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2019年1月15日火曜日

日本美術解剖学会の記録


 取り立てて喧伝するような活動をしているわけでもない私に、発表の機会を頂いた。同学会幹事でもあり今回の(そして常連の)発表者でもある小田先生の発案との事で、とても嬉しい。小田先生とは、多く話せなかったが、「(私が)いつも聞いているほうだから。もっと発表すべき」と言われたことが印象深い。

   その小田先生がご自身の発表(筋骨格図の製作過程)の中で数回、「肋骨を描くのが辛くて辛くて、発狂しそうだった」という事を言っていて、そこに私は強く同感し頷いていた。「骨格に比べたら筋は簡単」というのも、全く同意である。骨格それも脊柱と肋骨は同じ形状の繰り返しで、中でも肋骨はほとんど同じカーブを何本も描く事になる。その上ただの縞模様を描くわけでもなく周辺構造との関連性や立体感を維持しながらそれをしなければならないので、非常に辛い。輪郭線から始めるとなると、一本の肋骨に対して上下に2本の線を描く事になり、また、肋骨と肋間の区別がその段階では表現されていないので、ただ何本も鉛筆のカーブが描かれているだけのように見えて、その確認でも精神を消耗するのだ。
   私自身も、解剖図作成で体幹の骨格を描くのが最も気が重い。そんなのはしかし誰とも共有できるような感覚ではないと思っていたが、やはり他にもいたのだと分かっただけで今後は気が楽になるだろう。

   私の発表内容は2016年末に出版した自著の製作過程の紹介だった。その中で、粘土写真を使った理由の説明過程で、解剖書の解剖図が現在のように前後上下の直交視点になったのは1858年のGrayからのように見えるが坂井先生にお聞きしたいと言ったところ、後の坂井先生の発表中に、Grayの木口木版で本文と同ページの印刷が可能になった事が影響しているだろうとの返答をいただいた。
   発表後すぐ、坂井先生に「いやぁ、色々やってるんですねぇ。」と言われた。

   その坂井先生の講演は、医学の立場からということで、「言葉 Literacy」を美と並置した内容であった。医学における美と言語の並置とは、つまり解剖図である。坂井先生の膨大な研究に基づく深い知識から掬い上げた簡潔な言葉で論理的かつ明解に組み上げられた発表は、ほとんどそれ自体が構築的作品である。「アルビヌスの解剖人は私たちの世界とは異なる悠久に立っているようだ」との言及は詩的で主観的にも聞こえるかもしれないが、それはアルビヌスの作画過程とその前後の解剖図と医学の変貌の流れを踏まえているからこその真実味なのだ。

   剖出(ぼうしゅつ)に技としてのアートを見出している加藤さんの発表は、まさに解剖写真の見どころを示していく内容だった。人体を内部構造を意識しながら造形する作家には直接的に役立つ情報の数々だった。よくできているものほど違和感がないので、そこに至る過程などは見えなくなるものだ。加藤さんによる剖出の丁寧さによって、そこに至る労力は見事に隠されていた。発表中の笑顔に解剖への態度が現れていた。

  東大博物館の遠藤先生による司会のMCの安心感たるや真似できるものではない。私の発表中にそっと手渡された紙の切れ端には「そろそろ終わりましょう」と走り書きされていた。これは記念に取ってある。

   会の後半は、演者の4名が前へ出て質疑やディスカッションを行う予定だったが時間がなく、数名の質疑応答のみ。「ヌードモデルの観察で、前と後の腸骨棘の関係性がずれて見えたことがあるが、動くのか」という質問には、全員から動かない、ずれないという回答。しかし質問者(学生)はずれていたという実感があるのだから、その主観的事実を重視すべきだとも答えた。ずれたり動いたりはしないが、人間が自然物である以上、個体差として前後の高さが異なることは十分に有り得る。だから、それがどのように違和感を感じさせたのか、が知りたいところではあったが時間の関係上それ以上は話は進まなかった。私としては、そういう視点で人体を構築性から観察する学生がいることが嬉しい驚きである。確か彫刻科と言っていたような。
 また、私の書籍で用いている材料が安価なものばかりなのはなぜか、という質問も受けた。まさしく、それが売りの一つと思っていた事なので気付いてもらえて嬉しかった。粘土で人体を造形するというのは非日常的行為なので、特殊な材料が必要になると実際に作ろうとするハードルが高まってしまうだろうと考えたからだ。芯材の価格は500円もしないものだが、それでも街のホームセンターなどには売っていないので、実はまだハードルは低くない。本当なら、100円ショップの材料で始めた方が良いのかもしれない。もちろん理想は、ダイソーが芯材を販売してくれることだが。懇親会にてこの質問をされた方と話すと、大学は違えど彫刻科出身との事だった。私よりずっと先輩だが。

 美術解剖学という狭い領域に興味を持つ数少ない人々が集まれるこのような場から、次の展望が広がればと思う。








2018年10月29日月曜日

音楽と美術

   声楽家のレッスンに参加した。私が歌うのではない。ある方法論に基づいた指導法の冒頭に、身体についてのミニ講座をさせて頂いたのだ。
   その指導法のベースは身体性にある。指導者の話を聞いていると、どうやら声楽の指導は一般的に感覚的に偏りがちなようだ。そこに身体という自らの基盤に気付かせ、それを意識させることで発声に関係する諸問題を改善させるべく指導を行なっているのである。
   声楽の事は全く知らない私にとって、声楽は自らの身体を楽器として用いる始原的な音楽的活動に映る。人類にとって「話す」の次には「歌う」が来るのだろう。声楽家は「身体が資本」という点でアスリートに似ている。今、プロのアスリートの身体ケアは医学に基づいた科学的なものが基盤になっている。その選択の正しさはレースの結果が示す。科学的なケアによってアスリートは故障を減らしパフォーマンスを向上させることに成功している。一方で、アスリートと同じように身体的基盤が重要である声楽が、未だ感覚的指導が一般的であるというところが意外にも感じられたが、それは声楽を含む音楽があくまでも感覚が重要視される“芸術”領域に立脚していることを強く示している。
   一方の美術は、それが感覚“だけ”が重要だと言う風潮は近代に入ってからの話で、それ以前は常に基本的技術を高いレベルに保ち一定化を図る目的のテクニックが共にあった。人体表現に至っては解剖学であり、風景画に至っては透視図法や色彩学のように。人体表現では解剖学が整うずっと以前の古代ギリシアから数学的な秩序も探求されてきた。人体は「カタチ」であって、それは目で見えるものだから、早くから関心を持たれてきたのだろう。だが、声楽つまり発声はカタチのない「コト」だから、どういう仕組みで声が出るのかはそう直ぐに分かるものではない。指導者の方に、発声指導に身体性が導入されたのはいつ頃なのか伺うと、喉頭鏡で声帯が見られて以降だろうと。名前を聞いたが忘れたので後でググると19世紀スペインのマニュエル・ガルシアだと分かる。声楽家であり教育者であるガルシアが喉頭鏡を発明したそうだ。表現者で研究者というと、19世紀フランスの彫刻家で解剖学者のリシェを思い出した。表現者が研究者、そういう時代だったのだろうか。近世的な生理学の始まりは、17世紀のウィリアム・ハーヴィーによる血液循環説とされるが、発声の生理学的説明はいつからなのか気になる。いずれにせよ、近代的な声楽家への発声方法は、今現在、解剖学の応用が始まった段階のようだ。

   今回招聘いただいた指導者の方は自らがソプラノ歌手であり、あくまでも現場との接点に立って指導をされている。「私はどこへ行っても、その場所にフィットしない」と仰っていた。新たな視点に立つ人は皆、どこにいても居心地の良さを得られないものなのだろう。しかし、そのような人たちがいつも新しい道や場所を作るので、後続者はそこを歩き集うことができるのである。

2018年10月14日日曜日

「美術解剖学のRESKILLING」の感想

   先日(10月11日)の武蔵美彫刻科での『美術解剖学のRESKILLING』は私にとっても貴重な機会となった。彫刻科教授で企画者の黒川先生は美術史、彫刻史に明るく、それを見通したうえでの彫刻の現状において美術解剖学という技法の欠落を注視しておられる。美術解剖学という「人の形の見方論」の有効性を再定義しようという先生の試みの発端が、彫刻教育の前線から見える景色にあるのは想像に難くない。なぜなら、東京造形大学に私を招聘下さった保井教授もまた同様の課題を見据えているからである。彫刻は対象を輪郭線で捉えるのではなく、構造で捉える。構造で捉えることができなければ、その再構築は非常な回り道を迫られた挙句、目標へ到達することさえ難しいのだ。そのような彫刻に特有の認識要求から見て、美術解剖学は殊更に彫刻芸術と親和性が高いと言えよう。美術解剖学が人体を客観的に理解する方法論であるなら、それは古代ギリシアではすでに実施されていた。ちなみに、美術解剖学という呼称が、哲学のようにすでに使われていたというのではない。美術解剖学は美術解剖の学という意味ではなく美術で用いられる解剖学の事で、輪郭の定まった1つの学問領域を意味しているのではなく自然発生的な一般用語である。解剖図を描き残したことからレオナルド・ダ・ヴィンチが美術解剖学の始祖のように書かれることがあるが、レオナルドはそのような学問を打ち立ててもいないし、そのつもりも無かっただろう。美術解剖学という言葉がそのニュアンスを端的に伝える一方で、その輪郭が曖昧なのはそのためである。

   さて、美術解剖学がいつから美術界でないがしろにされてきたのかは、文献を漁るまでもなく、表現された人体の変化を美術作品に追えば大づかみに捉えることが可能である。西洋においては、形式に則って人体を表現した新古典主義から印象派への移行期にそれを見つけることができる。それから現代まで、元来は人体表現の基礎技法に組み込まれるべき解剖学が、知りたくなったら勉強するものになり、その結果として今では美術解剖学が上級者の知識のように思われているほどである。
   その解剖学へのニーズがこのところ若干ながら高まってきている。表現の現場では、3DCGの表現技術の向上と関連しているようだ。機械技術が上がっても人体を表現できる人材が足りないのである。しかし、視野を広げると、CGというエンタテインメント領域だけに留まらず、より現実的な身体性への関心度合いも高まりを見せているという人もいる。ただ私にはそれがどういう理由によるものなのか分からない。情報化社会からの振り戻し現象のようなものがあるのだろうか。

   その微かな時流を鋭敏に感じ取られたという事だろうか。武蔵美の彫刻科では、黒川先生によって美術解剖学の価値の再検討が企てられ、一昨年には英国からアーティストと研究者を招聘しカンファレンスが開かれた。今回の企画もその一連に続くものだと言う。私は彫刻を学んで解剖学に興味を抱いた者として、両者の根本的な近似性や彫刻における有用性を実感している。しかし、美大だからと言って、また彫刻科だからと言って、皆がそう考えているわけではなく、現状が伝えるように、むしろ不必要だと考えられている事の方が多いだろう。その現状において、今回のように声をかけて頂ける事がどれだけ私にとって嬉しいか想像できるだろうか。それは仕事を頂いたというシンプルな喜びだけではなく、ついに同じ方向を向いている教育者に出会えた喜びであり、またそういった人々に私を見つけてもらえた喜びでもあるのだ。私を見つけ引き込んで下さった冨井先生に感謝する。

   彫刻の教育現場で解剖学視点を学生に教えることには否定的な意見がもちろんあり、直接厳しく言われることもある。そしてその意見は間違ってもいない。それはいつも必ず、単に形だけを知る事への否定の意見だ。解剖学は形態と構造を扱う。つまり形と組み立ての事で、それだけなら命のない積み木の説明と同じである。私たちは形があり命がある。否定する人たちは「解剖学は命を見ない」と言う。きっと、美術解剖学と呼ばれるものが退屈で役に立たないと言われるようになった原因はここにあるのだろう。確かに解剖学は命が流れていない。それが示す人体形状は命の流れで作られた「止まった結晶」である。医学では解剖学のほかに生理学があり、それが命の流れを指し示す。だから解剖学と生理学は医学の両柱と言われるのである。医学では解剖学に続いて生理学が勃興したが、なぜ芸術ではそうならなかったか。それは命は芸術家の感性が担当してきたからに他ならない。だから、感性優位の表現時代に入ると解剖学は不必要とされて来たのである。そうして今、再び美術のための解剖学に一部の人々が目を向ける時、相変わらず人体の形態と構造だけを示したならばどうなるかは明白である。現代は19世紀終わりに思われていた人体の在り方とは異なるのだ。21世紀は美術解剖学だけではなく美術生理学も必須の時代である。
   つまり、これまで美術解剖学が不必要とされたのには相応の理由があるのだ。それはおそらく、科学発展に伴って急速に変化したアーティストたちの人体観に美術解剖学がついて行けなかったからだ。15世紀の芸術家が解剖学を応用しようとした時、それは最新の科学だったのである。アーティストは常に最新の位置にいることを忘れてはならない。これからは解剖学だけでは到底足りないのである。今求められるのは人体を取り巻く総合であり、つまりは医学と呼べるようなものである。21世紀に必要なのは「美術医学」であろう。

   今回の特講は、比較解剖学者の小藪先生によるラットの咀嚼筋解剖からゴジラまでを包括した頭頸部の構造と表現の解説など、多くの気付きを与えられる素晴らしい企画であった。その後の親睦会では、武蔵美の先生方のお話から私自身とても勇気を頂いた。美術解剖学と呼ばれる領域はとても小さくその活動は個人レベルが実態だが、表現や制作に使えるのだと分かってもらえる努力がまだまだ必要であり、そしてそれを期待している人たちもいることを今回は実感できた。こちらが何を提示できるのか、それが問われているのである。

2018年9月3日月曜日

人体構造と美術の見方

   先週末も、新宿の朝日カルチャーセンターで月1回の連続講座を行った。ここを受講される方のモチベーションは高い。純粋に自らの趣味に突き動かされているのだから、それも当然のことだろう。講座内容は一般的ではないが、それでも長く受講を続けてくれる人もいる。そういう人はその人なりの時間の過ごし方があって、たとえば私の講釈をラジオの様に聴き流しつつゆったり描く人もいる。そんな風に気楽に聞いてもらえるとこちらも落ち着けたりする。また、長く受講されている人は私がよく口にする身体構造が頭に入っているから、こちらへ投げてくる質問の内容も的確で、解剖学用語が普通に出てくる。さらには、私の解説が彫刻を例えに出すことが多いからか、彫刻についての興味を質問されることもあって、嬉しいことだ。彫刻は絵画より鑑賞者が少なく、それは鑑賞の仕方が分からないからと言われる。そんな中で、本講座によって人体の見方が彫刻の見方にも連続的に繋がっている事が実感されるのなら、それは本望である。

   前回の講座後に、開催中のミケランジェロ展に関する質問を受けた。それは、その人が作品から受けた感覚への疑問であった。「私はこう感じたが、良いのだろうか」と。感じ方にルールや答えはない。芸術学ともなれば客観的根拠に基づいた判断が求められるが、鑑賞は別である。美術館は敷居が高くて・・とはよく聞く。それは鑑賞に答えがあるように思ってしまうからではないだろうか。巨匠の作品でもつまらないと感じて良いし、無名作家でも素晴らしいと思ったらそれが感情の事実である。
   なぜ美術の敷居が高いのだろう。これは決して全世界共通ではない。おそらく日本特有ではないか。作品に敬意を払うことは大事だが、もうそれを超えて、怖れに達しているようにも感じる。怖れは“分からない”から生じる。“分からない”は答えがあることが前提である。答えはない、読まなくてもいい。気楽に、音楽や風景や映画と対峙する事と同じなのだ。誰もが、自分の言葉で、自分の感覚を“普通に”語れれば良いし、もちろん語れなくても良い。とは言え、私の講座での人体の見方がそのまま芸術作品の見方となって、その人なりの芸術を語る言葉になれば、それに越したことはない。

   時々、他でも同様の一般向け講座をしているかと聞かれる。学校ではなく一般向けは現状ではここだけなので、もっと増やせたらとも思う。人体構造の見方が美術の見方につながって鑑賞の手引きとしても役立つのなら、これは美術解剖の副次的な効果と言うより、本質的な効果が現れていると私は思いたい。

2018年7月29日日曜日

ミケランジェロと解剖学

   28日(土)は関東地方へ大型台風が近づく中、新宿の朝日カルチャセンターで「解剖学的に観るミケランジェロの人体表現」と題した講義を行った。天候が荒れる可能性があるにも関わらず、多くの方が聴講に来て下さった。同じ興味を抱く者として、芸術に対するその情熱を嬉しく感じる。
   この講座は、上野の西洋美術館で開催中のミケランジェロ展を意識している。ミケランジェロの人体造形には、人体解剖の知識が存分に活かされている。神の如きの半分は解剖学が担っている。それほどに大きな要素であるにも関わらず、この展覧会ではそこに触れていない。サブタイトルに「理想の身体」とあるように、彼が生きたルネサンス期の最たる、そして理解しやすい特徴である、古代との表現の連続性(およそ1000年の隔絶があるにせよ)に焦点を当てている。それゆえ講義では、彼の芸術がある側面において古代を凌駕することを可能にした、この当時最新の科学(的手法)である解剖学との関係性に焦点を当てた。


 ルネサンスの解剖学は、現代よりも自由だった。皮膚を剥ぎ取った内側に現れる構造は隠されていたもう1つの大自然の組み立てである。それをどのように見て、捉えて、認識するのか。芸術家が執刀するとき、それは芸術家に委ねられた。結局はそこなのだ。ミケランジェロもレオナルドも、そしてヴェサリウスも解剖をした。それぞれが見た内部構造は、それぞれ異なっていたのである。医学は体系化することで知識の均一化を志す。しかし芸術は違う。均一化した芸術は現代ではあり得ない。つまり、本質的な意味での、美術解剖学というのは成り立ち得ないのだ。解剖学も結局は、人体という自然の見方であり、その見方の革新性こそを重んじる芸術では、それぞれが開拓することが求められる内容なのだ。ミケランジェロが解剖から何を得たのかはレオナルドのような手縞がないので具体的ではないが、彼の作品を見れば重要な点はほぼ伝わる。ミケランジェロ的解剖学は彼によって、彼だけのために構築されたのである。もし、ミケランジェロ的解剖学たるものが、彼の後にまとめ上げられたならどうなるだろうか。それは彼以降おとずれた人体の捉え方の潮流であるマニエリスムを見れば大体は想像できる。つまりは、そう上手くいくとは思えない。体系としての「美術解剖学」が存在しないのは、そういう根本的性質に起因しているのだ。

 解剖学と芸術家との関係性において、重要な事実はこういうことだ。すなわち、解剖学がミケランジェロの芸術を引き上げたのではなく、彼の芸術性が解剖学を最大限に活かしたのである。

   

2018年7月9日月曜日

美術における人体構造学


   最近では、人体の内部のつくりについての学問を「解剖学」の呼称にまとめることをせず、「人体構造学」と呼ぶことも多くなった。とは言え、一般的な認知度では相変わらず「解剖学」呼称の独り勝ちであることは、書店に並ぶ本のタイトルを見ればわかる。ではなぜ、大学の講座名や講義名では「解剖学」と呼ばなくなってきているのか。それはこの単語が持つ本来の意味と、行われている実質的内容との距離が開いてきたからであろう。解剖学は読んで字の如し、人体を切ってばらしながら探求するという意味合いがある。解剖学を行うには解剖実習室と解剖道具そして何より死体が要る。しかしながら、現代では人体についての探求は、必ずしもメスとピンセットで切り開かなければ分からないものばかりではない。放射線や磁力、超音波を用いることで切り開くことなく体内を見ることが可能であり、しかもそれらを立体的に見たり、触れる素材として出力することももはや特別ではない。これらのように、人体を刃物で解剖せずに、人体のつくりについて学び研究するのであれば、血なまぐさい印象を纏う「解剖学」の文字は使わずに「構造学」を用いる方が内容に即していると言える。ただ、構造学という響きには、人間という生物が持つ柔らかな分からなさをも払拭して、どこか機械的で冷たい趣きがある。命ある人間も、その構成へと分解されるとそこには生命現象のまとまりは見えなくなり、物理化学的な現象の連なりがひたすらに連続しているばかりであるような。もちろんそれが間違っているわけではない。我々人間にとって対象の意識的理解とは理解の解像度を上げること、言い換えればピントが合っていることであり、そのためには対象に近づかなければならない。そして狭窄した視野の両隣りとの関係性を明確に捉えなければならない。「近づき、解像度を上げる」事に情熱を向けるのは、私たちが情報の多くを視覚から得ている事と関係しているだろう。
   しかし、細分化されたものはその階層での関係性で成り立っていて、それがそのままより大きな階層との関係性に連続していくとは限らない、いわゆる創発的性質がある。これが、理解を助けると同時に全体性を分断させる。それは仕方ないことではある。自分の日常と宇宙の進行の連続性を統合的に感じながら生活するのはなかなか難しい。さっきこぼしたコーヒーと白鳥座のブラックホールが関連していると考えるようなものだ。そうは言っても、自分の存在以上に目を向けるよりは、ずっと意識しやすいはずだ。自分という限定された物質内での出来事だと考えるなら。
   個人の階層から始めるなら、器官系、器官、組織、細胞、細胞内小器官、分子と階層を降りていく。私たちがものを食べて、それが吸収され、やがて自分の一部として役立つ過程は、この階層性の一往復に相当することが分かるだろう。階層性は層を跨ぐのだから、高さの概念である。もう一つ、同じ層にあっても横の概念がある。例えば器官系のひとつ循環器系ならば、その名称の元である循環現象を生み出す心臓を「親」に見立てることができよう。その拍動がなければこの器官系の存在意義がないのだから。そうして一方通行の血流が起こることで順序が作られる。心臓から出るのは動脈で帰るのは静脈という大原則の元、肺循環(機能血管系)と体循環(栄養血管系)という2つの循環が生み出される。これら同じ階層内にある機能的な横の連なりの概念を分かりやすく「親子関係」と呼びたい。親子関係の世代の異なりが階層の概念と結びつきやすいかもしれないがそうではない。これは影響力の主従関係のことで、子は常に親に従う関係性を持っている。循環器系の例で見れば、動静脈の区分けなどは親である心臓の配下にある子だと言える。これは別の器官系例えば運動器系でももちろん言えることで、この系の仕事が主に機械的であることから、より分かりやすい。腕で例えれば、指の動きは掌の動きに従い、掌は前腕に従い、前腕は上腕に従う。つまりここでの最上位の親は上腕となる。これは、3DCGのモーション付け(リギング)では以前からある概念で、これを適用したIK(インバース・キネマティックス:逆運動学)はアニメーターの作業を感覚的かつ迅速なものにしている。
   ここまで示してきた階層性や親子関係は、理解の仕方つまり情報の分類整列だと言える。人体で行われている生命現象は全てが関連した壮大なエコロジーとも言い得るものなので、他と関連しない局所的視点の知識だけでは、トリビアとして楽しいが、あまり意味をなさない。これを知る過程とそのための組み立てを体系と言う。つまり、知り方の順序である。現代では、知識だけならばインターネット上に十分転がっているだろう。しかし、そこには体系がない。その様は、情報の広大な草原のようだ。どこへ向かっても何か見つけられる。しかし、それが最善の道かは分からない。ネットによる情報の獲得が用意になってもなお、教育機関が存在し、そこへ人が移動して教え学ぶのには訳がある。そこには道があるはずだからだ。

   美術系学校で人体構造を教えているが、その全てにおいて、絶対的な時間不足が生じている。時間が短いと何が起こるかと言うと、体系が失われるのだ。それは3時間の映画を3分で語るのに似ている。それは重要箇所を点として提示するだけになる。確かに、「上腕二頭筋は上腕筋の上に乗っている」と聞けば一つ知識が増えた気になる。しかし、これが造形の現場でどれだけ役立つだろう。短ければ短いなりの伝え方があるかもしれない。確かに体系的理解には膨大な構造知識も密接である。ただ、医学体系で組み上げられた現代の体系に縛られなければ道はあるかもしれない。


   解剖学を芸術に応用した最初期の例として挙げられるレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図とメモを見ると、その斬新さに驚かされる。実際、それらのいくつかはずっと後世にならなければ認められなかった。その先見性の理由のひとつとして、レオナルドが既存の知識体系を知らなかったからではないかとも言われる。それに加えて、レオナルドが経験を師とし、自分を信じたこともある。彼の手稿には、医学体系に縛られない人体構造の捉え方が示されているのだとも言えるだろう。16世紀以降、人体構造は紛れもなく医学によって推し進められ、知の敷石が順序立てて並べられてきた。それと同じくして平行的に進んできた芸術における人体表現とその参考的知識体系としての美術解剖学は、いつしか、発展した医学と関連してその敷石の上を歩むようになったように見える。
   500年を経たいま、改めてその序章を見直すことで、芸術に立脚した人体構造の見方への根源的な指針が見つけられるかもしれない。そこから、従来とは異なる、もう一つの隣り合った人体構造学が始まらないとも限らない。そうなれば、やがてそれはとなるだろう。

2018年3月8日木曜日

名作のポーズを女性モデルに取らせて

 先週末の3日(土)の朝日カルチャー講座では、女性ヌードモデルを使って名作のポーズを実際に取ってもらった。立ち、座り、寝ポーズの3種類で、立ちポーズはローマ彫刻『メディチのヴィーナス』とクラナッハ『ヴィーナスとキューピッド』、座りポーズはロダン『美しかりしオーミエール』と荻原碌山『女』とローマ彫刻『うずくまるヴィーナス』、寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』。

 ところで、ロダンの老婆をモデルとした『美しかりしオーミエール』は、個人的にこの日本語題名に抵抗がある。まず、タイトルの響きが主張しすぎているように思われる。”美しかりし”と言われると、このうなだれた姿勢と相まって、作品を感傷的にさせすぎてしまう。”オーミエール”という固有名詞的カタカナも加わって、何か具体的でドラマティックな物語が背景にあるのだろうと思わせる。ストーリー性が強くなると形態への興味が薄らいでしまい、「ああ、誰か知らないけど、かつて美しかった女性なんだろうな。オーミエールさんと言うのかな。」と納得した気分ですぐに作品から目を離してしまう。それでは日本語でなければどうなのか。
 英語のタイトル表記では、『The Old Courtesan (La Belle qui fut heaulmière)』である。カッコ抜きならば、シンプルに『老いた高級娼婦』である。カッコ内の仏語が原題なのだろう。英語直訳では ”The beautiful who was heaulmière”で、”オーミエールだった(と呼ばれた)美女”とでも言おうか。そうなるとオーミエールとは名前ではなく娼婦の意味か?。ググってみるとそうでもなかった。これは、15世紀フランスの詩人であるフランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩に由来するものだった。その中に『Les regrets de la belle heaulmière』がある。問題のオーミエールだが、これは”ヘルメット(武具)工房の妻”を意味するようである。つまり、美しさから”La belle heaulmière”と呼ばれた女性のことだ。『美しきオーミエール(武具工の妻)の後悔』とも呼べる詩の内容は、今は年老いた女性が、かつて若く美しかった頃を語り、全て老いてゆく人間の運命を哀しむものである。
 さて、その上で日本語題名の『美しかりしオーミエール』は、”今は美しくない”と言っているのと同じで、原題とニュアンスが異なっている。原題直訳では『オーミエールと呼ばれた美女』で、像の老婆にも敬意を感じる言い回しである。「若い=美」という単純さに異を唱えていたロダンが、老婆の姿に”今は美しくない”などと言うはずもない。そもそも美しさを感じていなければ、この像は造られなかったはずなのだから。その意味においても、単純に『オーミエールと呼ばれた美女』でいいのではないか。


 本題に戻して、まずは『メディチのヴィーナス』。”恥じらいのヴィーナス”と呼ばれる型の1つで、オリジナル(現存せず)は古代ギリシアのプラクシテレス作である。左脚に重心を乗せて始まる典型的なコントラポスト姿勢。正面写真では胸と股に手を当てて見えるが、横から見るとそれらの部位から手は浮いている。また、若干上体を丸めている。左右の手と胴体の間には隙間が開いていて、そこに実際に布などを挟むこともしたのではないかと想像したくなる。モデルは、右足かかとに丸めた布をおいて、かかとを上げた姿勢を維持していた。破綻無く同様の姿勢を取ることが可能だが、像と同様の丸めた背を継続することはできない。つまり、この像はその場に静止しているのではなく、移動運動を暗示している。”恥じらって”、頭部は誰かを警戒しているので、この場から離れようとしているのは確かである。


 『ヴィーナスとキューピッド』は、似た絵が何枚も作られた内の1つで、ハチに刺されて困り切っているキューピッドの表情も可愛い。ところがその体は筋描写がしっかりしていて”マッチョ”である。この表現はイタリア・ルネサンスのフィレンツェ派、ミケランジェロの影響が感じられる。女性モデルにポーズしてもらったのはもちろんヴィーナスの方で、つま先を外側へ大きく回した左脚を右脚の後方に持っていく姿勢は、立体で見るのと絵で見るのとでは印象が異なる。その重心は顕著ではないものの、左脚側にあり、骨盤はわずかに右側が下がる。モデルとこの絵とで最も異なっていたのは、曲げている右腕と胴体との関係性で、絵では前腕の上に間をおいて乳房があるが、実際は曲げた前腕のすぐ上に乳房がある。まして、この絵のように、直角以上に鋭角に曲げた肘によって上へ上がっていく手が左乳房の下端にも届いていないことなどあり得ない。このヴィーナスは一見しただけでそのプロポーションが歪んでいることは明らかなのだが、具体的な位置関係の大きな違いが表されている事から、モデルの観察と言うより、型に基づく描写であろう。


 彫刻『美しかりしオーミエール』は、左膝を深く曲げて足は地面に達していない。モデルのポーズではここに台を置いてそこへ左足を置いた。この作品は腹部正面からの写真がほとんどだが、見せ場は背中にある。直角に曲げた右腕は背中へ回され、その手は大きく開いて手のひらを後ろに向けている。前腕には屈筋腱が鋭く浮かんでいる。丸められた痩せた背中には肩甲骨が浮き出ている。自分でこの右腕の姿勢を試せば分かるが、私たちの腕はこの姿勢を取るようにはデザインされていない。むしろ、少ない努力でこの姿勢が取れてしまう人類は、それだけ特異な形態へ進化しているのだと言える。上腕骨は最内旋した状態で肩関節は過伸展している。過伸展には三角筋の後部(棘部)が収縮するが、この筋は外旋筋でもあるため、この姿勢の達成にはジレンマがある。右前腕は背中に”引っかけられて”いる。前腕がこうして固定された状態になると、筋の張力が動かす骨の向きはそれまでと逆向きになる。つまり三角筋の後部は肩甲骨を体幹から引きはがすような方向に働く。そのために、肩甲骨の内側縁は持ち上がって背中に高い稜線を形成するのである。これは彫刻でもはっきりと表現されており、モデルにおいても同様であった。街でお年寄りが背中に両手を回して腰で両腕を組んでいるのをしばしば見る。それも、上記の働きを自然と応用しているのであって、つまり、丸まった背中をこうして伸ばしているのである。この姿勢が楽になったら相応の年齢になったと思うべきか。ロダンの作品のモデルの老婆も背中が丸く、この姿勢を続けるためにも片腕を背中に回す必要があったに違いない。続いて彫刻の左肩を見ると、肩甲棘から胸椎に向かって一条のすじが下りていく。これは僧帽筋の上行部(下部)の緊張を表している。この像の背中は、観察に基づく写実描写があり、それはこの像全体にも言えることだ。ポーズ終了後にモデルが、この右腕の姿勢はきついと言っていた。

 碌山の『女』は、我が国の近代彫刻の記念碑でもある。ひざまずいた姿勢で、上半身はわずかに前方へ傾いている。膝は左側が後ろへ引かれ、そこから連動するように頭部まで捻れるような動勢が続いていく。前へ倒れそうな勢いを、後ろに組んだ両手が反対方向へ引いている。ひざまずく低さと、上を向けられた顔とが反発するように対応し、拘束からの解放や、苦悩からの希望といった印象を鑑賞者に抱かせる。実際にこの姿勢で止まることはできない。重心が前方へ外れているので前のめりに倒れてしまう。モデルの上半身はずっと垂直に寄ったものになり、この作品のような劇的な視覚的印象がない。膝で立っているので、膝と足首によるバランス取りがキャンセルされ、モデルは容易にふらついた。ところで、この作を見ると、ロダンにも多くの影響を与えた彼の助手クローデルの『The Mature Age(分別盛り)』の1人を思い出すのは私だけではないだろう。
カミーユ・クローデル『The Mature Age』


 『うずくまるヴィーナス』も、古代ローマのヒット作で、幾つも発見されている。ポーズのバリエーションが幾つかあるが、どれも片膝を立てるようにしゃがんでいる。今回参考にしたものは大英博物館にあるものだが、その造形は観念的なヘレニズム様式を取っている。折りたたまれた四肢で構成される込み入った空間がひとつの見せ場だが、狭い空間を見事に彫り上げたローマの石彫家の高い技術には驚きしかない。この姿勢の見事さは、モデルに実際にポーズを取ってもらうとより強調される。体幹と曲げた四肢の間には、幾つもの三角形が現れる。このトラス構造は、視覚的な安定性ばかりでなく、実際の彫刻作品にも安定した強度を与えているだろう。彫刻の背中には正中に溝が殿裂まで走っているが、実際の人体では殿裂まで追うことはできない。殿裂の上方には左右に窪みがあるが、その窪みよりさらに上方でその溝は消えてしまうからである。


 今回の寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』のみ。寝ポーズは意外と参考に向くものが見つけられなかった。この作品は、背骨の数が多いと、発表されたときから言い続けられている。確かに細長く見える。それはこの画家がそう見せようとしたからである。絵で見ると、背骨のラインが大きく横にカーブしていて、とてもそのようにモデルが曲がるようには思えなかったが、実際には、かなり近い姿勢を再現することができた。絵の左側が高いので、ビーチチェアーを用いた。絵の女性の背中は左右幅がなく見えるが、これは斜めの視点によるものである。胸郭部の背骨の曲線は右への側弯ではなく胸椎の生理的後弯によるもので、これが腰椎の側弯と融合することで絵のような一連の長い曲線に見えるのである。また、この絵の女性の腰は左側の多くがクッションに沈んで描かれていない。これも幅を狭く見せる視覚効果をになっている。この女性が立ち上がったなら、思いの外量感のある身体で驚くはずだ。一瞬どうなっているのか目が迷う両脚は、下にある左足を組むようにして右脚に乗せている。右腕は腰に乗せているように見える。モデルのポーズもそのようにした。すると、右の指先は絵のようにふくらはぎには届かない。絵では右手指先が左脚ふくらはぎの上に乗せられているが、これこそ現実界では厳しい姿勢である。この絵が、細かったり長かったりするような歪みを見せながらもそれらしく見えてしまう理由のひとつに、希薄な奥行き感があるかもしれない。まるで望遠レンズで見たような圧縮された遠近感。右の脇の下から覗く乳房も、実際より手前に飛び出ているように見えるが、これも前後に圧縮した遠近感によるものだ。

2018年2月5日月曜日

名作のポーズを男性モデルに取らせて

 カルチャーセンターで先週末、男性モデルに名作と同じポーズを取ってもらう試み。
 今回は、ミケランジェロ『反抗する奴隷』と『システィーナ礼拝堂天井画のアダム』、ロダン『アダム』、ダ・ヴィンチ『聖ヒエロニムス』、古代ローマ『ラオコーン』、パルテノン神殿ペディメント彫像『河の神』。バリエーションとして、立ち、座り、寝ポーズをそれぞれ2つずつという設定。

 『反抗する奴隷』は、体幹部つまり骨盤と胸郭の間での捻れがとても強いことが改めて分かる。彫像と同じ姿勢を生きたモデルで継続的に静止していることはできない。また、深く曲げた右脚の膝頭は左脚側へと向けられているが、このようにするとバランスが崩れて静止できない。安定させるには右膝頭は右側へと振り出さざるを得ない。それにしても、強い捻れに支配されているこの像は、骨盤正面から見ると身体の右側が上下に直線的に裁ち落とされていることが分かる。恐らく原石がそこまでしか無かったのだろう。つまり、この像は右膝頭を生きたモデルのように右側へと振り出すような姿勢には物理的にも不可能だったと考えられる。しかしもちろん、それが可能だったとしてもこの芸術家はそのポーズは選ばなかっただろう。像の身体を貫く捻れの動勢が乱れるからである。ところで、この像の肩から頭部までの動勢と造形は、ブルータス胸像とそっくりな事に今まで気付かなかった。

Adam ロダン『アダム』は、システィーナ礼拝堂天井画のアダムへのオマージュであることはその姿勢からも明らかだ。身体の全てが強い緊張と捻れで支配されており、生きたモデルでは厳しいだろうと思っていたが、ポーズ後にモデルに聞くと「私も厳しいと思ったが、意外と辛くなかった」との事。今回は拘れなかったが、像では足の指まで力がみなぎっている。左足の指などは全て強く曲げられ、『考える人』のそれを思い出させる。アダムの曲げられた右膝が左へと向けられているのは『反抗する奴隷』を彷彿とさせる。





 『聖ヒエロニムス』は、状態の良くない未完成画で、ヒエロニムスの体幹は影であることも重なって形態が明確では無い。左肩から地面へと続く布の襞が、光が当たったように白く、それが右脚と連動することで一見するとしゃがむように腰掛けているように見える。だが、目を凝らすと、尻の下に左足があることが分かる。つまり、彼は腰掛けているのでは無く、左膝を地面についているのだ。ヒエロニムスの頭部から、伸ばされた右腕の付け根辺りの描写は細部まで見える。そこで目立つのは、頚部から上腕の中部までの描写である。頚部には縦に走る広頚筋の襞が浮かび、口角を横に広げた表情と破綻無く連動している。また、鎖骨から上腕へピンと張った筋の束が浮き立っていて、これは大胸筋の鎖骨部である。モデルにポーズを取ってもらうと、静止した状態ではこの絵のように大胸筋鎖骨部は浮き立たなかった。そこで、この姿勢のまま、私が出した手を前へと押してもらうと、これが浮き立った。この筋束は、腕を前方へ振り出すような運動の際に強く働く。つまり、この絵の人物は右腕を強く振り出す運動をしている最中、もしくはその直前である。彼の手は何かを握っているので、それと関係しているのだろうか。そう思うと、ヒエロニムスの体は全体的に絵の右側へ傾いている。身体がその方向への運動を示唆しているのかもしれない。このポーズは一見楽に見えるが、横に伸ばした右肩の負担は相当なもので、モデルは頻繁に右腕を下に降ろして休ませなければならなかった。

 『ラオコーン』は、座って上体を反らしているだけではなく、胸郭は強く右へ旋回している。それでも、像ほどに胸部がせり出したようにはならなかった。像の胸郭左側面には小さな起伏が幾つも見える。それは縦に3列で、最も後列が前鋸筋で、残り2列は外腹斜筋とその深層の肋骨の起伏が重なったものである。とはいえ、その位置描写は誇張があって人体構造的に正確ではない。例えば、前鋸筋の肋骨付着位置は後ろ側に過ぎる。同様の違和感は膝にもあり、手足の描写も若干観点的である。一方で、肩に浮き立つ橈側皮静脈や脚に見える大伏在静脈などは確かにそのように見える位置にある。この像は、観念と写実表現が入り交じっている。像と同じように胸郭を右回旋しつつ反らせたまま固定し続けることは難しかった。像は左下から右上へと強い動勢が表されているがこれは静止ポーズではできない。像の男性は激しい動きの只中にある。

 システィーナ礼拝堂天井画の『アダム』は、寝ポーズのひとつとして取り上げたが、斜面に横たわっているので、モデルポーズの際にはビーチチェアーを用いた。折り曲げた左脚の膝と、そのすぐ上に来る左腕の位置関係は実際には不可能である。このフレスコ画の腹部は二次元的な歪みを持って曲げられており、構造的に見ようとすると不安を覚える描写である。ここが実際のモデルの姿勢とどれほど異なるのかが興味深いところであったが、実際には、全く異なるというものではなかった。ただ、自然にこの姿勢を取ってもらうと、画中の男性ほど胴体が横に曲がらない。意識して胸郭を左へ曲げてもらうと絵のような強い側方弯曲になった。伸ばした左腕は、膝との位置関係を合わせようとすると、画中のようなわずかな上向きにはならず、ほぼ水平位になる。その腕は膝に休ませるような姿勢を取ったが、画中のアダムはそうではないので、左腕と左膝との間には奥行き方向のずれがあると考えられる。なお男性器が右大腿部に乗っかっているが、実際にもこのようになった。

 パルテノン神殿彫像の『河の神』は素晴らしい像だが損壊しているので、復元像の姿勢をモデルには取ってもらった。左腕を地面について、頭部も左を向いている。この像はかつては神殿の屋根の下の横に伸びた三角形(ペディメント)の端の角に位置していたので、上下に窮屈な姿勢である。不思議なもので、復元姿勢よりトルソと化している現状の方がより彫刻的な魅力を増している。システィーナ礼拝堂天井画のアダムと同様に、モデルの自然なポーズではこの像のように胴体が横に曲がらない。あえて曲げてもらうと、右の肋骨弓の外側部が側腹部に食い込むようになり、そこの肉は溜まって深い溝が2条現れた。大理石像では、そのような溝は表されていない。正面性の強いポーズに見えるが、足側から見ても、十分空間的な豊かさを保持していた。ギリシア彫刻には、この胸郭に見られるように、「曲がるところ」と「歪むところ」が明確に区分されている。この時代は人体の解剖の記録が無いというが、その身体の捉え方は、現在とほとんど同様である。それはこの時代が先進的だったとも言えるし、芸術から分かる身体の捉え方は既にこの時代の見方で十分に満たされているのだとも言えるだろう。


 筋肉質の男性モデルでは、皮下の運動器の起伏を直接的に外見から追うことができる。それにしても、皮膚に覆われた内側で躍動する構造を、冷静に捉え、正確に破綻を来さないようにするだけでなく、芸術的な調和に中に再構築するところまで高めた古代ギリシアの表現には感嘆を新たにする。まったく、現代においては、そこに至る道筋を想像することも難しいほどだ。ただ1つ言えることは、知識と技術だけでは決してそこへたどり着かないと言うことである。それらが素晴らしい二頭の馬とするなら、それらを操る巧みな御者こそが必要なのだ。

2017年9月5日火曜日

ミケランジェロ『夜』のポーズをモデルに取らせて

先日、カルチャーセンターの講座で、モデルにミケランジェロの『夜』のポーズを取ってもらった。ビーチチェアを置いて、そこに横たわってもらう。彫刻の右脚は膝が曲がっているのだが、ビーチチェアでは伸ばさざるを得なかった。このポーズの見せ場は、当然ながら体幹部のねじれである。右肘を左ももに付けるという、ストレッチ体操のようなねじれの姿勢を取っている。この姿勢をモデルが10分間維持できるか未知だった。結果は、やはり数分するとねじれが徐々にほどけてくる。

 ミケランジェロの作品には、この作品と同様に、過度に身体をねじった表現が多い。鑑賞者もそれを見ると、ああ窮屈な姿勢だなと思う。緊張した、押し込まれた状態のバネのような、そういうものを感じる。そして、それこそが作家が狙った効果だろう。その時、鑑賞者は誰もこれが冷たく硬く不動の岩石でできていることを忘れている。この強い捻れの姿勢は、ロダンの『考える人』にも採用され、その動勢を鑑賞者へ伝えている。
 『夜』の腹部には大きく3つのひだができている。腹部は屈曲しているので、皮下脂肪が集まって緩んでいる。左の腿の付け根には、もう1つのひだが見える。腹の一番下のひだとこのひだの間には若干の隙間が表現されている。ここが骨盤の最上部である。脚の付け根、もしくは尻の横面が大きく見えており、そこには3つの膨らみが造形されている。これは上から、大腿筋膜張筋、大転子、そして大殿筋である。太い大腿部の側面には近位側に溝が2条見えるが、これは上が腸脛靭帯で下が外側広筋とハムストの境界であろう。殿部を構成する大殿筋の遠位部の表現は若干特徴的で、立位の時の殿部の印象が表されている。つまり、印象としての、もしくは記号化された尻がそこにある。
 乳房は、見れば分かるが、まったく現実味のない表現物で、分厚い大胸筋の上にできた腫瘍の様だ。この乳房はその醜さから返って目に付く。なんとなれば、後世の芸術家がこれを削り去って大胸筋だけの胸部へと修正しやすいように、境界を明確にしておいたのではないか・・などと想像してしまう。
 
 ミケランジェロは、この作品を作るに当たって、もはやモデルを見ていなかったのではないだろうか。そう感じさせるくらいに、理想化と観念性が強い造形である。

2016年7月17日日曜日

美術解剖学カンファレンス の感想

 去る7月15日(金)と16日(土)に、武蔵野美術大学にて美術解剖学カンファレンスが開催された。主な内容は、19世紀のイギリスの美術教育における美術解剖学の在り方についてと、近代日本彫刻と美術解剖学の関連、そして現在とこれからの美術解剖学という大きく3本の柱によって構成されている。

 15日は、「19世紀イギリスの美術教育における解剖学と古代 Anatomy and Antiquity in Nineteenth-Century British Art Education」という題目で、レベッカ・ウェイド先生による講演。レベッカ先生はヘンリー・ムーア研究所学芸員。
 私が遅刻したため、最後しか聞けず、よく分からなかった。関係者に内容をお聞きできたので、後でしっかり理解したら感想を載せるかもしれない。

 16日は、「近代日本の彫刻家における”芸用解剖学”」(田中修二先生)、続いて「サー・チャールズ・ベル:美術的ヴィジョンによる解剖図の超越 Sir Charles Bell: Transcending Anatomical Description through Artistic Vision」(アズビー・ブラウン先生)。
 第2部のメインは、イギリスを拠点として全世界で美術解剖学アドバイザー、講師、作家として活躍しているスコット・イートン氏の講演と、スコット氏、レベッカ氏、そしてモデレーターとしてアズビー氏の3名による対談が行われた。

 なお、本カンファはすべてバイリンガルで行われ、その多くがアズビー先生が担当された。日本語が流暢でとても分かりやすく、カンファの流れをスムーズなものにしていた。

 内容はどれを取ってもピントが合って深さもある、つまりは「濃い」もので、上面だけの趣味人の集まりになりがちな”カンファレンス”の罠に陥っていない。そのおかげで、カンファレンス発表者の少なさ故の情報の限局さの問題が明らかとなり、また美術解剖学と呼ばれるものに対する理解の限界が明確に浮き彫りとなった。特に後者は、私の個人的興味から、大きな収穫である。

 「近代日本の彫刻家における”芸用解剖学”」は、題目の通り、明治開国後から戦後まで約80年間ほどの期間における、彫刻家と彼らの美術解剖学との関連を列挙したもので、資料的な内容であった。ただ、全体をまとめて、近代日本彫刻はロダンだけではなく解剖学もまた重要だったと言い切ってしまうのはあまりに大づかみであり、質疑応答の際にここに関して疑問を呈するような意見があったのは理解できる。とは言え、浮き彫りとなった問題点すなわち、果たして近代彫刻史に解剖学が実質的に役立っていたのか否かという疑問に客観的解答をもたらす研究は未だ行われていないことは明確となった。そして、そのことは、現在も美術解剖学と銘打った講義が数多く行われている現実からも再検証する事に大きな意味があるであろう。

 「サー・チャールズ・ベル:美術的ヴィジョンによる解剖図の超越」。まず、ベルと聞けば、医療関係者ならその名の響きだけであれば誰でも知っているだろう。そう、あのベル・マジャンディの法則のベルだ。脊髄神経と脊髄の間は腹側と背側に分かれる。その腹側は運動神経が通り、背側には感覚神経が通る。その明確な区分けを実験を通して示したのが、ベルとマジャンディである。また、ベルは多くの解剖図を描いた。そしてそれらの”異様さ”ゆえに時折話題に上る。解剖学は、特にルネサンス以降の近世において図版と共に歩んできたと言って良い。そこには、ヴェサリウスの『ファブリカ』の西欧世界的成功が口火となったわけだが、忘れてはならないのが、解剖学者が図版を描いてきたのではないという事実である。ファブリカ然りビドローもアルビヌスも、そしてグレイも、これら著名な響きと共にあるあの図版たちは解剖学者とは別の画家によって描かれたものである。そういった流れにあって、ベルは解剖学者、医者でありながら画家でもあった(あろうとした)のは特筆すべき点だ。ただし、彼は芸術の訓練は受けていなかっただろう。それがあの“異様な”図を生んだのだと想像できる。つまり、同時代の”正当な”絵画の見方や表現法に乗っ取っておらず、良くも悪くも「生の目で見た」対象が描出されているのである。それは、一見すると、江戸時代後期に描かれた腑分け図を彷彿とさせるものだ。同時代の”正統的”解剖図たちがファブリカの流れを汲んだ明確な再構成図であるなかで、アズビー先生も指摘されていたように、彼の描いた解剖体は明らかに一個の死体なのである。描かれた内部は必ずしも明確に線で区分されず、染み出て乾いた血液によって汚されている。解剖初心者がこれらの図を見ても個々の部位を同定することは簡単ではないだろう。そう、実際の人体内部を覗いたときと同様に。ベルは実際、アルビヌスのように、整理されて描かれた解剖図を批判していたという。現実はそんなものではない、と。写真さえない同時代において、整理された再構成図ばかりを見せられることに対する危惧があったのかもしれない。解剖図と体内の実際との解離は現代においても解消はしていない。この現実と理想化の狭間は我々が「見る」とは何かという恒久的問題へと続いている。
 ともあれ、自分の目に映る体内を大事にして描いた図に、自身も芸術家であるアズビー氏は感銘を受けたに違いない。現代の我々が見るに、ベルの解剖図は図版というより絵画に映るのである。そして、その点にアズビー氏は注目し、解剖図と区分けされる領域にも芸術が入り込める余地があることをベルは示していると言った。その点すなわち、解剖学的視点から解き放たれた体内の美しさについては、私や私の周りにいる”美術解剖学の仲間たち”が常々話し合う議題のひとつだ。
 ただ、ベルの描いた絵が全く理想化されていないかと言えば、そうではない。まず、極端に言って見るという能動的行為を通している以上写真のように無目的な描写は不可能であろう。ある芸術の形式に縛られていないかと言う点でも、やはり同時代の表現の影響は見て取れる。まず、有名な裸体男性が破傷風の硬直性発作を引き起こしている図は、明らかにその体は解剖学的に説明的な描写である。おそらくこれは観察と記憶を元に描かれたものであろう。そのほかにも体幹部の末梢神経系を詳細に描いた水彩画が紹介されたが、あれも現実に見えるだけで、実際は再構成図であると言える。この「現実的/非現実的」問題は、解剖図においてしばしば顔をもたげるもので、実際の体内の見え方を知る者が圧倒的に少ないことから、しばしば非現実が現実と挿げ変わるのである。
 それにしても、アズビー先生がベルを通して示した芸術と医学との関連性については、美術解剖学という枠を越えてでも深化させて行きたい、いや行くべきものだろう。ベルの図は芸術の大道に乗ることはなかった。芸術とは何かという枠が明確であったこともその理由の1つになるだろう。現代はしかし、当時とは違う。ベルと全く同じ視点は持ち得ないが、まだ芸術家が、いや我々全てが見落としている美しい自然的モチーフがそこにはある。我々の皮膚の内側に。

 2部のスコット・イートン氏とレベッカ・ウェイド氏の対談もまた興味深い。そこには、芸術と技術のコントラストがあった。
 対談の中で、21世紀になって今明らかに表現の場において人体が再び注目され始めている、そう強調された。人体の形状にいつも興味を抱き続けてきた我々には嬉しい響きを持つ言葉だが、同時に、同様の言説は断続的に言われ続けている事でもあることも知っている。そしてさらに、人体を必要としている表現の場がどこなのかと目を凝らせばそれがいわゆるファイン・アートではなく、映像領域であることに気付くだろう。すなわち映画やゲームである。なぜそこで人体なのか。3DCGである。3DCGは映像表現の手段を大きく変えた。それまでの二次元表現つまりセル画によるアニメは言わば絵画の連続体であって、その制作現場で必要とされるスキルは実世界を線で描けるというものだった。ところが、それらのほとんどが3DCG化した現在では、線画のスキルは必要ではない。欲しいのは仮想空間でポリゴンで組まれた立体物から望む形態を作り出す技能である。これは詰まるところ、彫刻家のそれと同じだ。人体を輪郭線と陰影描写で描かずに表現しようとするなら、対象の構造を立体的に知るしかないのである。今や、組まれた積木の城の輪郭線を描く能力ではなく、どう積木を組めば城になるのかを知っていることが重要なのだ。この現場の要求にはある種の切実さがある。知っていれば良いかもね、という趣味的なものではない。短時間で対効果がより高いものを生み出すために必須の技能として見られているのである。スコット氏は正にその現場で、必要とする人々に知識を与える仕事をしている。質疑応答のなかで、芸術における人体表現で常に現れるキヤノン(人体比例の基準)についてどう思うか聞かれたスコット氏が、キャノンは考えていないと言った。そういった1つの情報に収束するのではなく、多くの個別の情報リソースを集めることがより重要だと言う。この意見はとても興味深いものだ。スコット氏のように、ファイン・アートという狭い世界ではなく、商業のダイナミズムの中にある映像業界での需要に対応するにはキャノンは意味をなさないということになる。
 また、美術教育に解剖実習を取り組むことへの意義についての質問に対しては、自らが若い頃に解剖見学の経験があるスコット氏は、知識が豊富になり自らそれを欲求するようになった者には意味があるだろうが、初心者には無意味だと言い切った。「自動車工学に教養のある者だけがフェラーリのエンジンの素晴らしさを真に理解するだろう。」(スコット・イートン)
 この対談ではスコット氏が現場で生きる技術者的な側面をしばしば垣間見せたことが実に面白かった。先の、解剖実習が上級者にだけ意味があるという発言もここに掛かる。また更に、Artistic anatomyとAnatomy for artistsの違いを尋ねられたスコット氏はそんなこと考えたこともなかったと言った。つまり、どう呼ぼうがどうでもいいのである。しばし考えて、「私の仕事は、Anatomy for Artistsだね」。「チャールズ・ベルの仕事のような、人体(内部)を美しく見せようとするのがArtistic Anatomyかな」とも。
 
 私も質問をした。筋骨格系以外の器官系についてどう思うか、と。スコット氏は、ハーゲンスのプラスティネーションを見て、その血管系や神経系の美しさに心打たれたと言った。私の質問の仕方が悪かったのだろう。本当は、形と直接関係なくとも私たちを生かすために存在しているそれら器官系の、つまりは生理学的な側面について必要性を感じることがあるかが聞きたかったのだ。なぜなら、スコット氏が対応する業界は、それまでの絵画や彫刻とは違って、動くのである。つまり、ルネサンス以降現在までの美術解剖学が相手にしてきた動かない表現物とはひとつ次元が違うわけで、そこでは新たな人体表現上の必要性が必ず生じているのである。例えば、人が歩くときの筋の収縮のパターンはどうか。腕に力を入れたときの筋の膨張と皮静脈の浮き上がり方の相関はどうか。怒りや悲しみの時、交感神経が活発化したときの顔面部の紅潮や目の瞳孔の関連性に注意を払っているのか否か、等々。これらの発現を説明するのは、従来の解剖学でなく生理学の領域である。そこへの視点はどうなのかが知りたかった。通訳されたことによる齟齬もあろう。そうとはいえ、スコット氏の解答は形態に関することから外れない事は間接的に解答になっているとも言える。

 今回のカンファレンスはタイトルが「美術解剖学」であるから、皆の意識もそこから出ようとはしなかった。けれども、スコット氏の活動のように、”これからの美術解剖学”にも続いていく意識においては、形態だけに留まっていなければならない理由はない。事実、人体の解剖学的形態については「現代ではほとんど分かりきっている」(スコット氏)と言い切るのなら(解剖学者は決してこの発言に首を縦には振らないけれども)、次の問題はなぜそれが動くのか、だからである。大げさなことを言うなら、美術解剖学はその発展的役割の大半を終えたのかも知れない、ならば次に用意されるべきは美術生理学であろう。だが、何でも分ければよいものではないし、芸術はUniteが重要視されるから「美術解剖生理学」がよかろう。

 このカンファレンスは、イギリスのアカデミーでの美術解剖学の需要と、日本での拡がり、そして衰退(伝統的な美術解剖学の講義はイギリスではもはや行われていない:レベッカ氏)を通して、現代の再復興の兆し(象徴としてのスコット氏)という流れが通底していた。そして、今回改めて明確となったことが、美術解剖学はいつの時代も実践的な情報源として用いられていたという点である。この事実は、こと我が国では戦後、東京芸術大学にしか存在しない講座の流れが、そのまま美術解剖学史として語られがちな事実への警鐘としても響く。田中先生の講演においても触れられた、西田正秋が提唱した人体美学から芸大の美術解剖学は独自に方向性を持ち始めたと言える。そこから続く系譜は、このカンファレンスで語られた、リファレンスとしての美術解剖学と同等に語れるものであろうか。現在進行形の我が国の美術解剖学について、未だ客観的な分析は成されていないだろう。

 
 今回のカンファレンスのような質を維持しながらより幅が拡がっていったなら、私たちは4万年前から続く人体表現について新しい知見を得ることが可能になるだろう。そしてまた、現在医学的に得られている膨大な情報からより積極的に表現に応用可能なものを選べ使えるようになるとき、人体表現は未だ見ぬ新たな局面を迎えるかもしれない。そういうポジティヴな感情が湧き起こった。


2016年6月15日水曜日

美術解剖学の秘匿性

 教育の基本は、自分の知識を他者に教える事。そこには、知りたい者と授ける者の関係性があり、それぞれの利益が関係している。知りたい者は情報を得る事が利益となるから分かりやすい。では、授ける者の利益は何か。それは自分の仲間を増やす事であり、もっと極端に言えば自己の拡大である。つまり、教育とは自分の仲間を増やす行為である。だから、授ける者は、知りたい者の誰にでもそれを与えるわけではない。自分の利益に叶うであろう者だけにそれを授けるのである。

 さて、美術解剖学は専門特化した教育のひとつである。その起こりまで遡るならそれは職人芸術家工房の技術力向上が目的であって、その性質から考えると、工房の一員として迎え入れられた者だけに与えられる閉じられた知識だったはずだ。そもそもその頃は美術解剖学とは呼ばれてはいなかったし、実際にも学問ではなかった。美術もまた学問ではなく”術”である。術は学とは違って閉じられた性質を持つ。それは小さな団体や集団ごとに伝達された術(わざ)の伝統とも言えよう。だから美術解剖学の原型は、閉じられた集団内で伝えられる秘匿的な性質を有していたはずである。15世紀のルネサンス期には絵画論などが書かれ、その秘匿性は公のものとなっていった。しかしそれでも、重要な中心部分は決して公には語られなかっただろう。
 芸術は閉じられた秘匿性が利益となる領域でもある。芸術は一般化となじまないからだ。そうであれば美術の為の解剖学も芸術と付随する形でその秘匿的な性質を保ってきたとも言えるのではないか。ならば、その性質を尊重してより正しく言うなら、美術解剖学ではなく美術解剖術と呼ぶべきかも知れない。


 ともあれ、美術解剖学は「芸術造形で人体を作る者」だけに向けられた非常に特化した知識系である。だからそれは、真にそれを知りたいと思う者で、かつそれを授けるに値すると判断された者だけに密かに教授されるという性質を有している。

2016年1月10日日曜日

鳥、絵画的生物 -日本美術解剖学会の発表を聞いて-

 日本美術解剖学会の午前の部を聞いて、いろいろと知的刺激を受けた。以下の文章はその発表を聞きながら個人的に考えたことの記録で、発表内容とは直接的な関係はない。

 ひとつめは「鳥の美術解剖学」について。

 鳥はその生体の様と骨格とがなかなか頭の中でひとつに繋がらない。別の言い方をすれば、その骨格が、生きている外見とあまりにもかけ離れている。それは、鳥は皮膚の上にさらに羽毛の厚い層をまとっているからだ。そして、その羽は体型の凹凸をひとまとまりにまとめ上げ、大きな曲線でできたシンプルな形状にする。さらに、その羽に様々な色彩を載せている。色彩は立体感を消す作用がある。そのうえ鳥の多くは体が小さいので、視覚的に重量感やボリュームといった感覚を与えない。それはつまり、内側の構造をはっきりと抵抗を感じさせる皮膚に浮き立たせる人体などの動物が持つ彫刻的存在感というよりも、構造や重量感ではなくあくまでも表面的な色彩で存在を示す絵画的存在感である。それが鳥の骨格図になるととたんに構造や硬さの印象だけが目に入る。それはとても彫刻的で、そこに絵画的な生体とのギャップを感じるのだ。

 解剖学的な構造の知識が人体モチーフの芸術に応用されてきたのは、私たちの裸体はとても骨っぽいからである。裸を見ると、姿勢の頂点になる部分には都合良く骨が皮下に突き出ている。筋はその骨と骨との間にあり、柔らかな起伏をそこに与える。全体を包み込む皮膚に長い毛はなく、視覚的にも触覚的にも抵抗を感じさせるものである。
 美術解剖学の「ゴール」は裸体である。しかし、私たちの日常において裸は常に晒されるものではなく、公共的な人間というのは着衣が基本である。そうであるにも関わらず、美術において基本的に学ぶべきものが裸体”まで”というのは、実は奇妙なことだ。ルネサンス以降、人体表現は裸体が究極的なひとつの答えになった。それはもちろん、古代ギリシアが典型としてあるからだ。私たちは体から着脱可能なものは純粋な自己身体とは見なさない。裸こそが、人類存在の真実を示すというわけだ。
 しかしながら、ルネサンス期は衣服のシワの研究もされていた。当時の主要なモチーフである宗教画は裸ではないからだ。着衣の表現でも、衣服のシワがその内側の肉体の存在をしっかりと伝えるように姿勢が作られていた。衣服は肉体の従属物としてそこあった。

 筋骨格の構造を包む皮膚をさらす裸身。それをさらに覆い隠す衣服。この時の衣服は、鳥における羽毛と一見似ている。カラフルでふわふわな羽毛を取り除けば、鳥も細く筋張った皮膚に覆われた裸身を晒す。
 しかし、鳥の羽毛は人の衣服とは違って従属物ではない。それはあくまでも身体の一部であって、彼らの生態様式と密接に関係しているひとつの器官なのだ。そう考えてくると、鳥の骨格というのは人間の骨格よりもさらに一段階深いところにあるとも言えよう。
 だから、鳥の骨格を生体とリンクさせるには、人間よりもさらにひとつ連結要素が多く必要になるのではないか。そのことが、鳥の骨格と生体の印象が繋がりにくいことの要因なのだろう。

 骨格の知識は、鳥の美術解剖学でも大切だ。鳥の場合はそれに加えて、やはり羽毛の情報が欠かせないものだろう。私たちが鳥を見るとき、クチバシや脚を除けば、ほとんどその体型を決定づけているのは羽毛である。そこには翼も含まれる。色彩を取り除かれたそれらが鳥の隠されていた形状を示すだろう。羽毛はそれが生えている場所の動きを外見に連動させる。そう考えると、鳥の美術解剖学として人間のそれと決定的に違う点は羽毛の情報である。

 そんなことを、発表を聞きながら考えていて、その根底にある、「鳥は絵画的生物」であることも個人的に興味深い気付きであった。

2015年5月18日月曜日

解剖学知らずの美術解剖学

 解剖学を知らない解剖学者はいない。その言い方自体が言葉としても矛盾している。
 一方で、解剖学を知らずに美術解剖学に携わっている人は少なくないようだ。

 解剖学は、恐らく一般的に思われている以上に、形に対して厳格だ。それは様々な医療行為とも密接に関係してくるから当然なのである。
 しかし、現代の美術解剖学には、解剖学に見られるような形への厳格さを感じない。図版では骨や筋が描かれていても、その形や構造関係には無頓着なものがほとんどである。これには多分、人の形へのアプローチの違いが表れている。解剖学は、そもそも体内の器官そのものへの興味から始まっているから、自ずとそれらの形態や相互関係が重要になる。一方の美術解剖学に携わる人の多くは美術関係者であって、美術における人体とは、あくまで「人の形」をした統合体から始まっている。だから、彼らにとって体内の器官、つまり個々の骨や筋は、人の形を構成するパーツでしかないのである。パーツが組み合わさった統合体としての人体は、人体デッサンやプロポーションなど、別のアプローチで体得するから問題ないと漠然と思われているのだろう。

 結果的に、美術解剖学的に描かれた筋骨格図を見ると、その多くが、個々の部位の位置関係に無頓着なものになる。それは、解剖学を知らない者が見れば何でもないだろうが、知っている者の目にはひどく異様に映るのである。

 以前、画家が描いた仰向けに寝ている全身骨格のデッサンを見た解剖学者が「これは立っている骨格を見て描きましたね」と言い当てていた。もし、解剖学的視点を盛り込みたいのなら、骨格や筋を覚えるだけではなく、分解した各所の再構築(つまり統合体としての人体)にまで意識を持っていくことが大事な基礎である。

2015年2月22日日曜日

解剖学とヌードクロッキー その情報量の差 

Benvenuto Cellini "A Satyr" 1544/1545
先日、ヌードクロッキー実習を行った。半年間、人体の構造とその見方を講義で行って、全カリキュラムの最後に実習を取り入れている。講義は、解剖学に基づいた人体構造の解説を、板書(というより”板描”か)を多用して名称より形状での理解を重視している。それでも、実物の裸体を目の前にすると、その情報量に圧倒される。経験者の私でも毎回そう思うのだから、学生に至っては、半年の講義などほとんど役に立たないだろうと思う。そんなことでは教える側としても不本意なのだが、しかし、こればかりは現実的に厳しいだろうと、ほとんど諦めに近い感覚を覚える。

 裸体を目の前にすると、例えば肩周りだけを観察しても、そこに現れる起伏の複雑さは相当なものだ。解剖学の教科書レベルで記述されている内容が、いかにその一部を極断片的に伝えているに過ぎないかを、実感する。そして、医学解剖学ではほとんど触れられない皮下組織の影響をまざまざと見せつけられるのである。つまり、皮下脂肪と皮膚の厚みによる影響だ。また、筋が作り出す凹凸も、単純に「力んだところが盛り上がる」というだけではない。例えば、通常モデルはポーズ中は静止している。しかし、生きているからゆらゆらと揺れるし、ときにはピクッと動く。その瞬間だけに凹凸が顕著に浮かび上がるのである。自動車が動き出すときにギアを一速に入れるように、動き始めに大きく筋収縮が起きているのだ。筋の部位ごとの境界線も、教科書のように素直に見えるとは限らない。例えば、肩の三角筋と、上腕三頭筋との境界など直ぐに分かるように思われるかも知れないが、実際には平均的な皮下脂肪量のモデルさんでは、定かではない。一言で言えば両者はほとんど一体として見えるのである。皮下脂肪が相対的に多い女性ではほぼ分かれて見えることはない。下肢の太ももやふくらはぎも同様で、解剖図譜のように各筋の境界線がそのまま立ち現れることの方がまれだ。内転筋とハムストリングスなどまず見えることはない。腓腹筋が内と外で分かれて見えることもない。これらの構成筋がその輪郭を明らかにするのは、皮下脂肪の少ない人において、先にも書いたように運動の瞬間(初動時)に限られるように思われる。
 とまあ、上記に挙げた例も、実際の裸体を前にすると極々小さな問題に過ぎず、膨大な「形態の事実」の大波にのみ込まれてしまうのが本当のところだ。

 この波に飲み込まれることを拒み、むしろ波に乗ってコントロールしてしまおうというのが、15世紀の初期ルネサンスから見られる「芸術家による解剖学の応用」だったのだろう。しかし、それをなすことは並々ならぬ努力があったに違いない。そこには強烈な意思がなければ、なしえないことだ。よく、美術史書などには、「解剖学を応用することで人体描写に現実性を持たせることが可能になった」というように簡単に書くが、「解剖学」を理解することだけでも大事であり、「人体描写」ができるだけでも大変な努力が要り、その両者を掛け合わせて「描写に現実性を持たせる」というゴールまで到達させるのは、並大抵の事ではないのだ。しかも、ここでのゴールは描写技術に限ったことであり、芸術はさらにそこに「画題」を語らせなければならないのである。高度に完成された芸術作品ほど、その表情はあくまで自然であるから、それが生み出される過程の多大な労力の積み重なりを隠す。
 私自身、人体の存在感の源泉として人体解剖学を捉えているのだが、その情報量と、実際の人体の情報量との格差に愕然とするものだ。科学という説得力と芸術という表現力とを融合させたところに、いわゆるマスターピースと呼ばれる作品たちの表現が存在している。あの目、あの技術のほんの裾の端でも良いから、掴めるような、そういう瞬間、領域にたどり着くことが出来るのだろうか。

 解剖学を知っても人体を造形できるようにはならない。それは、ごく始まりに過ぎない。骨や筋の名称を知ったところで、残念ながらそれらの知識は造形上、ほとんど意味を成さないのである。だから意味がないというのではない。それらは、「あいうえお」を習うのに等しい。人体描写を説得力あるものにしたいと思うなら、解剖学は初めに修めてしまうほうがよい。そして、その基礎力を基にしつつ、実物に出来るだけ触れなければならないのだろう。結局それは、過去の巨匠たちが通ったのと似た道である。

 ところで、人体の形態に関するシビアさは、医学解剖学より芸術のほうが遙かに厳しい。ただ芸術領域はそれを言語化して明言していないだけである。だから、医学解剖学書だけでは、芸術における要求を満たすことは出来ない。では美術解剖学書ならよいか、というと残念ながらそれも叶わない。なぜならそう謳っている書のほとんどが、単純に医学解剖学書を水で薄めたような内容に過ぎないからだ。つまり、現代においても人体描写に関する情報は明文化された形で手に入ることはないのである。真の意味での美術解剖学書というのを私は見たことがない。
 私たちができることは、解剖学で人体の形態に関する輪郭線を知り、実際の観察を通してそこに肉付けをしていくことだけであろう。結局これが最も効率的で近道であるということなのだろう。


2014年4月7日月曜日

見る業、作る業

目を開けた瞬間から、対象が視界に「飛び込んでくる」。その視覚的な見え方は、透視図法という技法を通して再現が可能だ。透視図法に繋がる技法に、レンズを用いて光線を屈折させて紙に投影させるものがある(カメラと同原理)。より単純には、単に小さな孔を開ける方法もあるが、いずれにせよ、普段自分の目で見ているのと同じ光景が、壁なり紙なりの上にあるというのは、純粋な驚きをもたらす。いわゆる「映像」に慣れきっている現代の私たちでも、映画や立体映像など視覚的な刺激には心を躍らせるものだ。自分の目で見える世界がレンズや孔を通した投影像と同じだという事実は、視覚は受動的であるという感覚を補強する。
 しかし、視覚が受動的ではないことが現在では知られている。外光がレンズで屈折して投影されるという光学的現象は、目の水晶体(レンズ)で屈折し眼球の後ろの内壁の網膜に結像するまでの話だ。その壁には無数の視細胞があり、各自が光線のスペクトルと光量に応じて興奮反応を示す。そして、光線を細胞が受け取ったこの時点から、網膜に映った映像は分解され必要とされる情報へと変質される。その後は脳へ運ばれ更に要素へ分けられていく。私たちが意識としてイメージする主観的映像は、それら分解された情報を必要に応じて再合成したものと言える。つまり、視覚は受動ではなく能動的行為なのだ。だからこそ、同じ光景を前にしても、最終的な心象風景として何が見えているのかはそれぞれが違うのだ。
 
 心に思い浮かぶ心象風景を描出した景観画には作家の個性に基づく表現がなされる。それらは時に共感を呼ぶが、時に拒絶もされる。より多くの鑑賞者に受け入れられるには、どうすればよいだろうか。その手段として有効な物のひとつが様式化だ。様式化は言わば世界の記号化であり、全ての表し方を統一してしまう。数千年に渡った古代エジプト文明の人物表現様式や、中世のビザンティン様式などを見ても様式化がどれだけ強力であるかが分かる。そこに光学的な事実を取り込んだのが透視図法だ。透視図法は計測に基づくという点で、それまでの様式化とは違う。そこに表される世界は、私たちの視覚認識系を通る前に規定された世界だ。目で言うなら、網膜に光線が当たるところまでの世界、視覚の能動性の前段階である。そこに個人的心象や文化的規定が入り込む隙はない。これは、表現の拡散におけるブレークスルーだった。時代や文化が異なっても、光学的現象に変化はないからだ。透視図法に基づく景観画はその意味で時代と国を超える力を持つことになる。また、透視図法は観測と描画とが同時に結びついているという特徴がある。つまり、その方法に従って線を引くと、そこに自ずから景観が描かれる。洗練された透視図法は自動的であり、没個性的な技法とも言える。

平面芸術の空間表現において透視図法は大きな力を発揮するが、芸術のもうひとつの主題である人体表現には透視図法は適さない。人体は遠近の効果をもたらすほど大きくもなく、直行する直線的要素も持たないからだ。年齢や性別などでも形態が大きく変わる。それでも、多くの人が持つ人体の恒久的印象があるはずとの信念から、理想的比率を持つ人体像が模索されてきた。言葉として知られているのは古代ギリシアのポリュクレイトスの「キャノン」であり、図像として知られているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体」がある。これらは共に、外見から体部の計測に基づいている。しかしこれらは、強い説得力の半面、不信にも晒されてもいたはずだ。なぜなら、人体は動きによって姿勢が変わるごとに体表の各部位は変形して比率は変化してしまうので、不動の建築物や彫刻でもなければ固まった計測事実は恒久的有効性を持たないからだ。事実イタリア・ルネサンスにおいても、ミケランジェロら芸術家が何らかの外部計測に基づくキャノンに従うことはなかった。では、一挙動ごとに変形する人体を捉えるにあたって、拠り所となるものはあるだろうか。そこで選ばれたのが、硬く変形せず運動を捉えやすいもの、すなわち骨格である。それは変形しがちな人体をその内側から支え、曲がる箇所は関節に限定されている。
アルベルティ
絵画論を著した
「人体においてまず意識すべきは骨格である。骨格の位置と姿勢を決めれば、後は然るべき部位に筋肉を割り振り、最後に皮膚で全てを覆えば良い。」(アルベルティ)
 そのために、芸術家は裸体をただ外から観察するのではいけなくなった。今や骨格と筋肉の立体的位置関係と形状とを知らなければならない。そうして解剖学的構造という内なる事実から組み立てられる人物像は、透視図法ほどでないにせよ、一定の恒久性を持ち得た。なにより、捕らえどころのない人体という自然物の形状の成り立ちを明確に示してくれることは、芸術家の人体描写の下支えとして大いに役だった。ただ、解剖学的な事実を知ることが直接的に描写に反映はしないという点が透視図法と大きく異なる。解剖学に基づく人体構造の認識(つまり美術解剖学)は、「人体の見方論」に過ぎない。人体の形や皮膚に現れる起伏の理由を知ることが視覚の能動性に影響を与え、見えなかったものが見えるようになる。見えるようになった対象を再現するには手業の訓練が別途必要なのだが、その事実は忘れられがちに思う。

2013年12月16日月曜日

美術解剖学

 術解剖学という名称は、一般的な認知が低いとは言え、ひとつのジャンルを示す名称として定着している。ただ、この名称はとても紛らわしいもので、(かなり前にもポストしたが)名称から推測する内容の誤解を招きかねない。すなわち、「〜学」と付いていることから1つの学問体系として捉えられるだろうけれども、実際的には美術解剖の学など存在しないということだ。そもそも、仮にあるとして、”美術解剖”とは何だ!?
 美術解剖学という単語は、実のところ、「美術」と「解剖学」の合成語で、そもそもは西洋語からの訳語である。それは、Art Anatomyや、Artistic Anatomyなどという言葉だ。原語を見れば明らかなように、元は1つの単語ではない。言語のニュアンスに忠実にするならば、「美術のための解剖学」というようになる。事実、日本に輸入された当初は「芸用解剖学」と呼んだ時期もあった。
 美術のための解剖学となると、とたんに何をしているのか分かりやすくなる。解剖学と言えば人体の内側を調べる学問であって、それが美術のために使われるというのだから、つまり、人体造形に解剖学の知識を役立てようということである。 
 ところが、「美術解剖学」という呼称がとりあえず定着すると、ちょっと面白い現象が起きた。これを字面通り素直に「美術解剖の学」として捉える向きが出てきたのだ。普通、物事は事実が発生したのちにその名称が付くが、これはその逆ということになる。それも、ほとんど意味のはき違えからスタートしたようなものだが、ともかくそうなった。そうなると、では「美術解剖」とは何ぞや、ということになる。するとそれは、「美術を解剖する」という意味合いに捉えられる。この「〜を解剖する」という言い回しは良くされるものだが、それに乗ったかたちだ。これを言い直せば、「美術を分析する」ということに過ぎないのだが、ここはあえて解剖という呼称を使うのだから、分析内容を解剖学的な視点にしたり認知科学的な方向性にしたりするようになる。こうして、本来の「美術+解剖学」に新たに「美術解剖+学」が加えられたのが、現代の美術解剖学である。

 て、本来の「美術+解剖学」もまた、現在では本義と少々ずれた印象が一人歩きしているように感じられる。それはすなわち、「美術解剖学をやれば人体が描けるようになる」というものだ。これは恐らく、書店の実技書コーナーに置かれている人物画ハウツー物の宣伝文句が功を奏した結果なのだろう。勿論、そのような”奇跡”は実際には起こらない。美術解剖学の効能を正しく言うなら、「解剖学的な視点を持って人体を見ることが出来るようになれば、現実的説得力のある人体描写が可能になる」とでも言うようなもので、あくまでも描写力は別のトレーニングを必要とするのである。つまり、美術解剖学は人体描写力向上のための添加剤(ただし強力である)に過ぎない。例えば、解剖学を知って描写力が上がるのなら解剖学者こそが最上の人体画家となるわけだが、当然ながら違う。
 では、解剖学的な視点とは何か。これは、骨や筋の形状や名称を正しく知って描けるようになることを指しているのではない。いや、最終的な目標が設定されるのなら、それがそうなのかも知れないが、現実的に美術解剖学を必要とするほとんど全ての造形家にとってそれは重要ではない。美術解剖学が示すべき内容は、解剖学を基礎として美術のために咀嚼されたエッセンスのようなものであろう。それらは、単に解剖学の内容を薄めたものではなく、造形家の欲するであろう内容へと方向付けされていなければならない。そうでなければ「美術”のための”解剖学」とは呼べない。しかし一方で、この内容を満たすことも簡単ではない。なぜなら、美術という単語が指し示すフィールドはとてつもなく広範囲に及ぶからである。もしも、その全てに応用できるような内容にしようとするなら、それは最大公約数的になり、結局のところ「内容を薄めた解剖学書」となるだろう。美術と一言で言っても、例えば絵画と彫刻において、人体の捉え方で求められる要素は大きく違う。だから、本来ならば「絵画のための解剖学」や「彫刻のための解剖学」といった細分化はあって然るべきだろう。

 剖学とは、それ自身が純粋な形態学である。解剖学を学ぶことと、美術解剖学を学ぶことはだから少々意味合いが違う。美術解剖学それ自体が解剖学からの応用であるから、「美術解剖学を学ぶ」ということは本来出来ないことである。いや、そう言っても構わないのだろうが、その実は「学ぶ」ではなく「知る」に過ぎないことは留意すべきだろう。だからといって、それが解剖学より下位であるというのではない。解剖学を基礎とした美術解剖学は、人体部位の個々の名称や正確な形態というのではなく、「構造視」という新たな視点を与えるものだ。そして、これこそが美術解剖学が造形家にもたらす有用な要素であることを強調したい。人体内部の解剖学的構造の名称や形態への言及は、つまるところ、この構造視を得るための要素に過ぎない。造形家にとって大事なのは、例えば肩やわきの形の理由が理解できることであって、骨や筋の名称ではないのだから。
 また勘違いしてほしくないのは、本来これは”制作者のため”のリファレンスであり、”鑑賞者のため”の雑学ではないということだ。もし、雑学めいた内容があれば、それは本来の意義から漏れた副次的な産物に過ぎない。

 術解剖学は、人体という複雑極まりない立体物をどう見るか、という要求に、解剖学すなわち形態学的な手法を用いて応える、「対象の見方の方法論」なのである。

2013年10月16日水曜日

『ファブリカ』の解剖図の芸術性



 今から470年前、バーゼルで大きな書籍が出版された。その書籍は出版直後から激しい議論を巻き起こしたが、歴史がそれを受け入れ、それ以前と以後とでは多くの事柄が変化し、その恩恵を現代の私たちも受け続けている。その書籍『ファブリカ』は、古代ローマから続いた誤りを含む医学権威への盲信から医学者の目を覚まさせ、近代医学・科学の礎となった解剖学書だ。同書が出版されたとき、著者である大学教授のヴェサリウスはまだ28歳だった。
 『ファブリカ』が書籍として果たした別の革命として、本文と図譜の有機的な結合がある。そこに記された図譜は、雰囲気をもり立てるだけの挿絵ではなく、全てが本文の内容とリンクすることで意味を成す”視覚的伝達手段”として置かれた。言語だけでは語り尽くせない解剖構造を、それらの図譜が補っている。
 
 『ファブリカ』は全てラテン語で書かれているうえに専門的な内容なので、誰もが本文に目を通してその素晴らしさを理解したわけではない。それでも同書が時代と国を超えて伝えられるのには、一見して素晴らしさが伝わる解剖図に依るところが大きい。事実、そこに表された「生きた人体としての解剖図」というかたちは、その後の長きに渡り解剖図の「型」ともなった。そのような図像学的にも語れることは多いだろうが、よりシンプルに見てもその解剖された人物像たちは芸術的に非常に優れている。

 第1巻には骨格人図が3葉、第2巻には筋肉人図が14葉収められている。様々な形で引用される図なので、見覚えのあるひともいるだろう。これらの図を解剖図として見ると、現代の医学書に用いられる図との大きな違いから、違和感を感じさせる。骨や筋を露出させた状態でありながら生きているという描写は、非現実的で不気味さも漂う。
 しかし、骨格人や筋肉人たちが取っている姿勢を良く見てみると、決して不気味さを与えることが目的ではないことが分かる。彼らは基本的に片足重心で立ち、それに伴う重心の移動を全身で調節している。それが全身をつらぬく曲線を生み出し、腕と手の位置と顔の表情とで心情の表現をも感じさせている。このような姿勢は、この時代の芸術では頻繁に用いられるもので、この解剖図を描いた作家が専門のトレーニングを受けていたことを表している。さらに、14葉では姿勢にバリエーションがあるが、そのどれもが姿勢に調和を保っている。

 筋肉人たちは、徐々に筋を剥がされていくので、背中を見せているある図では尻の筋が丸ごと剥ぎ取られ、脚の付け根の関節がほとんど露出している。そのような体表の輪郭が失われるほど解剖が進んだ状態であっても、周囲の構造描写が崩れていないため、人物像としての安定を保ち続けている。
 これらの骨格人図、筋肉人図が描かれるのにどれだけの忍耐と労力が必要だったろうかと思わずにはいられない。裸体の人物像を描写するだけでも、相応のトレーニングが必要である。その外見、輪郭を保ちつつ、内部構造を正確に描いているのだ。解剖図は構造の形状と位置関係にシビアである。”何となく”や”雰囲気”では描けない。ここの構造については全て著者ヴェサリウスの指示の下に進められた。しかし、これらの図を描いた画家が解剖構造について無知であったとして、ヴェサリウスの指示を正しくくみ取ることが出来ただろうか。『ファブリカ』が世に出るより半世紀以上前から、一流の芸術家達は表現のために人体解剖を行っていた。恐らく、この解剖図を描いた画家も既に解剖構造をある程度知っていたと思われる。では画家は誰であったのか。それは分かっていない。同時代の芸術家についての著名な伝記であるヴァザーリの『芸術家列伝』においてティツィアーノの項目でヴェサリウスの図を描いた画家としてカルカールの名が出るが、これは『ファブリカ』の5年前に彼が出版した別の解剖図のことである。
 『ファブリカ』の骨格人図と筋肉人図は明確な輪郭線と強い陰影描写によって、手で掴めるような実在感をもたらしている。全身の当たる光線の方向も意識的に捉えられ、それは足元に落ちる影まで統一されたものだ。筋のひとつひとつも、現代の解剖図のように筋線維の走行線を描くというより、筋のもつ”かたまり”の量を描写することを優先している。このような、立体感と遠近感を重視したのはルネサンス芸術が最も花開いたフィレンツェで活躍した芸術家たちが好んだ技法である。私はこれらの図を見るにつけ、彫刻を学んだ芸術家による作画ではないかと感じてしまう。たとえば、偉大な彫刻家ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂天井画を思い出させる。
 筋肉人図を分析し、内部の骨格を抽出してみると、一見正確に見える構造描写も曖昧な点が多いことが分かった。立体である人体を平面上に再現する際に、意図的に歪ませたと思われる部位もある。このような、「気付かれない歪み」はミケランジェロの人物画にも見られるもので、視点が固定される平面図だから出来る技法とも言えるだろう。

 『ファブリカ』の発刊は、当時の医学界に大きな衝撃を与えた。しかし、その衝撃力は文章を読まずとも一目のうちに伝わるこれらの解剖図に依るところも大きい。解剖学の知識が治療に直接結びつくにはまだ時間が必要だった。純粋科学としての色が強かった解剖学の知識-つまり、皮膚の内側の形の知識-を誰よりも必要としていたのは、人体の形を造形する芸術家たちだった。先にも書いたように、彼らは既に自らで人体解剖をしていた。しかし、人間を解剖するという行為はあらゆる意味で気軽ではない。むしろ、しなくてもいいのならしたくはない類の行為である。そういった芸術家からの要求にも『ファブリカ』は応えるものだった。事実、筋肉人図の第1図は芸術家のために用意されたのである。芸術家を想定読者に据えた解剖学書は同書が初ではないものの、「実用に叶うレベル」を付け加えるなら、『ファブリカ』が初の美術解剖学書であるとも言える。

 『ファブリカ』の発刊後まもなく多くの海賊版や複製図が生み出された。その後、数世紀にわたって、同様の筋肉人たちが解剖書に登場するが、同書の筋肉人たちほど優れた描写のものはひとつも存在しない。
 16世紀のイタリアにおいてこのような奇跡的な大著が生まれたのには、様々な理由が重なっているが、このような事象が多く起きたのがルネサンスと呼ばれる時代だった。
 ヴェサリウスが『ファブリカ』で成した医学的、科学的視点は偉大である。それと同時に、「視覚伝達・非言語的伝達」の重要性を理解し、高いスキルの芸術家を画家として採用することで画と図を非常に高いレベルで融合させることに成功させたこともまた評価され続けるべき事実である。

2013年7月15日月曜日

ヌードと人体解剖


 日、夜の大都会某所で、表現のための人体構造を学んだ学生たちを対象にヌード・モデルを用いたセッションが行われた。広い空間をパーティションで2つに区切り、それぞれに男性モデルと女性モデルを入れるという贅沢なものだ。同時に同じポーズをしてもらい、学生は男女モデル間を自由に行き来することができる。途中、男性モデルには上腕運動時の上肢帯(肩甲骨と鎖骨)の連動的運動を実演してもらい、女性モデルには乳房の可動範囲を示してもらった。
 モデルの体型や今回のセッションの内容については事前にエージェントへ伝わっているものの、どのような方が来るのかは当日まで分からない(海外では、モデルのプロフィールや写真などの情報開示をしているところもある)。今回のお二人は若いうえに、ポージングにも慣れていてリクエストにも好意的に対応してくれたことで非常に良いセッションとなった。

 初のポージング始めにモデルが臆せず下着を脱いでポーズを取ると、初めての学生達はモデルの正面に陣取って、皆が背中が壁に着かんばかりに後ろへ下がっていたのが微笑ましく印象的だった。ただ、そんなのははじめだけで、皆すぐに観察と描写に夢中になりどんどんモデルに近づいていく。
 学生たちのほぼ全員がヌード・モデルを描くのは人生で初だったのではないかと思う。そんな彼らを見て、”人間が人間を見る、それもまじまじと”という行為の奇妙さと求心力の強さを感じた。全く我々は奇妙は動物だ。
 目の前のモデルが持つ肉体と、ほとんど同じ物を皆が持っている。そんな、言わば究極の身近でありながら、それを冷静に客観的に見るという行為は一般的生活を送る人々はほとんど体験することがない。だから、ヌード・モデル・セッションはその意味において非日常性の高い奇妙な体験である。
イメージ

 ともと志の高い学生達だが、この日の皆の集中力は特別だった。休憩時間になってもペンが止まらない者、画力の理想と現実の差にため息を突く者、男女モデルを同時に観察したいのでどうにかならないかと聞きに来る者、とにかく時間が足りないと嘆く者・・。こんな積極性を見せるのは初めてで、どれもこれも、本物を目の前にして、それを捕らえてやりたいという欲求が強烈に引き出された故だろう。
 私としては、彼らのクロッキーを見て、構造で対象を捉えたうえで表現(描写)へ反映させるということの難しさを改めて感じた。講義では、人体を構造の複合体として捉えられることが表現を輪郭線という平面性の呪縛から解き放つ強力かつほとんど唯一の手段であることを具体的に示してきた。ところが、いざ目の前に”総天然物”である裸体が立ちはだかると、そんな座学の知識はほとんど力を持たず、輪郭線で対象を追うことで精一杯という描写がほとんどだった。また、顔が整った女性モデルだったので、ある学生はその描写に捕らわれた結果小さな体が巨大な顔の下にぶら下がったような描写になっていた。
 これらを、残念な気持ちで見ていたのではない。ヌード・セッションが学生達から”ぎりぎりの本気”を引き出した、その”場のちから”に驚いていたのだ。ポーズは静止しなければならないので、20分ごとに休憩が入る。今回は毎ポージングごとに違う姿勢だったので、学生達はたった20分の間に目の前の描きたい部位を出来るだけ紙の上へ収めなければならないというタイム・プレッシャーが掛かっていた。これも、彼らの本気を引きずり出す主要因のひとつであった。とは言え、何と言っても強力な要因は”目の前の裸体”であることは疑いがない。捕らえどころのない人体を目の前にして時間内に何とか画帳へ留めようとペンを走らせるとなると、身になっていない知識など吹き飛んでひたすらに”今まで通りの”輪郭線で追うしか出来ない・・。そんな切羽詰まった様子が見て取れた。
 構造視と実物観察。この往復作業を数回繰り返すことで、もっと実質的な描写力へと繋げていけると感じる。今は第一歩を踏み出したというところか。

 回は指導側ゆえに、モデルと観察者とが作り出すこの空間を客観的に感じられた。この空間には、画力向上という本来の目的以外に、何某か心に訴えかけるものがある。それは有機的な感覚と繋がっている。観察という冷静さが、有機的な暖かいものと繋がるという経験で近いものを思い浮かべていた。それは、人体解剖だ。実習室に並んだご遺体との対面と、実習を通しての内部構造の観察。腰が引けているのは最初だけ。剖出が始まれば、直ぐに作業に夢中になっている。そうして、その間冷房の効いた実習室では冷静な観察と理解が求められるが、それらの知識は皆、”人が人を治し助ける”という有機的暖かさと繋がっている。それだけではない、生前は決して見せることのない自分の内側(内部器官)という究極のプライベートの開示と観察とがこの空間では許されている。見せる側の生命はもはや無くとも”見ても良い”という遺志がそこには明確に強くある。要求と許諾。求め許すという行為がそこには流れているのだ。
 ード・モデル・セッションもそこが似ている。他人に裸を見せるというのは相当にプライベートに入り込んだ行為だ。そこには「こっちは賃金を払っているのだから」というような無機質さだけでは成り立たない類の、感情のやりとりがある。それは金銭を超えた要求と許諾である。そういった暗黙の取り引きはあの空間にいることで”感覚的に”くみ取ることができる。だから皆、真剣になるのだろう。
 解剖実習は「死」のイメージを払拭できないが、ヌード・モデル・セッションにはそれがないどころか、「生」の瑞々しさや、なまなましささえ漂っているという決定的な違いがある。それに、解剖見学は厳しく限定されているが、ヌード・モデル・セッションは求めるなら基本的に誰でも参加できるものだ。

 ード・モデル・セッションの一義的な目的は「生きた人体の形状の観察」だが、その看板に書かれない独特な空気感を体験するだけでも参加する価値が十分にあるのではと、この日思っていた。

2013年5月23日木曜日

告知 「人体描写のスキルアップ - 美術解剖学入門」開講のお知らせ


 少々早いですが、夏の盛りから暑さが落ち着き始めるころにかけて、朝日カルチャーセンター新宿教室において実技講座を開講致しますので、お知らせ致します。

 本講座は、講義と実習を通して、人体を構造的な視点から見ることで、人体描写技量を向上させることを目的としています。美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。

 人体をどのように見ていますか。芸術表現のモチーフとして人体は究極に身近な対象です。なぜなら、その対象の形態はあなた自身とほとんど全く同じなのですから。
 しかしながら、人体表現の難易度の高さは誰もが認めるものでもあります。人体表現が歴史的に見ても様々な変化を見せるのは、このような”近くて遠い”距離感も影響しているのでしょう。
 

 毎朝、目覚めと共にまぶたを開くと、当たり前のように見慣れた室内光景が目に飛び込みます。日々の生活で、目に飛び込む様々な色彩や形態を”苦労して”認識しているという方は極少ないでしょう。テレビをオンにすると映る番組のようにそれは苦もなく脳裏に再現されます。ところが、当たり前に見えているそれらの光景を紙に写し取ろうとしてみると、これが全く出来ない事に驚かれるはずです。テレビ画面に紙を押し当てて透けた画面をトレースするようにはいかないのです。これは、私たちの視覚認識がカメラがフィルムや素子に光線を投射するような単純な平面化に依っていないことを示しています。私たちが「当たり前」と信じ切っている目の前の風景は、実は脳内での非常に複雑で高度な解析の末に”再現された”意識世界とも言えるものなのです。
 このような意識的に再現された対象を表現しようとするには、少なくとも2つの手順が必要です。まずひとつは、手業(てわざ)とも言いますが、これは手の筋肉を意識的に詳細にコントロール出来るようにすることを意味します。すなわち、「箸が上手に使える」や「綺麗な字を書く」といった列に並ぶものです。スポーツなら「正しいフォームで走れる」や「スキーでパラレルが出来る」、音楽なら「楽譜が読めてピアノがひける」と言ったところでしょう。勿論、これらが完璧で無ければならないという意味ではなく、ともかくやりたいことをこなすための始めの技術力を持つということです。
 この手業は、繰り返しの訓練で誰でもある程度まで上達するものです。ところが、手業の限界は思いのほか早くに見えてくるのです。その次の段階へ進むために必要な物こそが、二つめの手順であり、すなわち、”対象の見方”です。そして、人体表現においての”対象の見方”を強力に推進するものこそが美術解剖学なのです。始めに挙げた手業を「手の技術」と言い換えるなら、美術解剖学は「見る技術」とも言えましょう。

 ところで、私たちの「見る」行為は、カメラとは違って、能動的な行為です。そのために、”知らないために見えない”という現象が起きます。こういった脳による情報削除は処理を軽くするために恐らく重要なもので、私たちが人体を見るときにも通常は非常に多くの情報が捨てられているはずです。絵を描き慣れない人はそこに手業の欠如が加わるのですから描けなくて当然なのです。


 さて、美術解剖学は「人体を見る技術」だと既に述べましたが、人体表現を目的とした人体の見方でもっとも基本的なのは、裸体を観察することでしょう。この時に視覚が頼りにするのは、外見を規定するものとして身体の輪郭を、また、輪郭より内側の要素を捉えるには陰影が用いられます。しかし、視点や姿勢の変化に伴って刻々と形状を変える人体を、輪郭や陰影の表面性だけで追うことは必ずしも効率的ではありません。そこで、人体内部構造とその形状理解をそこに付け加えるのです。それは皮膚の一層内側にある筋の走行やそれらが付着する骨の形状に加えて、運動に影響する変形の範囲や関節の可動域など、ポーズによる外見の変形に根拠を与えてくれます。そうして、人体形状への理解を深めることで、やがて目は皮膚に隠された構造を見抜き、表現される作品には形状の説得力が加わるでしょう。イタリアルネサンスのマスターピースの人体表現の多くは、このような方法論の下に生まれたことも付け加えておきます。

 今回の講座は、初回は講義形式で後の2回はヌード・モデルの観察とデッサンの全3回で構成されています。初回では、人体の内部構造についての基本的な知識や、構造の分け方についてなどを知ります。2回目は女性ヌード・モデルの観察を通して、初回の知識の再確認や姿勢の変化に伴う外見の変化とその影響範囲などを確認していきます。最終回はこれまでの知識を参考に女性ヌード・モデルを固定ポーズで描写していきます。最後に時間が許せば描かれた絵を美術解剖学的な視点で講評します。

 日本において、美術解剖学的な方法論に沿ったヌード・セッションはまだこれから発展しうるものです。人体描写の向上を図ろうと努力されている方、身体の構造に興味を抱いている方、芸術における裸体表現を更に深く堪能したいと思われている方など、芸術と人体に興味をお持ちの方であれば、どなたでも楽しんで頂けると思います。
 文字や文章が小説家のためだけにあるのではないように、デッサンは画家だけのものではなく、理解を深めるための方法のひとつなのです。”手業”に自信のある方もない方も、ペンと紙で手を動かしながら、共に人体形状の理解を深めましょう。


当講座は終了しました。

2013年1月26日土曜日

「人体描写のスキルアップ」講義開催のお知らせ



 来る2月2日の土曜日に朝日カルチャーセンター新宿教室にて、「人体描写のスキルアップ−美術解剖学入門」と題した実践的講義を開講いたしますので、お知らせいたします。
美術の中心である人体描写。その源泉にヌードがあります。裸体描写は芸術にとって永遠のテーマであり、時代ごとに美しい裸体像が探求されています。探求するためにはまず見える必要があります。人体内部の構造を直接的な手がかりとして人体を見ようと試みられたのが16世紀イタリア。それから約500年の間に解剖学は進歩し美術解剖学への応用も変化しています。

 美術解剖学は解剖学を応用して効率的に人体のかたちを見る方法を示します。人体の捉えどころを知れば秩序を持った構造が浮かび上がってきます。骨や筋肉の名前を一つずつ覚えるというものではありません。かたちを作っている理由や姿勢による変形の範囲などを解剖学的な根拠に基づいて説明するものです。美術解剖学を取り入れることで、人体が秩序だって見えるようになるでしょう。

 芸術の本質は表現です。美術解剖学によって、今まで人体形状を探ることに費やしてきた時間を表現活動へと還元することも可能なのです。
この講義は2回で構成されており、初回は基本的な人体の構造と見方をスライド等を用いて講義いたします。2回目は、解説に従って実習をします。実際に描いてみることで理解を定着させましょう。

 人体描写をより高めたい方、人体をモチーフに制作されている方、これから人体を描いてみたいと思っている方など、「人体」と「描写」に深い関心をお持ちの方々の幅広いご参加をお待ちしております。

 当講座は終了しました。