2015年2月27日金曜日

ヌードモデルと描き手の関係

 人体を造形するには、モデルの観察が必要になることが多い。美術大学などの美術系教育機関では授業でモデルデッサンを行う。作家としてモデルを雇う人は全体的には少数派だろうから、モデルデッサンと聞くと学校の授業を思い起こす経験者が多いのではないだろうか。それでも社会全体で見れば経験者の方が圧倒的に少ないから、一般的にはモデルデッサンと言われてもあまりピンと来ないのではないだろうか。

 どういうことが行われているかと言えば、外から見えないようにカーテンが閉められた広めの部屋の真ん中に「モデル台」という30㎝ほどの高さの直径1.5メートルほどの台があり、そこに毛布が引いてある。そこでモデルさんがポーズを取る。ポーズはこちらが指定することもあれば、モデルさんに任せることも多い。実際、ほとんどのモデルさんが「絵になるポーズ」を心得ている。時々、個性的なポーズやアクロバティックなポーズで頑張るひともいるが、そういう人はごく少数だと思う。ポーズを取る時間は15分から20分で、続いて5分などの休憩を入れる。このポーズ、休憩のサイクルを全セッションの間繰り返す。時間管理はモデルさん自身がタイマーをセットするのが普通だ。アラームがなると描く側が「お願いします」と声を掛け、終わりの時は「ありがとうございました」や「お疲れ様でした」と声がけする。ポーズは全セッションを通して固定ポーズのこともあれば、ポーズごとに変えて貰うこともある。ポーズは「立ち」、「座り」、「寝ポーズ」がある。座りは、ポーズ台に腰を下ろすものや椅子に座るものもある。ポーズにモデルさんの個性が表れると言える。
 モデルさんは、個性のある人が多いように感じるのだが、多分これは、単なる思い込みだろう。誰でも個人と対峙すればそれなりに個性的だ。通常はモデルさんに話しかけることはない。指導側は挨拶がてら少し会話することがあっても、絵描きの学生がわはポーズ前後の声がけ以外でモデルさんに話しかけることは通常ない。

 モデルと描き手の関係性について考えてみたい。モデルという仕事の確立には、描き手という需要がまず存在しなければ成り立たない。描き手の需要に対してモデルが供給される。一対一ならば、ここに顧客としての描き手と商品としてのモデルが成り立つ。モデルは生きた人間なのだから商品という表現は引っ掛かるが、模範や広範的な型を意味する「モデル」と呼ばれるように、その存在の概念としては、「特定の誰か」ではなく「概念的なヒト」として取り扱われる性質のものでもある。その概念に対しての言葉であるなら、モデルとは商品であると言うことも出来るだろう。さて、描き手とモデルのシンプルな関係性は理解しやすい。描き手の必要に対してモデルが応じるということだ。やがて規模が大きくなると、描き手とモデルの間にエージェントが入り込む。要するにモデル派遣会社である。そこが窓口となることで、描き手はモデルを探しやすく、モデルも仕事を得やすくなった。現在の日本での美術教育機関では、エージェントを介する形態が一般的である。このことは、便利である一方で、描き手とモデルとの距離感をより遠ざけるものになった感は否めない。描き手は「発注者」としてエージェントに希望するモデルの性別や体型などを伝え、希望に近いであろうモデルが当日、モデルセッション会場に現れる。描き手はその人物が誰なのか全く知らずに描き、そして時間で終わる。発注者は料金をエージェントに払い、モデルはエージェントから代金を受け取る。こうして、「見る・見られる」だけが純粋化し、モデル・絵描きの関係性はドライなものになった。

 絵描きは今や裸体を見たい(形態を確かめたい)に過ぎず、それが「誰」なのかは知る由もない。モデルは服を脱いでポーズをするに過ぎず、見るもの(絵描き)が何を知りたいと思っているのか知る由もない。こうしてモデルは人の「模型(モデル)」になりきる。
 さて、この遠ざかった両者の関係性が、時々トラブルを生む。それはモデルが「模型」であり「ひと」であることに理由がある。描き手はモデルとして認識しているために「物」のように捉えてしまう。これは、それが否定されるべきものでもない。ここまで見てきて分かるようにモデルの存在そのものがそのニーズに応えるためにあるからだ。しかし、その為に悪意なく意識せず「人としてのモデル」に対して失礼な事をしてしまうことがある。例えば、不意に部外者がドアを開けてしまうとか、絵描きが近づきすぎてしまうとか、部屋が寒すぎるとか、色々あるだろう。きっと細かいことはもっとあるのだろう。しかしながら、「人としてのモデル」が何が不快なのか、それを完全に絵描き側が知ることは残念ながらできない。
 モデルが「人として」不快な思いをしないように、また商品として適切に扱われるように、モデルエージェントが規定を設けているようだ。それは依頼を受けたときに規約として示されるのだろうが、私自身は直接依頼したことがないので”それを知らない”。なぜ、”知らない”を強調したか。これはおかしな事だからだ。モデルと描き手との関係性が純化し遠ざかった今、互いが互いをどのように扱ったらいいかも他者つまりエージェントに任されている。しかし、現場で対峙するのはあくまでもモデルと描き手なのだ。問題がおきるのはアトリエ内において、描き手とモデルという「人と人」との間に起こるのである。私自身、モデルセッションで何度も講義を行っているが、実際のところ「何が良くて、何がいけないのか」知らないのである。そんなのモデルの気持ちになって考えてみればいいじゃないかって?それはモデルにならなければ分からないことだと既に述べたし、それを描き手に要求するのは、エージェントを介する関係となった現在の両者ではフェアーではない。

 モデルと描き手の関係が、特にここで述べてきているのは1対1ではなく、学校など多数の描き手がいるような状況(もっともよくある状況)では、ちょっとしたことで両者にとって心地よくないものになってしまうことがある。そこにはモデルを物として見るか人として見るかの「慣れない対応」を迫られる描き手による不手際と、モデルのうかがい知れない不安感が相まって起こるのだが、それを恐れて描き手が萎縮してしまうようなセッションは、もはやセッションとして成り立っていないというべきだろう。しかし、実際のところはそうならないための緊張感が常にアトリエに流れている。今や、描き手は「”脱いで頂いた”モデル」に最大限失礼の無いように留意しなければならない。これは、絵描きとモデルの関係性が本来と逆転している。「個人的に頼んでもいなければ、お金も払ってもいない(間接的に頼んでいるし払っている)どこかの誰かが私たちのために脱いでくれる。そのような献身的親切に失礼のないようにしなくてはいけない」というメンタルである。だから、モデルを見るというより「見させて頂く」というものになる。近づいて、じっと見たら失礼なんじゃないか。正面から顔を描いたらいけないんじゃないか。「・・・は失礼なんじゃないか」が蔓延する。実際、私の経験ではそのような空気感をセッションで感じることがある。こんな消極的姿勢では、まさに本末転倒である。

 モデルが「裸になってくれるどこかの誰か」になった今、描き手はいつまでもモデルの扱いが分からないままで、それが問題なのだ。これを解消するために、モデルエージェントは、アトリエにおけるモデルの取り扱いを明文化し、それをモデルに持参でもさせたらどうだろうか。いまや彼らがモデルを保護する存在でもあるのだから。そうして言葉でがんじがらめにするのは、芸術活動とはなじまないという感じもするものの、これはモデルと芸術家という1対1の関係の話ではなく、学校など初級者が多数いるようなセッションでの想定である。何が良くて、何が行けないのか、その指針が示されれば、描き手たちもその中で安心してモデルと対峙できるだろう。明文化される段階において、絵描き側にニーズも当然そこに反映されなければならない。そうすることで、両者の関係性がより明らかにもなるのではないか。こういう事を言うとドライに聞こえるかもしれないが、そういう時代なのだとも思う。

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