28日(土)は関東地方へ大型台風が近づく中、新宿の朝日カルチャセンターで「解剖学的に観るミケランジェロの人体表現」と題した講義を行った。天候が荒れる可能性があるにも関わらず、多くの方が聴講に来て下さった。同じ興味を抱く者として、芸術に対するその情熱を嬉しく感じる。
この講座は、上野の西洋美術館で開催中のミケランジェロ展を意識している。ミケランジェロの人体造形には、人体解剖の知識が存分に活かされている。“神の如き“の半分は解剖学が担っている。それほどに大きな要素であるにも関わらず、この展覧会ではそこに触れていない。サブタイトルに「理想の身体」とあるように、彼が生きたルネサンス期の最たる、そして理解しやすい特徴である、古代との表現の連続性(およそ1000年の隔絶があるにせよ)に焦点を当てている。それゆえ講義では、彼の芸術がある側面において古代を凌駕することを可能にした、この当時最新の科学(的手法)である解剖学との関係性に焦点を当てた。
ルネサンスの解剖学は、現代よりも自由だった。皮膚を剥ぎ取った内側に現れる構造は隠されていたもう1つの大自然の組み立てである。それをどのように見て、捉えて、認識するのか。芸術家が執刀するとき、それは芸術家に委ねられた。結局はそこなのだ。ミケランジェロもレオナルドも、そしてヴェサリウスも解剖をした。それぞれが見た内部構造は、それぞれ”異なっていた”のである。医学は体系化することで知識の均一化を志す。しかし芸術は違う。均一化した芸術は現代ではあり得ない。つまり、本質的な意味での、美術解剖学というのは成り立ち得ないのだ。解剖学も結局は、人体という自然の見方であり、その見方の革新性こそを重んじる芸術では、それぞれが開拓することが求められる内容なのだ。ミケランジェロが解剖から何を得たのかはレオナルドのような手縞がないので具体的ではないが、彼の作品を見れば重要な点はほぼ伝わる。ミケランジェロ的解剖学は彼によって、彼だけのために構築されたのである。もし、ミケランジェロ的解剖学たるものが、彼の後にまとめ上げられたならどうなるだろうか。それは彼以降おとずれた人体の捉え方の潮流であるマニエリスムを見れば大体は想像できる。つまりは、そう上手くいくとは思えない。体系としての「美術解剖学」が存在しないのは、そういう根本的性質に起因しているのだ。
解剖学と芸術家との関係性において、重要な事実はこういうことだ。すなわち、解剖学がミケランジェロの芸術を引き上げたのではなく、彼の芸術性が解剖学を最大限に活かしたのである。
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