岩波書店から出ていた。ロダンの筆録(話した言葉を文字にする)などが、散文的に翻訳されている。訳したのは、高村光太郎。それに、高田博厚と菊池一雄が注や解説を加え、作品の写真や年表まで付記して、一冊でかなりおいしい内容の本である。つまり、ロダンという近代西洋彫刻の父の言葉が、それに感化された日本の彫刻家によって訳され、その後輩たちが解説を加えている、「彫刻家の、彫刻家による・・」(と続くと「彫刻家のための本」と結びたくなるところだが、ここは、)「全ての芸術家のための本」で括れるだろう。
私は、この本を高校生の時に手に取った。彫刻家にあこがれていたから、大いに影響を受けた。分からないような内容も分かろうとしてみたものだ。その後、読まない時期ももちろんあったが、いつも本棚には置いておいた。最近になって、また読み返している。そして、”今まで通りに”その内容に打たれる。およそ100年前の人の本である。社会文化は変化しただろう。しかし、この本でロダンが語る彫刻を通した芸術についての本質は、今でも何ら変わりはしない。そう、人が同じ以上、美の根源もまた同じなのだ。全く、全てのページに芸術家にとって益となるべき言葉が綴られていて、これはもはやバイブルのようなものだとも思えてくる。ロダンが示そうとしたものは、決してスタイルではなく、本質だということが文章から補強される。
私の今手にしているのは、二冊目で、読み込む為に何年も前に購入したものだ。書き込みやラインが引いてあって、これはこれからも増えるだろう。確か一冊1,000円もしなかったはずなので、もう一冊購入しようと書店へ行くと、なんと、もう刷っていないとのこと。別の書店から大きな復刻版と称した6千円以上するものがあったが、あれはコレクターかなんか向けだ。なんて、残念な話だろう。つまり、売れていなかったということだ。一般にとってロダンは昔の人で、その芸術も古くさいということなのだろう。
かって、碌山が、光太郎が、ロダンの芸術に感化されそれを日本に輸入しようと試みた。そこから影響を受けた芸術家もいた。しかし、多くの者はそれを「スタイル」と見て、単に筆致だけをまねたのだ。それでも良かった。見る方も知らないのだから。しかし、それはすぐに形骸化へと進み、飽きられ、古くさく、ゴミのようなものになった。一般の鑑賞者には、それもひっくるめてロダンだと写る。そして、「ロダニズム」という一つの芸術上の運動のようにして終わらせてしまった・・。真の理解者は僅かしか居なかった。彼らももう居ない。そのうちの、そして最大の人、高村光太郎も一般には「智恵子抄」の詩人としか知られていない。その光太郎が訳した「ロダンの言葉」には、彫刻芸術の、ロダンが示そうとしたことの、本当の事が綴られている。日本の彫刻芸術を志す者は全てこの本を理解すべきだろうと心から思う。そして、彫刻に限らず、芸術の本道を行こうとする者なら手にすべき書なのだ。100年前と言うなかれ、中身は今日のこと、明日のことである。湯気が出るように熱いのだ。
そんな、唯一無二な「芸術の聖書」が、絶版とはと嘆きつつ希望を求めて書店内検索すると、講談社から出て居るではないか。しかし、収録内容が微妙に違う。あっちにないものがこっちに、その逆もしかり。また、高田博厚と菊池一雄の解説や注もなく、作品写真も年表もない。旧仮名遣いが現代に直されていてこれは良い。値段は1,300円と高い。著作権が切れている高村光太郎だけで出したのだろうか。なんだか、高田、菊池両氏の熱意が切り取られて、薄っぺらくなってしまった(物理的にもにも薄いが)。新品なら、あるだけよしと言うしかないのか。講談社には悪いが、岩波に是非復刊してもらいたいと思う。これは、日本の芸術家にとっての「聖書」なのだから。
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