ゴムボック(Gomboc)という大人のげんこつ大ほどのオブジェがある。中身の詰まった物で、置くとゆらゆらと揺れる。少しオシャレな起き上がり小法師と言った感じなのだが、精密性を感じさせるシャープなエッジや球体に近い丸く膨らんだ充実した量感が気になる。実際のところ何なのかと言うと、数学的オブジェである。そのゆらゆら揺れる特性を前面に出して“ちょっと知的な贈り物”的な売り方をしている商品だ。私は店舗で偶然見てそのソリッド感とシンメトリー形状に惹かれ手に入れた。厳密な機械加工ゆえの精密さとそれに伴う無機質さが、手作りの置物や彫刻などの有機的印象と対照的だ。ただ、そこがかえって色々考えるきっかけにはなる。
数学的な探求の背景もなかなか興味深い。この形状は、2つの平衡点を内在していると言う。ひとつは安定しもうひとつは不安定である。それぞれたった1点、つまり最小数なので、究極のミニマル形状である。それゆえ、触れなければ止まっているが、少しでも触れればゆらゆらと揺れ出す。球体からの偏差がわずかであるためその揺れ幅も小さくない。購入した物はゴム製なので軽くてすぐに止まるが、重たい金属製もあるらしく、それだと慣性が強く働いて長く揺れ続けるようだ。このオブジェは「安定と不安定の2つの平衡点を持つ外に凸の均質体」で、ゆらゆら揺れると言っても錘を仕込んだ起き上がり小法師とは本質的に異なる。個人的に興味深いのは“外に凸”である点で、つまりはくぼんでいる面がなく、最も膨らんでいない面は平面なので、任意の2点を結ぶ直線は必ずこのオブジェ上もしくは内部にある。
安定的平衡点とは、放って置いて安定している時の重心点で、不安定的平衡点はその逆だと思えばいい。2次元形態ならば、n辺の多角形は、n個の平衡点を持ち(辺の中心)、そしてn個の不安定平衡点を持つ(角)。これが、3次元物体となると話しが変わるらしく、安定点、不安定点に加えて“鞍点(Saddle point)“が現れる。言葉の通り、乗馬の鞍の形を思い浮かべる。そこに玉を置くとさまざまな方向へと転がり落ちてしまうが、ただ前後方向だけに理論上真っ直ぐに玉を押した時は、前後に転がってやがて鞍の中心で止まる。これが鞍点である。安定点iと不安定点jがあるなら、i+j-2個の鞍点があり、これはポアンカレ・ホップの定理として知られているそうだ。立方体なら、6つの安定点(面の中心)、8つの不安定点(角)そして12の鞍点(辺の中心)がある。ゴムボックは揺れて1点(鞍点)で止まるのだから、i+jは3でなければならない。しかし、各平衡点は一つずつだと言う。一体どういうことか。開発した数学者曰く、
「やがて我々は、ひとつのわずかな揺らぎを用いることで、平衡点の数を増やせることに気付いた。ほんの少し歪ませることで、平衡点をひとつ増やせるのだ。」
きっと、ここは難しい数式の世界で言葉にできないのだろう・・と自分を納得させる。
この形を見つけた数学者らは、河原の石ころで似た形状を探したそうだが、見つけることができなかった。この形は、演繹によってはたどり着けないのだと言う。つまり、自然にこの形にたどり着いて安定することは決してないのだ。実際、鋭いエッジなどはすぐに割れるだろうし、そうなれば重心は変わって立たなくなる。ところが、甲羅の高いリクガメにこれと似た形状がある。そのリクガメは甲羅がひっくり返っても起き上がり小法師のように元に戻れる。亀は生物だから、自然にはたどり着かない形にエネルギーを消費する形で到達しているのだと言える。
逆の平衡点を、2つと言う最低数だけ持つこの形態の要素は、それ以外の全ての形状へと変化することができる。その意味で、製作者はゴムボックを「数学的幹細胞」と呼ぶ。何にでもなれて、どれからも辿り着けないという意味で(これがips細胞以前に名付けられた事がわかる)。
指で触れれば揺れ出す不安定さは、ゴムボック形状の繊細さがそのまま運動として現れている。そうでありつつ、どの角度で手を離しても必ず最後は同じ立ち位置で止まる自己安定性も示す。物と生物、命と死、ホメオスタシスと運動など、一つにまとめられる相反する現象との相似性が、ゆらゆら揺れるオブジェの在りようと重なって興味深い。
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