対象を観察していたことを示しています。そして、その実在性を確保するために最も重要な要素のひとつが、表現された人体の解剖学的正確性です。 ミケランジェロが活躍した時代は、芸術とともに解剖学もまた急速に発展しました。そして、ミケランジェロなどの芸術家たちは、その先端的領域をいち早く人体表現へと取り入れたのです。それは、彼らが目指す古代ローマやギリシアへの到達し得ない憧れへの代替手段を越えて、それまでにない新たな領域へと芸術を引き上げることになります。
 人体をその内部構造から理解し、再構築していったミケランジェロ。彼の作品をより深く理解し、楽しむには、そこに表現された解剖学的構造を読み取ることも不可欠です。しかし、これまでミケランジェロの人体表現を解剖学的な視点で鑑賞するという指摘はほとんどされていません。



 今回、展覧会が開催されることを機に、ミケランジェロが人体に何を見たのか、どのような解剖学的理解をしていたのかをその作品群から紐解きます。

当講座は終了しました。

2013年7月21日日曜日

アントニオ・ロペス追記


 日(2013年7月21日)のNHKの日曜美術館はガルシアの特集だった。ところで、ガルシアではなくてロペスと呼ばれていた。展覧会が巡回して長崎の美術館へ行ってから取り上げるのは、Bunkamuraが私立だからなのだろうか。
 ロペス本人も長崎へ初来日して番組にも出ていた。不謹慎ながら、彼の年齢を考えると貴重な回ではなかろうか。番組は絵画作品を中心に、それらの多くが完成までに非常に長い時間(時に20年以上)が掛けられていることを強調していた。それは興味深い事実ではあるが、同時に作品の質として最重要な事柄でもない。

 ペスは、作品の現場に自分が立ち、その場の光線を肉眼で見て感じることを重要視していた。だから、夏場の朝の光線が重要ならばその季節の数十分だけが制作時間となり、結果、完成までに長い時間を要する。また、写真”のみ”を使用してアトリエで制作することには異を唱えてもいた。しかし、彼の言い方は「写真だけで」制作することへの異議であって、制作過程において写真を使用すること自体を否定する言い方ではなかった。
 これはロペスの風景画や写実的肖像画を見て思ったことだが、彼はキャンバスに下絵を描く段階において、写真を使用しているのではないだろうか。’72年に鉛筆で描かれた『マリアの肖像』などは、モノクロ写真かとだれもが始め思うはずだ。あの対象の写し取り方には、人間の視覚の主観というものを感じない。写真機によって予め平面化されたものを描き写したようにしか見えない。マドリードを描いた巨大な風景画にも同様の印象を受ける。あの広角の視点は人間の生の視覚によるものとは思えない。それにテレビでも紹介されていた消防署の屋上から描かれた巨大な風景画には、右手前に紅い金属ポールが”レンズの収差で”湾曲して描かれている。
 ロペスは、冷徹な正確さを作品に求めている。そして、「光線と色彩が重要」とも言っていた。思うに彼は、構図と下絵に関しては写真を元にして描き、そこに乗せていく色彩は、現地で見て描いていくというプロセスを取っているのではないだろうか。

 後、どのような制作をしていくのかという問に対して、今後は人体彫刻を制作していくと明言していた。女性、男性、子供の像を造っていきたいと。
 今までの制作人生を振り返って、若い頃は主観的な表現こそが重要と周りの作家も自分も信じていたと”反省するかのように”語っていたのが印象的だ。そこにある(存在)ものを、それが反射し放つ光線を、ただ感じ取りその瞬間を定着させようとする冷静な態度。私がどう感じたのかを表すのではなく、私を感じさせた対象をこそ再現しようとする表現。それが彼の言う写実表現だ。そこにはだから、昨今の主観主張作品に色濃く漂う「押しつけがましい感情」がない。鑑賞者もまた、彼の作品の前では冷静さを取り戻す。

 然物がそこに存在する。人もまたしかり。太陽光も無感情に降り注ぎ、それら対象物に反射して色彩を作り出す。物語はそれを見る私たちの内面に生まれるのだ。ロペスの作品は、自然物という対象と感情が生まれる私たちの主観との狭間の世界を具現化し、提示している。
 ントニオ・ロペス展を観て

2013年7月15日月曜日

ヌードと人体解剖


 日、夜の大都会某所で、表現のための人体構造を学んだ学生たちを対象にヌード・モデルを用いたセッションが行われた。広い空間をパーティションで2つに区切り、それぞれに男性モデルと女性モデルを入れるという贅沢なものだ。同時に同じポーズをしてもらい、学生は男女モデル間を自由に行き来することができる。途中、男性モデルには上腕運動時の上肢帯(肩甲骨と鎖骨)の連動的運動を実演してもらい、女性モデルには乳房の可動範囲を示してもらった。
 モデルの体型や今回のセッションの内容については事前にエージェントへ伝わっているものの、どのような方が来るのかは当日まで分からない(海外では、モデルのプロフィールや写真などの情報開示をしているところもある)。今回のお二人は若いうえに、ポージングにも慣れていてリクエストにも好意的に対応してくれたことで非常に良いセッションとなった。

 初のポージング始めにモデルが臆せず下着を脱いでポーズを取ると、初めての学生達はモデルの正面に陣取って、皆が背中が壁に着かんばかりに後ろへ下がっていたのが微笑ましく印象的だった。ただ、そんなのははじめだけで、皆すぐに観察と描写に夢中になりどんどんモデルに近づいていく。
 学生たちのほぼ全員がヌード・モデルを描くのは人生で初だったのではないかと思う。そんな彼らを見て、”人間が人間を見る、それもまじまじと”という行為の奇妙さと求心力の強さを感じた。全く我々は奇妙は動物だ。
 目の前のモデルが持つ肉体と、ほとんど同じ物を皆が持っている。そんな、言わば究極の身近でありながら、それを冷静に客観的に見るという行為は一般的生活を送る人々はほとんど体験することがない。だから、ヌード・モデル・セッションはその意味において非日常性の高い奇妙な体験である。
イメージ

 ともと志の高い学生達だが、この日の皆の集中力は特別だった。休憩時間になってもペンが止まらない者、画力の理想と現実の差にため息を突く者、男女モデルを同時に観察したいのでどうにかならないかと聞きに来る者、とにかく時間が足りないと嘆く者・・。こんな積極性を見せるのは初めてで、どれもこれも、本物を目の前にして、それを捕らえてやりたいという欲求が強烈に引き出された故だろう。
 私としては、彼らのクロッキーを見て、構造で対象を捉えたうえで表現(描写)へ反映させるということの難しさを改めて感じた。講義では、人体を構造の複合体として捉えられることが表現を輪郭線という平面性の呪縛から解き放つ強力かつほとんど唯一の手段であることを具体的に示してきた。ところが、いざ目の前に”総天然物”である裸体が立ちはだかると、そんな座学の知識はほとんど力を持たず、輪郭線で対象を追うことで精一杯という描写がほとんどだった。また、顔が整った女性モデルだったので、ある学生はその描写に捕らわれた結果小さな体が巨大な顔の下にぶら下がったような描写になっていた。
 これらを、残念な気持ちで見ていたのではない。ヌード・セッションが学生達から”ぎりぎりの本気”を引き出した、その”場のちから”に驚いていたのだ。ポーズは静止しなければならないので、20分ごとに休憩が入る。今回は毎ポージングごとに違う姿勢だったので、学生達はたった20分の間に目の前の描きたい部位を出来るだけ紙の上へ収めなければならないというタイム・プレッシャーが掛かっていた。これも、彼らの本気を引きずり出す主要因のひとつであった。とは言え、何と言っても強力な要因は”目の前の裸体”であることは疑いがない。捕らえどころのない人体を目の前にして時間内に何とか画帳へ留めようとペンを走らせるとなると、身になっていない知識など吹き飛んでひたすらに”今まで通りの”輪郭線で追うしか出来ない・・。そんな切羽詰まった様子が見て取れた。
 構造視と実物観察。この往復作業を数回繰り返すことで、もっと実質的な描写力へと繋げていけると感じる。今は第一歩を踏み出したというところか。

 回は指導側ゆえに、モデルと観察者とが作り出すこの空間を客観的に感じられた。この空間には、画力向上という本来の目的以外に、何某か心に訴えかけるものがある。それは有機的な感覚と繋がっている。観察という冷静さが、有機的な暖かいものと繋がるという経験で近いものを思い浮かべていた。それは、人体解剖だ。実習室に並んだご遺体との対面と、実習を通しての内部構造の観察。腰が引けているのは最初だけ。剖出が始まれば、直ぐに作業に夢中になっている。そうして、その間冷房の効いた実習室では冷静な観察と理解が求められるが、それらの知識は皆、”人が人を治し助ける”という有機的暖かさと繋がっている。それだけではない、生前は決して見せることのない自分の内側(内部器官)という究極のプライベートの開示と観察とがこの空間では許されている。見せる側の生命はもはや無くとも”見ても良い”という遺志がそこには明確に強くある。要求と許諾。求め許すという行為がそこには流れているのだ。
 ード・モデル・セッションもそこが似ている。他人に裸を見せるというのは相当にプライベートに入り込んだ行為だ。そこには「こっちは賃金を払っているのだから」というような無機質さだけでは成り立たない類の、感情のやりとりがある。それは金銭を超えた要求と許諾である。そういった暗黙の取り引きはあの空間にいることで”感覚的に”くみ取ることができる。だから皆、真剣になるのだろう。
 解剖実習は「死」のイメージを払拭できないが、ヌード・モデル・セッションにはそれがないどころか、「生」の瑞々しさや、なまなましささえ漂っているという決定的な違いがある。それに、解剖見学は厳しく限定されているが、ヌード・モデル・セッションは求めるなら基本的に誰でも参加できるものだ。

 ード・モデル・セッションの一義的な目的は「生きた人体の形状の観察」だが、その看板に書かれない独特な空気感を体験するだけでも参加する価値が十分にあるのではと、この日思っていた。

2013年7月6日土曜日

生命の美


 も崇高な美は、流れゆく美だ。それは瞬間ごとに生まれ消えゆく。その連続的な過程を私たちはただ眺め、そこに感動する。生命という流れ。昨日と今日、変わらないように見えるけれど、変容している。今の美は、今しかない。そうしている間にも流れゆく。

 がみな、自己存在という生命の美を宿している。もう一度確認しよう。私たちは天然に生まれた自然物だ。あなたがもし、誰かに美を見出すのなら、あなたもまたその美を自らに宿している。

 命の美の前にあっては芸術作品も時に標本のように味気なくなる。はかなさと美とは相関する。こんこんと湧き出る生命を留め置く手立てはない。だから、気付いたのなら後回しになどしてはいけない。

2013年7月5日金曜日

彫刻が要る


 造のまるで狂った像。手癖に任せて誤魔化した表面処理。表層的で意味のない凹凸。無理矢理載せた薄っぺらな心象物語。職人未満の技術頼り。たんなる素人だまし。

 んなものは、彫刻でも何でもない。無意味な物を100並べても無意味なままだ。たった一つの意味ある彫刻が要る。

2013年6月23日日曜日

芸術家と感情


 象が起こるには、原因がある。理由がある。だからといって、そればかりを探ると、本質を見失うこともある。そもそも、探したところで理由が見つけられないこともあるのだ。
 その最たるもののひとつに感情がある。私たちは日々、瞬間瞬間に様々な感情が湧き起こっている。時に印象的な出来事と対峙すると感情が大きく湧き起こり、時には制御不能にさえ陥るのだ。芸術という領域が取り扱うのも、本質的にはこの感情である。芸術を表す理由は時代や場所によって変化するが、それでも芸術と呼ばれるものが扱うのは須く感情であると言って差し支えないだろう。

 代以降、芸術表現は作家個人レベルでの感情表現へと細分化された。個々の作家たちが自らの感情を頼りに造形し、それを鑑賞者たちは見ることで何らかの感情を自らの内に湧き起こらせる。だから、芸術家はまず自らの感情に目を向けなければならない
 ここでまず、はっきりさせておかなければならないことは、感情は個人の意識の管理下にない、ということだ。映画の俳優たちが演技で泣き笑いすることと、日常生活での”リアルな”泣き笑いとは似て非なる物である。リアルのそれは、意識とは関係なく外部や内部の状況刺激によって湧き起こる。それは意識でコントロールできる類ではない。誰も、笑いたくて笑うのではなく、泣きたくて涙を流すのではない。むしろ、それらの感情が引き起こされた後に気付くのである。しかし、現代において、これら感情をそのままに引き出すことは憚られる。それはきっと、感情のままに生きてきた”野性的過去”への反省が、文化的動物としての人類の脳に刻み込まれているのだ。私たち人類は個人レベルでの感情を意識によってコントロールすることで、集団の和を作り出せることを知ったのである。場をわきまえない感情の吐露は、忌み嫌われるばかりか、時には犯罪のレッテルも貼られかねない。このような、意識的世界に生まれ育った我々は、「冷静沈着で感情に流されない人間」こそが是であると信じる。感情的な人間にはその反対の価値が置かれる。確かに、ここまで高度(に見える)な”意識社会”においては、その理に従わない分子は調和を乱すやっかいな存在である。それは、高度にくみ上げられた腕時計のゼンマイ群の中に目計りで作ったギアを組み込むようなものだ。スムーズに時計を動かし続けるために、私たちは整然と磨かれた設計図通りのギアとならなければならない。ただ、残念ながら(否、幸いにも)我々は意識無き機械ではない。二本足で立ち上がり、体毛を無くした姿は異様ではあるものの、その造りはあくまでも”けもの”である。外見がそうであれば、内面もまたしかり。私たちは感情無き意識というもので動いているのではない。私たちの意識の原動力は、その根底にある感情に他ならない。冷たく冷えた大地としての意識は、煮えたぎり流動する感情のマグマの上に薄皮一枚で引っ付いているのに過ぎないのだ。

 情を押し殺して生きる彼らはその反動として、常に感情を解放する場を欲している。それを満たすものが、映画やドラマなど芸能であり、別の形としてあるのが宗教であり、またその派生としてあるのが芸術であろう。その意味からも、芸術を生み出す人々、すなわち芸術家は自らの内の感情に目を凝らし耳を澄まさなければならない。芸術家は、彼ら以外の社会人と同様に感情を押し殺して冷静を振る舞って生きてはいけない。そうやっているうちに、感情を無視する生き方が染みつき(それは社会人としては成功と言えるかもしれないが)、何でも冷静を是とすることで多くの感動を忘れてしまうことになる。やがては、一般の人と同じように、用意された感動物語でしか感動できないようになってしまうのだ。彼らの作るものは”意識的であること”を是とするために、往々にして理性的かつ分析的である。自らの内に湧き起こる”意味不明の”感情の根源を分析し、その根源と理由を探り、そこに感情の”種”を見つけたとでも言わんばかりに標本的構造物を提示する。確かにそこには見る者に何らかの感情を引き起こす物体があるかもしれないが、その精神と構造を断片化された物体に、初発的感動と同質の感情を引き起こすことが果たして可能だろうか。

 たちが取り扱う感動という感情は、ひとつひとつが取り出すことが出来るような外形を持って存在しているのではない。喩えるならば、感情は無数の情動的要素の複合したもので、それがある実感を持って意識上に投影されるのだろう。命を探そうと生体を解剖してもそれを見つけることができないのとそれは同じ事だ。

 術は、私たちの感情に直接的にアプローチしようとするメディアである。だからこそ、そこには標本化された無感情的構造物よりも人間的で(時には動物的で)情動的な感情に訴えかけてくる要素が要る。それは時には激しい色彩であるかもしれないし、大きく崩れた人体造形かもしれない。いずれにしても、それらは非論理的な顔をしている。対象の構造的再現だけでは、それも時に賞賛に値するが、そこに情動的文脈が乗らない限り、単なる「美しい構造体」ということになる。言わば、展示されたF1カーを眺めることとF1レースを観戦することの違いがそこにある。私たちはレースを提供しなければならない。車体はレースの感動を最大限にするために最重要であるが、あくまで要素である。

 ちなみに美術解剖学は、このレースにおけるF1カーに相当する人体構造の見方を提供する。美術解剖学そのものは芸術ではない。あくまでも、効率的認識と描写造形を助けるリファレンスである。芸術において、人体のかたちが作れることは前条件であって目的ではない。それが当たり前に出来たうえで情動的文脈がそこに加えられ、芸術が作り上げられるのである。

2013年6月9日日曜日

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」を観て



 ャラリー入り口は、住宅街にある個人宅の小さな玄関で、知らなければ開けることを躊躇する。開けると真っ白い一つの空間。
 ひとに対する出会いと同じで、作品が鑑賞者にとって好みかどうかは、第一印象で決まってしまう。藤原氏の作品は、人物がモチーフであるが、その表情が特徴的だ。しかし不思議なことに、レリーフ作品と立体作品とで表情の系列が違う。私にとって、より妖しく魅力的であるのはレリーフの人物の表情である。

 くて白い一枚壁の上方に裸の人物が二人ななめに向かい合ってしゃがみ込み、口に手を当ててささやき合っている。目では周囲に注意を向けている。聞かれたくないここだけの話しを交わしているのだ。彼ら(彼女ら?)の足下からは長い影が伸びている。それは地面に近い足から頭部へかけて広がっていき、影の頭頂部は壁の下方に位置することになる。
 この作品を正面から見上げると、レリーフと影表現の視覚的効果によって、奇妙な視覚の不安定感を味わうことが出来る。要するに、壁にもう一つの視覚的空間が作り上げられ、見ている私の脳が迷うのだ。実際空間の視覚でいくか、それとも、仮想空間の視覚で行くかと。この幻覚をより強く作り上げるのに人物の足下から長く伸びる影が大きな影響を与えているのは、手でそれを視界が外してみればよく分かるだろう。

 リーフというのは、絵画と彫刻の中間に位置していると言えるだろう。ほぼ平面であるため、立体的に見せるには絵画的なテクニック、すなわち遠近法が用いられる。しかしながら、色彩ではなく陰影でそれらを見せるためには、彫刻的な立体処理が必要になる。さらには、規定された視点から見て遠方へ向けて圧縮が掛かった立体物を視覚的に違和感なく変形処理するという、レリーフ特有の技法も必要となる。つまり、レリーフを成り立たせるには、絵画的視点の固定と彫刻的立体感覚、そしてレリーフ特有の変形技法が必要ということで、3者のなかではもっとも造形上の縛りが多いと言える。在廊していた藤原氏の話しを聞いていると、レリーフが課してくるこの難題を楽しみながら克服しているようだった。
 それにしても、人物だけではなくその影までもレリーフとして表現するという感覚に驚かされる。しかもそれは単なる一枚板(氏の作品は全て陶)ではなく数枚の複合体で、その合わせ目も人物像とリンクするように、もしくは影に内包される人体像に合うように作られている。言わずもがな、影は量がゼロである。それを、量を取り扱う彫刻において表している。それがレリーフという半絵画において採用されたというのは、重要な点である。そしてさらに、その影に仕込まれた稜線や顔の表情なども、実体と虚像との関連性を示唆するものとして見える。目のある影にとっての実体とは何か? 

 原氏は、影を彫刻するという行為によって、彫刻とそれを取り囲む空間性に対して挑戦を繰り出しているように見える。彫刻は実空間に存在することから、その構造や素材に注意の多くが払われる。絵画と違って鑑賞の視点には自由さがあるために、どこから見ても良いとも言われる。しかし実のところ、彫刻に対する視点が宙をさまようようになったのは近代以降に過ぎない。さらには、どこから見てもよいと言いながらも作家たちは仮想的な理想的視点を定義してきたはずだ。藤原氏はレリーフ制作によって、厳密な視点の決定に意識的になったと話す。
 そして、作中に目立つ大きな影。影は作中の人物がいる空間を定義している。さらに、影に彼らの顔姿が映り込んでいることから、それは噂話が持つ陰湿さのメタファーを果たしているが、私にはこの大きな影がレリーフを含む壁面に広大な仮想空間を作り出すことに成功し、また、それは実体と切り離せない存在の証明でもあることを強く示しているように思えた。

 レリーフ作品がその物理的大きさに加えて、視覚的イリュージョンとしてさらに巨大に見えるため、床に置かれた、成人の股下までほどの大きさの、4体の人物像になかなか目が行かなかった。これらは皆、口を力なく開けその内に歯を覗かせている。氏の作る立像はいつも足が短く腕が長い。実際の人物とはかけ離れた比率だが、粘土として立つにはこのような下方重心にならざるを得ない部分もあるだろうし、そこに氏が込めた意味合いもあるだろう。印象として仏像を思わせもする。興味深いのは、手の位置は膝との位置関係を重要にしていると氏が話したことだ。そうであるため、膝の位置が下がれば必然的に手も下がりつられて腕が長くなる。彫刻は構造的視点が重要視され、実際それがおろそかになるほど作品として弱い印象となる。人体の構造を前提とした見方ではなく、“膝と手の位置関係”という局所的構造を考慮しているというのは興味深い。
 また、これらの人物像は皆、顔と手足以外は白い釉が掛けられている。それは髪と衣服を表すわけだが、藤原氏曰く「できあがりを見たら、猿を思い起こさせた」。つまり、同色でまとめたことで、髪と衣服が一体化し、あたかも白い体毛から顔と手足だけ皮膚をさらしている猿のようだという。これは、私たち人類が頭髪と衣服の扱いについての示唆を与えるものだ。人類も遠い昔は体毛に覆われ、衣服など着ていなかった。やがて衣服は体毛と入れ替わり、体毛が果たしていた役割(それも着脱可能、変形可能)を担うようになった。その意味において、衣服は身体の一部である。頭髪は着脱は出来ないものの、それ以外の意味合いは似通っている。現代人にとって、頭髪も衣服も単なる身体保護ではなく、その形態や色彩によって自分の社会に対する立ち位置を示す重要なデバイスでもある。しかし、その流動性の高さは同時に、偽りの可能性をはらみ、結果として虚無感をそこに加えるのだ。着飾ってなんになる、あの世には着ていけぬと。氏の4体の白さには、人類にとっての頭髪と衣服の体社会的ツールとしてあり方と身体の一部としてのあり方の境界を尋ねられているように見えた。

 者の藤原氏は、制作に至る過程や思考過程を細かく語ってくれる。それらを伺っていると、氏が常に手を動かすことで思考しているというのが分かる。正に彫刻家である。形によって思考し、それを表し、そこから次の思考へ”造形を通して”進んでいく。また、とても彫刻芸術に対して真摯な姿勢で臨まれ、後進への教育も常に考えている。

 私もかつては同じ学舎で造形を学んでいたわけで、今でも造りたいものを多く心中に抱えてもいる。理由を付けて実現させない自分の情けなさを、同世代の展示を拝見するたびに味わう。今まで宇宙に存在しなかった作品を次々と生み出す彼らをいつも尊敬している。

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」
gallery21yo-j 6月23日迄

アントニオ・ロペス展を観て(立体作品を中心に)


 日(2013年6月8日)、アントニオ・ロペス・ガルシア展を観に渋谷東急Bunkamuraへ。

 ルシアの作品は風呂場を描いたものがかつて美術教科書に載っていたように記憶しているが、そのころはいわゆる超写実画と納得しそれ以上の興味は抱かなかった。数年前に何かでレリーフ作品の写真を見た。ブロンズの薄肉で母親とおぼしき女性とその周辺風景が写実的に造形されている。それはごく平凡な風景を上手に再現されて、空間性も感じ取れる。それは普通の風景だが、その空間内にひとりの乳幼児が宙に浮いているのだ。母親は跪き乳幼児を仰ぎ見ている。この作品を見たときは、何か総毛立つような、この母親が目にした「いるはずのない乳幼児」を私も計らずして目撃してしまったような、アクシデンタルな感覚を覚えた。その作家もガルシアだったのだが、このレリーフ作家とかつての風呂場の画家が同一人物であることをその時は知らなかった。
 実的な風景に、非現実性を織り交ぜることは芸術に限らず”表現”の得意とすることだが、ガルシアのレリーフから感じられるものは、「ほら、ここが”異常点”ですよ」と主張してくる類のシュール・レアリズムやフィクション・ムービーとは違って、日常的現実性のなかに突如として紛れ込んでくる異常性なのだ。なので、かの母親が目撃した乳幼児は、単なる幻影や見間違えに過ぎないのかもしれないという不確定さをはらんでいる。そうであるのに、第三者である私(鑑賞者)も確かにそれを目撃してしまったことで作中の母親と経験の共有することになってしまった。
「誰も信じてくれないかもしれないけど、私は信じますよ。私にも確かに見えたんです。」

 ルシアの個展は日本では(そして東洋でも)今回が初だと言うから、これだけまとめて長期的な仕事を幅広く見た日本人もいままであまりいなかったのだろう。私も上で書いた以外に幾つかレリーフ作品をネットで見た程度だった。油画やデッサンなど平面が多いが、従来の絵画のように描ききったものばかりではなく、制作途中のように見えるものも多くある。作家がそこで良しとしたので完成なのだろう。芸術には”未完の効果”というものがあり、彼もそれを応用している。
 同展のポスターなどでは有名な景観図(グラン・ビア)やモノクロ写真のような肖像画(マリアの肖像)が選ばれていたが、私はレリーフや彫刻作品を楽しみにしていた。入場すると間もなく小さな丸彫り彫刻『見上げるマリア』があって、その愛らしさは勿論、造形手技にすっかり満足して、しばらく色んな角度から楽しんだ。一歳ほどの乳幼児が立ち上がり見上げている。視線の先は親に違いない。両手は少し前方へ向けられている。やっと立ち上がれた喜びと、どうしようも出来ない不安から親に抱きかかえられるための用意に入っているのが、力んだ四肢から感じ取れる。丸い頭部と線要素の四肢と胴体、そして立方体の土台が組み合うことで生まれる構成も心地よい。眺めているうちにこの子を抱え上げたい衝動に何度も駆られた。丸い頭もなでたかった。私からすると、空間中に確かに存在して立ち上がっているこの作品の存在感は強いものがあるのだが、多くの鑑賞者は壁の平面作品に多くの注意を裂いているように見えた。大人の注目を得られない幼児は寂しげであった。

 ぐ近くには、この子の母親である女性の金彩色の胸像(マリの胸像)があった。控えめだが憂えた表情に信仰性を見る。側面から見ると顔面部に対して後頭部の量が控えめだった。右耳のうしろの胸鎖乳突筋の緊張が下顎の量とつながって、耳から首への輪郭線を直線的にしていた。こういうラインは実物観察の証だろう。顔も決して無機質な左右対称ではなく、むしろ大胆に動勢が表現されていた。

 ローイングを盛んに褒め称える男性たちのささやきを耳にしながら、平面作品を見通していくと、ブロンズレリーフ(食品貯蔵庫)が掲げられていた。静物画を薄肉彫りにしたもの。シャープさ、空間性はあまり高くない。60年作なので初期のものか。
 その少し先に、レリーフ作品のハイライトとなるものが掲げられていた。『眠る女(夢)』は上記作の3年後のものだが薄肉木彫レリーフで彩色されている。会場のライティングも調節されているので、一見では平面絵画にも見える。しかし、それにしては陰がリアルで近づくと凹凸に気付くというわけだ。この視覚的幻惑感にすっかり感心した鑑賞者たちが足を止め、いったいこの立体的空間感は何かと視線をさまよわせていた。
 私は最近になって、レリーフという表現形態に再注目している。これは絵画と彫刻の狭間にあると言えるが、求められる技法はどちらとも微妙に違う。正確に言うなら絵画と彫刻の技法に加えて、レリーフ独自の技法も求められる。レリーフは決して新しい表現ではなく、むしろ丸彫りの彫刻より古いことは古代エジプトやオリエントを思い起こせば分かる。そして、これら古典も往時は彩色を施されていた。

 の展示室へ続くと、実物より大きめに見える全身裸体像の男女が立っていた。肌色のむらのある彩色。目には義眼。脇の壁に制作中の作家と作品の写真が掲げられていたが、その白黒写真では作品が塑像もしくは蝋に見えた。どちらも太いアングル(支え棒)が脇から差し込まれていた。塑像原型を木彫に写したのかもしれない。長い年月をかけ、複数のモデルを参考にした”普遍的人体像”であるという。しかしそれは古代ギリシアが求めたものとは違い、俗的な今を生きる中年男女だ。男性は片足重心で立ち、古代よりのフォーマットであるコントラポスト姿勢を思わせるが、その揺らぎが作る重心の波は骨盤部で立ち消える。そこには論理的に言える動勢の繋がりが消え、古代彫刻に理想を見出す者(つまり私)に不安を与えるのだが、実際の人体を観察するとそれらが曖昧であることも事実であり、こうすることで古典的理想化から現代的現実感への移行に成功しているとも言えるのだろう。

ころで、これら2体の彫像は壁に背を向けるかたちで設置されていたが、私はこれを残念に思う。背中を見ようにも脇からのぞき込むほか無く、そこにはライトも当てられないため形を追うことは出来なかった。しかし、そういった鑑賞上の不満は個人的な小さなものだ。本質的なのは”立像を壁際に置く”ことで、これらの作品は明確に「物」として扱われていたことだ。それらはもはやショー・ウィンドゥのマネキンであった。勿論、空間の制限等さまざまな理由からそこが選ばれたには違いないだろうが、作品は”非作品”ではない。彫刻はどこに置かれても同様の意味合いを放つほど”鈍い”表現媒体ではないのだ。絵画のように額縁の中で擬似的に作られた空間に守られていない彫刻作品は、それを取り巻く空間がどうであるかに非常にセンシティヴである。もし、これらの作品が空間の中央に立っていたなら、その存在感により多く鑑賞者が足を止め回りを巡って楽しんだことだろう。
 の壁に、この彫刻のためと思われる大きな全身デッサンが掛けられていた。それらは胴体を中心に描き込まれ四肢は曖昧である。同彫刻も脚の作り込みが胴体に比べて弱く見える。実際、脚の股関節から膝関節までの大腿部と、膝関節から足首までの下腿部は形態の視覚的は引っ掛かりが少なく、他の部位の比べて”退屈”である。そのため、古典では実際よりも筋の起伏を強調して陰影を出しているが、ガルシアは現代的現実感のためにそれがないのだろう。

じ展示室内に、ブロンズの等身男性が仰向けに寝た作品『横たわる男』がある。超写実だが、これは型からの起こしを感じさせる。つまり、実際の人体モデルに石膏などを振り掛けてその印象を取ったのではないだろうか。それをもとに多少手を加えたのだと思う。脇から下行する胸腹壁静脈や下腿の大伏在静脈など細かく再現されていた。

展示順で見ると最後に女性半身像(女の像《イヴ》)がある。肌色彩色木彫で原型は石膏とのこと。頭部には髪を多うキャップを被っている。それは競泳用キャップを思わせる。

 後の展示室の彫刻たちを見て、違和感を覚えた部位がある。それは目だ。男と女の立像には義眼がはめ込まれていたので視覚的な生命感があった。それは良い。仰向けの男性と女性半身像はどちらも目を開けている。ところが”生気”がない。正しく言うなら、生きた人間が目を開けている顔をしていない。仰向けの男性像は型起こしではないかと上に書いたが、そう強く思わせた理由の一つがこの目であった。それは女性半身像も同様である。生体から顔面部の型を起こすときは、当然ながら目を瞑った状態になるので、型から起こした閉眼状態の顔面に手を加えて”開眼させる”のである。この際、単純に上まぶたの中心に削り落としてアイラインを整形することで目を開けると、必ず違和感ある顔になる。まぶたを閉じるには、目の周りの皮膚内に埋もれている、目を同心円状の取り囲む眼輪筋を収縮させている。この筋の影響範囲は上まぶたを超えて広がっているので、目を閉じると周囲の皮膚を目頭(めがしら)よりに”思いの外”引き寄せる。これらの作品は、目を瞑った状態の周囲構造に開眼した目を付け加えたので、違和感を生じている可能性がある。思えば、半身女性像の競泳用キャップも頭部型取りにはよく用いられる。

 気の薄い目の表現はしかし、ガルシアの肖像画のいくつかでも感じた。それらは写真から起こされた絵であった。ガルシアの作品の多くを覆う、対象に対する遠い距離感は、観察と作品の間に写真や型取りといった客観的で無感情な媒体を挟み込むことで生まれているのではないだろうか。会場内やカタログには、ガルシアがモチーフの前で実際にカンバスを広げている写真がいくつも展示されており、それだけを見るなら作品たちは彼の肉眼観察のみから生み出されたように思わされる。しかし、実際の作品を見ると、そういったものと写真をもとに再構成したものとの2種類があるように感じられる。
 90年代に描かれた植物画は、白いカンバスの四隅などにメモリや数値、画面分割線などが描き込まれている。それは多少作為も感じさせるが、彼の作画に対するスタンスを表してもいる。ガルシアに共通するのは写実であり、写実は技法において主観の除去を含む。彫刻の制作過程において、生体からの型取りが行われていたとしても、それは彼の信念に沿ったもので、なんら違和感を生じさせるものではない。

 体作品ばかりを見てきたが、平面作品では『室内の人物』に”やられた”。これは心理的不安や恐怖を与える作品だ。室内の左隅は光が当たらず暗い。右のドアは開いており3人が立っている。女性は明らかに不安や悲しみのような感情を表している。彼らは外からやってきてドアを開け廊下から室内を見ているのだ。ドアの隣に鏡が掛けられ、画面手前、つまり私たち鑑賞者側の空間が写し込まれている。それを見ると手前の壁には女性物の衣服が掛けられている。廊下から不安げに見る女性の視線の先はこの衣装に向けられている。この鏡のすぐ手前の暗がりに若い女性がいる。胸までしか無く、視線は鑑賞者へ向けられている。
この女性の顔は、ガルシアの妻マリアであることは同展を見ていれば分かるのだが、明らかにこれは”いるはずのない人物”としてここにいる。廊下にいる3人にはこの女性は見えていない。そして、”いないはずの女性”は私たちへ目を向けている。彼女は私たちを認識しているのだ。しかし、見られている私たちはこの空間に存在していないことは鏡に誰も映っていないことが証明している。
 いないはずの女性は、その視線によって絵画空間と私たちとを結びつけている。しかも、絵画空間においては私たちは”いないはずの女性”側に位置している!。こんな、鑑賞者を不安にさせる罠が仕掛けられた絵画はあまりないだろう。この女性が霊だと言うなら、あなたもまたそうだということになるのだから。
 ガルシアのこの絵に感じられる、変容した現実感(つまりシュール・レアリズム)は、私がかつて見た幼児が浮かぶレリーフと同質のものだ。彼は決定的に全てを変容させない。勘違いや気の迷いや少し疲れている事による見間違えといったさりげなさに”異質”を溶け込ませる。しかし、私たちにはそれこそが異質のリアリティだろう。


ころで、会場内の鑑賞者を見ていると、彫刻作品の鑑賞時間は明らかに絵画作品のそれより短い。彫刻作品の”見方”が分からないのではないかと想像する。だからこそ、展示側がマネキンのように男女像を置くのはより良くないと思ったのだ。
 彫刻の見方は、絵画のそれとは違う部分が多い。そして、深く、楽しい。商業的に見ても、彫刻はいつも苦戦を強いられる。彫刻界にいるひとは、鑑賞者を育てるという役割も担っていかなければならないのかもしれない。古代ギリシアやローマの彫刻たちの多くは鋳つぶされたり焼いて石灰にされて消えていったという。”良い物を作っていれば気付いてもらえるよ”ということはないと思う。
 ントニオ・ロペス追記

2013年5月23日木曜日

告知 「人体描写のスキルアップ - 美術解剖学入門」開講のお知らせ


 少々早いですが、夏の盛りから暑さが落ち着き始めるころにかけて、朝日カルチャーセンター新宿教室において実技講座を開講致しますので、お知らせ致します。

 本講座は、講義と実習を通して、人体を構造的な視点から見ることで、人体描写技量を向上させることを目的としています。美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。

 人体をどのように見ていますか。芸術表現のモチーフとして人体は究極に身近な対象です。なぜなら、その対象の形態はあなた自身とほとんど全く同じなのですから。
 しかしながら、人体表現の難易度の高さは誰もが認めるものでもあります。人体表現が歴史的に見ても様々な変化を見せるのは、このような”近くて遠い”距離感も影響しているのでしょう。
 

 毎朝、目覚めと共にまぶたを開くと、当たり前のように見慣れた室内光景が目に飛び込みます。日々の生活で、目に飛び込む様々な色彩や形態を”苦労して”認識しているという方は極少ないでしょう。テレビをオンにすると映る番組のようにそれは苦もなく脳裏に再現されます。ところが、当たり前に見えているそれらの光景を紙に写し取ろうとしてみると、これが全く出来ない事に驚かれるはずです。テレビ画面に紙を押し当てて透けた画面をトレースするようにはいかないのです。これは、私たちの視覚認識がカメラがフィルムや素子に光線を投射するような単純な平面化に依っていないことを示しています。私たちが「当たり前」と信じ切っている目の前の風景は、実は脳内での非常に複雑で高度な解析の末に”再現された”意識世界とも言えるものなのです。
 このような意識的に再現された対象を表現しようとするには、少なくとも2つの手順が必要です。まずひとつは、手業(てわざ)とも言いますが、これは手の筋肉を意識的に詳細にコントロール出来るようにすることを意味します。すなわち、「箸が上手に使える」や「綺麗な字を書く」といった列に並ぶものです。スポーツなら「正しいフォームで走れる」や「スキーでパラレルが出来る」、音楽なら「楽譜が読めてピアノがひける」と言ったところでしょう。勿論、これらが完璧で無ければならないという意味ではなく、ともかくやりたいことをこなすための始めの技術力を持つということです。
 この手業は、繰り返しの訓練で誰でもある程度まで上達するものです。ところが、手業の限界は思いのほか早くに見えてくるのです。その次の段階へ進むために必要な物こそが、二つめの手順であり、すなわち、”対象の見方”です。そして、人体表現においての”対象の見方”を強力に推進するものこそが美術解剖学なのです。始めに挙げた手業を「手の技術」と言い換えるなら、美術解剖学は「見る技術」とも言えましょう。

 ところで、私たちの「見る」行為は、カメラとは違って、能動的な行為です。そのために、”知らないために見えない”という現象が起きます。こういった脳による情報削除は処理を軽くするために恐らく重要なもので、私たちが人体を見るときにも通常は非常に多くの情報が捨てられているはずです。絵を描き慣れない人はそこに手業の欠如が加わるのですから描けなくて当然なのです。


 さて、美術解剖学は「人体を見る技術」だと既に述べましたが、人体表現を目的とした人体の見方でもっとも基本的なのは、裸体を観察することでしょう。この時に視覚が頼りにするのは、外見を規定するものとして身体の輪郭を、また、輪郭より内側の要素を捉えるには陰影が用いられます。しかし、視点や姿勢の変化に伴って刻々と形状を変える人体を、輪郭や陰影の表面性だけで追うことは必ずしも効率的ではありません。そこで、人体内部構造とその形状理解をそこに付け加えるのです。それは皮膚の一層内側にある筋の走行やそれらが付着する骨の形状に加えて、運動に影響する変形の範囲や関節の可動域など、ポーズによる外見の変形に根拠を与えてくれます。そうして、人体形状への理解を深めることで、やがて目は皮膚に隠された構造を見抜き、表現される作品には形状の説得力が加わるでしょう。イタリアルネサンスのマスターピースの人体表現の多くは、このような方法論の下に生まれたことも付け加えておきます。

 今回の講座は、初回は講義形式で後の2回はヌード・モデルの観察とデッサンの全3回で構成されています。初回では、人体の内部構造についての基本的な知識や、構造の分け方についてなどを知ります。2回目は女性ヌード・モデルの観察を通して、初回の知識の再確認や姿勢の変化に伴う外見の変化とその影響範囲などを確認していきます。最終回はこれまでの知識を参考に女性ヌード・モデルを固定ポーズで描写していきます。最後に時間が許せば描かれた絵を美術解剖学的な視点で講評します。

 日本において、美術解剖学的な方法論に沿ったヌード・セッションはまだこれから発展しうるものです。人体描写の向上を図ろうと努力されている方、身体の構造に興味を抱いている方、芸術における裸体表現を更に深く堪能したいと思われている方など、芸術と人体に興味をお持ちの方であれば、どなたでも楽しんで頂けると思います。
 文字や文章が小説家のためだけにあるのではないように、デッサンは画家だけのものではなく、理解を深めるための方法のひとつなのです。”手業”に自信のある方もない方も、ペンと紙で手を動かしながら、共に人体形状の理解を深めましょう。


当講座は終了しました。

2013年4月1日月曜日

美しさについて


 美とは何か。漠然と言葉にされ、分かっているようにも感じるが、それを明確に規定することは出来ない。美術館に陳列している「美術作品」と呼ばれる物たちが美ではないかと思われるひともいるかもしれない。確かにそれらの多くは美を目指して作られたのだが、かといってそれらが美であるとは限らない。別に言うなら、美術作品とは、それらを作ったひとが感じた美を、それぞれに再現を試みられた物たちである。
 美は、美しいと感じられる対象のことである。「美しい」は感覚であり、喜びや悲しみといった感情と同様に、何らかの刺激によって心象に”勝手に”湧き起こってくる情動反応である。従って、喜びや悲しみの状況が多くの人が共有できるのと同様に、美しいという感覚は大枠では他人と共有されるものだ。
 美しいと表現される対象は視覚的なものと聴覚的なものが主で、その他の感覚である嗅覚や味覚、触覚で感受されるものには用いられないことは興味深い。
 またさらに、それら特殊感覚的なものの他に、対象の動きに対しても用いられる。ここでの動きとは、主に動物の能動的行為を指すので、「美しい動き」と言うときには、その動きを生み出す判断や身体能力、さらには心の動きまでもがその判断に含まれていると言っていいだろう。

 忙しすぎると笑いを忘れるとも言うが、それは美にも言えることで、精神的な余裕が少ない日々では何かを美しいと感じることも少ない。しかし、「うつくしい」と言語化されないだけで、その感情は常に湧き起こっているに違いない。それは、ふと視界にはいった木々の緑や、空の雲や、すれ違った人の顔、ある人の所作、耳に飛び込むラジオの音楽など様々な刺激から感じ取っている。だから、私たちは常に美に取り囲まれていると言っても良い。
 この、気付かずにいた美がある時から意識下に現れることがある。気にしていなかった対象が美しいことに気付く。その時に自分の心を探ると、きっと以前からそこに美しさを感じ続けていたことが思い返される。何故なのかは分からないが、何かのきっかけで感覚の蓋が開き、美しさが強く意識されるようになるのだ。喜びや悲しみの発端がどこからやってくるのか、つかみ所がないように、湧き起こる美しいという感覚も自身ではどうしようもないのだろう。ある感情もやがて落ち着くように、それも時間と共に変化していく。

 ”美しさ”は主観であり、それを見出す対象に”美”を置く。だから、美はいつも感じる者によって見出される。ただし、美の対象が人間か、それ以外かで大きく違いがある。すなわち、人間以外の美は常に見出されるしかないが、人間は見出されることで”自らが美しい”と自覚することができるということだ。それどころか、人間は自分自身で自己の美を発見すらするだろう。
 勝手に湧き起こる「美しい」に該当する感情は、意識下に上ることで「うつくしい」と言語化される。言語化されることで他者にその感覚、感情を伝えることができる。美しい空を見たら、隣のひとに「美しいですね」と言うし、美しい彫像であってもそれは同じだ。ただ、美しいと感じる対象そのものにはその言葉を向けることは出来ない。もしくは、言っても意味を成さない。ここには、自己の感情を相手に伝えるという本来の言語の使命上、それが果たすことができないことへの無念を感じざるを得ない。自作の彫像に愛の言葉を投げかけ続けたピュグマリオン。神話ではそれを哀れんだ女神アフロディーテにより、彫像はやがて命を宿す。「美しい」はそれを放つ対象にこそ投げかけたいと欲求するのが言語を使う私たちの本能であろう。美の対象がひとであるなら、それは叶えられる。アフロディーテの祝福を待つまでもない。美しいひとには「美しい」と言うべきなのだ。それが「美しい」という言葉の本義に沿った使い方だと思う。


ピュグマリオンとガラテア
バーン・ジョーンズ作
さて、ピュグマリオンが彫像に声をかけ続けていた時、実際にそれを聞いていたのは彫像ではなく女神であった。女神によって彫像から人となることで、ガラテアは始めてピュグマリオンからの賛美の声を聞いたことになる。それまで自らを知らなかったガラテアは、ピュグマリオンという他者によって自己の美を見出され、おそらくはそれを認めただろう。自らが美しいと認識できるのは人だけである。そして自らの美を自覚することで、人は自身の内的な変化を引き起こす。見出された美という感覚による、それ自身の変化というダイナミズムは、美しいという言葉が人に対してのみ働く特殊な作用と言える。
 ここでピュグマリオンは、彫像の外見的な美しさだけを見ていたのではないことに注意すべきだ。彼は、彫像に服を着せ食事を用意した。それは、単なる外見への愛ではなく、そこにひとつのパーソナリティを作り上げていたことを示唆する。彼の中ではガラテアの内面性までもがすでに想定済みであった。もはや動くのを待つばかりであったのだ。

 美しさの意味合いは彫像と人では違う。人の美しさは内面性を伴う。内面性は、その人の所作によって伝達される。所作をどう読み取るのか、そこに言語外のコミュニケーションが存在している。だから、人が持つ美しさはいつも揺らいでいるし、移ろっていくとも言えるだろう。変化し移ろう一時の美の連続とは生命と同義ではなかろうか。人の美しさは、その生命の美しさを反映している。

2013年3月31日日曜日

一枚のコイン 心を物に託す


 「こころのこもった贈り物」とは、コマーシャルのコピーの響きだが、他者へ物を贈るという行為は、確かに、そこに心という無形が込められることで成り立っている。贈り物、ギフト、プレゼント、お土産・・様々な呼び方で贈り物は分けられているが、現在の文明社会では、贈り物の多くが”商品”という形を取る。商品の価値は、値段という数字で計られる。これは、様々な価値観を一度数字に還元して平均化させる私たちの文化に乗っ取っている。この数値化が、贈り物の商品化という形で、私と他者との間の「心」に入り込み、大事な人には高価な物を、そうではない人には安価で・・という図式が作られた。婚約指輪には給料3ヶ月分を、それにはダイアモンドが適しています、となる。”心という無形を物に託して他者へ届ける行為”はこうして、ひとつの型に押し込まれている。

 先日、喫茶店でしばらくおしゃべりをして店を出る際、代金を私が支払った。勿論、大した額ではない。その時は大きなお金しか持っていなかったのを崩したいという理由もあった。店を出ると、相手の人が、一枚のコインを差し出した。一枚の海外のコイン。随分傷だらけでレリーフは一部摩耗している。聞けば、海外旅行の際の物で、旅のお守りとして財布に入れていたと。それは大切なものとお返ししようとしたが、今がきっと持ち主が移る時なのですと言うので頂いた。私はこの時に、内心自分でも驚くほどとても感動してしまって、あの時体が震えていたのは夜風の寒さだけでは無かったと思う。
 一枚の海外のコインには、ほとんど実質的な貨幣価値はない。その意味でそれは、純粋な物に近く、事実そのひとはコインに”旅のお守り”という別の価値観を忍ばせていた。それは信仰に近い。そのような、そのひとにとって特別な意味の込められた物を受け取ったとき、私は確かに、一枚のコインという物質や貨幣という本来的意味ではない、無形でいて大きく暖かいものを受け取ったように感じたのだ。言い換えれば、無形の心を、コインという物に託して私に届けられた。これこそは、贈り物の原点だろう。
 人と人は、言語のみでコミュニケーションを図っているのではないとつくづく思う。実質的価値のないものを贈り、受け取るという行為は、両者が同様にその意味を理解し合っていなければ成り立たないのだ。コインを差し出したときに、その人は500円玉と思って手に取ったからと言ったが、それのみが事実ではないことを私は分かっているし、言ったままを鵜呑みにはしないだろうとその人も判断が働いていたに違いない。
 数字的貨幣価値に依らない贈り物。それは始原的行為であり、それが純粋な形で行われると、心に深い感動をもたらす。記憶をたどれば、お金など関係のない幼少の頃は、その価値観でのやりとりをしていたのだ。いつしか、数字という便利な仕組みに価値判断を押しつけ、心をデジタル化していた。それが当たり前のようになっていた日常に、突如、純粋が流れ込み、嬉しいことには私もそれをまだ受容できた。

 思えば、心という無形を物質に転換して他者に示すという行為は、芸術と同様である。芸術にはそれを受容する相手を必要とする。それは、かつては神であり、王であり、皇帝であった。やがて一般化し、現代では誰でもが鑑賞者と呼ばれる相手になっている。芸術作品は、他者へ示す、心の贈り物なのだ。私の心が始めにあれども、それを相手が受け取ってくれるにはそこに同様の価値観が前提として必要とされる。相手が「誰でも」の現代においても作家はそれを想定して表現しなければならないだろう。感動を届けたいのなら。
 私は彫刻芸術において本質的に重要なのは構造や形態であり、文脈は二の次で良いとさえ思っていた節もあるが、今回のような体験を通すと、発端としての心の動きこそが最も重要であり、「芸術家よ感動せよ」とはまさしくそうであると、改めて感じた。感動に打ち震えるような出会いこそが芸術を推進させるのは間違いない。冷静さの底に、感動という情動の炎をゆらめき続けさせよう。芸術が人間にしか作り得ないのは、それ故である。

 全く不意に手渡された一枚のコインに、私は心を見た。ここには1人と1人の行為であるが、それは人類がいにしえより繰り返してきた心の確認作業でもある。手渡し、意味を感じて理解し、受け取る。そこには全く言語では語り尽くせない情報の往来や、数値化のそぐわない価値が含まれているのに違いない。

2013年3月12日火曜日

彫刻における首


 彫刻には、ひとの頭部のみを主題にしたものが数多くあり、首像と呼ぶ。頭部のみと言っても、その下端はあごの直ぐしたまでのものや頚(くび)の付け根までのもの、さらにその下で丁度首飾りの輪が掛かる辺りまでのものなど様々な程度で終わる。それよりも下で肩まで入ってくると胸像と呼ばれるようになってくる。しかしなぜ、首像なのだろうか。

 もしも、首像をそのまま生きている人のように置き換えたなら、それは、さながら刑場の光景となろうものだが、不思議なことに私たちはそう見ない。これは、私たちが人と対峙したとき、何をもってその人全体として捉えているのかがそのまま表現と鑑賞との対話の中に再現されていると言えよう。基本的に私たちは、相手を認識するのに頚から上の頭部−それも顔面にほとんど集約されるが−だけで事足りるようになっている。人類が体の周りに異物を巻き付けるようになって(つまり衣類)、身体的対話は顔面に集約された。衣類が身体の保護という始原的役割から、装飾による自己表現−それは変身願望と直結する−の場へと変化するのに長い時間は掛からなかったろう。その発展は環境、文化そして個人的趣味という多用な要素を含んで現在も進行している。どんなに衣類が多様性を増やそうとも、私たちは顔を覆うことはない。ある文化圏における顔隠しは「顔は出すもの」という前提があっての行為である。

 顔には、表情を作り出す専門の筋肉がお面のように被さっている。それらは意志で動かせるが、一方で感情と深く結びついていて心情が自動的に”表現される”ように出来ている。心から楽しいときの笑顔と作り笑いは似て非なるものだ。私たちが常に顔面を裸でさらしているのは、この表情を読んでもらうためという理由が大きい。私たちは、相手の表情が読めないときに不安を感じる。逆に、表情を隠したとたんに大胆になる。
 衣類が自分の思う自己を作り上げるキャンバスになると、いっぽうで所詮それは作り上げられたもので信ずるに値しないという判断をも作り出した。相手を知るときに、はじめに目に入るのは衣服に覆われた表面積の大きな体だが、結局次の瞬間には顔を見て判断しているのである。いまや、一個人としての人格を顔が−それが乗っている頭部が−代表しているのである。履歴書では3㎝×4㎝の枠内に頚から上の裸をさらせば、それはあなたの全てを見せたことになる。
 ここまでで通底している概念がある。それがコミュニケーション。表情は”他者に読み取られるため”にある。親にネグレクト(無視虐待)を受けた乳児はやがて泣かず無表情となるというが、読み取る相手がなければ表情も意味を成さない。表情のために”裸という真実”をさらし、相手によって作られる「あなた」という人格は、社会的な存在に他ならない。
 ここで、全身と顔との間にあるギャップが垣間見えてくる。全身は、まぎれもなくあなた自身の物質的存在の基盤である。かたや顔の表情は他者に見られることで印象としてのあなたの存在を作り出す。服を着て頚から上を出す、この当たり前のスタイルは、私たちの心的イメージにおける自己をも2つに分けるものであった。存在としての本質的自己と、社会的な概念的自己とに。

 彫刻に話を戻すが、ひとりの人間を表現するのにも同様に2つの流れがある。すなわち、全身像と首像である。上記から、この両者が必ずしも同列で語れないことが分かるだろう。それは、彫刻の決まりだとか単なるスタイルの違いとかの段階ではなく、ひとの認識が生み出す根の深い違いである。
 彫刻の全身裸体像で具体的な誰かの肖像というのはあまりない。それは意味を成さないばかりか、表現としての焦点を狂わせる(ロダンのヴィクトル・ユゴーは大きな挑戦として映る)。一方で、純粋な没個性的な造形としての首像は作られない。これは本質的に不可能である。没個性的な首像を目指した物もあろうが、それはおそらく生気のない人形の首のようだろう。 
 情報発信の領域である顔面を、彫刻は頭部の構造として認識して表現しなければならない。これは、非常に高度な技−単なる観察力や再現力ではない−を要求される。良い肖像彫刻が少ないのはこの辺りが理由だろう。
  
 結論を言えば首像とはつまり、集約された全身像である。それは社会的存在として、言い換えれば、個性ある存在として表現される。それゆえに本質的にそれらは皆、肖像的な性質を持つ。
 そのひとらしさを残したい。そのために最もピントの合った表現が、首像なのだ。

2013年1月26日土曜日

「人体描写のスキルアップ」講義開催のお知らせ



 来る2月2日の土曜日に朝日カルチャーセンター新宿教室にて、「人体描写のスキルアップ−美術解剖学入門」と題した実践的講義を開講いたしますので、お知らせいたします。
美術の中心である人体描写。その源泉にヌードがあります。裸体描写は芸術にとって永遠のテーマであり、時代ごとに美しい裸体像が探求されています。探求するためにはまず見える必要があります。人体内部の構造を直接的な手がかりとして人体を見ようと試みられたのが16世紀イタリア。それから約500年の間に解剖学は進歩し美術解剖学への応用も変化しています。

 美術解剖学は解剖学を応用して効率的に人体のかたちを見る方法を示します。人体の捉えどころを知れば秩序を持った構造が浮かび上がってきます。骨や筋肉の名前を一つずつ覚えるというものではありません。かたちを作っている理由や姿勢による変形の範囲などを解剖学的な根拠に基づいて説明するものです。美術解剖学を取り入れることで、人体が秩序だって見えるようになるでしょう。

 芸術の本質は表現です。美術解剖学によって、今まで人体形状を探ることに費やしてきた時間を表現活動へと還元することも可能なのです。
この講義は2回で構成されており、初回は基本的な人体の構造と見方をスライド等を用いて講義いたします。2回目は、解説に従って実習をします。実際に描いてみることで理解を定着させましょう。

 人体描写をより高めたい方、人体をモチーフに制作されている方、これから人体を描いてみたいと思っている方など、「人体」と「描写」に深い関心をお持ちの方々の幅広いご参加をお待ちしております。

 当講座は終了しました。