2009年2月16日月曜日

「ロダンの言葉抄」

岩波書店から出ていた。ロダンの筆録(話した言葉を文字にする)などが、散文的に翻訳されている。訳したのは、高村光太郎。それに、高田博厚と菊池一雄が注や解説を加え、作品の写真や年表まで付記して、一冊でかなりおいしい内容の本である。つまり、ロダンという近代西洋彫刻の父の言葉が、それに感化された日本の彫刻家によって訳され、その後輩たちが解説を加えている、「彫刻家の、彫刻家による・・」(と続くと「彫刻家のための本」と結びたくなるところだが、ここは、)「全ての芸術家のための本」で括れるだろう。

私は、この本を高校生の時に手に取った。彫刻家にあこがれていたから、大いに影響を受けた。分からないような内容も分かろうとしてみたものだ。その後、読まない時期ももちろんあったが、いつも本棚には置いておいた。最近になって、また読み返している。そして、”今まで通りに”その内容に打たれる。およそ100年前の人の本である。社会文化は変化しただろう。しかし、この本でロダンが語る彫刻を通した芸術についての本質は、今でも何ら変わりはしない。そう、人が同じ以上、美の根源もまた同じなのだ。全く、全てのページに芸術家にとって益となるべき言葉が綴られていて、これはもはやバイブルのようなものだとも思えてくる。ロダンが示そうとしたものは、決してスタイルではなく、本質だということが文章から補強される。

私の今手にしているのは、二冊目で、読み込む為に何年も前に購入したものだ。書き込みやラインが引いてあって、これはこれからも増えるだろう。確か一冊1,000円もしなかったはずなので、もう一冊購入しようと書店へ行くと、なんと、もう刷っていないとのこと。別の書店から大きな復刻版と称した6千円以上するものがあったが、あれはコレクターかなんか向けだ。なんて、残念な話だろう。つまり、売れていなかったということだ。一般にとってロダンは昔の人で、その芸術も古くさいということなのだろう。

かって、碌山が、光太郎が、ロダンの芸術に感化されそれを日本に輸入しようと試みた。そこから影響を受けた芸術家もいた。しかし、多くの者はそれを「スタイル」と見て、単に筆致だけをまねたのだ。それでも良かった。見る方も知らないのだから。しかし、それはすぐに形骸化へと進み、飽きられ、古くさく、ゴミのようなものになった。一般の鑑賞者には、それもひっくるめてロダンだと写る。そして、「ロダニズム」という一つの芸術上の運動のようにして終わらせてしまった・・。真の理解者は僅かしか居なかった。彼らももう居ない。そのうちの、そして最大の人、高村光太郎も一般には「智恵子抄」の詩人としか知られていない。その光太郎が訳した「ロダンの言葉」には、彫刻芸術の、ロダンが示そうとしたことの、本当の事が綴られている。日本の彫刻芸術を志す者は全てこの本を理解すべきだろうと心から思う。そして、彫刻に限らず、芸術の本道を行こうとする者なら手にすべき書なのだ。100年前と言うなかれ、中身は今日のこと、明日のことである。湯気が出るように熱いのだ。

そんな、唯一無二な「芸術の聖書」が、絶版とはと嘆きつつ希望を求めて書店内検索すると、講談社から出て居るではないか。しかし、収録内容が微妙に違う。あっちにないものがこっちに、その逆もしかり。また、高田博厚と菊池一雄の解説や注もなく、作品写真も年表もない。旧仮名遣いが現代に直されていてこれは良い。値段は1,300円と高い。著作権が切れている高村光太郎だけで出したのだろうか。なんだか、高田、菊池両氏の熱意が切り取られて、薄っぺらくなってしまった(物理的にもにも薄いが)。新品なら、あるだけよしと言うしかないのか。講談社には悪いが、岩波に是非復刊してもらいたいと思う。これは、日本の芸術家にとっての「聖書」なのだから。

2009年2月15日日曜日

芸術家は職業、趣味に非ず

名のよく知られた芸術家を、人々は敬う。一方で、全く知られていないが、制作を続けている作家を社会からの脱落者のように見る。「芸術、芸術と言ったって、それで食べられなくて、結局やっていけないなら意味がない。生活の為にきちんと仕事をして、週末にでも集中して制作をするのが正しい。」と言う人もいて、正しく聞こえて納得したくもなる。しかしそれは、芸術を追求している人に言うには正しい言葉ではない。むしろ、趣味の延長として続けていきたいひとに言うべきものだ。

芸術は、芸術家からしか生まれ得ない。こんな、当たり前のことに聞こえることが一般には、理解されていない。職業選択の自由が当然のことになっている現在では、一つの仕事が失敗しても、全く違う職種へ移ることもできる。「芸術は週末に。」と言う人は、芸術は、趣味のようなものか、もしくは職業のようなものだと考えているのだろう。だから、「芸術職業で生活できないなら転職して、趣味として週末にすればよい」となる。芸術は職業ではない。芸術は、思想であり、その人(芸術家)の一生を通して貫かれる生き様でもある。その思想の表現されたものが、芸術作品である。週5日サラリーマンで、ビジネスプロジェクトを抱えプレゼンを考えている人間が、週末だけ芸術家として思想をどれだけ深められると言うのか。そういうのを、アマチュア・アートと呼ぶ。本質的な芸術家、プロフェッショナル・アーティストは手業や技術だけが重要なのではないのだ。ロダンのように粘土を盛ったり、ピカソのような絵を描くことが出来る人間は居るだろう。それだけで、彼らのような芸術家と言えるか。

資本主義では、何でも金という単位で物事がはかられる。皆、それになれてしまって、数字が大きい物がより良いと、本気で信じている。そうなってしまったら、もう自分の頭を使うことがなく、数字だけが真実になってしまう。ここの、数値で価値を断定してしまう仕組みと最も相性が悪いものの一つが芸術だ。使われている材料から価格を算出しようとすれば、ピカソの絵でも、高校生の小遣いで買えるだろう。ロダンの銅像でも大したことはない。銅は安い金属である。つまり、素材で価格は決められない。誰かが、相場価格を決めているのだ。そこから、需要に応じて変動する。相場が決まってしまうと、人々は、作品そのものをもはや見なくなる。「高いから良い」となる。もしくは、「高いピカソだから良い」と。価格で価値を計ることが当然になった人は、価格が設定されていない物に自分で価値を置くことが出来ない。だから、名の知れない芸術家がいつまでも認められない。価値を決めるのは、ギャラリストら専門家だと信じている。さらにひどいことに、今や芸術家さえその流れに乗ってしまい、ギャラリストや批評家の目にとまることこそが芸術家として成功する道だと信じて、そのために活動をしているものもいる。それもいいだろう。時代の流れは無視できない。
だが、明確にしておかなくてはいけないと思う。商業的な取引の「商品」として生み出され消費されるこれらの芸術は「コマーシャル・アート」と呼ばれる。確固たる地位を持つ過去の巨匠の芸術は「古典芸術、クラッシック・アート」と呼ばれる。これらの間に明確な壁はなく、両者は時に行き来するものだ。しかし、今を生きる芸術家は、自分がどこに属し何を求めているのかを自覚しなくてはいけない。今、旬のコマーシャル・アート界で成功を収めて雑誌の表紙を飾りたいのか。それとも、芸術的本質を追い求めて地味に研究、制作を続けるのか。そうやって、自己の立ち位置を作家自らが明確にしなければ、現代の複雑化した芸術評価の流れに飲まれて、居場所が分からなくなるだろう。

途中、一般論的になったが、私は、芸術は本質を追わなければ意味がないと思っている。美しさを追うことは一生をかけるに値するものだ。これは宗教に近い感覚なのかもしれない。それを感じてしまうと、それに一生を捧げたくもなるのだ。芸術を見る者、売る者らはともかく、それを創造する者は、まず、自分がどんな芸術を追い求めているのかが決まっていなくては、なにも始まらない。

芸術家は、まず、自らを「芸術家」としなくてはならない。芸術家とは、職業ではなく、生き方のことだ。

2009年2月7日土曜日

命流れる


「死を思え」という言葉がある。死の裏側としての生を輝かせるための言葉である。「死ねばご破算」という言葉があるかは知らない。が、これをよく頭で唱える。わたしにとっては、「死を思え」よりも、より我が身のこととして「死ねばご破算」が実感として想像しやすい。今の自分は、過去の人生の記憶の上に成り立っている。そして、今が塗り重ねられていく。感情は今に作られ、今に生きる。未来を想像もする。この全てが、死ねばご破算になる。絶対的ゼロに還る。実に、個々の生き物にとって死は一大イベントである。

ところで、死ぬとどうなるのか、誰もが知りたがるが、どうも死後には地獄やら幽霊やらとネガティブなイメージがつきまとう。これは、死が終焉であり、死ぬ前には苦しみを伴うことが多いなども関係しよう。我々はこの世の住人で、死ぬとあの世にいくという図式で現世がスタートに立っているが、考えてみれば我々はつい最近この世に生まれたのである。生まれる前どうだったか、気になる者があるか。生まれる前、何もなかった。いま、色々な物事がある。やがて死んでご破算。願いましてはで生まれ、珠が動いている時生き、ご破算で終わる。このそろばんの一つの流れと命は現象として違いがあるのだろうか。

さてさて、いずれにせよ、我々ははかない。皆、死んだ。天才と言われたミケランジェロも、ロダンも、苦しんだ荻原守衛も、魂をあれほどふるわせた人でさえ、皆死んだ。熱く燃やし、消えた。着いた炎は必ず消える。だが、燃えていたときに残した物が、今にそれを語る。残された芸術に、今、生きているわたしが共感する。同士であると喜び、勇気付けられる。まるで、その魂が今だそこに息づいているかのごとく錯覚をする。石のかたまりや単なる金属が放つ幻想に勇気付けられ、新たな感動を私たちも刻みつける。そして、命はやがてご破算する。

ああ、生があり、死があり、良かったと思う。芸術が生まれたのだから。

芸術家の目

高村光太郎は多くの文章を残したが、彫刻家、芸術家としての自然を見る目、そこから様々ことを感じ入る感性に賛同し、関心することしきりである。

「雲と岩とのグロテスクさは想像の外にあるが、凡て宇宙的存在の理法に、万物を統一する必然の道が確にあると思はれる節がある。それは此等無生物の形態生成に人間や動物と甚だよく似たデツサンが用いられている事だ。逆には、人間や動物の形態は此等物質の形態されると同じ機構上の約束によつて出来ているものと老へられる。
眼は二つ。鼻は二つが合さつて一つ。口も一つ。眼は大抵口の上にあり、頭部の下に洞体があつて其から四肢が派出している。凡そ存在物の形態原理は人間の形態を形成した原理と同じものであらう。もし星の世界に生物が居るとしたら案外地球上のものに近い形態を持つているであらうと想像し得る。雲と岩とが如何に多く人間や動物に酷似するかを見よ。人間形成と雲の形成とに偶然ならぬ関係が物理的にあるものと見るのは私一個の幻想に過ぎなからうか。」

この、「三陸廻り」の「雲のグロテスク」の前半部などは、今で言う自己相似性を大きく広げてみた見方と言えるし、形が形成される法則は宇宙全体に均等に働くはずだから宇宙人も似ているかも知れないと想像を広げている。そうして、流れゆく雲を飽きずに眺め、見えてくる印象から想像を楽しみ、

「かういふ取りとめの無い記述を人は笑ふであらうか。私はかかる現象を凝視して飽く事を知らない。さうして物質形成の宇宙的普遍方式の暗示を夢想する。」

と繋げる。深い洞察を持って自然を観察する眼力は、一流の芸術家の目に他ならない。昭和6年のことだ。
人は変わらない。そんな事実さえ、今の技術世界は忘れさせてしまう。芸術はそのことに気づかせてくれる。テクノロジーだけでは、人は必ず過ちを犯すだろう。いまこそ、芸術が必要なのだ。