2011年9月21日水曜日

芸術家のための解剖学

 美術解剖学というジャンルは海外にはない、と思う。「Artistic Anatomy」や「Anatomy for Artist」と言われるが、何も「〜学」として、学問体系として成り立たせようとしているわけではない。つまり、純粋に解剖学から知識を拝借して、必要な知識を応用しようという、それだけの事なのだと思う。
 我が国の美術解剖学というものも、そもそもは「美術解剖+学」ではなくて、「美術+解剖学」という意味であると思われる。つまり「美術のために用いる解剖学」の省略である。
 しかし、出来上がったこの単語を見た人はそうは思わないだろう。美術解剖学という学問があると考えるに違いない。そして、実際に、美術解剖という学問体系を成り立たせようという流れもある。日本には現在、美術解剖学という名称のつく学会が2つ存在する。

 学会とは離れて、美術大学では学生へ向けて美術解剖学の講義が広く行われている。私もかつて受講した。各美大で行われる講義の内容に大きな違いはないと思われる。骨と筋の位置と名称、働き。年齢による変化。性別による変化。表現された人体の検証・・。
 私がかつて受講した内容も、上記のようなものであったと思う。ひとつ大きな特徴として、”鑑賞者の視点から語られる”点がある。絵画や彫刻などに表された人体に見られる解剖学的特徴の洗い出しなどは、話としては面白いものが多く、美術作品の鑑賞の足場として興味深いものだ。しかし、美大という作家を養成する機関において、「作品の見方」ばかりを講義するのでは物足りないようにも感じる。いや、結局は最後の持って行き方次第で、造形者の知識にもなり得るのは事実であるから、決して無駄ではないが。
 アメリカでは、実益的な内容の講義を行っている団体がいくつもあるようで、その内容を見ると、純粋に人体の形状を追っていくという、日本の美術解剖学の講義と比べるとドライとも思えるものだ。しかし、ある団体では、講義を受けに来る人は既に現場に出ている作家や映像スタジオの芸術家などであり、そういった人々に「鑑賞者的な解剖学うんちく」を語るのは意味がないし彼らも求めていないのだろう。
 この、実質的内容か物語性かという2者の対比は、日本の美術番組や書籍などでも感じる特徴で、どうも、日本では芸術作品よりもそれを生み出した作家の人生や人間関係などが受けるようだ。ロダンとなるとカミーユとのドロドロ関係だったり、ゴッホだと気が狂う過程だったり・・。だから、作家が作品に応用した様々な技法やその効果などについてはほとんど取り上げられない。これは、純粋な鑑賞者的視点であって、それ自体に問題はないのだが、美大の学生など作家側に立つ人まで、鑑賞者的な内容しか与えられず、またそれを良しとして受け入れてしまうことには少々物足りなさを感じる。作る側の人間にとって、ロダンの作品の良さを探る時に、カミーユとの人間関係はそれほど重要ではない。ロダンがどのように人体を観察し、どのように粘土付けの効果を探求したのかがより重要なはずだ。

 もう一つ、人体を作っている作家で、解剖学に興味を示さないひとが多いのも不思議ではある。だが、彼らが造形者のための解剖学を学ばず、その効果を知らなければ、結果的に解剖学に興味を示さなくなることも理解できる。
 西洋の美学校において、人体を造形していこうというする学生が解剖学的な構造を知ることは、基礎過程に過ぎない。それは、人体を通して自らの芸術を語らせようとする者にとっての基本的な文法なのだ。解剖学を知らずして人体を作るのは、文法を知らずして詩を書こうというのに等しい。
 人体を作ろうとする芸術家にとって、解剖学は「知っていれば役立つかもしれない」ものではなく、「知っていなければならない」ものだ。人体作品において、そこに表されている構造が、「知っている上での省略」か、「知らないから作れない」のかは見て分かる。

 私は、人体の構造と形状に魅せられて造形の現場から遠ざかったが、解剖学を知ることで、人体の見え方が大きく変化したことを身を以て感じている。対象の見え方はいつでも同じではない。前提となる知識が用意されることで、見えなかったものが見えるようになる。混沌から秩序を見出すことができる。
 16世紀に見出されたこのアプローチが現代でも採用されていることが、それだけ人体形状を捉えるための強力なサポートになるということを、証明している。どうすれば、この有用なツールを作家が効果的に用いられるのかを、最近考えている。

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