2018年3月10日土曜日

さいころ

 サイコロの事を「乱数を発生させる道具」と言い換えると何だか人類の凄い発明品に見えてくる。例えばサイコロを知らない人にそう説明したら随分と大げさな機械などを想像するかもしれない。サイコロの働きは1から6までの数を理論上では完全にランダムな確率で示す。サイコロがいくつの目を出すのかは1/6の確率内で予想できない。
 サイコロは、振って出た目の数によって自然のランダムさに意味を与える。その目が出る以前には、その数の概念は宇宙に提示されていなかったと思えば、その意味は大きい。どの目が出るか分からない偶然性は宇宙の全てを満たすそれを同一である。言ってみれば極小分子が見せるランダムな振動と同じなのだ。それら自然現象の偶然性は振れ幅がほとんど無限にあるため、そこに特定の意味や概念は見いだすことができない。サイコロは、その膨大な偶然の可能性を6という数に限定して区切る。サイコロを振ると、台の上で跳ねて短い時間素早く回転してから止まるが、その回転している刹那に無限から1/6にまで可能性が集約されている訳だ。

 どうして人間はサイコロを発明(発見?)したのか。それが私たちの意識と関係していないはずがない。意識によって脳裏に浮かぶ判断はいつも”決定済み”と言った顔をして現れる。それは頭の中で1から6までの好きな数字を”無作為に”1つ選び出すことができないことで分かる。自分の頭で思いついた数を「ランダムに導かれた数」とは言えない。もし、そう言い切れてしまうと、それは“心の病”だとされる。私たちは、自分の肉体(と精神)から離れた現象を使わなければランダムを手にすることはできないのである。

   無作為の決定を下そうとするとき、人類はサイコロを手にするより以前は、どのような手段を用いたのだろうか。石や動物の小骨などを用いたりしたのかもしれない。実際、ヒツジの足首の骨である距骨は古代ギリシアではサイコロとして用いられていたことは分かっている。しかしながら、骨では出る目に著しい偏りが生じるので、一度に複数を投げてその確率を散らしていたようだ。やがて、立方体のように、全て同じ長さの辺で構成される面では、出る目の確立が分散される事に気付いたわけだが、これはまず経験的に導かれたように私は思う。羊の距骨のような直方体から発展したとして、残りの2面を活かそうとするなら長さを削ればいい事は、何度も放っていれば自然と気付く。
   ところで、無作為の判断でもっとも単純なものは、表か裏か、といった1/2の決定であるから、サイコロが発明されるよりずっと以前からその方法があったのではないかと想像できる。今ではコインを放って表か裏かで判断する“コイントス(coin toss)”だが、原始の頃は平らな石や葉を落としていたのかもしれない。

   サイコロの出た目に従う事、つまり自分の意思ではない現象を受け入れるという姿勢は、抗えない自然現象を受け入れるものと近い。「そうなってしまった事実」は受け入れざるを得ない。そういう強いメッセージ性がある。それは自己決定とは異なる場所からのメッセージである。その意味でサイコロを放る行為は呪術的行為と近い。
   むしろ、放って出るサイコロの目がランダムであるという数学的事実が発見されるまでの長い時間、目の出方には、何らかの意味合いが含まれているかもしれないと考え続けられていただろう。実際、現代でもゲームでサイコロを振る時は狙いの目が出るように“念じて”しまうものだ。

   サイコロは、私たちが自らの決定は全て意識に基づいて決定していると直感しているからこそ作り得た発明品であり、人間が意識に基づく自由意志を完全に認めている動物であることを示す物でもあるのだ。

2018年3月8日木曜日

名作のポーズを女性モデルに取らせて

 先週末の3日(土)の朝日カルチャー講座では、女性ヌードモデルを使って名作のポーズを実際に取ってもらった。立ち、座り、寝ポーズの3種類で、立ちポーズはローマ彫刻『メディチのヴィーナス』とクラナッハ『ヴィーナスとキューピッド』、座りポーズはロダン『美しかりしオーミエール』と荻原碌山『女』とローマ彫刻『うずくまるヴィーナス』、寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』。

 ところで、ロダンの老婆をモデルとした『美しかりしオーミエール』は、個人的にこの日本語題名に抵抗がある。まず、タイトルの響きが主張しすぎているように思われる。”美しかりし”と言われると、このうなだれた姿勢と相まって、作品を感傷的にさせすぎてしまう。”オーミエール”という固有名詞的カタカナも加わって、何か具体的でドラマティックな物語が背景にあるのだろうと思わせる。ストーリー性が強くなると形態への興味が薄らいでしまい、「ああ、誰か知らないけど、かつて美しかった女性なんだろうな。オーミエールさんと言うのかな。」と納得した気分ですぐに作品から目を離してしまう。それでは日本語でなければどうなのか。
 英語のタイトル表記では、『The Old Courtesan (La Belle qui fut heaulmière)』である。カッコ抜きならば、シンプルに『老いた高級娼婦』である。カッコ内の仏語が原題なのだろう。英語直訳では ”The beautiful who was heaulmière”で、”オーミエールだった(と呼ばれた)美女”とでも言おうか。そうなるとオーミエールとは名前ではなく娼婦の意味か?。ググってみるとそうでもなかった。これは、15世紀フランスの詩人であるフランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩に由来するものだった。その中に『Les regrets de la belle heaulmière』がある。問題のオーミエールだが、これは”ヘルメット(武具)工房の妻”を意味するようである。つまり、美しさから”La belle heaulmière”と呼ばれた女性のことだ。『美しきオーミエール(武具工の妻)の後悔』とも呼べる詩の内容は、今は年老いた女性が、かつて若く美しかった頃を語り、全て老いてゆく人間の運命を哀しむものである。
 さて、その上で日本語題名の『美しかりしオーミエール』は、”今は美しくない”と言っているのと同じで、原題とニュアンスが異なっている。原題直訳では『オーミエールと呼ばれた美女』で、像の老婆にも敬意を感じる言い回しである。「若い=美」という単純さに異を唱えていたロダンが、老婆の姿に”今は美しくない”などと言うはずもない。そもそも美しさを感じていなければ、この像は造られなかったはずなのだから。その意味においても、単純に『オーミエールと呼ばれた美女』でいいのではないか。


 本題に戻して、まずは『メディチのヴィーナス』。”恥じらいのヴィーナス”と呼ばれる型の1つで、オリジナル(現存せず)は古代ギリシアのプラクシテレス作である。左脚に重心を乗せて始まる典型的なコントラポスト姿勢。正面写真では胸と股に手を当てて見えるが、横から見るとそれらの部位から手は浮いている。また、若干上体を丸めている。左右の手と胴体の間には隙間が開いていて、そこに実際に布などを挟むこともしたのではないかと想像したくなる。モデルは、右足かかとに丸めた布をおいて、かかとを上げた姿勢を維持していた。破綻無く同様の姿勢を取ることが可能だが、像と同様の丸めた背を継続することはできない。つまり、この像はその場に静止しているのではなく、移動運動を暗示している。”恥じらって”、頭部は誰かを警戒しているので、この場から離れようとしているのは確かである。


 『ヴィーナスとキューピッド』は、似た絵が何枚も作られた内の1つで、ハチに刺されて困り切っているキューピッドの表情も可愛い。ところがその体は筋描写がしっかりしていて”マッチョ”である。この表現はイタリア・ルネサンスのフィレンツェ派、ミケランジェロの影響が感じられる。女性モデルにポーズしてもらったのはもちろんヴィーナスの方で、つま先を外側へ大きく回した左脚を右脚の後方に持っていく姿勢は、立体で見るのと絵で見るのとでは印象が異なる。その重心は顕著ではないものの、左脚側にあり、骨盤はわずかに右側が下がる。モデルとこの絵とで最も異なっていたのは、曲げている右腕と胴体との関係性で、絵では前腕の上に間をおいて乳房があるが、実際は曲げた前腕のすぐ上に乳房がある。まして、この絵のように、直角以上に鋭角に曲げた肘によって上へ上がっていく手が左乳房の下端にも届いていないことなどあり得ない。このヴィーナスは一見しただけでそのプロポーションが歪んでいることは明らかなのだが、具体的な位置関係の大きな違いが表されている事から、モデルの観察と言うより、型に基づく描写であろう。


 彫刻『美しかりしオーミエール』は、左膝を深く曲げて足は地面に達していない。モデルのポーズではここに台を置いてそこへ左足を置いた。この作品は腹部正面からの写真がほとんどだが、見せ場は背中にある。直角に曲げた右腕は背中へ回され、その手は大きく開いて手のひらを後ろに向けている。前腕には屈筋腱が鋭く浮かんでいる。丸められた痩せた背中には肩甲骨が浮き出ている。自分でこの右腕の姿勢を試せば分かるが、私たちの腕はこの姿勢を取るようにはデザインされていない。むしろ、少ない努力でこの姿勢が取れてしまう人類は、それだけ特異な形態へ進化しているのだと言える。上腕骨は最内旋した状態で肩関節は過伸展している。過伸展には三角筋の後部(棘部)が収縮するが、この筋は外旋筋でもあるため、この姿勢の達成にはジレンマがある。右前腕は背中に”引っかけられて”いる。前腕がこうして固定された状態になると、筋の張力が動かす骨の向きはそれまでと逆向きになる。つまり三角筋の後部は肩甲骨を体幹から引きはがすような方向に働く。そのために、肩甲骨の内側縁は持ち上がって背中に高い稜線を形成するのである。これは彫刻でもはっきりと表現されており、モデルにおいても同様であった。街でお年寄りが背中に両手を回して腰で両腕を組んでいるのをしばしば見る。それも、上記の働きを自然と応用しているのであって、つまり、丸まった背中をこうして伸ばしているのである。この姿勢が楽になったら相応の年齢になったと思うべきか。ロダンの作品のモデルの老婆も背中が丸く、この姿勢を続けるためにも片腕を背中に回す必要があったに違いない。続いて彫刻の左肩を見ると、肩甲棘から胸椎に向かって一条のすじが下りていく。これは僧帽筋の上行部(下部)の緊張を表している。この像の背中は、観察に基づく写実描写があり、それはこの像全体にも言えることだ。ポーズ終了後にモデルが、この右腕の姿勢はきついと言っていた。

 碌山の『女』は、我が国の近代彫刻の記念碑でもある。ひざまずいた姿勢で、上半身はわずかに前方へ傾いている。膝は左側が後ろへ引かれ、そこから連動するように頭部まで捻れるような動勢が続いていく。前へ倒れそうな勢いを、後ろに組んだ両手が反対方向へ引いている。ひざまずく低さと、上を向けられた顔とが反発するように対応し、拘束からの解放や、苦悩からの希望といった印象を鑑賞者に抱かせる。実際にこの姿勢で止まることはできない。重心が前方へ外れているので前のめりに倒れてしまう。モデルの上半身はずっと垂直に寄ったものになり、この作品のような劇的な視覚的印象がない。膝で立っているので、膝と足首によるバランス取りがキャンセルされ、モデルは容易にふらついた。ところで、この作を見ると、ロダンにも多くの影響を与えた彼の助手クローデルの『The Mature Age(分別盛り)』の1人を思い出すのは私だけではないだろう。
カミーユ・クローデル『The Mature Age』


 『うずくまるヴィーナス』も、古代ローマのヒット作で、幾つも発見されている。ポーズのバリエーションが幾つかあるが、どれも片膝を立てるようにしゃがんでいる。今回参考にしたものは大英博物館にあるものだが、その造形は観念的なヘレニズム様式を取っている。折りたたまれた四肢で構成される込み入った空間がひとつの見せ場だが、狭い空間を見事に彫り上げたローマの石彫家の高い技術には驚きしかない。この姿勢の見事さは、モデルに実際にポーズを取ってもらうとより強調される。体幹と曲げた四肢の間には、幾つもの三角形が現れる。このトラス構造は、視覚的な安定性ばかりでなく、実際の彫刻作品にも安定した強度を与えているだろう。彫刻の背中には正中に溝が殿裂まで走っているが、実際の人体では殿裂まで追うことはできない。殿裂の上方には左右に窪みがあるが、その窪みよりさらに上方でその溝は消えてしまうからである。


 今回の寝ポーズはアングル『グランド・オダリスク』のみ。寝ポーズは意外と参考に向くものが見つけられなかった。この作品は、背骨の数が多いと、発表されたときから言い続けられている。確かに細長く見える。それはこの画家がそう見せようとしたからである。絵で見ると、背骨のラインが大きく横にカーブしていて、とてもそのようにモデルが曲がるようには思えなかったが、実際には、かなり近い姿勢を再現することができた。絵の左側が高いので、ビーチチェアーを用いた。絵の女性の背中は左右幅がなく見えるが、これは斜めの視点によるものである。胸郭部の背骨の曲線は右への側弯ではなく胸椎の生理的後弯によるもので、これが腰椎の側弯と融合することで絵のような一連の長い曲線に見えるのである。また、この絵の女性の腰は左側の多くがクッションに沈んで描かれていない。これも幅を狭く見せる視覚効果をになっている。この女性が立ち上がったなら、思いの外量感のある身体で驚くはずだ。一瞬どうなっているのか目が迷う両脚は、下にある左足を組むようにして右脚に乗せている。右腕は腰に乗せているように見える。モデルのポーズもそのようにした。すると、右の指先は絵のようにふくらはぎには届かない。絵では右手指先が左脚ふくらはぎの上に乗せられているが、これこそ現実界では厳しい姿勢である。この絵が、細かったり長かったりするような歪みを見せながらもそれらしく見えてしまう理由のひとつに、希薄な奥行き感があるかもしれない。まるで望遠レンズで見たような圧縮された遠近感。右の脇の下から覗く乳房も、実際より手前に飛び出ているように見えるが、これも前後に圧縮した遠近感によるものだ。