私たちの眼前に広がる世界は,全て「量」を持っている.つまり,立体物であるわけだが,脳はどうやってそれらが立体であることを認識しているのだろうか.写真が開発され,目で見ている世界観と近いものが,平面上で再現されるようなったが,それは明らかに肉眼で見ているものとは違う.両眼視差の有無に目を瞑ったとしても,目で見て感動したものを撮影して後で見て,その時の感動とは違うことに気がつくことはよくある.写真は,レンズとフィルム(デジタル化した今ならば,画像素子)の距離を,広角から望遠まで自在に変えることが出来る.焦点距離が変わることで,素子上に結像する絵には特有の歪みが生じるが,それらは私たちの肉眼では起こりえない現象だ.一般的には35㎜フィルムカメラの焦点距離50㎜レンズの結像が,肉眼で見る像に近いと言われる.しかし,50㎜レンズで撮影された写真であっても,私たちの主観的視覚とは,明らかに違う.なぜなら,50㎜レンズの結像は,眼球におけるレンズから網膜までの焦点距離という,光学的現象の近似性だけを言っているに過ぎないからだ.
私たちにおける「見る」という行為は,カメラのレンズに”勝手に”光が入り込んで,フィルムに化学変化を起こすような受動的な現象ではない.厳密に言えば,まぶたを開いたときに,光が目の中に入り込み,網膜の視細胞を刺激するところまでは受動的だろう.しかし,その後,刺激が脳へ運ばれ,分解,再統合され,最終的に意識下に上る間には,能動的な処理が行われている.つまり,私たちはそもそも,写された写真のようには世界を見ていない.
話が横にずれるが,日本において「絵がうまい」ことの判断基準として,”写真のように描ける”というものが通底してあるように思う.絵が趣味という人が,実は写真に撮ったものを紙に描き写していたりする.それをカムアウトしている人もいれば,言わない人もいるが,出来上がった絵を見れば分かる.焦点距離が肉眼と違うからだ.表現として,あえて撮影されたものを描くという手段をとる作家もいる.意識しているなら,それでいいのだが,写真を通して2次元化されたものを描き写すことは,技術的に大したことではない.また,視覚による主観のフィルターを通していないものは,その人の個性も含まれておらず,作品としての面白みの大半が失われているように感じる.つまりそれは,「写真のようだから上手」という安直な価値基準でしか計ることが出来ず,さらに言うなら,それらはもはや「写真でいい」ものなのだ.
しかし,写真機が発明されるより前の時代では,むしろそれが渇望されていた.光学的な規則性が発見される前の絵画では,視覚的な主観性のみが前面に大きく出ており,いわゆる前後関係などがばらばらである.西洋絵画において大きな発展を成したのは,16世紀のイタリア・ルネサンスにおいてだった.建築家や芸術家が,主観に依らない立体感の表現技法,すなわち遠近法を発明した.遠近法には,幾つかの種類があるが,そのどれもに共通する手順として「線」を用いる.厳密に言うなら,それらの線は,計測基準となる点と点とを結んだものであり,言わば,視覚的補助である.なぜ,視覚的補助が必要なのか.それは,私たちの脳がそれを必要としているからという結論になる.点と点が無数に集まると,私たちはそれらに規則性を見いだそうとする.しかし,点の多さから,そこに混乱が生じる.線が引かれることによって,その混乱が排除される.線とは,方向性の概念でもある.
遠近法の確立によって,私たちは,無限に広がる外世界に,点と線で区切りを作った.そのグリッドを頼りにすることで,自然界のランダムさに惑わされない,空間の規則性を把握する術を手にしたのである.空間を点と線で区切る,これは私たちが「発明」したものだろうか.同じ長さの線なのに,その周囲に付随する斜線によって,違う長さに見えてしまう錯視画がある.似た類の錯視画を誰もが見たことがあるはずだ.錯視のトリックを明かすと「目がだまされた」と言うが,正しく言うなら,「騙されているから,生きられる」のである.錯視とは,光学的普遍性に対する視覚脳の高度な適応の結果であり,このシステムが働いているから私たちは,世界を正しく見ることが出来ている.私たちは,真実のままには生きられない.
錯視で用いられる点と線は,遠近法と基本的な概念は同じである.つまり,遠近法は「発明」ではなく,むしろ「発見」である.遠近法の元には,万人が「騙される」のである.16世紀の遠近法の発見によって,世界は点と線で表現可能であることが確かめられた.これは,視覚的に立体感を捉えるための,おそらく最も還元された視覚世界であろう.なぜなら,そこにはもはや光が必要ないのである.現実世界で私たちが外界を見るとき,そこには常に光りがある.目とは,光を捉える器官である.視覚による外界の理解には,その進化において,常に光りが共にあった.光と影.それによって立体感も作られている.そうして,世界を見てきた脳が,視覚的経験から,概念としての空間性を認知するに至った.その表象が点と線による空間表現に他ならない.
点と線による,立体感の表現は,絵画における表現で長らく用いられている.線によって陰影を表す版画ではクロスハッチングのように,その線の交差と角度で,対象の立体感を表す補助としている.クロスハッチングを独自に発展させて,立体物のドローイングに応用させたのは,20世紀の彫刻家ヘンリー・ムアである.線を一本走らせ,任意の点で直角に曲げる.それを繰り返すことで,紙面上に”光線に依らない”立体感を生み出している.これは,彼がその時に,どのように対象物を観察していたのかを表すものとしても興味深い.また,この描法で,平面である紙面において彫刻的存在感の再現を模索していたのかもしれない.
20世紀後半から,コンピュータグラフィックが身近になり,三次元CGも一般の趣味のレベルまで降りてきた.これは,平面であるモニター内に仮想的な立体物を描き出す技術で,言わば,16世紀に生まれた遠近法の発展形である.モニターに向かって作業をする時,オペレーターは,大抵いくつかの「見え方」を選ぶことが出来る.その1つであり,もっとも基本的な見え方に,ワイヤーフレームがある.字の如く,対象物を点と線とで構成された”枠組み”で表す.コンピュータは点の位置情報を扱うだけでいいので,処理が軽く,マシンへの負担が少ない利点がある.オペレーターも,点と線だけで,十分に立体感を捉えることが出来る.それは,かつてムアが紙の上で試みたものと大差がない.
点と線で強調される,視覚的立体感は,実は,私たちの生活空間にも多用されている.板金技術の発展した現代の自動車では,車体にはしるパーツの合わせ目が,高度にデザインされている.それは,意図された車のイメージを強調させる素材ともなっているのだろう.六本木の東京ミッドタウンの中庭で見られる,フロリアン・クラールによる大型の工業金型の様な屋外彫刻は,作品の表面を走る部品の接合部の線が作品の立体感を視覚的に高める効果的な要素となっていることが分かる.
視覚的に立体感を与える要素としての点と線.このコントロールによって立体物の見え方は大きく変わる.それこそ「騙される」.3DCGの作業画面でも,点と線を扱う数式の違いで,描かれる格子(グリッド)は違う.
永く感覚に頼ってきた絵画における立体感の描写は,16世紀に数式が入り込むことで,大きく変化した.それらは主に空間表現に限っていたが,現代では,それがCGにおいて個別の物体にも応用されるようになった.遠近法が,絵画のみならず立体物である彫刻へも応用される時代が到来しているのかもしれない.かつて,ムアが試みた視覚的実験に世界が今追い着きつつある.
2010年3月25日木曜日
対象の見方 芸術の方法論
彫刻は形状を扱う芸術であり、それに関わる彫刻家は必然的に形状に敏感になる。しかし、その敏感の矛先がどちらを向くのかで、同じ対象であっても捉え方は変わってくる。だから、同じリンゴをモチーフとして見ても、作家によって出来てくる作品は違う物になる。その一方で、ある程度の「見方の方法論」というものもある。リンゴなら球に還元してみるとか、そういう類のもので、技術論である。短期間で効率的に技能を習得させたい美術予備校やカルチャースクールなどで好まれる。と言うより”教える”となると、そういうことを言うしかない。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。
芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。
想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。
人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。
日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。
かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。
自身の経験から見て、それらは時に表面的である。と言うのは、リンゴを球に見立てたり、人間を面で大まかに分割した紙人形のように見立てて捉え直すという手法は、純粋にその対象の表面しか考えておらず、その形状がなぜ(つまり必然的に)その形状を成しているのかというところまでは決して降りて行こうとしていないからだ。
興味深いことに、これらの対象の捉え方は、3次元CGの世界でも有効的に用いられている。3DCGの世界の住人は、言わば点の集まりで出来ていて(私たちが細胞という点の集まりであるように)、彼らを包括しているコンピューターは、彼らがどこにいるのかをその点全ての位置情報から割り出している。言ってみれば、私たちの細胞全てがGPSを持って常に人工衛星と通信しているようなものだ。点一つづつに計算処理時間が掛かるわけだから、点が多い(つまり、絵が細かい)と、その処理量は膨大なものになる。そういった技術的な理由もあって、3DCGの世界の住人は基本的に”皮しかない”。 もっと言えば、彼らの正面を見ている時は、実はその背中さえないのである。 目に見えない皮膚の内側や背中などあっても無駄なのだから。更に、遠方にいて点のようにしか見えない時、彼らは実際に”点になっている”。遠ざかるにつれ、体を構成する点の数を減らして行く(面が粗くなる)のである。
CGの世界では、計算処理を軽くするという、効率化のために対象の表面しか考えないのである。ここでは、見えないものは実際に無くなるのだ。
美術予備校で教わる、対象の単純化という技法も同じことだ。実際、それらのやり方は効果的で、闇雲に眺めていたのでは見つけられない構造の規則性などを見つけることも出来る。
リンゴでも、球に還元したり、面で分けたり、立方体に押し込んだり、色や光沢で分けたりと、様々に単純化して見直すことが出来る。しかしながら、ふと疑問に思うのは、それらが全て表面性しか追っていないということだ。まるでCGのように。
芸術の目的は技術の向上ではない。しかしながら、技術がなければ表現の質も下がる。そういう理由から、初歩段階である予備校などではまず技術を習得させることになる。事実、美大の受験で見るのも技術力である。だから、そこに合格するのは単に技術力があるに過ぎず、芸術家に必須の感性云々は実は全く問われていない。”芸術”大学の矛盾をここに見る。それでも、日本では「写真のように描く=絵が上手=芸術的才能がある」というセオリーが根強いので、全体が無難に回っている。
上記したような、対象を表面でしか見ないで満足してしまう癖も、そういう背景があるからなのかもしれない。
想像して欲しいのだが、もし、リンゴを生まれて初めて見てそれを描くのと、味も重さも切った感じも、木になるということも知っているリンゴを描くのとで、同じリンゴが描かれるだろうか?
私たちは、コンピューターのようにメモリーを節約しなければリンゴや人体を描けないほど貧弱な脳を持っているのではない。入力から出力までの経路もPCのように単純ではないのだ。そして、芸術の旨味とは、正にこの単純ではない部分から生み出されるのだろう。
美術を習おうとすると用意される「表面的に捉える技法」の数々。それらは、一見甘い蜜である。それに従えば技術は速やかに向上するのだから。それを否定は出来ない。疑問なのは、”それしかない”ことだ。そうやって形が捉えられればそれで終わりでは、CGと同じであり、その正確さで競うならCGに敵うはずもない。勿論、それが目的であるはずもない。
人を対象とする時、人の形について問う。そのような姿勢もまた必要なのではないだろうか。目の前に見えている物だけを機械的に移すのでなく、その存在理由や、隠されている構造まで思いを巡らすことで、確実に見え方も変化し、出来てくる作品にも影響を与えるだろう。また、それこそが、機械には出来ない、人間的行為なのだから。
そう考えるとき、解剖学や発生学など、一見、芸術と関係の無いように見える領域が、にわかに芸術を向上させうる強力な知的支えとして見えてくる。
日本では、美術解剖学という独立した概念があるが、多くの人にとってそれは、単に骨や筋の位置や名称を指し示してくれる地図のようにしか思われていない。故にアカデミックの象徴のように揶揄され、自由な表現の妨げにさえなるとして敬遠される節もあった。
しかし、解剖学の醍醐味は名称や構造を暗記するというような安易なものでは決して無く、それらの情報が指し示す私たち自身の存在に対する様々な投げかけこそにあるのだ。
そういった、知識による咀嚼は、あたかもリンゴを囓ってみることに似ている。眺めていただけでは決して分からない味わいが、次からそれを眺めるときには思い出されるのである。
かつて、レオナルドが一枚の絵を描くために、なぜ解剖をし、物理の研究をしたのか。単に、分離した興味が並列的にあったというはずがない。そもそも、彼にとって絵は答えではなかったろう。それは、確認に過ぎなかったのではないか。自分と、それを包括している世界の存在という問題に対しての。
だとするなら、それは芸術に対峙する正しい方法論であって、現代の私たちもそれを参考にすることができるはずだ。
2010年1月7日木曜日
感覚の延長
面白い彫刻作品を見つけた。ピーター・ヤンセンの作品で、ご覧の通り、運動のある一時期を切り取って、ちょうど高速フラッシュ撮影で見たような状態を立体で表している。CGで作成したものをプロッタで出力しているらしい。同じ形状や動作を何度も繰り返すような仕事はCGの得意分野−正確に言えば、人間には苦痛−で、技術と価格が現実的になりつつあるのか、ここ数年でこの「技法」が目立ってきたように思う。日本では、小谷元彦さんがこの技法を用いている。この作品は私たちの目では、時の流れに過ぎない一連の動作を、一定期間ごとに静止させることで、動きと量を混在させている。
彫刻は、物質として実空間に存在するために、モノ感が強く、その結果、時間性に乏しいものとなりがちである。だが、それが表現としてのデメリットとなるものではない。とは言え、各時代の彫刻家は、その作品に時間性を取り込む工夫をそれぞれにしていた。もっとも簡単なのは、特徴ある姿勢を取らせることだ。歩く、走る、弓を射る等々。
カメラは、視覚を延長させる大発明だった。それは、今まで見ることの出来なかった「静止した運動」を目の当たりにさせたからだ。きっと、それは人々を興奮させただろう。その新しい視点を、作品制作に応用した作家もいただろうが、ロダンはむしろ、写真では運動そのものは捉えられないことを見抜いていた。彼は、アトリエでヌードモデルを自由にさせて、それを目で追ってデッサンを繰り返していた。ロダンは、運動における躍動感は、肉眼で捉えたものの中で生きるものであり、切り取られた一瞬に同様に宿るものではないと感じていたのだろう。
ロダンの「歩く人」とその前身の「聖ジョン」には、ロダンなりの時間表現がなされていることで有名である。それは、現在進行中の時間が一つの形の中に取り込まれている。つまり、歩行中の人物を写真で撮っても、決してこの姿勢は得られない。
もう一つ、時間を意識した有名な作品として、ボッチオーニの「Unique Form of Continuity in Space」がある。箱根彫刻の森で見ることが出来る。斬新な造形と論文表題のような作品タイトルから、非常に実験的な趣が感じられるが、その反面、ロダン作品が持つような有機的生命感が希薄であるように思われる。ともあれ、この作品にはすでに連続フラッシュ撮影のようなカメラ的視点が反映されている。まぎれもなく、カメラという新しく延長された視覚を通しており、そこがロダンとの決定的な違いであろう。
20世紀のこの作家はそれを拒絶せずに取り入れたが、やはり、今見るとそこはかとない古くささを感じざるを得ない。連続フラッシュどころか、超高速度撮影や赤外線、さらにはMRIやCTからの立体画像などのいわゆる可視化技術の映像に慣れ親しんでいる私たちには、もさったさと言うか不必要な重さが反ってリアリティを無くさせているようにも感じはしないだろうか。
テクノロジーに依存せず、自らの肉眼感覚を重視した19世紀のロダンと、テクノロジー的視点を表現に取り入れた20世紀のボッチオーニ。そして、今世紀のヤンセンの表現がその流れに引っかかる。
ボッチオーニまでの写真は2次元情報だ。3次元の世界の光の反射をネガに投影することでそれは平面化される。
しかし、現在では、レーザーの反射を利用した非接触型立体スキャナが存在する。これは同時に写真のような色情報も取り込むことで、まるで立体カメラのように立体物を立体情報として扱うことが出来る。また、物の運動を映像から抽出することも出来るし、人間や動物の体に反射マーカーを取り付けてその位置情報を取り込むことで運動を情報として取り扱うことも出来る(モーション・キャプチャー)。
ヤンセンの作品は、もともとがCGであることや、運動が全方向性を持っていること(ロダン、ボッチオーニが共に「歩く」という一方向性であり、特にボッチオーニの作品は明らかに側面からの鑑賞を考えられているところに写真と同様の平面性を宿しているところが興味深い)などに、従来の写真という平面性を越えた「現代的視点」を宿している。
しかし、ヤンセンの作品には、「手業」が全くない。この形状が生み出される過程は、多分すべてパソコン上で行われた。体の各部分は機械的に繰り返されたに過ぎない。そこには、空間における形の見え方に対する作家の主観というものは排除され、単に運動のある一過程を立体的に追いかけたらこの形が見えてきたと報告しているに過ぎないものだ。
手業の排除も、現代美術の特徴のひとつなのかもしれない。
技術は、私たちの身体を延長させる。それが手に入るようになると、新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のようにはしゃいでしまって、まるで世界が新しくなったかのような感じを覚える。だが、技術は必ず古くなる。古くなるものはやがて忘れられる。
だが、私たちの感覚は古くならない。100万年以上昔から変わらず、これからもそうだろう。生の視覚に映る感覚を大事にしたロダンの作品は、今でも古くささをまとっていない。今、真新しく映るヤンセンの作品は100年後に残るだろうか。
2009年11月27日金曜日
目で触る 触覚的から視覚的へ
彫刻も絵画も、基本的に私たちは目で見て鑑賞するが、両者には絶対的な違いがあることは明白で、それは絵画はそもそも見るためにあるが、彫刻は見て触れられるというものだ。
彫刻は触れられると言っても、実際に触ることが許される作品は数少ない。しかし、私たちは、目で鑑賞するだけでも作品に触れる感覚を実感することが出来る。これは、視覚と触覚が連動しているからだ。手の動きと視覚を高度に連動させることが出来る動物は、人類の他にはチンパンジーなど数少ない。人類の進化の過程で、私たちは様々な物を見て、それを触って確認することを繰り返してきた。今や、実際に触れなくともガラスのツルツルした感じやスポンジの柔らかさなど、物性をまざまざと指先に思い起こすことが出来る。この、視覚と触覚のリンクはしかし、個人が実際に経験した視覚―触覚リンクしか働かない。触れたことがない未知の物質を目の前にしても、その触覚感が現実味を帯びることはなく、代わりにそれに似た感覚を呼び起こさせて対応させるしかない。つまり、視覚で触覚を「リアルに」感じる為には、私たちは見て触るを事前に実体験していなくてはならない。何でもかんでも触りまくる幼児期の行動は、そのリストを急速に作り上げている過程なのかもしれない。これは味覚にもあてはまるだろう。
つまり、彫刻を鑑賞する時には視覚的経験に加えて、触覚的経験も導入されており、これが「彫刻は目で触れて鑑賞する」と言われる所以なのだろう。逆に言えば、彫刻を鑑賞するには触覚的感覚も要求されるということであり、漫然と眺めるだけで「目で触れ」なければ、その本質的な部分には触れられないということになる。
しかし、この部分で、現代の彫刻には変化が起きているように感じる。それは、触覚的彫刻が少なくなっている、もしくは、視覚的彫刻が主流になりつつあるように見えることだ。
もはや、作家が彫刻に触覚性を求めておらず、絵画のように視覚でのみ鑑賞することを前提としているような作品がある。これらは時に、立体絵画のようである。
触れるには対象の物性が必ず関係する。彫刻は、その歴史において素材の持つ物性から切り離せない領域だった。それは現在でも「石彫」、「木彫」などという素材でのカテゴライズが残っていることからも分かる。しかし、触覚性が希薄になると、石や木の物質感も自ずと希薄になる。これは、近代になり合成樹脂が広く素材として使われるようになったのも関係しているかもしれない。軽くて丈夫な合成樹脂は確かに彫刻家を素材から自由にした。一方で、彫刻の本質的要素だった触覚性を希薄にすることを後押しした。今では、「ブロンズ着色のFRP」は当たり前である。
90年代から急速に発展した3DCGは、さらに彫刻の次の段階を見せようとしている。
膨大な情報量を必要とする3DCGは、家庭用PCの高性能化に伴い一般的なものになりつつある。コンピュータ・スクリーンの内側で作り出される「彫刻」は、削りくずもなく、なにより重力という地球上の物質の根源的要素が存在していない。また、3DCGには大きさの概念もないので、その制作過程で極端に微細な構造を作ることも出来る。ある一定の数式やアルゴリズムを用いて「人為を介入させずに」造形することも可能である。
この仮想世界は本質的に物質性が存在しない。その意味で3DCGは明らかに絵画に属する物と言えるのだが、一方でNC工作機やプロッタで現実のものにすれば彫刻に属する。
それは、視覚的彫刻との関連性を想起させるものだ。
素材の多様化と情報重視の時代性が、物質性と切り離せないはずの彫刻にも大きな変化をもたらしている。芸術家も時代から離脱して生きることは出来ないが、急速な変化の中にあっても、大きく変わることのない普遍的な芸術性や彫刻的要素までも過去のものとして押し流してはならない。
今であればこそ、本質的な芸術を見つめ、見極めていたいと思う。
彫刻は触れられると言っても、実際に触ることが許される作品は数少ない。しかし、私たちは、目で鑑賞するだけでも作品に触れる感覚を実感することが出来る。これは、視覚と触覚が連動しているからだ。手の動きと視覚を高度に連動させることが出来る動物は、人類の他にはチンパンジーなど数少ない。人類の進化の過程で、私たちは様々な物を見て、それを触って確認することを繰り返してきた。今や、実際に触れなくともガラスのツルツルした感じやスポンジの柔らかさなど、物性をまざまざと指先に思い起こすことが出来る。この、視覚と触覚のリンクはしかし、個人が実際に経験した視覚―触覚リンクしか働かない。触れたことがない未知の物質を目の前にしても、その触覚感が現実味を帯びることはなく、代わりにそれに似た感覚を呼び起こさせて対応させるしかない。つまり、視覚で触覚を「リアルに」感じる為には、私たちは見て触るを事前に実体験していなくてはならない。何でもかんでも触りまくる幼児期の行動は、そのリストを急速に作り上げている過程なのかもしれない。これは味覚にもあてはまるだろう。
つまり、彫刻を鑑賞する時には視覚的経験に加えて、触覚的経験も導入されており、これが「彫刻は目で触れて鑑賞する」と言われる所以なのだろう。逆に言えば、彫刻を鑑賞するには触覚的感覚も要求されるということであり、漫然と眺めるだけで「目で触れ」なければ、その本質的な部分には触れられないということになる。
しかし、この部分で、現代の彫刻には変化が起きているように感じる。それは、触覚的彫刻が少なくなっている、もしくは、視覚的彫刻が主流になりつつあるように見えることだ。
もはや、作家が彫刻に触覚性を求めておらず、絵画のように視覚でのみ鑑賞することを前提としているような作品がある。これらは時に、立体絵画のようである。
触れるには対象の物性が必ず関係する。彫刻は、その歴史において素材の持つ物性から切り離せない領域だった。それは現在でも「石彫」、「木彫」などという素材でのカテゴライズが残っていることからも分かる。しかし、触覚性が希薄になると、石や木の物質感も自ずと希薄になる。これは、近代になり合成樹脂が広く素材として使われるようになったのも関係しているかもしれない。軽くて丈夫な合成樹脂は確かに彫刻家を素材から自由にした。一方で、彫刻の本質的要素だった触覚性を希薄にすることを後押しした。今では、「ブロンズ着色のFRP」は当たり前である。
90年代から急速に発展した3DCGは、さらに彫刻の次の段階を見せようとしている。
膨大な情報量を必要とする3DCGは、家庭用PCの高性能化に伴い一般的なものになりつつある。コンピュータ・スクリーンの内側で作り出される「彫刻」は、削りくずもなく、なにより重力という地球上の物質の根源的要素が存在していない。また、3DCGには大きさの概念もないので、その制作過程で極端に微細な構造を作ることも出来る。ある一定の数式やアルゴリズムを用いて「人為を介入させずに」造形することも可能である。
この仮想世界は本質的に物質性が存在しない。その意味で3DCGは明らかに絵画に属する物と言えるのだが、一方でNC工作機やプロッタで現実のものにすれば彫刻に属する。
それは、視覚的彫刻との関連性を想起させるものだ。
素材の多様化と情報重視の時代性が、物質性と切り離せないはずの彫刻にも大きな変化をもたらしている。芸術家も時代から離脱して生きることは出来ないが、急速な変化の中にあっても、大きく変わることのない普遍的な芸術性や彫刻的要素までも過去のものとして押し流してはならない。
今であればこそ、本質的な芸術を見つめ、見極めていたいと思う。
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