2015年6月27日土曜日

人工と自然

 先日あるテレビ番組で地理的危険地域に住む男性にインタビューをしていた。崖崩れが起きかねない自然道を通らなければ街へ出られない場所に住む男性に、その危険性を認識しているのか尋ねていた。数世代前から同地に住んできたその人は、今になっての”危険地域指定”に戸惑っているようにも見えた。私はこれを見ながら、しばらく前に起きた事故ニュースを思い出していた。ビル外壁の看板の留め具が自然に外れて落下し、歩行者の頭部を直撃したというものだ。ぶつかった歩行者は意識不明となった。
 私たち、特に都心部や都会に住む人は、垂直にそびえ立つビルとビルの隙間を日常的に歩いている。その時に上から何かが落下してくるかも知れないなどと怯えはしない。ほぼ絶対的な安心感を持って歩いている。しかし、現実には落ちてきたのだ。落ちることは”自然”である。その可能性があり、それが実行されれば、それは起こる。
 街へ出たら、改めてビルの外壁を仰ぎ見て欲しい。地面から真っ直ぐ上方へ伸びたビルの外壁。そこからはさまざまな物が付き出し、取り付けられている。それらは皆、重力によって常に落ちようとしていることを思い返してみよう。

 ところで、自然界において、都会のビル街のように垂直な壁がそびえている場所があるだろうか。私たちにとって身近な山々の光景を思い返してもそういった自然景観は思い浮かばない。ただ、全くないわけでもない。例えば崖などはほぼ垂直にそびえている。では、自然景観にある崖の下を歩くとして、その時の私たちはどんな気持ちだろう。きっと圧迫感や落下物への危機感などの緊張感を抱くはずだ。つまり、自然において垂直とは恒久的な安定感とはかけ離れている状態であり、私たちもその事を感覚的に知っているのである。自然界における崖は実際に長い時間そのままであることはなく、断続的に崩れ行っている。
 ところが、私たちはビル街の垂直壁に対して恐怖感を抱かない。それが崩れてくるだろうとは思いもしない。そういう思いを普通に抱いているから、先のテレビ番組のように、山道は危険だと”数世代に渡って住む”男性に問いただせてしまう。山道は恐らく100年以上に渡って自然そのままで存在していただろう。しかし、ビル街を100年間そのままで保つことは恐らく不可能だ。ビル街は人間が定期的かつ不断にケアを続けることでようやく維持しているのである。そのケアの目が行き届かないとき、先の看板留め具のように崩れ落下する。本来的に安定しない形状である「垂直」を人工的に作って維持管理することは、”不自然”なことだ。これは”人工的”とも言い換えられる。自然界における垂直が脆いように、本質的にはビルの垂直も脆い。そうであるにも関わらず、私たちは「脆く危険なビルの谷間」をヘルメットもなしに、呑気に往来している。そこには、私たちが自身に対する盲目的な信頼を抱いている証拠でもある。人間が経験と計算によって作り出した「人工物」は「自然物」よりも優れている。技術が自然を凌駕する、とでも言わんばかりの自信を私たちは持つ。

 私たちは、自然と人工を分ける。やがて、自らの存在をも「自然と人間」や「動物と人間」のように分けてきた。そうやって、自らを包括する対象との境界を明確化することで、自身のあり方を明確に見つめてきたのだろう。現代の都心部で生活する人間においては、もはや日常的に体感する事の多くが人工物で占められる。街に出て回りを見回してみる。そこに自然物が幾つあるか。人工物はすべて意思によって規定されたものである。それらはまず線で描かれ、数値で情報化される。数値化は効率化の為であり、一般化を導く。そうして基準が作られ、人間界は均一化の方向へ進んでいく。身近なものを見て欲しい。服や靴のサイズ、机や椅子、車、家・・。多くの物が基準数値から作られている。そうした中で生きていることで、いつの間にか私たちがその基準値に合わせるようになっていく。自らが作り出した人工物に浸る内に、私たちは自らが「自然物」だということを忘れるようだ。

 改めて私たち自身、人間、が自然物であることを意識してみたい。人間の大きさや形は人間が決めたものではなく、自然によって規定されたものだ。それに対して、人工物は人間によって規定されるものである。つまり、「人間は自然の都合、人工は人間の都合」ということだ。人間の規定−つまり人工−は自然の規定にすっぽりと覆われ支配されている。だから、人工物は人間による不断の手入れが行われなければ、やがては壊れ、自然の形へと戻っていく。
 人間が自然物なのだから、それが作り出す人工物も自然物とも言える。しかし、間に人間が介することで階層がひとつ違う。つまり、人工物は人間という特異的な自然物にのみフィットするようにアレンジされたもので、それは全体としての包括的な自然物とは異質な性質を帯びる。人工とはその意味において、目に見えない境界、もしくは膜のように機能しており、人工的という閉鎖環境を維持しながら外の自然界と交流していると言えるだろう。

 人間が意思で生み出すもの−人工物−には、それ故に、弱さをはらんでいる。それを克服するために、様々な試みが人工的に行われている訳だが、人間が自らの意思決定で生み出す以上は、そこには必ずあるバイアスと弱さを内包した「異質さ」が含まれざるを得ない。これは、私たちが自然の一部である以上、避けることができない、もしくは越えることができない限界であろう。もし、本質的な意味で自然とフィットする人工物を生み出そうとするなら、それこそ人工知能でもつかうしか方法がないだろう。しかし、それで生まれる人工物(いや、人工知能物)を、我々が満足するとは思えない。なぜならそれはもはや、もうひとつの自然物なのだから。

 人工か自然かという線引きは一本では引けない。それは線と言うより徐々に変化するグラデーションであって、その濃淡差のどこを線としてみるかに依るものだ。ただし、人工は自然と隣り合わせにあるのではなく、あくまで自然に包括されているという関係性は意識しておきたい。

2015年6月20日土曜日

足らで事足る身こそ安けれ

 今は遠い学生時代。大学周辺は寺が多く、門前には説法のような文言が良く書かれていた。前を通ると何の気なしに読んでは、なるほどねと納得したりしていた。大抵は何が書いてあったかなどすぐ忘れてしまうが、1つの文言だけ今でも覚えている。

 「事足れば 足るにまかせて事足らず 足らで事足る身こそ安けれ」

 語感やリズム感が良い。つい口ずさんでみたくなる。けれども、その意味がすっと入ってくるわけではない。何度か口ずさみながら吟味すると、なるほどと分かる。つまりは、人の欲には底がないのだから欲さず質素が良い、という意味だ。
 大学生の頃は何でも欲する年頃なので、なるほど確かに欲しがることで結局苦悩も掻き込んでいるのかも知れぬと友人と話していた。

 しかし、それから何年も経って、ふとこの説法を思い出したときに、全く違う意味にも取れる事に気がついた。意味を変えてしまうのは最後の「安けれ」をどう捉えるか、による。安けれを「安泰」の意で見れば従来の意味だが、これを「意味の殆ど無いようなもの」として否定的に捉えるならば、文言の言わんとしている意味が180度変わってしまう。つまり、「満たされるという事を欲さぬ人生は意味がないほどに小さいものだ」となる。内容は変わらない。意味のニュアンスが変わる。このことに気付いたときは、何か行動しなければと心がどこか焦っていた。そのメンタリティが、「安けれ」を違う意味として読ませたのだろう。

 ところで、どちらが正しいのだろう。「結局満たされないのだから欲しなさんな」か「欲さぬ人生は安っぽい」のか。きっとどちらもだ。私たちは欲する存在であるし、それ故に決して欲が満たされることもない。この文言は、「こうしなさい」と言っているのではなく「こういうものだ」と示しているに過ぎない。だから、その時々で違う意味に聞こえるのだ。読み手の心を反射している。

 生きる以上は与えられる”欲”。ならばそれとどう向かい合うのか。それを問うている。

2015年6月1日月曜日

大巻伸嗣『Liminal Air Space-Time』を観て

 5月29日(金)に、六本木の森美術館で開催中の美術展覧会「シンプルなかたち展」を観た。どういうコンセプトの展示内容なのかさえ、実はあまり把握していなかった。同展に出品している作家から招待券を頂いたので、彼の展示作品を鑑賞しに行くだけのような気軽な気持ちで向かったに過ぎなかった。森美術館は六本木ヒルズの中にあるので周辺は賑やかで、さらに森美術館内では、別の展示室で開催中のスターウォーズ展に来ている若い人たちが大勢居た。目的である「シンプルなかたち展」へ入っていく人たちはむしろ少数に見えた。エントランスを過ぎて、一つめの展示室の壁際に大きな打製石器が見えて、「この展覧会はきっと面白い」という予感を得た。直ぐ隣にはル・コルビジェが集めていた小石などが展示されている。それらの中に、ヘンリー・ムーアの小彫刻が置かれている。この時点で、かなり私の興味どころにピントがあった”めったにない”展覧会だと確信した。その後の、多くの展示作品や展示物について感想をひとつひとつ書くことはしないが、展示数も多く、質も高く、かつ分かりやすく、非常に上質な(そして私好みな)展覧会で、非常な満足感を得た。展示物のそれぞれも魅力的で、かつ全体の構成も調和がとれているなかで、特に印象に残った作品が、招待券を頂いた作家の作品だった。

 様々に趣向を凝らした展示作品の中に、招待券を頂いた大巻伸嗣氏の作品もあった。氏の作品はひとつの部屋をつかったものなので、作品が”ある”というより”観る”といったほうが正しいかもしれない。部屋のように区切られた奥の壁は前面のガラス張りで、六本木の50階以上の高さからの景色が見えている。当日は雨天だったので白くかすんでいて、それが白壁の室内と緩やかに連続しまとまりを作り上げていた。きっと晴天だと印象が全く変わるだろう。そのガラスの手前で、巨大な白いメッシュ地のシートが下から風を受けて舞っている。シート下の床には送風口が設けられ、そこから上へ向けて送風されているのだ。送風はコントロールされていて、その風を受けたシートはゆっくりと様々な波を空中で作り続ける。鑑賞者はその展示室の入り口側から、部屋内で舞い続けるシートを窓越しの霞んだ都会の景色を借景にして観るのである。全てが白い拡散光に覆われ、視覚的にも静かな光景だ。聞こえるのはかすかな送風機のファンの音で、シートが高く舞い上がる直前に回転数が上がる音が耳に届く。それはシートの視覚的挙動の前触れとして。送風のスリットは床の四隅と真ん中に1つの計5つで、そこから様々なタイミングと強度で風が上へ送り出される。その風は白いメッシュに受け止められ、その形を流動的に変化させる。風で作り出されるひとつひとつの波は緩やかで大きく、その挙動を私たちの目で追い続けることができる。大きな波同士は時にぶつかり、ひとつの大きな波となる。大きな波の表面に小じわのように小さな波が起こりさざ波のように流れ消えていく。送風のタイミングや強弱は機械制御で繰り返しているのかもしれないが、室内の様々な偶発的要素によって、同じ形の波は二度と表れることはない。暫く舞った後で、全てのファンが停止するとシートはゆっくりの自重と空気抵抗とで床に降りて行き、まもなくぴったりと白い床に広がって止まる。数秒の静寂の後に、ファンが音を立てて回り静かだが力強く空気を振動させると、シートにおおきな膨らみが形成されそれはやがてシートそのものを天井へ向けて再び持ち上げる。四角いシートの4つの角には目立たない小さなリングが付けられていて、それが床と天井との間に張られた同じく目立たないワイヤーに通されている。そのためにシートは風で一箇所にまとめ上げられたり、外にはじき出されたりすることなく上下に舞い続けることができる。

 風というものを、私たちは経験的に知っている。けれど、風とは何だろうか。風は私たちのどの感覚器で感じ取られる対象なのか。風は音を立てる。強風は「ピューピュー」と言う。風は草木を揺らす。風にそよぐ草木を私たちは見る。また風は涼を運ぶ。夕暮れ時の涼しい風を肌で感じる。強い風は思い大きな物さえ動かす力を持つ。時にそれは街を破壊するほどだ。私たちは風を五感で知っている。けれども、風そのものを見ることも掴むこともできない。大巻氏の作品の白いメッシュシートは、感じれども見られぬ風を視覚的に見せる変換装置としても存在する。我々はシートを通して風を見るのである。けれどもその時風はシートにぶつかり、捉えられ、シート下を横に広がり、シートの断端から再び私たちの目で見えない室内空間へと流れ出ていく。つまり、私たちが見るシートを通しての風は、視覚的媒体(すなわちシート)にぶつかって物理的変化を与えられた風である。ここで気付くのだ。私たちの五感で捉えられる形に変換された風だけが、私たちにとっての風という存在であると。私たちにとって、気付けぬものはすなわち存在しない。しかし、それがひとたび感覚できる形に変換されたとき、突如として我々の眼前に表れる。こうして、「見えぬけれどもあるんだよ」という事実を改めて飲み込むのだ。また、むく犬に化けてファウストの書斎に入り込んだ悪魔メフィストフェレスの「光は闇の一部に過ぎぬ」という文句を思い出す。そして、私たち自身が信じる”自意識”の知り得ぬ根源を思う。
 また、この波打つシートは、それが空間上でそう振る舞えるためには、シートを境界とした「差」がそうさせていることに気付かなければならない。一言で言うなら、圧差である。ファンによって作り出された風はシートの下面に風圧を与え、その押し上げる力がシートの重量に勝ることで空中に持ち上げられる。シートという膜が空間を隔てることで、そこに差が生じ、その力すなわちエネルギーが膜を動かしている。ここでシートを膜と言い直したのは、エネルギーによって運動を与えられるシートに細胞膜を見たからである。生物の基本単位である細胞を規定するための大前提こそが細胞膜にほかならない。リン脂質の集まりであるこの形質膜によって空間が仕切られることで始めて生物がこの立体世界に存在可能となる。その膜は、決して水を入れた風船のゴム膜のように閉鎖し動かぬものではなく、周囲の液体や物質と常に動的に繋がりあっている。きっとそのダイナミックに動き続ける様を私たちの肉眼的視覚に置き換えてみるならば、この白いシートのようだろう。そう思ったのである。細胞にとって生きているという状態は、細胞膜を介した内と外の不断の連絡のことであり、その連絡を起こさせる原動力こそが内外の「差」にほかならないのである。だから、この差が見られなくなる状態は細胞の死を意味する。白い空間を風圧による差で揺らめいていたシートは、送風が止まると緩やかに下降してやがて床上で全ての動きを止める。それは、まさしく現象としての生の消えた状態、死であった。会場において、シートが床に落ちて動かなくなったそのタイミングで立ち去る鑑賞者が多い。それは、私たちが「不動は終わり」という概念を予め持っていることを指し示している。私たち「動く物」すなわち動物は、動から静という運動の流れに生から死を見るのである。そこから数秒すると送風機が再稼働し、シートに有機的なドームが形成されるやいなや全体が浮上を始める。ここに私たちは「再生」もしくは「新生」を見るのではないだろうか。それは、「誕生」とは違う。誕生は生から新たな生が生まれる事を言う。動かぬことでその物質的側面を露わにしていたシートが、風という見えぬ力によって動き出すその様は、数十億年前の海の中で生命がまさしく新生したその瞬間を思わせる。生命”現象”が物質と出会うことで生命体が生まれた。そういった生命の始原の感動的な現場を垣間見たような気持ちにさせられる。これを、シートが下降して停止した連続として見るならば、「再生」としての意味が与えられるだろう。空気によっていま再び持ち上げられたシートを、35億年の形質膜の歴史と重ねて見ていると、緩やかに凹凸を変化させ続けるシートの上面が、大陸形成のダイナミズムともオーバーラップしてくる。私たち人間個人のライフサイクルで主観的に捉えられる大地は、基本的に不動のものである。しかし、最近の全地球的な地震活動や火山噴火の活動化からも分かるように、大地もまた常に動き続けている。そのような数千万年から億年単位での大地の動きをタイムラプスで見せてくれているような、はたまたタイムマシンにでも乗って変化する大地を俯瞰しているような気分にもなって楽しい。

 彫刻家である大巻氏の現在の活動内容は古典的彫刻家のそれを越えているが、この作品を観て、その触覚感と空間への強い意識に、まぎれもない彫刻家のセンスを強く感じ取った。彫刻に限らず芸術は、有史以来の幾つかの通過点において革新的な概念が付け加えられ、もしくは変革されてきた。美術の教科書などで出てくる作家たちの多くはその立役者たちである。彫刻に限れば、それは人間や動物の外形を他の物質に置き換えるという根源的かつ重要な発見から始まり、それ以降さまざまな概念や技法が付け加えられもしくは取り替えられてきた。前世紀の初頭から先の大戦以降になると彫刻表現は大きな広がりを見せ、その多様性の雑多としたありさまから、新規的表現のなかに従来見出すことのできた筋の通ったレールはもはや探すことさえ困難に思える。若い彫刻インサイダー達にはある焦りがある。彫刻表現は今後どこへ向かうのかと。そういった模索が、表現を通して多くの現代作家たちが意識的無意識的を問わず繰り返しているのだ。そういった現状にあって、この『liminal air space-time』は、そのひとつの方向性を明確な鮮やかさを持って示しているように思われた。
 まず第一に、作品が実際に存在しているという事実である。彫刻でも絵画でも人体像はあるが、実世界に物質として存在するのは彫刻の人体像だけだ。この「実際に存在する」という事実はそのまま私たち自身の存在感と繋がっている。私たちが絵画のような仮想的存在ではないのと同様の現実感を持って彫刻はそこにある。そして、現実界に存在するには、無と有とを分ける境界がなければならない。それが肉体での皮膚であり、細胞での細胞膜であり、彫刻での作品表面であり、この作品での白いシートの膜面にほかならない。
 命無き物質である彫刻に生命感を宿らせるために彫刻家が重要視する表面造形の方法論がある。それは、「内から外へ押し出せ」というもので、その形状がもたらす膨張感が生命観を観るものに与えるとされる。勿論、押し出すだけでは単なる膨張する球体となるに過ぎない。実際の形状は凹凸に溢れているのであって、つまりこの言葉が意味することは、理想的な膨張感を得られるための凹凸術を駆使せよということになる。ロダンも彫刻は凹凸の芸術であると言ったし、日本近代彫刻の立役者の1人である石井鶴三の「でこぼこのオバケ」の”でこぼこ”とはそのことだろう。結局はでこぼこの妙味が重要なのである。そして、でこぼこの出っ張りはあくまでも内からの押し出しに由来せねばならない。その膨張感は成長や筋の緊張を想起させる。膨張は収縮を感覚の内にはらみ、その連続は心臓の鼓動へと連想させる。2つの運動の繰り返しが生み出すリズムは、全ての生命現象の根底に横たわっている。要するに、膨張と収縮の形態が表象しているのは、あくまでも生命的な動勢なのだ。
 彫刻というのは静止している。しかし、鑑賞者にとってそれらは止まってはいない。彫刻家はでこぼこや姿勢などを制御することで、見る者の心象に、動くそれを再現させうるのである。だから、歩いているところを作る彫刻作品と、歩いている人を撮影した写真とは違うものである。少なくとも写真機が普及するまでの「動き」とは、あくまでも動きのなかでのみ見出されるものであって、その瞬間の像というのは想像するしかない対象だったのだ。まさにその過渡期に活躍したロダンは、ポーズの設定などでモデルを撮影した写真を残している。しかし、両者の根本的な違いを理解していた彼は、写真で撮られた歩く姿勢を真似して作ったところでその作品には動勢を感じることはできないと言った。彫刻で扱う動きは動勢であって、機械的で客観的な動きの事実とは違うのである。
 白い部屋で緩やかに舞う白いシートは、風によって大きなドームを形成し、複数のそれが時にぶつかり合いひとつになる。そこには膨らみと凹みが立体的波形の振幅として繰り返し現れては消える。それは有機的であり、何より「実際に動いている」。動きを持つ生命を表現する彫刻において、動勢をどう表すのかは永遠のテーマだと言って良いだろう。本展覧会の会場には、それらに迫ったかつての芸術家たちの作品も多数展示されている。たとえば、大巻氏の展示物のすぐ向かいには飛行機のプロペラが展示され、またプロペラと同様のコンセプトを内在するブランクーシの『空間の鳥』がそのとなりに置かれている。前世紀の初頭、飛行機がプロペラを回転させて大空へ舞うのを見た芸術家は、空気を捉えて動かすというプロペラの羽の機能美に人間の作為を越えた造形の力を感じ取ったに違いない。だからこそ、ブランクーシはその形状からインスパイアされ、空間の鳥という作品形状を通して目に直接見えぬ空気とそこを生きる場とする形状(鳥であり飛行機であり、プロペラ)の抽象化に挑んだのでは無かろうか。目に見えぬ空気という存在を、それを表象する対象によって表現したかつての彫刻と、大巻氏の白いシートとは同じレール上にある。ただ大きく違うことは、このシートは実際に空気をまとって動いているということだ。彫刻は、本来的には動かないものである。動かぬ中に、動勢や生命感を感じさせるものだ。この最大の利点は、時間のベクトルがそこにないことで、そのために鑑賞者がそれを見たときがいつでも彫刻的時間のスタートとなる。流れぬ時間ゆえに、始まりと終わりを同居させることも可能である。その意味で彫刻は4時限的な表現媒体であると言えよう。目を動かせばいつでもイントロであり、同時にクライマックスがあり、トータルでの協奏も常に流れるのである。大巻氏の作品はそこが違う。ここでは実際に時が流れている。私たちの生命時間と同じ流れがそこにある。うごめくシートを5分鑑賞する間に私たちは5分歳を取る。送風が始まってシートが舞い、送風が止まってシートが落ちる一連はその場で時間を削って鑑賞しなければならないのである。そこに登場する時系列のドラマは、音楽を思わせる。この重要な点においては、彫刻を逸脱している。動く彫刻が今まで無かったわけではない。だが、例えばカルダーのモビールと同列ではないことは明確だ。なぜなら、『liminal air space-time』はその始まりと終わりの物語が明確にプログラミングされている。我々鑑賞者は、作者である大巻氏の組み立てたストーリー(もしくは楽曲と言っても良い)を彼の意図したとおりに見なければならない。ちょうど大巻氏は作曲家のようだ。ただし映画監督ではない。これは映像作品ではないのだから。もしくは、強引に動く彫刻的な流れに押し込むならば、18世紀半ば頃にフランスなどで流行したオートマタに近いだろう。機械仕掛けで命を吹き込まれた人形たちは、作家が予め意図したとおりに動くことで当時の鑑賞者を驚かせた。彼らは、命の無い人形が動くことで生命を感じることに驚くのだ。では生命とは動きのことか。では動き生きる自分は機械に過ぎぬかと。大巻氏の白いシートはもはや人の形はしていないが、機械仕掛けで空気を送り込まれ一時の時間を有機的にうごめく様は、機械人形と似通って見える。18世紀においては、人の命は、人の形をしていなければならなかった。まだ、概念においても形が重要だったのである。しかし、この頃から科学を通した世界の見え方が変わってくる。つまり、物質から概念的な存在論が科学的根拠を伴って唱えられるようになっていくのだ。その萌芽は遠く古代ギリシア哲学からすでにあったが、中世、ルネサンスを越えて17世紀に入るといよいよ加速していったかに見える。現代における人体の基礎医学的視点は大きく解剖学と生理学とに分けるが、その生理学つまり機能としての人体という視点の実質的始まりとして17世紀のハーヴェイの血液循環論がある。その後まもないデカルトの動物機械論はオートマタに影響を少なからず与えているだろう。このプレ・オートマタ期において、生命現象はある程度明確に物質と魂とに分割された。目に見えぬ空気は魂側に割り振られた。これが、やがて科学的に発見され始めるのが18世紀である。ボイルによって燃焼と生命現象に空気が等しく必要であることが分かり、ラヴォアジェによって呼吸の神秘性は酸素と二酸化炭素の交換であることが明らかになる。神の形と同等であった人の形は、19世紀になるとサルや魚と同等であると言われるのだ。そうして20世紀の戦後には、私たちの形はたった4つの塩基配列を元にした「情報」から作り出されると解釈されるようになった。今や、形の根源的重要性は薄れ、それは隠されていた情報から生み出された結果に過ぎないとさえ言われるのである。同展覧会の図録にパウル・クレーの言葉が載せてある。「かたちとは終局であり、死である。形成こそ〈生〉なのだ」。近代において、私たちは形とは結晶のように結果的構造物として捉えるようになっていった。それは私たち自身の身体も同様である。いまや重要なのは、今を生きるこの肉体ではなく細胞内の塩基配列、すなわちDNAの情報であると言い切れてしまうほどだ。このような物質から情報への身体観のパラダイム・シフトが、当然ながら芸術における身体表現にも反映する。身体を人体形状ではなく、現象や動き、概念や情報といった代替的表象で表すようになる。そういう流れにあって、上記のクレーのような言葉が発せられるわけである。風ではためく本作品は絶え間なく運動を引き起こし、その結果としてシートに膨らみを”形成”する。それは決して留まらない。私たちは形成の連続に生命を見る。

 芸術に新たな概念が付け加わるとき、しばしばそれらは驚くほど単純な形で私たちの眼前に現れる。同展覧会にも展示されていたフォンタナの『空間概念』はその端的な例である。同作の素材と言えば、全面が単色に塗られたキャンバスだけだ。それを刃物で数筋の切り目を入れただけの作品。たったそれだけで、絵画の平面性とキャンバスの立体性を繋げて見せた。穴によって次元を広げたのである。大巻氏の『liminal air space-time』で私たちの視覚に映る物は巨大な白いシートだけだ。もちろん、インスタレーション作品としての装置全体で見れば、送風機や空間の必要性など多くの物が関与しているけれども、それら舞台装置を裏にして、私たちの感覚に変化を及ぼす具体的な視覚装置はシートだけである。そして、そのシートに命を与えるものは風だけだ。つまり、主な役者はシートと風だけなのだ。このシンプルでどこにでもあり、誰でも見たことがあるような現象から、今まで見落としてきたような気付かなかったような新しい感覚を導き出す鮮やかさがここにはある。それは清々しさを見る者に与える。作者が彫刻家であることから、私は同作を彫刻として見てきた。そうすることで、現代彫刻が模索する方向の1つを示唆しているさまも垣間見えた。ただ同作の鑑賞には時間の流れを必要とする点は、彫刻の概念から大きく逸脱するものである。それをどう捉えるかは様々だが、「彫刻の鑑賞」方法に一石を投じるものでもあろう。かつて彫刻は建築の一部であり、その意味において私たちを周囲から取り囲んでいた。やがて彫刻は分離したが、今ふたたび新しい形で鑑賞者を取り囲もうとしているのかもしれない。

 人類の造形した芸術物で最も古い発見物は彫刻である。数万年にわたり、私たちは形にこそ命は宿ると信じてきた。しかしその人類史的記憶に基づく感覚は整理分割され、命は現象であると捉えられるようになった。現象が物質と関係することが形成であり、その結果が形だと言うのだ。その物言いに従うなら、永く彫刻家は最終生成物を造形し、そこからそれ以前を感覚的に蘇らせようとしてきたことになる。クレーのように過激に言えば、彫刻家は死体から生きた姿を想像させようとしてきたのだ。そういった流れの末端において、大巻氏の同作は、形成そのものに目を向けさせようとしている。

 彫刻の今はどうなっているのか。彫刻に今何が起こっているのか。彫刻はこの先どうなっていくのか。ゆっくりとはためく白いシートは存在の境界でありつつ、彫刻表現そのものの境界でもあるように思えた。