2013年3月31日日曜日
一枚のコイン 心を物に託す
「こころのこもった贈り物」とは、コマーシャルのコピーの響きだが、他者へ物を贈るという行為は、確かに、そこに心という無形が込められることで成り立っている。贈り物、ギフト、プレゼント、お土産・・様々な呼び方で贈り物は分けられているが、現在の文明社会では、贈り物の多くが”商品”という形を取る。商品の価値は、値段という数字で計られる。これは、様々な価値観を一度数字に還元して平均化させる私たちの文化に乗っ取っている。この数値化が、贈り物の商品化という形で、私と他者との間の「心」に入り込み、大事な人には高価な物を、そうではない人には安価で・・という図式が作られた。婚約指輪には給料3ヶ月分を、それにはダイアモンドが適しています、となる。”心という無形を物に託して他者へ届ける行為”はこうして、ひとつの型に押し込まれている。
先日、喫茶店でしばらくおしゃべりをして店を出る際、代金を私が支払った。勿論、大した額ではない。その時は大きなお金しか持っていなかったのを崩したいという理由もあった。店を出ると、相手の人が、一枚のコインを差し出した。一枚の海外のコイン。随分傷だらけでレリーフは一部摩耗している。聞けば、海外旅行の際の物で、旅のお守りとして財布に入れていたと。それは大切なものとお返ししようとしたが、今がきっと持ち主が移る時なのですと言うので頂いた。私はこの時に、内心自分でも驚くほどとても感動してしまって、あの時体が震えていたのは夜風の寒さだけでは無かったと思う。
一枚の海外のコインには、ほとんど実質的な貨幣価値はない。その意味でそれは、純粋な物に近く、事実そのひとはコインに”旅のお守り”という別の価値観を忍ばせていた。それは信仰に近い。そのような、そのひとにとって特別な意味の込められた物を受け取ったとき、私は確かに、一枚のコインという物質や貨幣という本来的意味ではない、無形でいて大きく暖かいものを受け取ったように感じたのだ。言い換えれば、無形の心を、コインという物に託して私に届けられた。これこそは、贈り物の原点だろう。
人と人は、言語のみでコミュニケーションを図っているのではないとつくづく思う。実質的価値のないものを贈り、受け取るという行為は、両者が同様にその意味を理解し合っていなければ成り立たないのだ。コインを差し出したときに、その人は500円玉と思って手に取ったからと言ったが、それのみが事実ではないことを私は分かっているし、言ったままを鵜呑みにはしないだろうとその人も判断が働いていたに違いない。
数字的貨幣価値に依らない贈り物。それは始原的行為であり、それが純粋な形で行われると、心に深い感動をもたらす。記憶をたどれば、お金など関係のない幼少の頃は、その価値観でのやりとりをしていたのだ。いつしか、数字という便利な仕組みに価値判断を押しつけ、心をデジタル化していた。それが当たり前のようになっていた日常に、突如、純粋が流れ込み、嬉しいことには私もそれをまだ受容できた。
思えば、心という無形を物質に転換して他者に示すという行為は、芸術と同様である。芸術にはそれを受容する相手を必要とする。それは、かつては神であり、王であり、皇帝であった。やがて一般化し、現代では誰でもが鑑賞者と呼ばれる相手になっている。芸術作品は、他者へ示す、心の贈り物なのだ。私の心が始めにあれども、それを相手が受け取ってくれるにはそこに同様の価値観が前提として必要とされる。相手が「誰でも」の現代においても作家はそれを想定して表現しなければならないだろう。感動を届けたいのなら。
私は彫刻芸術において本質的に重要なのは構造や形態であり、文脈は二の次で良いとさえ思っていた節もあるが、今回のような体験を通すと、発端としての心の動きこそが最も重要であり、「芸術家よ感動せよ」とはまさしくそうであると、改めて感じた。感動に打ち震えるような出会いこそが芸術を推進させるのは間違いない。冷静さの底に、感動という情動の炎をゆらめき続けさせよう。芸術が人間にしか作り得ないのは、それ故である。
全く不意に手渡された一枚のコインに、私は心を見た。ここには1人と1人の行為であるが、それは人類がいにしえより繰り返してきた心の確認作業でもある。手渡し、意味を感じて理解し、受け取る。そこには全く言語では語り尽くせない情報の往来や、数値化のそぐわない価値が含まれているのに違いない。
2013年3月12日火曜日
彫刻における首
彫刻には、ひとの頭部のみを主題にしたものが数多くあり、首像と呼ぶ。頭部のみと言っても、その下端はあごの直ぐしたまでのものや頚(くび)の付け根までのもの、さらにその下で丁度首飾りの輪が掛かる辺りまでのものなど様々な程度で終わる。それよりも下で肩まで入ってくると胸像と呼ばれるようになってくる。しかしなぜ、首像なのだろうか。
もしも、首像をそのまま生きている人のように置き換えたなら、それは、さながら刑場の光景となろうものだが、不思議なことに私たちはそう見ない。これは、私たちが人と対峙したとき、何をもってその人全体として捉えているのかがそのまま表現と鑑賞との対話の中に再現されていると言えよう。基本的に私たちは、相手を認識するのに頚から上の頭部−それも顔面にほとんど集約されるが−だけで事足りるようになっている。人類が体の周りに異物を巻き付けるようになって(つまり衣類)、身体的対話は顔面に集約された。衣類が身体の保護という始原的役割から、装飾による自己表現−それは変身願望と直結する−の場へと変化するのに長い時間は掛からなかったろう。その発展は環境、文化そして個人的趣味という多用な要素を含んで現在も進行している。どんなに衣類が多様性を増やそうとも、私たちは顔を覆うことはない。ある文化圏における顔隠しは「顔は出すもの」という前提があっての行為である。
顔には、表情を作り出す専門の筋肉がお面のように被さっている。それらは意志で動かせるが、一方で感情と深く結びついていて心情が自動的に”表現される”ように出来ている。心から楽しいときの笑顔と作り笑いは似て非なるものだ。私たちが常に顔面を裸でさらしているのは、この表情を読んでもらうためという理由が大きい。私たちは、相手の表情が読めないときに不安を感じる。逆に、表情を隠したとたんに大胆になる。
衣類が自分の思う自己を作り上げるキャンバスになると、いっぽうで所詮それは作り上げられたもので信ずるに値しないという判断をも作り出した。相手を知るときに、はじめに目に入るのは衣服に覆われた表面積の大きな体だが、結局次の瞬間には顔を見て判断しているのである。いまや、一個人としての人格を顔が−それが乗っている頭部が−代表しているのである。履歴書では3㎝×4㎝の枠内に頚から上の裸をさらせば、それはあなたの全てを見せたことになる。
ここまでで通底している概念がある。それがコミュニケーション。表情は”他者に読み取られるため”にある。親にネグレクト(無視虐待)を受けた乳児はやがて泣かず無表情となるというが、読み取る相手がなければ表情も意味を成さない。表情のために”裸という真実”をさらし、相手によって作られる「あなた」という人格は、社会的な存在に他ならない。
ここで、全身と顔との間にあるギャップが垣間見えてくる。全身は、まぎれもなくあなた自身の物質的存在の基盤である。かたや顔の表情は他者に見られることで印象としてのあなたの存在を作り出す。服を着て頚から上を出す、この当たり前のスタイルは、私たちの心的イメージにおける自己をも2つに分けるものであった。存在としての本質的自己と、社会的な概念的自己とに。
彫刻に話を戻すが、ひとりの人間を表現するのにも同様に2つの流れがある。すなわち、全身像と首像である。上記から、この両者が必ずしも同列で語れないことが分かるだろう。それは、彫刻の決まりだとか単なるスタイルの違いとかの段階ではなく、ひとの認識が生み出す根の深い違いである。
彫刻の全身裸体像で具体的な誰かの肖像というのはあまりない。それは意味を成さないばかりか、表現としての焦点を狂わせる(ロダンのヴィクトル・ユゴーは大きな挑戦として映る)。一方で、純粋な没個性的な造形としての首像は作られない。これは本質的に不可能である。没個性的な首像を目指した物もあろうが、それはおそらく生気のない人形の首のようだろう。
情報発信の領域である顔面を、彫刻は頭部の構造として認識して表現しなければならない。これは、非常に高度な技−単なる観察力や再現力ではない−を要求される。良い肖像彫刻が少ないのはこの辺りが理由だろう。
結論を言えば首像とはつまり、集約された全身像である。それは社会的存在として、言い換えれば、個性ある存在として表現される。それゆえに本質的にそれらは皆、肖像的な性質を持つ。
そのひとらしさを残したい。そのために最もピントの合った表現が、首像なのだ。
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