数字至上社会について書いたことで思ったことを記す。
解剖学(肉眼解剖学)というのは、すでに終わった学問だと言われることがある。この、終わったとは、既に終了して過去の物というのではなくて、とりあえず目で見えて記載できるものは一通り済んだ、という意味だ。とはいえ、肉眼的に人体を探索している研究者は世界中に居るし、彼らにとっては人体はまだまだその余地を残しているフィールドであることも事実だ。
現代の解剖学は、その原点である肉眼解剖学から、さらに微細な顕微解剖学や、分子解剖学へと広がり、また、人体の別の見え方を探る応用解剖学へと発展している。
それでも、肉眼解剖学は全ての根幹として機能し続け、それは、人体を探求する基本的姿勢を現在も示し続けている。
彼らは、いつも目の前にある人体の形状に忠実であろうとする。個々の所見に重きを置く。
この姿勢は、自然を観察する芸術家のそれに似ている。彼らは、一般に広がっている偏見を持たずに目の前の景色を見ようとする。なんと言おうと、自分の目に映るそれが真実である。
現在の、数字至上社会は、良く言われる情報社会とリンクしているだろう。情報とは、皆が共有できる普遍性を持っていなければならず、それを可能にするのが数字だからだ。情報の代名詞「インターネット」もデジタルという数字に置き換える事で成り立っている。
なぜ、社会はこのように進んで来ているのか?具体的にはいくつも答えを考え出せるが、全体として言えるのは、人類がそれを望むから、である。
私たちの脳は、全てを概念化して取り扱っている。脳にはそうしかできないし、それが実際に効率的だからだ。より効率性を高める為には、そもそもの世の中を、概念的に変化させた方が良い。そういう作用が働いているのではないだろうか。
ともかく、コンピューターは人類に受け入れられ、ネット社会も受け入れられた。情報ビジネスも当たり前になった。
それに呼応するように、美術表現も物質的なものから情報的なものが主体になり、いまや、あえて「コンセプチュアル・アート」などと呼び分ける必要も無い。
肉眼解剖学という、数値ではなく物質を扱う領域が過去と呼ばれることと、物質的な美を探って来た美術、ことに彫刻の衰退とに共通の情報化という原因を見る気がする。
2009年8月5日水曜日
数値至上主義の弊害
私たちの身の回りには数字が溢れている。数字が表す「数」の概念が発見されなければ、現在の文明は間違いなくなかっただろう。
数がもたらす最大の恩恵は、概念の共有性にある。つまり、その数値は誰にとっても同様であるということ。1は、世界中の誰にとっても1に他ならない。この、絶対的とも思える数の「拘束力」は、それを操る数学を生み、様々な法則を発見することになった。数は概念であるから、何にでも当てはめることができる。量、距離、重さ・・。
そして、どれだけ必要とされているかを計ることにも数が割り当てられた。値段である。価値という、目に見えないものを数字で表す事が可能になり、物々交換が主だった取引は突然に大きく変化した。今まで交換対象ではなかったものも交換が可能になった。
数値で取引をする「貨幣経済」は、今や、取引の基本である。全ての商品は、その価値を数値化される。このことに慣れ切った私たちは、ものごとの価値は全て数値化が可能で、その表された数こそが、そのものの真の価値であると信じ切ってしまう。日常生活の買い物などでは、それでも問題はないだろう。しかし、世の中には、数値で割り切れないものがあるのも事実である。その一つに、芸術がある。
芸術は、そもそも、「割り切る」といった概念と非常に馴染まない。芸術を言葉で表現することが難しく、また、時に馬鹿げているのもそのせいである。言語化とは、多くの情報を捨てるという行為の上にあるのだから。
同様に、芸術の価値(芸術的価値)を値段という数値に置き換える事も非常に無理のある行為だ。まず、その作品が生み出される行程を数値化できない。多くの作品にとって最も重要なのは、作家が何を表現したかという「作家の主観性」であって、そこに原価が幾らかかっているのかなど算出は不可能だ。そして、それを鑑賞する側がそこに見いだす価値も「鑑賞者の主観」に他ならず、それは、鑑賞者個々で大きく変化する。ある絵に1000万円を付ける人もあれば、1円で十分だと言う人もいる。
このように、芸術作品に付けられる値段は、正に、あってないようなもの、なのだ。
しかし、多くの人はそのことには考えが及ばずに、付けられた値段がその作品の芸術的価値を示しているのだと思い込んでいる。だからこそ、誰々の作品に幾らの高額が付いたというような「数値」主体の記事が新聞などには載るのだ。この値段という数値は、あくまでも取引の為のものに過ぎないことを、忘れてはいけない。殊に芸術家を名乗るならば。
この「数」に縛られて、高価な作品ほど良い芸術だと言い切ってしまうようならば、その人は芸術家には向いていない。むしろ、画商などが良いだろう。
趣が変わるが、数の弊害としてもう一つ思うのは、成績という数値だ。
子供の学力は、テストによって点数という数に還元される。私たちは、小学校から大学まで、この数値に縛られる。その子の出来、不出来は、この数値でのみ推し量られる。多くの親が、それが全てだと信じ切っている。この数値で、子供を分類するシステムが出来上がっているから、信じてしまった方が楽というのもあるだろう。だから、数値化できない音楽や美術の授業は削られている。体育は、スポーツに分類され、それは点数を競う競技だから、問題ではない。
それでも、私たちは感覚的に気付いているはずだ。だから、学校でも虫取りが上手だったり、動物に詳しかったりなど、数値化できない能力に対して憧れたりする。芸術家や歌手に大人が憧れるのも同様だろう。
話しを戻すが、芸術の本質は、隙間にある。いや、本来、芸術は全てを満たしていた。しかし、人間は言語を生み、数を生むことで、感覚を、心を、分節化したことで、芸術はあたかも、節と節の隙間にあるように見えるようになったまでである。
芸術家は、いつも、ゆるやかに行間を行き来し、概念の隙間をさらさらと自由に流れる心で世界を見つめているひとのことだ。
本当は、皆がそうであればいいのかもしれないが。
数がもたらす最大の恩恵は、概念の共有性にある。つまり、その数値は誰にとっても同様であるということ。1は、世界中の誰にとっても1に他ならない。この、絶対的とも思える数の「拘束力」は、それを操る数学を生み、様々な法則を発見することになった。数は概念であるから、何にでも当てはめることができる。量、距離、重さ・・。
そして、どれだけ必要とされているかを計ることにも数が割り当てられた。値段である。価値という、目に見えないものを数字で表す事が可能になり、物々交換が主だった取引は突然に大きく変化した。今まで交換対象ではなかったものも交換が可能になった。
数値で取引をする「貨幣経済」は、今や、取引の基本である。全ての商品は、その価値を数値化される。このことに慣れ切った私たちは、ものごとの価値は全て数値化が可能で、その表された数こそが、そのものの真の価値であると信じ切ってしまう。日常生活の買い物などでは、それでも問題はないだろう。しかし、世の中には、数値で割り切れないものがあるのも事実である。その一つに、芸術がある。
芸術は、そもそも、「割り切る」といった概念と非常に馴染まない。芸術を言葉で表現することが難しく、また、時に馬鹿げているのもそのせいである。言語化とは、多くの情報を捨てるという行為の上にあるのだから。
同様に、芸術の価値(芸術的価値)を値段という数値に置き換える事も非常に無理のある行為だ。まず、その作品が生み出される行程を数値化できない。多くの作品にとって最も重要なのは、作家が何を表現したかという「作家の主観性」であって、そこに原価が幾らかかっているのかなど算出は不可能だ。そして、それを鑑賞する側がそこに見いだす価値も「鑑賞者の主観」に他ならず、それは、鑑賞者個々で大きく変化する。ある絵に1000万円を付ける人もあれば、1円で十分だと言う人もいる。
このように、芸術作品に付けられる値段は、正に、あってないようなもの、なのだ。
しかし、多くの人はそのことには考えが及ばずに、付けられた値段がその作品の芸術的価値を示しているのだと思い込んでいる。だからこそ、誰々の作品に幾らの高額が付いたというような「数値」主体の記事が新聞などには載るのだ。この値段という数値は、あくまでも取引の為のものに過ぎないことを、忘れてはいけない。殊に芸術家を名乗るならば。
この「数」に縛られて、高価な作品ほど良い芸術だと言い切ってしまうようならば、その人は芸術家には向いていない。むしろ、画商などが良いだろう。
趣が変わるが、数の弊害としてもう一つ思うのは、成績という数値だ。
子供の学力は、テストによって点数という数に還元される。私たちは、小学校から大学まで、この数値に縛られる。その子の出来、不出来は、この数値でのみ推し量られる。多くの親が、それが全てだと信じ切っている。この数値で、子供を分類するシステムが出来上がっているから、信じてしまった方が楽というのもあるだろう。だから、数値化できない音楽や美術の授業は削られている。体育は、スポーツに分類され、それは点数を競う競技だから、問題ではない。
それでも、私たちは感覚的に気付いているはずだ。だから、学校でも虫取りが上手だったり、動物に詳しかったりなど、数値化できない能力に対して憧れたりする。芸術家や歌手に大人が憧れるのも同様だろう。
話しを戻すが、芸術の本質は、隙間にある。いや、本来、芸術は全てを満たしていた。しかし、人間は言語を生み、数を生むことで、感覚を、心を、分節化したことで、芸術はあたかも、節と節の隙間にあるように見えるようになったまでである。
芸術家は、いつも、ゆるやかに行間を行き来し、概念の隙間をさらさらと自由に流れる心で世界を見つめているひとのことだ。
本当は、皆がそうであればいいのかもしれないが。
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