先日あるテレビ番組で地理的危険地域に住む男性にインタビューをしていた。崖崩れが起きかねない自然道を通らなければ街へ出られない場所に住む男性に、その危険性を認識しているのか尋ねていた。数世代前から同地に住んできたその人は、今になっての”危険地域指定”に戸惑っているようにも見えた。私はこれを見ながら、しばらく前に起きた事故ニュースを思い出していた。ビル外壁の看板の留め具が自然に外れて落下し、歩行者の頭部を直撃したというものだ。ぶつかった歩行者は意識不明となった。
私たち、特に都心部や都会に住む人は、垂直にそびえ立つビルとビルの隙間を日常的に歩いている。その時に上から何かが落下してくるかも知れないなどと怯えはしない。ほぼ絶対的な安心感を持って歩いている。しかし、現実には落ちてきたのだ。落ちることは”自然”である。その可能性があり、それが実行されれば、それは起こる。
街へ出たら、改めてビルの外壁を仰ぎ見て欲しい。地面から真っ直ぐ上方へ伸びたビルの外壁。そこからはさまざまな物が付き出し、取り付けられている。それらは皆、重力によって常に落ちようとしていることを思い返してみよう。
ところで、自然界において、都会のビル街のように垂直な壁がそびえている場所があるだろうか。私たちにとって身近な山々の光景を思い返してもそういった自然景観は思い浮かばない。ただ、全くないわけでもない。例えば崖などはほぼ垂直にそびえている。では、自然景観にある崖の下を歩くとして、その時の私たちはどんな気持ちだろう。きっと圧迫感や落下物への危機感などの緊張感を抱くはずだ。つまり、自然において垂直とは恒久的な安定感とはかけ離れている状態であり、私たちもその事を感覚的に知っているのである。自然界における崖は実際に長い時間そのままであることはなく、断続的に崩れ行っている。
ところが、私たちはビル街の垂直壁に対して恐怖感を抱かない。それが崩れてくるだろうとは思いもしない。そういう思いを普通に抱いているから、先のテレビ番組のように、山道は危険だと”数世代に渡って住む”男性に問いただせてしまう。山道は恐らく100年以上に渡って自然そのままで存在していただろう。しかし、ビル街を100年間そのままで保つことは恐らく不可能だ。ビル街は人間が定期的かつ不断にケアを続けることでようやく維持しているのである。そのケアの目が行き届かないとき、先の看板留め具のように崩れ落下する。本来的に安定しない形状である「垂直」を人工的に作って維持管理することは、”不自然”なことだ。これは”人工的”とも言い換えられる。自然界における垂直が脆いように、本質的にはビルの垂直も脆い。そうであるにも関わらず、私たちは「脆く危険なビルの谷間」をヘルメットもなしに、呑気に往来している。そこには、私たちが自身に対する盲目的な信頼を抱いている証拠でもある。人間が経験と計算によって作り出した「人工物」は「自然物」よりも優れている。技術が自然を凌駕する、とでも言わんばかりの自信を私たちは持つ。
私たちは、自然と人工を分ける。やがて、自らの存在をも「自然と人間」や「動物と人間」のように分けてきた。そうやって、自らを包括する対象との境界を明確化することで、自身のあり方を明確に見つめてきたのだろう。現代の都心部で生活する人間においては、もはや日常的に体感する事の多くが人工物で占められる。街に出て回りを見回してみる。そこに自然物が幾つあるか。人工物はすべて意思によって規定されたものである。それらはまず線で描かれ、数値で情報化される。数値化は効率化の為であり、一般化を導く。そうして基準が作られ、人間界は均一化の方向へ進んでいく。身近なものを見て欲しい。服や靴のサイズ、机や椅子、車、家・・。多くの物が基準数値から作られている。そうした中で生きていることで、いつの間にか私たちがその基準値に合わせるようになっていく。自らが作り出した人工物に浸る内に、私たちは自らが「自然物」だということを忘れるようだ。
改めて私たち自身、人間、が自然物であることを意識してみたい。人間の大きさや形は人間が決めたものではなく、自然によって規定されたものだ。それに対して、人工物は人間によって規定されるものである。つまり、「人間は自然の都合、人工は人間の都合」ということだ。人間の規定−つまり人工−は自然の規定にすっぽりと覆われ支配されている。だから、人工物は人間による不断の手入れが行われなければ、やがては壊れ、自然の形へと戻っていく。
人間が自然物なのだから、それが作り出す人工物も自然物とも言える。しかし、間に人間が介することで階層がひとつ違う。つまり、人工物は人間という特異的な自然物にのみフィットするようにアレンジされたもので、それは全体としての包括的な自然物とは異質な性質を帯びる。人工とはその意味において、目に見えない境界、もしくは膜のように機能しており、人工的という閉鎖環境を維持しながら外の自然界と交流していると言えるだろう。
人間が意思で生み出すもの−人工物−には、それ故に、弱さをはらんでいる。それを克服するために、様々な試みが人工的に行われている訳だが、人間が自らの意思決定で生み出す以上は、そこには必ずあるバイアスと弱さを内包した「異質さ」が含まれざるを得ない。これは、私たちが自然の一部である以上、避けることができない、もしくは越えることができない限界であろう。もし、本質的な意味で自然とフィットする人工物を生み出そうとするなら、それこそ人工知能でもつかうしか方法がないだろう。しかし、それで生まれる人工物(いや、人工知能物)を、我々が満足するとは思えない。なぜならそれはもはや、もうひとつの自然物なのだから。
人工か自然かという線引きは一本では引けない。それは線と言うより徐々に変化するグラデーションであって、その濃淡差のどこを線としてみるかに依るものだ。ただし、人工は自然と隣り合わせにあるのではなく、あくまで自然に包括されているという関係性は意識しておきたい。
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