先日の講座の終了後に、受講された方のひとりが人物デッサンを見て欲しいと来られたので、幾つかのアドバイスをした。ある段階までの完成度があるからこそ、「ここをこうすればより良くなるのに」というポイントが浮かび上がって見える。他人の作品から、修正すべき点を見つけるのは容易である。これだけ容易に形の狂いを見いだせるのなら、自分で制作したらさぞ良い作品が作れるのではないかと私自身ふと思うこともある。
ところが、実際は全くそうはいかない。自分でデッサンをしたり、粘土で造形すると、思い通りの形状が現れてくれないのだ。理解していることと、それを表現することとの間には思う以上の断絶が存在している。その断絶を狭める、もしくは埋めていく作業こそが日々のデッサンの繰り返しなどの「手業」の鍛錬なのだろう。言語による知識は、芸術家にとっては、あまりに集約抽出され過ぎている。例えば、「サイコロの形」と聞けばだれでもそれを頭に思い浮かべられる。では、それを描いて下さいと言われて、どれだけの人が破綻なく描写できるだろうか。
造形家は知識をかたちへ還元しなければならず、そこには、言語を遙かに超える情報が必要とされている。そういえば、レオナルド・ダ・ヴィンチも、その事実に言及していた。造形家は、「業」と「知」が要求され、その両者を表現において結びつけられなければならない。「知」なき「業」は手癖に陥りやすい。「業」なき「知」ならば理論家に任せておけばよい。
私は、人体の構造的な「知」は自らの内にある程度ため込んでいるが、「業」の鍛錬を長くないがしろにしてきた。形が見えれば見えるほど、芸術を見ることは楽しくなり、身の回りからも美しいものを見いだせるようになっている。それと共に、それらを形にしたいという欲求が自らの内で大きくなっているのも感じる。「業」をもういちど鍛えなければいけない。
2014年4月6日日曜日
2014年3月29日土曜日
〈告知〉人体描写のスキルアップ講座を開講します
本講座は、講義と実習を通して、人体を構造的な視点から見ることで、人体描写技量を向上させることを目的としています。
美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。
全6回で構成され(※4回目~6回目は7月以降に開催)、初回に講義で基本的な人体の見方を学び、2回目からはヌードモデルを観察して実際に各部位を描きながら理解を深めます。輪郭線や陰影だけではなく、構造的に人体を観る目を養いましょう。
美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。
全6回で構成され(※4回目~6回目は7月以降に開催)、初回に講義で基本的な人体の見方を学び、2回目からはヌードモデルを観察して実際に各部位を描きながら理解を深めます。輪郭線や陰影だけではなく、構造的に人体を観る目を養いましょう。
2014/04/05 講義 美術解剖学を実技に生かす・全身構造の捉え方① 頭と胴体を中心に
2014/05/17 実技(モデル男性)頭と胴体を中心に解説
2014/06/07 実技(モデル女性)頭と胴体を中心に解説・男性との体型差
本講座は終了しました。
2014年3月24日月曜日
〈講座告知〉レオナルド・ダ・ヴィンチの人体表現
今週末3月29日(土)に、新宿朝日カルチャーセンターにて講座を致します。
タイトルにありますように、レオナルドの人体表現を、解剖手縞の素描を紐解きつつ見ていきます。
万能の人レオナルドが残した解剖手縞の記録は、30代後半から60代はじめまで断続的に綴られました。その描写の品質は初期から既に非常に高度です。また、その描写の現代性から、現代の書店に売られている解剖書の図譜を連想するのですが、ルネサンスの時代にあのような解剖図は他に存在していません。つまり、レオナルドはほとんど独自にその表現方法を編み出したのです。解剖手縞の素描を見ると、レオナルドが言語に対する絵画の優位性を信じそれを実践すべく努力したことが伝わってきます。恐らく、出版も念頭にあったのでしょう。しかしそれは実現しなかったばかりか誰にも知られることなく時代に埋もれました。レオナルドの死後250年以上も経った18世紀の後半になってやっと医学者に発見され、その内容の包括的な研究は1970年代に入ってからと言われます。
解剖手縞は17世紀からイギリスのウィンザー城王立図書館に所蔵されており、2012年に大規模な展覧会が開かれました。その図録の解説に目を通すと、解剖図の分析に誤りが散見されます。世界で最も有名な芸術家レオナルドの絵画作品はあらゆる角度で研究されているのでしょうが、解剖手縞となるとまだまだ分析の余地が多くありそうです。私たちはまだレオナルドの人体理解を把握してはいないのです。
土曜日の講座では、解剖手縞の最初期の頭蓋骨から、アンギアーリの戦いに関連したもの、子宮と胎児、そして”100歳の老人”解剖所見からの素描まで時系列で見ていきます。また、関連する作品として若い頃の作品「聖ヒエロニムス」と最後の作品『洗礼者ヨハネ』も構造的視点から見てみます。
解剖図は、眺めるというより読み取るという要素の強いものですから、前提知識なしでは少々取っつきにくいものです。レオナルド解剖図が気になっていた方、ただ眺めるだけではもったいないです。是非この機会にレオナルドが伝えたかった人体構造を読み解きましょう。
本講座は終了しました
2014年2月26日水曜日
見えれば、描ける
ヌードモデルを描くとき、どこから描き始めるだろうか。ほとんど全ての人がまず輪郭線を描くだろう。対象を輪郭で捉えるのは、個人の癖という段階ではなく、視覚系にもともと備わっている機能である。だから、描画経験が浅いと輪郭線をひたすらに追うような描写になる。人型の線の内側はあいかわらず白い紙のままだ。そこで指導者の指摘によって輪郭線の内側を描写しようとするが、モデル体表の起伏による影のつもりが紙面の黒いシミとなってしまう−。
輪郭の内側の陰影描写によって、描かれる人体は量を得る。実際のモデルの体の量は、解剖学的な構造によってできている。従って、描写をより対象に近づけるには、構造を理解することが非常に有効的である。
これまでの指導の経験からも、そして西洋美術の歴史的事実からも、人体の形状を把握してその描写をコントロールできるようになるためには解剖学的な構造の把握が欠かせない。そして、(上級者向けと勘違いされていることが良くあるが)このことは描写技術習得の”基礎的”な項目なのだ。実際に、描き初めが輪郭線のみでおぼつかないのが、構造を意識して描いていくうちに”非常に短期間で”描写技術が向上するのを何度も目にした。これが意味することは何か。それは「描く」という行為において、対象が「見える」ということがその善し悪しを大きく分けているという事実だ。私は描けないと信じている人の多くは、単にまだ見えていないに過ぎない。これは考えてみれば当然のことだ。どんなに手先が器用で、思い通りの線を鉛筆で引けたとしても、見えない物は描けない。
短期間で描けるようになったことを受講生から感謝されると、指導の方向性が間違っていないと証明されたようで嬉しい。先に「基礎」だと書いたが、事実、初心者ほど飛躍的に進歩する。そして「私にも見える、描ける」という充実感は続く向上心を引き出してくれるだろう。
輪郭の内側の陰影描写によって、描かれる人体は量を得る。実際のモデルの体の量は、解剖学的な構造によってできている。従って、描写をより対象に近づけるには、構造を理解することが非常に有効的である。
これまでの指導の経験からも、そして西洋美術の歴史的事実からも、人体の形状を把握してその描写をコントロールできるようになるためには解剖学的な構造の把握が欠かせない。そして、(上級者向けと勘違いされていることが良くあるが)このことは描写技術習得の”基礎的”な項目なのだ。実際に、描き初めが輪郭線のみでおぼつかないのが、構造を意識して描いていくうちに”非常に短期間で”描写技術が向上するのを何度も目にした。これが意味することは何か。それは「描く」という行為において、対象が「見える」ということがその善し悪しを大きく分けているという事実だ。私は描けないと信じている人の多くは、単にまだ見えていないに過ぎない。これは考えてみれば当然のことだ。どんなに手先が器用で、思い通りの線を鉛筆で引けたとしても、見えない物は描けない。
短期間で描けるようになったことを受講生から感謝されると、指導の方向性が間違っていないと証明されたようで嬉しい。先に「基礎」だと書いたが、事実、初心者ほど飛躍的に進歩する。そして「私にも見える、描ける」という充実感は続く向上心を引き出してくれるだろう。
2014年2月25日火曜日
Love is art. Struggle is beauty.
彫刻家、荻原守衛の言葉。
私はこう見た。
まず「愛は芸術」だが、ここにある2つの単語が指し示す対象は幅広い。愛と一言で言っても異性へ向けたものから母性愛、さらには人類愛のように大きな対象まで含む。芸術もまた同様に様々な様式や技法の芸術から、職人技術や特殊技能までも含み得る。そう考えると、これは限定的な対象を示していると言うよりも、固定された全体つまり普遍的価値を指し示した言葉であるように思える。
対する「もがき(相剋)は美」は、より動的だ。もがきはその状態の渦中を示し、美はその状態において見出されると言っている。ここでのもがきは、肉体的でなく精神的なそれである。
つまり、「相剋の渦中にあってそこから解放されようとするとき、そこには希望が内在している。囚われつつも望みを持って立ち向かう様には美しさが見出されよう」との意である。
また、2つのフレーズに対応関係を見ることもできる。すなわちLoveはStruggleと、ArtはBeautyと。そして、始めのフレーズが理想の到達点であり、後のフレーズはそこに至る過程を示す。愛に至るには相剋があり、芸術となるには美が必要なのだ。
単純な言葉で構築的に組まれ、その意は相似と対極とを組み合わせている。そう見ると、この言葉はまるで彫刻だ。事実この言葉をそのまま造形したような作品「女」を最後に残して、荻原守衛は31歳を前にこの世を去った。1910年のこと。
私はこう見た。
まず「愛は芸術」だが、ここにある2つの単語が指し示す対象は幅広い。愛と一言で言っても異性へ向けたものから母性愛、さらには人類愛のように大きな対象まで含む。芸術もまた同様に様々な様式や技法の芸術から、職人技術や特殊技能までも含み得る。そう考えると、これは限定的な対象を示していると言うよりも、固定された全体つまり普遍的価値を指し示した言葉であるように思える。
対する「もがき(相剋)は美」は、より動的だ。もがきはその状態の渦中を示し、美はその状態において見出されると言っている。ここでのもがきは、肉体的でなく精神的なそれである。
つまり、「相剋の渦中にあってそこから解放されようとするとき、そこには希望が内在している。囚われつつも望みを持って立ち向かう様には美しさが見出されよう」との意である。
また、2つのフレーズに対応関係を見ることもできる。すなわちLoveはStruggleと、ArtはBeautyと。そして、始めのフレーズが理想の到達点であり、後のフレーズはそこに至る過程を示す。愛に至るには相剋があり、芸術となるには美が必要なのだ。
単純な言葉で構築的に組まれ、その意は相似と対極とを組み合わせている。そう見ると、この言葉はまるで彫刻だ。事実この言葉をそのまま造形したような作品「女」を最後に残して、荻原守衛は31歳を前にこの世を去った。1910年のこと。
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