骨は体の中にあり生前はそれを見ることはできない。体を強打して、内側にある骨を折ってしまえばたちまち動きを奪われる。また、死して最後まで残るのは骨であり、それは内側に一本のスジを通しているかのように見える。それらの経験的な理由から、私たちは、体を柔らかい部分と硬い部分に大まかにわけ、硬い部分は骨格が担うことになった。そして、内側にあって、硬く、体を支えるという性質から、そこに「芯棒」と同様の性質を結びつける。すなわち、体の基礎は骨格にあり、というものだ。これは、芸術の実技においても同様であり、まず内なる骨を理解すべき、という考え方は古くルネサンス期からある。
骨、骨格。その印象は、白いもしくは象牙色で、硬く、乾いている。それは、紛れもなく「死んだ骨」から来ている。「生きた骨」と聞くと、ガイコツがカタカタと動いている様を想像もするが、そうではなく、生きている私たちの体内にある骨のことだ。生きている骨と死んだ骨は、その性状がだいぶ違う。生きた骨は血が通い、外部刺激に対応して刻一刻とその形状を変えている。そしてそれは、死んだそれと違い、柔軟性を持っている。細かく、細部へと眼をやれば、骨から骨膜、そして軟部組織へと性状は徐々に変化してゆく様が観察される。料理屋で出される「骨に肉を巻き付けて焼いた」ものとは違って、本質的には両者は分けられるものではない。
それでも、「骨は体の芯」という概念は一般に理解しやすいので、広く浸透している。体は骨とそれ以外から出来ていて、全体の運命を握っているのは芯である骨という考えだ。「骨の歪みを直す」といううたい文句は良く目にする。
粘土で造形する彫刻を塑造と言うが、そこでは、まず始めに心棒を組み立てる。そうして、そこに粘土を付けて造形してゆく。このときは、まさに、芯棒こそが重要であって、いくら顔のしわが上手に作れようとも、心棒のバランスが崩れていれば、全体の比率の狂いは直しようもない。それを修正するには、それこそ芯棒という「骨」の歪みを直さなければならない。芯棒は、その像のサイズによって素材は様々だが、平均的な人体像ならば、木の角材に針金や縄などが用いられる。
さて、人間の骨格は角材のようにシンプルだろうか。骨格を構成する骨の一つ一つにはその周りを囲っている組織(ほぼ筋や腱)のありようが、表面に刻まれている。つまり、骨の形状は、骨以外のものに依っているのである。こういうところからも、体は”まず骨があって、そこにそれ以外がつく”のではないことがわかる。
発生学的に見ても、まず骨ありきではないことがわかる。体で一番始めに作られるのは腸であって、硬い骨を手に入れるのはむしろずっと後のことである。しかしながら、私たちの遠い祖先が、太古の海を離れ、川を遡り、陸へ上がるという大業を成し遂げられたのは、この体内にある硬い骨を手に入れたからこそであり、さらに言えば、生物の生存競争において優位に立てたのも、硬い骨による運動エネルギーの効率的伝搬があったからである。私たちが、死後残された骨になにがしかを感じ取るのは、そんな、ここに至る成功への道程を本能的に思い至っているのかとさえ思う。
人体という、とりとめのない相手を理解しようとするときに、硬くて扱いやすい骨がランドマークとして適していることは明らかである。しかし、生体においては、それが塑像の芯棒のように存在しているわけではないことも同時に理解しておきたい。
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