今月最後の週末である8月30日(土)に、新宿美術学院(新美)にて『美術解剖学ゼミ』を開講いたします。
本講座は、美大進学を目指す高校生・予備校生を対象にしています。
私もかつては美術予備校(新美ではない)に通っていたが、美術解剖学という単語すら知らなかった。地方予備校では今も同じではないだろうか。夏休み企画とはいえ、通常は大学進学後に出会う美術解剖学を知ることができるのは、中心都市の利点に思う。
では、美術解剖学を知るのは予備校生には時期尚早かと言えばそうではない。これは上級向けではなくあくまで”美術基礎”である。
美術解剖学とは、解剖学を基盤として、人体の見方を示すものだ。人体という自然物は、どのように見ても良いものである。見方に決まりなどない。ただ、自由に見ると、多くの人がある見方の”くせ”におちいる。輪郭線と陰影だ。私たちの視覚は対象を区別するために、実在しない輪郭線を引く。それはとても有効な見方のツールとも言えるもので、決して悪いものではない。ただ、私たちはそれを”意識的に制御しなければならない”。陰影はもっとやっかいだ。それは対象に立体感を与えるものだが、個々の陰影に囚われてしまうと簡単に全体性を失う。要するに、輪郭線も陰影も、明確な意識のもとの観察し、制御し、描写しなければならない。
美術解剖学は、ここで言う「意識的制御」を担当するものだ。一見無秩序に見える人体に秩序を見出すことで、観察する視線は無駄に遊ばなくなる。それは、「眺め、分からないまま写す」から「見て、理解した上で描写する」に移行させる強力な方法論なのだ。
そもそも「人生は短く、芸術は長し」であるが、試験という期限のある受験生にとってそれはより現実味を帯びて感じられるだろう。”描いているうちに分かるさ”と悠長に構えてはいられない。ぜひ、美術解剖学という対象の見方を知って、観察力の効率化を図ってほしい。
本講座は、新美の彫刻科前主任と現学院長のご理解があって続いている。受験生の技量向上に(当然ながら)本気である。やがて美大へ進学すると分かるが、造形力の中心部は予備校時代に形成される。日本の美術の基礎を事実上支えているのは美術予備校と言って過言ではない。そのような基礎養成に携わる方だからこそ、美術解剖学の有用性を理解いただけるのだろう。
本講座は終了しました。
2014年8月20日水曜日
2014年8月19日火曜日
好きな彫刻
私は彫刻が好きだが、現代の作品で「これが好き」というものにほとんど出会えない。良いと思えるものはいわゆる古典作品から近代までに大きく偏っている。
ネットを介して、今まさに活動している若い作家の展示も見ることができるけれど、私にとってそれらの多くが彫刻には見えない。
彫刻とは何か。いろいろな規準があり得る。中でも最も広範囲にカバーできる規準として”立体物”がある。現代において彫刻と立体物とはほぼ同義に扱われている。実際、彫刻の明確な境界線など引くことはできないだろう。
ただ、古典作品のように時代を超えて人に愛される作品に共通してみられる彫刻的な要素はさがすことが可能だ。それらを要約して言葉にしたのが、「量感(マッス)」「動勢(ムーヴマン)」「面(プラン)」「構造」といった”彫刻用語”なのだろう。これらの要素が効果的にあれば、良い彫刻が成り立つということだ。つまり、私たちはこれらの要素に強く惹き付けられる性質を持っているのである。
ただ、近代から現代になり、彫刻芸術の範囲は大きく広がったように見える。何が加わったのか。思うにそれは情報ではないか。現代以降の彫刻作品は、従来のモニュメンタルな要素のもの(それは永続的時間性を重視している)から、情報発信の道具(それは短期的時間性を重視する)へと変貌した。そのことが、彫刻の性質・作風を大きく変化させたように思われる。
今どきの彫刻の多くはだから、非常に”饒舌”だ。やいのやいのと何かを喋り続けている。けれども、その体がとてつもなく貧弱なのだ。骨も筋肉もなく空気の抜けた風船みたいな体をして得意げに喋り続けているから、一種異様な感覚を抱く。でもこれは、やっぱりとても現代っぽい。まるでインターネットにあふれる姿なき言葉たちのようだ。
古典的要素は決して古いのではない。そうではなくて、真実に近いのだ。その真実に近い部分で追求すべき芸術要素も多いはずである。
きっと、私の好きな”古典的要素”を追求した作品もどこかで作られているのだと思う。けれど、時代がそれらを表層へ浮かび上がらせないのだ。きっとそうだと信じて、いつかそれら作品に出会えたらと思い続けている。
ネットを介して、今まさに活動している若い作家の展示も見ることができるけれど、私にとってそれらの多くが彫刻には見えない。
彫刻とは何か。いろいろな規準があり得る。中でも最も広範囲にカバーできる規準として”立体物”がある。現代において彫刻と立体物とはほぼ同義に扱われている。実際、彫刻の明確な境界線など引くことはできないだろう。
ただ、古典作品のように時代を超えて人に愛される作品に共通してみられる彫刻的な要素はさがすことが可能だ。それらを要約して言葉にしたのが、「量感(マッス)」「動勢(ムーヴマン)」「面(プラン)」「構造」といった”彫刻用語”なのだろう。これらの要素が効果的にあれば、良い彫刻が成り立つということだ。つまり、私たちはこれらの要素に強く惹き付けられる性質を持っているのである。
ただ、近代から現代になり、彫刻芸術の範囲は大きく広がったように見える。何が加わったのか。思うにそれは情報ではないか。現代以降の彫刻作品は、従来のモニュメンタルな要素のもの(それは永続的時間性を重視している)から、情報発信の道具(それは短期的時間性を重視する)へと変貌した。そのことが、彫刻の性質・作風を大きく変化させたように思われる。
今どきの彫刻の多くはだから、非常に”饒舌”だ。やいのやいのと何かを喋り続けている。けれども、その体がとてつもなく貧弱なのだ。骨も筋肉もなく空気の抜けた風船みたいな体をして得意げに喋り続けているから、一種異様な感覚を抱く。でもこれは、やっぱりとても現代っぽい。まるでインターネットにあふれる姿なき言葉たちのようだ。
古典的要素は決して古いのではない。そうではなくて、真実に近いのだ。その真実に近い部分で追求すべき芸術要素も多いはずである。
きっと、私の好きな”古典的要素”を追求した作品もどこかで作られているのだと思う。けれど、時代がそれらを表層へ浮かび上がらせないのだ。きっとそうだと信じて、いつかそれら作品に出会えたらと思い続けている。
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