皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-
解剖学と芸術
芸術と身体性についての記述。告知など。
2024年2月24日土曜日
告知:「皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-」
2024年1月9日火曜日
なぜ寝顔は美しいか
もちろん全ての寝顔がそうであるわけではないが、見慣れている人の寝顔には魅力を感じることはある。
大人にとっての他者の寝顔は、恋人であったり配偶者であったりと、最も身近な他者として存在する。
その他者が、最大限にその身を許し預けている証が寝顔である。それを見ているということはすなわち、私は孤独ではないということを示していると言える。その、一人ではないという喜びがポジティブな感情を生み出していることはあるだろう。
当たり前だが、寝顔は覚醒時にはできない。寝ている時だけの顔である。反対に、覚醒時の顔それも他者に向けられたそれは、何らかの感情を外へ向けて放っている。“表情”と言うように、顔は感情の表舞台である。動物界においてはヒトはその機能を最も発展させた種類である。つまり、覚醒時の顔は、そのほとんどを他者のために機能させているのだと言える。戸外へ出て目に入る”起きているひと“の顔はすなわち、その人自身ではなく他者のための顔だ。それが解放されたのが寝顔である。だから、寝顔は社会から関係を絶って、肉体存在としての自分自身に帰った表情である。
寝顔は顔が弛んでいるように見えるが、もちろん実際はそうではない。顔面の皮下に埋もれた表情筋を構成する骨格筋細胞たちは、顔面神経からの命令がほとんどやってこない就寝時は、言わば休憩時間であって、各々がゆったりと微細な収縮をランダムに繰り返している。ちょうど公の場所で大勢の人々が静かに独り言でもつぶやいているような様子だ。そのようにして、いつでも神経からの命令に瞬時に答えられる準備は整えているとも言えよう。
このように、表情は表さないけれども、完全弛緩したのでもないのが寝顔であって、死んだ顔とは全く異なる。死に顔は、まさしく「死に顔」とわざわざ言葉があるように、死人だけのものである。死体の表情筋は当然ながら完全弛緩している。筋細胞も死んでいるのだから。
ところで、表情は顔面の皮膚で表されるから、ここの筋肉を表情筋と言うのだけれども、実際の表情はこの表情筋だけで作られるのではない。表情には目線が重要だが、目の向きや上まぶたは別の筋であり支配する神経も異なる。また表情に顎を開けたりもするが、この顎の開閉も表情筋ではなく、むしろ表情筋よりずっと古い系統の筋肉と支配神経によって制御される。忘れがちなのは口の中にある舌だが、これも表情を作る役者の一人である。舌を見せる表情はもちろんだが、舌を見せずとも、口中における舌の位置は顎の輪郭に大きな影響を与えていることは、鏡の前で顎を閉じて舌を口中で色々と動かしてみれば、直ぐに分かるだろう。この舌の運動は、舌それ自体の形を変えることと、舌の位置を変えることの2つの運動に分けることができるが、脳神経から頚神経にいたるいくつもの神経によって制御されており、それがこの骨格筋のかたまりを自由自在に動かすことを可能にしている。
また、忘れてはいけないのは、皮膚の浅層である真皮層にある平滑筋であって、これらも普段は常に緊張状態にあり、顔面の毛髪の角度制御や皮脂および汗の分泌を助けている。
もっと言うなら、「上目づかい」や「見くだす」と言う表情を表す言葉から分かるように、頭部の空間的な位置と角度も、表情には重要である。同じような体格の者同士なら、顎を上げたり下げたりすることでこれらを実行している。頭部を動かすのは頚部つまり首だが、うなじにある最大の首の筋は、実際のところは、首と言うよりむしろ背中や肩の筋と言えるほど強大である。
このように、顔の表情と一言で言ってしまうが、実際にそれを可能にするには、頭部から肩そして胸部まで至る広い範囲であり、そこに関わる筋の種類や数も多い。
死に顔ではこれらの筋が死んで弛緩するため、生きている時は決してしない表情となる。死に顔は唯一無二である。映画やドラマの死に顔はあまりに生き生きして見えるがこれは仕方がないのだ。死ぬとこれら筋肉が作る緊張が全て解けるため、まもなく顔のしわも伸びる。血流もないので水分が供給されず、組織はただ浸透圧で保てる水分を保持するだけとなる。血球も落ちていくので皮膚の赤みが減り皮膚組織そのものの色になるため、アジア人は黄色味が強くなる。「頬を赤らめる」というように、皮膚の血色も表情には関与している。
寝顔は、弛緩した顔というより社会から解き放たれた顔である。社会性の動物とも言える人は、そこから解き放たれた自分、つまり寝ている自分は、自らの安全が保証されるごく限られた人にしか見せない。
寝顔に美しさを感じるならそれは、その形態そのものというよりむしろ、その親密な精神的関係性を喜んでいるのかもしれない。