2009年8月5日水曜日

彫刻美術と肉眼解剖の衰退の原因

数字至上社会について書いたことで思ったことを記す。

解剖学(肉眼解剖学)というのは、すでに終わった学問だと言われることがある。この、終わったとは、既に終了して過去の物というのではなくて、とりあえず目で見えて記載できるものは一通り済んだ、という意味だ。とはいえ、肉眼的に人体を探索している研究者は世界中に居るし、彼らにとっては人体はまだまだその余地を残しているフィールドであることも事実だ。

現代の解剖学は、その原点である肉眼解剖学から、さらに微細な顕微解剖学や、分子解剖学へと広がり、また、人体の別の見え方を探る応用解剖学へと発展している。
それでも、肉眼解剖学は全ての根幹として機能し続け、それは、人体を探求する基本的姿勢を現在も示し続けている。
彼らは、いつも目の前にある人体の形状に忠実であろうとする。個々の所見に重きを置く。
この姿勢は、自然を観察する芸術家のそれに似ている。彼らは、一般に広がっている偏見を持たずに目の前の景色を見ようとする。なんと言おうと、自分の目に映るそれが真実である。

現在の、数字至上社会は、良く言われる情報社会とリンクしているだろう。情報とは、皆が共有できる普遍性を持っていなければならず、それを可能にするのが数字だからだ。情報の代名詞「インターネット」もデジタルという数字に置き換える事で成り立っている。

なぜ、社会はこのように進んで来ているのか?具体的にはいくつも答えを考え出せるが、全体として言えるのは、人類がそれを望むから、である。
私たちの脳は、全てを概念化して取り扱っている。脳にはそうしかできないし、それが実際に効率的だからだ。より効率性を高める為には、そもそもの世の中を、概念的に変化させた方が良い。そういう作用が働いているのではないだろうか。
ともかく、コンピューターは人類に受け入れられ、ネット社会も受け入れられた。情報ビジネスも当たり前になった。

それに呼応するように、美術表現も物質的なものから情報的なものが主体になり、いまや、あえて「コンセプチュアル・アート」などと呼び分ける必要も無い。

肉眼解剖学という、数値ではなく物質を扱う領域が過去と呼ばれることと、物質的な美を探って来た美術、ことに彫刻の衰退とに共通の情報化という原因を見る気がする。

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