2013年6月9日日曜日

アントニオ・ロペス展を観て(立体作品を中心に)


 日(2013年6月8日)、アントニオ・ロペス・ガルシア展を観に渋谷東急Bunkamuraへ。

 ルシアの作品は風呂場を描いたものがかつて美術教科書に載っていたように記憶しているが、そのころはいわゆる超写実画と納得しそれ以上の興味は抱かなかった。数年前に何かでレリーフ作品の写真を見た。ブロンズの薄肉で母親とおぼしき女性とその周辺風景が写実的に造形されている。それはごく平凡な風景を上手に再現されて、空間性も感じ取れる。それは普通の風景だが、その空間内にひとりの乳幼児が宙に浮いているのだ。母親は跪き乳幼児を仰ぎ見ている。この作品を見たときは、何か総毛立つような、この母親が目にした「いるはずのない乳幼児」を私も計らずして目撃してしまったような、アクシデンタルな感覚を覚えた。その作家もガルシアだったのだが、このレリーフ作家とかつての風呂場の画家が同一人物であることをその時は知らなかった。
 実的な風景に、非現実性を織り交ぜることは芸術に限らず”表現”の得意とすることだが、ガルシアのレリーフから感じられるものは、「ほら、ここが”異常点”ですよ」と主張してくる類のシュール・レアリズムやフィクション・ムービーとは違って、日常的現実性のなかに突如として紛れ込んでくる異常性なのだ。なので、かの母親が目撃した乳幼児は、単なる幻影や見間違えに過ぎないのかもしれないという不確定さをはらんでいる。そうであるのに、第三者である私(鑑賞者)も確かにそれを目撃してしまったことで作中の母親と経験の共有することになってしまった。
「誰も信じてくれないかもしれないけど、私は信じますよ。私にも確かに見えたんです。」

 ルシアの個展は日本では(そして東洋でも)今回が初だと言うから、これだけまとめて長期的な仕事を幅広く見た日本人もいままであまりいなかったのだろう。私も上で書いた以外に幾つかレリーフ作品をネットで見た程度だった。油画やデッサンなど平面が多いが、従来の絵画のように描ききったものばかりではなく、制作途中のように見えるものも多くある。作家がそこで良しとしたので完成なのだろう。芸術には”未完の効果”というものがあり、彼もそれを応用している。
 同展のポスターなどでは有名な景観図(グラン・ビア)やモノクロ写真のような肖像画(マリアの肖像)が選ばれていたが、私はレリーフや彫刻作品を楽しみにしていた。入場すると間もなく小さな丸彫り彫刻『見上げるマリア』があって、その愛らしさは勿論、造形手技にすっかり満足して、しばらく色んな角度から楽しんだ。一歳ほどの乳幼児が立ち上がり見上げている。視線の先は親に違いない。両手は少し前方へ向けられている。やっと立ち上がれた喜びと、どうしようも出来ない不安から親に抱きかかえられるための用意に入っているのが、力んだ四肢から感じ取れる。丸い頭部と線要素の四肢と胴体、そして立方体の土台が組み合うことで生まれる構成も心地よい。眺めているうちにこの子を抱え上げたい衝動に何度も駆られた。丸い頭もなでたかった。私からすると、空間中に確かに存在して立ち上がっているこの作品の存在感は強いものがあるのだが、多くの鑑賞者は壁の平面作品に多くの注意を裂いているように見えた。大人の注目を得られない幼児は寂しげであった。

 ぐ近くには、この子の母親である女性の金彩色の胸像(マリの胸像)があった。控えめだが憂えた表情に信仰性を見る。側面から見ると顔面部に対して後頭部の量が控えめだった。右耳のうしろの胸鎖乳突筋の緊張が下顎の量とつながって、耳から首への輪郭線を直線的にしていた。こういうラインは実物観察の証だろう。顔も決して無機質な左右対称ではなく、むしろ大胆に動勢が表現されていた。

 ローイングを盛んに褒め称える男性たちのささやきを耳にしながら、平面作品を見通していくと、ブロンズレリーフ(食品貯蔵庫)が掲げられていた。静物画を薄肉彫りにしたもの。シャープさ、空間性はあまり高くない。60年作なので初期のものか。
 その少し先に、レリーフ作品のハイライトとなるものが掲げられていた。『眠る女(夢)』は上記作の3年後のものだが薄肉木彫レリーフで彩色されている。会場のライティングも調節されているので、一見では平面絵画にも見える。しかし、それにしては陰がリアルで近づくと凹凸に気付くというわけだ。この視覚的幻惑感にすっかり感心した鑑賞者たちが足を止め、いったいこの立体的空間感は何かと視線をさまよわせていた。
 私は最近になって、レリーフという表現形態に再注目している。これは絵画と彫刻の狭間にあると言えるが、求められる技法はどちらとも微妙に違う。正確に言うなら絵画と彫刻の技法に加えて、レリーフ独自の技法も求められる。レリーフは決して新しい表現ではなく、むしろ丸彫りの彫刻より古いことは古代エジプトやオリエントを思い起こせば分かる。そして、これら古典も往時は彩色を施されていた。

 の展示室へ続くと、実物より大きめに見える全身裸体像の男女が立っていた。肌色のむらのある彩色。目には義眼。脇の壁に制作中の作家と作品の写真が掲げられていたが、その白黒写真では作品が塑像もしくは蝋に見えた。どちらも太いアングル(支え棒)が脇から差し込まれていた。塑像原型を木彫に写したのかもしれない。長い年月をかけ、複数のモデルを参考にした”普遍的人体像”であるという。しかしそれは古代ギリシアが求めたものとは違い、俗的な今を生きる中年男女だ。男性は片足重心で立ち、古代よりのフォーマットであるコントラポスト姿勢を思わせるが、その揺らぎが作る重心の波は骨盤部で立ち消える。そこには論理的に言える動勢の繋がりが消え、古代彫刻に理想を見出す者(つまり私)に不安を与えるのだが、実際の人体を観察するとそれらが曖昧であることも事実であり、こうすることで古典的理想化から現代的現実感への移行に成功しているとも言えるのだろう。

ころで、これら2体の彫像は壁に背を向けるかたちで設置されていたが、私はこれを残念に思う。背中を見ようにも脇からのぞき込むほか無く、そこにはライトも当てられないため形を追うことは出来なかった。しかし、そういった鑑賞上の不満は個人的な小さなものだ。本質的なのは”立像を壁際に置く”ことで、これらの作品は明確に「物」として扱われていたことだ。それらはもはやショー・ウィンドゥのマネキンであった。勿論、空間の制限等さまざまな理由からそこが選ばれたには違いないだろうが、作品は”非作品”ではない。彫刻はどこに置かれても同様の意味合いを放つほど”鈍い”表現媒体ではないのだ。絵画のように額縁の中で擬似的に作られた空間に守られていない彫刻作品は、それを取り巻く空間がどうであるかに非常にセンシティヴである。もし、これらの作品が空間の中央に立っていたなら、その存在感により多く鑑賞者が足を止め回りを巡って楽しんだことだろう。
 の壁に、この彫刻のためと思われる大きな全身デッサンが掛けられていた。それらは胴体を中心に描き込まれ四肢は曖昧である。同彫刻も脚の作り込みが胴体に比べて弱く見える。実際、脚の股関節から膝関節までの大腿部と、膝関節から足首までの下腿部は形態の視覚的は引っ掛かりが少なく、他の部位の比べて”退屈”である。そのため、古典では実際よりも筋の起伏を強調して陰影を出しているが、ガルシアは現代的現実感のためにそれがないのだろう。

じ展示室内に、ブロンズの等身男性が仰向けに寝た作品『横たわる男』がある。超写実だが、これは型からの起こしを感じさせる。つまり、実際の人体モデルに石膏などを振り掛けてその印象を取ったのではないだろうか。それをもとに多少手を加えたのだと思う。脇から下行する胸腹壁静脈や下腿の大伏在静脈など細かく再現されていた。

展示順で見ると最後に女性半身像(女の像《イヴ》)がある。肌色彩色木彫で原型は石膏とのこと。頭部には髪を多うキャップを被っている。それは競泳用キャップを思わせる。

 後の展示室の彫刻たちを見て、違和感を覚えた部位がある。それは目だ。男と女の立像には義眼がはめ込まれていたので視覚的な生命感があった。それは良い。仰向けの男性と女性半身像はどちらも目を開けている。ところが”生気”がない。正しく言うなら、生きた人間が目を開けている顔をしていない。仰向けの男性像は型起こしではないかと上に書いたが、そう強く思わせた理由の一つがこの目であった。それは女性半身像も同様である。生体から顔面部の型を起こすときは、当然ながら目を瞑った状態になるので、型から起こした閉眼状態の顔面に手を加えて”開眼させる”のである。この際、単純に上まぶたの中心に削り落としてアイラインを整形することで目を開けると、必ず違和感ある顔になる。まぶたを閉じるには、目の周りの皮膚内に埋もれている、目を同心円状の取り囲む眼輪筋を収縮させている。この筋の影響範囲は上まぶたを超えて広がっているので、目を閉じると周囲の皮膚を目頭(めがしら)よりに”思いの外”引き寄せる。これらの作品は、目を瞑った状態の周囲構造に開眼した目を付け加えたので、違和感を生じている可能性がある。思えば、半身女性像の競泳用キャップも頭部型取りにはよく用いられる。

 気の薄い目の表現はしかし、ガルシアの肖像画のいくつかでも感じた。それらは写真から起こされた絵であった。ガルシアの作品の多くを覆う、対象に対する遠い距離感は、観察と作品の間に写真や型取りといった客観的で無感情な媒体を挟み込むことで生まれているのではないだろうか。会場内やカタログには、ガルシアがモチーフの前で実際にカンバスを広げている写真がいくつも展示されており、それだけを見るなら作品たちは彼の肉眼観察のみから生み出されたように思わされる。しかし、実際の作品を見ると、そういったものと写真をもとに再構成したものとの2種類があるように感じられる。
 90年代に描かれた植物画は、白いカンバスの四隅などにメモリや数値、画面分割線などが描き込まれている。それは多少作為も感じさせるが、彼の作画に対するスタンスを表してもいる。ガルシアに共通するのは写実であり、写実は技法において主観の除去を含む。彫刻の制作過程において、生体からの型取りが行われていたとしても、それは彼の信念に沿ったもので、なんら違和感を生じさせるものではない。

 体作品ばかりを見てきたが、平面作品では『室内の人物』に”やられた”。これは心理的不安や恐怖を与える作品だ。室内の左隅は光が当たらず暗い。右のドアは開いており3人が立っている。女性は明らかに不安や悲しみのような感情を表している。彼らは外からやってきてドアを開け廊下から室内を見ているのだ。ドアの隣に鏡が掛けられ、画面手前、つまり私たち鑑賞者側の空間が写し込まれている。それを見ると手前の壁には女性物の衣服が掛けられている。廊下から不安げに見る女性の視線の先はこの衣装に向けられている。この鏡のすぐ手前の暗がりに若い女性がいる。胸までしか無く、視線は鑑賞者へ向けられている。
この女性の顔は、ガルシアの妻マリアであることは同展を見ていれば分かるのだが、明らかにこれは”いるはずのない人物”としてここにいる。廊下にいる3人にはこの女性は見えていない。そして、”いないはずの女性”は私たちへ目を向けている。彼女は私たちを認識しているのだ。しかし、見られている私たちはこの空間に存在していないことは鏡に誰も映っていないことが証明している。
 いないはずの女性は、その視線によって絵画空間と私たちとを結びつけている。しかも、絵画空間においては私たちは”いないはずの女性”側に位置している!。こんな、鑑賞者を不安にさせる罠が仕掛けられた絵画はあまりないだろう。この女性が霊だと言うなら、あなたもまたそうだということになるのだから。
 ガルシアのこの絵に感じられる、変容した現実感(つまりシュール・レアリズム)は、私がかつて見た幼児が浮かぶレリーフと同質のものだ。彼は決定的に全てを変容させない。勘違いや気の迷いや少し疲れている事による見間違えといったさりげなさに”異質”を溶け込ませる。しかし、私たちにはそれこそが異質のリアリティだろう。


ころで、会場内の鑑賞者を見ていると、彫刻作品の鑑賞時間は明らかに絵画作品のそれより短い。彫刻作品の”見方”が分からないのではないかと想像する。だからこそ、展示側がマネキンのように男女像を置くのはより良くないと思ったのだ。
 彫刻の見方は、絵画のそれとは違う部分が多い。そして、深く、楽しい。商業的に見ても、彫刻はいつも苦戦を強いられる。彫刻界にいるひとは、鑑賞者を育てるという役割も担っていかなければならないのかもしれない。古代ギリシアやローマの彫刻たちの多くは鋳つぶされたり焼いて石灰にされて消えていったという。”良い物を作っていれば気付いてもらえるよ”ということはないと思う。
 ントニオ・ロペス追記