2010年4月16日金曜日

物としての私

人を物の様に扱う、というのは失礼に値する。また、「心」や「たましい」は物質を指してはいないだろうし、心の問題を取り扱う「心理学」や「哲学」など、人間を非物質的な側面から考えることは、古くから行われてきた。思考したり、コミュニケーションでやりとりされる意思伝達は物ではないから、必然的にそこが強調されて見えてくるのは理解できる。また、人間社会では、私(あなた)が誰であるかという事よりも、何が出来るのか、もしくは何をしたのかで判断されるから、肉体的な個人はさして問題では無いかのようになっていく。肉体的な個人が売りのモデルや芸能人は別だが。
それに輪を掛けて、インターネット上では、ほとんど純粋に情報でのやりとりのみで個々の存在が成り立つようになった。それは、概念だけで成り立っている脳内ネットワークに似ている。
現実の私たちが見たり聞いたりする情報も、結局は脳内で概念化されて理解されるのだから、それを模したような現代のネット上での情報交換がすんなりと受け入れられるのは当然のことなのだ。むしろ、現実社会から情報への転換作業が無いだけ労力も掛からず、楽なのかもしれない。
情報化偏向の時代性もあってか、私たちも自己の肉体性を忘れつつあるように感じる。社会性動物としての人類という進化の方向性として、それが間違っているのかどうかは何とも言えないが、私たち個人が肉体性をもはや不必要と感じているのかと言えば決してそうではないのは事実だ。

死体を見ると、誰もがぞっとするだろう。なぜ、ぞっとするのか。勿論、身近な人の死体であれば、その理由は明らかだが、そうではない、どこかの誰かのものであっても、ぞっとする。生きていても死んでいても、死んで間もなければ人の形には大して変わりはない。それでも、何かが決定的に違っている。
私たちには、人(の形)であれば、自分と同じように意思の伝達が可能であるという前提がある。そして、それによって得られる情報にこそ、相手や自分にとって重要なものが含まれている。自分らしさ、その人らしさ、といった人格さえ、やりとりされる情報の中に宿っている。同時にそれは、自分や相手という「肉体」から発せられているのだから、両者はそこで強力に結びつけられている訳である。
ところが、死体では、その情報の部分がすっぽり抜け落ちている。もはや永遠に発せられることはない。そして、情報を発しなくなった肉体は、自らが持っている肉体の物質性を強烈に強調させる。これこそが、死体を前にして感じる強烈なる違和感の根源であろう。

次の瞬間、はっとさせられるのである。生きている私は、逆説的に言えば、情報交換が出来る死体ではないか。勿論、科学的に見て生体と死体には大きな差異がある。しかし、生体も死体も、肉体という物質において同じなのである。そこに横たわる死体は、動かない故にその物質性を強調するが、実は、その物質性をそのまま私も所有しているという事実に気付く。

心、魂、精神、霊魂・・。人間の非物質的側面は常に強調されてきた。物質的側面としての肉体に目が向くのは、怪我や病気の時などに、思い出したかのように見つめる感じだ。
普段は、全く意識しない。それでもいいように出来ているのもあるだろう。でも、そう出来ているからそのままで良し、ではおかしな事になりかねないとも思う。自己の肉体という物質性が希薄になれば、他者に対してもそのように見るだろう。結果、安易に自分も他者も傷付けてしまうかもしれない。社会としても、情報として見えてくる結果だけが尊重されるようになる。

精神面からの自分や他者は、強く意識せずとも考えられるものだ。人は皆、気付けば思考しているのだから。しかし、物としての自己、つまり自分の肉体については努力しなければ知ることが出来ない。実際、それを客観的に見つめるのに人類は長い時間を掛けた。それが解剖学だ。それでもまだ完全ではないが、自己の肉体性を感じ取るのには十分の情報を人類は既に得ていると思う。

自分という今の存在は、書物に書かれた情報ではない。肉体がなければ、思考も精神もない。ブログで自己の永遠性を刻んでも、肉体は刻々と変化し終焉へ向かっている。実は全て、肉体という物から発しているのである。
私たちは物だ。そう改めて思いつつ街行く人を見ると、一人一人の質量がずしりと感じられるようで。

2010年4月15日木曜日

解剖実習

私がお世話になっている学校では、学部生の解剖実習が始まっている。医学を志す生徒たちが初めて人体の内部に直接触れる貴重な授業である。その主要な意義としては、人体の内部構造の立体的、系統的な認識を深めるということがあるが、それと同等かそれ以上の本質的な意義として、人が人を切って勉強するという特殊な経験を通した、倫理的教育の側面がある。
我が国での、解剖実習で用いられるご遺体は、ほぼ全てが献体でまかなわれている。その字(”献血”のように)が表すように、それらは献体者(生前では篤志家と言う)の遺志に寄っているのである。つまり、生前に「私が死んだら、体を医学教育のために使って下さい」と意思表明をされていた方々の亡骸である。そのことだけでも尊いが、彼らにも親族や知人などがおられる訳だから、当人が亡くなった後では、その周囲の身近な方々の理解をも巻き込んでいるのである。また、この一連の行為が滞りなくおこなわれるようになった歴史的背景も、誰かお偉いさんが突然作り上げたものなどではなくて、篤志家主体として興ったものであり、まさに献体制度そのものが、医学と民間との間の絆として生まれた尊いものと言える。
解剖実習に先立っては、上記のような経緯も説明され、どこかから拾ってきた類のものとは全く違うということが強調される。或物事の価値とは文脈から理解されるものであるから、このような導入は非常に重要である。

そして、上記の倫理的側面の他に、学問としての解剖学の歴史も、先立つ講義で説明される。医学部の講義や実習としての解剖学は教育的側面が大きいが、それは解剖学という学問に根ざしている。そして、授業とはいえ体表から深部まで解剖し、見るという行為の方法論はその歴史の上に乗っているとも言えるのである。実際、そこまで意識は出来ない(特に学生の時分は)かもしれないが、解剖学の存在を語るならば外すことの出来ない事柄であることは間違いない。

体の構造を見るときに、その部位がどのようにして出来てきたのかという見方をすることがある。個体発生(つまり成長過程)や系統発生(進化過程)を部分的に取り込むことで完成している体では理解しにくい構造が理解しやすくなるのだ。

体のつくりも、解剖学という学問も、解剖実習という授業も、ポンとただそれを置いただけでは真意は見えにくいが、それがそこに在るまでの流れを意識することで、大切なものが明快になる。


解剖学を担当する講師陣は、普段はそれぞれに研究領域を持っているのが、この実習期間になると、一堂に会して同じ方向を向く。それは、紛れもなく「より良い解剖学実習」という方向であって、その熱意と労力に多大なものを感じる。実習期間は3ヶ月に及び、ほぼ毎日午後から夕方、遅い時は夜まで続く。その間、教授以下講師陣は生徒に付きっきりである。それでも以前はもっと時間を掛けていたものが、全体の教育内容が増えるに従って、実習期間は短くなる傾向にあるそうだ。そういった問題は、どこの大学にもあるのだという。

ご遺体に初めて触れる直前の学生たちの顔は、緊張と好奇心とで高揚して見えた。

2010年4月5日月曜日

彫刻"理想"論

彫刻家は、形の意味を探ろうとする本能が無ければ嘘だ。
ただ惰性で土を捏ね、木や石を削るくらいならやらない方がまだ良い。
映画において、映し出されるシーンの全てに意味があるように、彫刻における量や面も全て意味がなければならない。
そして、それは彫刻的に正しくなければ意味がない。
記号として表すくらいならば、記号を書けば良い。
彫刻家は、彫刻を作らなければならない。

彫刻家は、形、形、形が全てだ。
形がおろそかで済ませられる彫刻家など、信じることが出来ない。

岩の形、雲の形、水流の形、そして己自身の形・・全ての形に意味がある。
石ころを見て、その生い立ちを想像することだ。
川の波の形を捉えてみることだ。
人の形が複雑なのは当然だ。35億年の形態変化の末なのだから。