私たちは皆、一人につき一体の体を持っている。心身二元論的な言い方だが、そのように感じられるのも事実だ。体は超自然的な力によって生きているのではなく、眼前に広がる自然界と同様の物理原則に則って物質や情報が移動することで成り立っている。緩やかに流れている小川でもひとたび石などで流れが遮られれば氾濫を起こすように、体内でも何らかの原因で不具合が起こればたちまち体調不良という形でそれが現れる。小川と違う点は、不具合を積極的に取り除こうとする働きが起こる点だ。しかし、それとて「超自然」ではない。そこに何らかの意志を置こうと考えるのは私たちの脳の働きによるものに過ぎず、より大きな視点で見るなら、身体を一定に保とうとする機構もまた、そのような自然の系の現れのひとつに過ぎないと言える。
人間を心と体に分けるというのは、私たちにとって非常に馴染みやすく、そこに違和感を感じることが少ない。だからこそ、世界中の宗教でも”物質的な体のない体=霊体”という、冷静に考えると矛盾した存在概念を受け入れている。しかし、脳の機能や体の機構が明らかになるにつれ、心と体が全く分けることの出来ない同列の存在であることも理解されてきた。個人は細胞の集まりという点では集合体であるし、「私」という自己同一性は、右脳と左脳とですでに違う。同様に、「私らしさ」も決して不動のものではなく、脳の特定領域が侵されれば、いとも簡単に別人格になってしまうことも分かっている。これらは、私たちの心というソフト的概念が、体というハード的存在に依っているという事実を示している。これらのような例を挙げるまでもなく、例えば、口内炎の一つも出来ればそれだけで、一日が憂鬱になってしまうことを思えば、どれだけ身体が心に影響を及ぼすのかが分かる。
それでも、普段、体の調子が良いときは、私たちは身体について忘れがちである。「今日は体の調子が良いぞ」と毎朝考える子供はいないだろう。体の各所にがたが出始める大人になってこそ、そう思うようになるものだ。つまり、どこかに不具合を感じて初めて自己の身体を意識するのである。これはしかし、外傷や内臓疾患など明確に身体に関わるときであって、「気分が優れない」など、感覚的なものは最近まで身体と別の領域で捉えられていたように思われる。それが心理学という一領域を作ったのではないか。今では、それらも脳内物質との関連性から捉えられるようになっているが、家庭レベルでは今でも「それは怠けだ」で片付けられていることも多いだろう。
書店などでは、いわゆる「こころの問題」に関する書籍が実に多い。こころというソフトに区分けすることで、それを身体というハードと別にし、論理的解釈で解決していこうとするわけである。それらは「こころと体」に分けることに慣れた私たちに非常に親和性が高く、実際、効果もある。これが身体性が更に希薄になり独自理論が組み合わさると「霊感」や「占い」など超自然的な解釈となってゆく。
肉体の構造という「おもいっきりハード」として身体を見つめてきた解剖学の歴史は、この目に見える物質に、私たちが心と呼ぶものがどこに宿るのかを探る行為でもあった。現在、自然科学の領域である西洋医学において、身体が超自然的な働きで動いているという考える者はいないだろう。しかし、一般の人々にとってそれが全て飲み込める事実でもない。いや、多くの人にとって、医学的事実は理解できる。しかし、「こころ」がそれを受け入れない。脳死臓器移植問題などはそのギャップの表れである。
書店では、身体についての書棚にあるのは、こころの扱いの書籍と、「家庭の医学」といった不具合に対処する書籍が大半で、シンプルな体の正常構造を記述した解剖書は目立たない。需要と供給のバランスがそこには現れている。多くの人にとって「正常な状態」の自分の体には興味が持てないのだ。「うまく行っているなら、それでいい」。これは、自動車などの所有物の構造にいちいち興味を持たないのと似ている。壊れて初めて「ラジエター」が何なのかを調べる。
しかし、車と自分の体は違う。身体というハードは、そのまま「私自身」を構成しているのだ。解剖学を知ることは、正に「セルフ・コンシャス」な行為であり、自身の物質性というものに意識的になれる刺激的な学問である。わたしたちは自然状態(かつ健康)だと、どうしても「こころ」というソフトに傾きがちだ。巷では、骨盤矯正や頭蓋骨矯正など身体を改善させる行為やグッズがあふれているが、どうも情報のいいとこ取りで済ませている印象を受けることがある。自分の身体がどのように出来ているのかを基本知識として知っているなら、乱れがちなこれらの情報に流されずに済むかもしれない。このようなメディア・リテラシー的な目的でなくとも、せっかく生きている間お世話になる身体だと思えば、知っているのも損ではないと思う。
解剖学に詳しい知人が以前、「全身骨格を一体分持っているよ。体の中にね」と言った。そのような身体感覚は面白いと思う。私自身の感想だが、解剖学を知ることで、身体性の扉が一つ開く。それは、自分自身そして自分以外の生きている存在に対する見え方を大きく変えるほどの刺激に満ちている。これほど身近で(何せ自分自身の問題なのだから)、全てに関わってくる学問が、「医学のもの」のように思われていることが残念に感じる。自身の身体は、誰のものでもない。知識の扉に鍵は掛けられていない。多くの人にその扉を開けてもらえればと思う。
2011年9月21日水曜日
芸術家のための解剖学
美術解剖学というジャンルは海外にはない、と思う。「Artistic Anatomy」や「Anatomy for Artist」と言われるが、何も「〜学」として、学問体系として成り立たせようとしているわけではない。つまり、純粋に解剖学から知識を拝借して、必要な知識を応用しようという、それだけの事なのだと思う。
我が国の美術解剖学というものも、そもそもは「美術解剖+学」ではなくて、「美術+解剖学」という意味であると思われる。つまり「美術のために用いる解剖学」の省略である。
しかし、出来上がったこの単語を見た人はそうは思わないだろう。美術解剖学という学問があると考えるに違いない。そして、実際に、美術解剖という学問体系を成り立たせようという流れもある。日本には現在、美術解剖学という名称のつく学会が2つ存在する。
学会とは離れて、美術大学では学生へ向けて美術解剖学の講義が広く行われている。私もかつて受講した。各美大で行われる講義の内容に大きな違いはないと思われる。骨と筋の位置と名称、働き。年齢による変化。性別による変化。表現された人体の検証・・。
私がかつて受講した内容も、上記のようなものであったと思う。ひとつ大きな特徴として、”鑑賞者の視点から語られる”点がある。絵画や彫刻などに表された人体に見られる解剖学的特徴の洗い出しなどは、話としては面白いものが多く、美術作品の鑑賞の足場として興味深いものだ。しかし、美大という作家を養成する機関において、「作品の見方」ばかりを講義するのでは物足りないようにも感じる。いや、結局は最後の持って行き方次第で、造形者の知識にもなり得るのは事実であるから、決して無駄ではないが。
アメリカでは、実益的な内容の講義を行っている団体がいくつもあるようで、その内容を見ると、純粋に人体の形状を追っていくという、日本の美術解剖学の講義と比べるとドライとも思えるものだ。しかし、ある団体では、講義を受けに来る人は既に現場に出ている作家や映像スタジオの芸術家などであり、そういった人々に「鑑賞者的な解剖学うんちく」を語るのは意味がないし彼らも求めていないのだろう。
この、実質的内容か物語性かという2者の対比は、日本の美術番組や書籍などでも感じる特徴で、どうも、日本では芸術作品よりもそれを生み出した作家の人生や人間関係などが受けるようだ。ロダンとなるとカミーユとのドロドロ関係だったり、ゴッホだと気が狂う過程だったり・・。だから、作家が作品に応用した様々な技法やその効果などについてはほとんど取り上げられない。これは、純粋な鑑賞者的視点であって、それ自体に問題はないのだが、美大の学生など作家側に立つ人まで、鑑賞者的な内容しか与えられず、またそれを良しとして受け入れてしまうことには少々物足りなさを感じる。作る側の人間にとって、ロダンの作品の良さを探る時に、カミーユとの人間関係はそれほど重要ではない。ロダンがどのように人体を観察し、どのように粘土付けの効果を探求したのかがより重要なはずだ。
もう一つ、人体を作っている作家で、解剖学に興味を示さないひとが多いのも不思議ではある。だが、彼らが造形者のための解剖学を学ばず、その効果を知らなければ、結果的に解剖学に興味を示さなくなることも理解できる。
西洋の美学校において、人体を造形していこうというする学生が解剖学的な構造を知ることは、基礎過程に過ぎない。それは、人体を通して自らの芸術を語らせようとする者にとっての基本的な文法なのだ。解剖学を知らずして人体を作るのは、文法を知らずして詩を書こうというのに等しい。
人体を作ろうとする芸術家にとって、解剖学は「知っていれば役立つかもしれない」ものではなく、「知っていなければならない」ものだ。人体作品において、そこに表されている構造が、「知っている上での省略」か、「知らないから作れない」のかは見て分かる。
私は、人体の構造と形状に魅せられて造形の現場から遠ざかったが、解剖学を知ることで、人体の見え方が大きく変化したことを身を以て感じている。対象の見え方はいつでも同じではない。前提となる知識が用意されることで、見えなかったものが見えるようになる。混沌から秩序を見出すことができる。
16世紀に見出されたこのアプローチが現代でも採用されていることが、それだけ人体形状を捉えるための強力なサポートになるということを、証明している。どうすれば、この有用なツールを作家が効果的に用いられるのかを、最近考えている。
我が国の美術解剖学というものも、そもそもは「美術解剖+学」ではなくて、「美術+解剖学」という意味であると思われる。つまり「美術のために用いる解剖学」の省略である。
しかし、出来上がったこの単語を見た人はそうは思わないだろう。美術解剖学という学問があると考えるに違いない。そして、実際に、美術解剖という学問体系を成り立たせようという流れもある。日本には現在、美術解剖学という名称のつく学会が2つ存在する。
学会とは離れて、美術大学では学生へ向けて美術解剖学の講義が広く行われている。私もかつて受講した。各美大で行われる講義の内容に大きな違いはないと思われる。骨と筋の位置と名称、働き。年齢による変化。性別による変化。表現された人体の検証・・。
私がかつて受講した内容も、上記のようなものであったと思う。ひとつ大きな特徴として、”鑑賞者の視点から語られる”点がある。絵画や彫刻などに表された人体に見られる解剖学的特徴の洗い出しなどは、話としては面白いものが多く、美術作品の鑑賞の足場として興味深いものだ。しかし、美大という作家を養成する機関において、「作品の見方」ばかりを講義するのでは物足りないようにも感じる。いや、結局は最後の持って行き方次第で、造形者の知識にもなり得るのは事実であるから、決して無駄ではないが。
アメリカでは、実益的な内容の講義を行っている団体がいくつもあるようで、その内容を見ると、純粋に人体の形状を追っていくという、日本の美術解剖学の講義と比べるとドライとも思えるものだ。しかし、ある団体では、講義を受けに来る人は既に現場に出ている作家や映像スタジオの芸術家などであり、そういった人々に「鑑賞者的な解剖学うんちく」を語るのは意味がないし彼らも求めていないのだろう。
この、実質的内容か物語性かという2者の対比は、日本の美術番組や書籍などでも感じる特徴で、どうも、日本では芸術作品よりもそれを生み出した作家の人生や人間関係などが受けるようだ。ロダンとなるとカミーユとのドロドロ関係だったり、ゴッホだと気が狂う過程だったり・・。だから、作家が作品に応用した様々な技法やその効果などについてはほとんど取り上げられない。これは、純粋な鑑賞者的視点であって、それ自体に問題はないのだが、美大の学生など作家側に立つ人まで、鑑賞者的な内容しか与えられず、またそれを良しとして受け入れてしまうことには少々物足りなさを感じる。作る側の人間にとって、ロダンの作品の良さを探る時に、カミーユとの人間関係はそれほど重要ではない。ロダンがどのように人体を観察し、どのように粘土付けの効果を探求したのかがより重要なはずだ。
もう一つ、人体を作っている作家で、解剖学に興味を示さないひとが多いのも不思議ではある。だが、彼らが造形者のための解剖学を学ばず、その効果を知らなければ、結果的に解剖学に興味を示さなくなることも理解できる。
西洋の美学校において、人体を造形していこうというする学生が解剖学的な構造を知ることは、基礎過程に過ぎない。それは、人体を通して自らの芸術を語らせようとする者にとっての基本的な文法なのだ。解剖学を知らずして人体を作るのは、文法を知らずして詩を書こうというのに等しい。
人体を作ろうとする芸術家にとって、解剖学は「知っていれば役立つかもしれない」ものではなく、「知っていなければならない」ものだ。人体作品において、そこに表されている構造が、「知っている上での省略」か、「知らないから作れない」のかは見て分かる。
私は、人体の構造と形状に魅せられて造形の現場から遠ざかったが、解剖学を知ることで、人体の見え方が大きく変化したことを身を以て感じている。対象の見え方はいつでも同じではない。前提となる知識が用意されることで、見えなかったものが見えるようになる。混沌から秩序を見出すことができる。
16世紀に見出されたこのアプローチが現代でも採用されていることが、それだけ人体形状を捉えるための強力なサポートになるということを、証明している。どうすれば、この有用なツールを作家が効果的に用いられるのかを、最近考えている。
2011年9月4日日曜日
報告:彫刻展「From NUDE」
先日9月3日、台風12号の影響で晴れと豪雨を繰り返す天気のなか、無事にトークイベント開催されました。冷静沈着な森啓輔さんのトークに助けられ、楽しい時間でした。進行の藤原彩人さん、清水淳さんのお気遣いに感謝します。
登録:
投稿 (Atom)