私たちは時間が流れるものと信じているから、そして、大人は自分がかつて子供で、そこから成長して今があると感じているから、さらに、今朝目覚めて今日が始まったことを知っているから、明日も来ると決めつける。私たちは皆、自分は人生という流れの途中に位置していると感じている。加えて、いわゆる社会は大人たちが作ったと決めつけているから、子供たちは“未完成の人間”だと信じきっているので、子供たちにもそう接する。子ども達は、大人にはできない“全てを受け入れるという能力”によって、自らを未完成だと信じる。人間世界は大人、つまり「物理的に大きさが固定された人間」に合わせて大きさがあつらえてあるから、子供たちは行動のいちいちに大変な思いをさせられ、それは自分が小さいからしょうがないと諦める。こんな事は、かつて人類が自然界の中で生きていた頃はなかったはずである。なぜなら自然界は人間の大人だけに合わせて作られてなどいないのだから。しかし、実際の人間界の子供は大人が作った社会で窮屈に生き、大人の足に合わせた階段を一生懸命に膝を上げて登り、大人の都合で走る抜けるトラックの脇を危なっかしく歩く。その挙句に、大人の都合で作られた自動車に巻き込まれ、大人の都合の洗濯機に閉じ込められ、大人の都合で怒鳴られ、終いには殺されるのだ。
時間が“流れる”というのは真実ではない。それは、理解しやすい概念に当てはめているだけであり、言うなら“そのようにも見える”という事である。今は常に「今」しかない。認識できる真実はそれだけだ。だから、私たちは人生という川に流されている存在なのではなく、「いつか老いる私」でもない。同様に、子供たちは「大人になる過程」ではないし、老人は「死に近い人」ではない。そうは言っても、心のうちにありありと浮かぶ“思い出”とも呼ぶ記憶によって私たちは現在を規定してきたから、どうしても、その過去だけに構築できる思い出の順序に今を当てはめる。それはきっとこれからもそうだろうと、起きてもいないこの先にまで割り振る事で、見事に現在までもが過去として振る舞う。それらは幻想である事を時には思い起こした方が良い。
時間という概念によって、現代人は「今」を捨てた。しかし、人生の全ての過程がそうではない。子供の頃を思い返せばわかる。今を生きていた頃は時計を気にしてなどいなかったのは、当たり前のことだ。社会に組み込まれた大人にとって、時計を気にせず生きることはもはや不可能である。しかし、子供たちは違う。
子供を見よ。日々、今を生きる子供を。彼らの存在は過程ではない。何か答えのために、成長するために、日々生きているのではない。その逆である。日々を生きた結果が成長であり、答えにつながるのである。今日の子供は、明日はもういない。
もし、いつか、子供が“いずれ大人になる未完成の人”と見なされなくなった時は、大人も“老後のために“など生きていないだろう。