2017年12月29日金曜日

言葉

 常々思うが、言葉は強いが虚しい。

 真実も嘘も、多くは言葉で語られる。いや、正確に言えば、その始まりは言葉である。放たれた言葉が真実か嘘かは、別の形で証明される。つまり、本来言葉そのものは何らの価値を持っていないとも言える。仮のすがたであり担保であり象徴、幻だ。

 そんな頼りないもので人間界は概ね成り立っている。それは、言葉をまずは信じるという前提が成り立っているからである。私たちは、言葉は真実を示すと感じる。そうでなければ言葉が成立しない。言葉がそもそも持っている”信じさせる力”を逆手にとって嘘が生まれる。嘘をつこうと意識せずとも、言葉の持つ強さを使って、さまざまなレベルで私たちは互いに欺き合っているとも言える。

 言葉は本質的に虚しい。そのもの自体には何らの価値もない。私たちにとって真に価値があるのは、事象の変化であり、すなわち「何をしたか」である。

 「私は石を動かすことができる」と言われれば、ああそうだろうと取りあえず信じる。そのまま何もせずに命が果てるまで言い続けることもできるが、そのまま彼が死ねば、何一つ事象に変化をもたらさない。
 何も言わずとも、石を手で押し動かせば、事象は変わる。それを繰り返してピラミッドさえ組み上がるのだ。古代の王たちは言葉の虚しさを知っていたからこそ、物を動かしたに違いない。

 言葉でしか判断できないものは、その程度の価値しか置くことはできない。放たれた言葉は証明されなければならない。科学がしていることはそれだ。証明しようのない言葉を放つ人は”語り部”であり、それが自らの利のためだけに使われると嘘となる。

 中身の無い、殻のようになった言葉もある。挨拶もそうかもしれない。こんにちは、お疲れ様、よろしく、すみません・・・。そう思えば年末だが、年賀状に綴られる言葉はどうだろうか。

 あるビジネスの現場で、がんばりますと言った人が、「がんばらなくてもいい。結果を見せて下さい」と言い返されていた。
 言葉は現実の事象と連携しない限り、本質的に何の意味も持たない。

 人間の脳の前頭葉は社会性を司るとされる。いわゆる「TPOをわきまえる」能力である。この機能の成熟度合いをもって”大人”であるかが判断される。そこには、もう1つ、「言葉と行動の連携の重視」も含まれるのかもしれない。それを私たちは責任と呼んでいるのだろう。