2009年2月7日土曜日

命流れる


「死を思え」という言葉がある。死の裏側としての生を輝かせるための言葉である。「死ねばご破算」という言葉があるかは知らない。が、これをよく頭で唱える。わたしにとっては、「死を思え」よりも、より我が身のこととして「死ねばご破算」が実感として想像しやすい。今の自分は、過去の人生の記憶の上に成り立っている。そして、今が塗り重ねられていく。感情は今に作られ、今に生きる。未来を想像もする。この全てが、死ねばご破算になる。絶対的ゼロに還る。実に、個々の生き物にとって死は一大イベントである。

ところで、死ぬとどうなるのか、誰もが知りたがるが、どうも死後には地獄やら幽霊やらとネガティブなイメージがつきまとう。これは、死が終焉であり、死ぬ前には苦しみを伴うことが多いなども関係しよう。我々はこの世の住人で、死ぬとあの世にいくという図式で現世がスタートに立っているが、考えてみれば我々はつい最近この世に生まれたのである。生まれる前どうだったか、気になる者があるか。生まれる前、何もなかった。いま、色々な物事がある。やがて死んでご破算。願いましてはで生まれ、珠が動いている時生き、ご破算で終わる。このそろばんの一つの流れと命は現象として違いがあるのだろうか。

さてさて、いずれにせよ、我々ははかない。皆、死んだ。天才と言われたミケランジェロも、ロダンも、苦しんだ荻原守衛も、魂をあれほどふるわせた人でさえ、皆死んだ。熱く燃やし、消えた。着いた炎は必ず消える。だが、燃えていたときに残した物が、今にそれを語る。残された芸術に、今、生きているわたしが共感する。同士であると喜び、勇気付けられる。まるで、その魂が今だそこに息づいているかのごとく錯覚をする。石のかたまりや単なる金属が放つ幻想に勇気付けられ、新たな感動を私たちも刻みつける。そして、命はやがてご破算する。

ああ、生があり、死があり、良かったと思う。芸術が生まれたのだから。

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