私たち人類は、3万年前には自分のかたちを造形していました。それら小さな彫刻の造形表現が現在と比べて劣っているということはありません。28000年前に作られた『ヴィレンドルフのヴィーナス』像が見せる、冷静な観察に基づく大胆な変形と形態的な調和には感嘆させられます(図1)。
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『ヴィレンドルフのヴィーナス』
旧石器時代の11センチほどの石像 |
人体彫刻の起源は人類史的に遡ることができるものですが、現在の日本で彫刻と私たちが呼ぶときに心象に浮かぶもの、例えばブロンズ像や大理石像などの直接的起源は、2500年ほど前の古代ギリシア文明と言って良いでしょう。この西洋彫刻とも呼ばれる領域が日本に本格的に輸入されたのは文明開化後ですから、日本人にとっては”西洋彫刻を作り始めて100年ちょっと”ということになります。
しかしここでは、文化史的な側面というよりも、人体彫刻とそのモチーフである人体との関係性に注目したいと思います。そこでは彫刻の最大の特徴である「実在」がキーワードとなるでしょう。なぜなら、私たちもまた人体として実在しているからです。彫刻と人体はこのことにおいて相互に関連しているのです。彫刻は物質の形態を操作することで非言語的に語らせようとします。人体は物質が複雑精緻に組まれた形態によって生命現象が生み出されています。どちらも実在する形態のありようが、その存在の意味を支えていることに変わりがありません。一方で、両者の由来は違います。すなわち彫刻は人類によって生み出されたものですが、人体は自然が生み出したものです。
私たちは皆生まれたときから“人体を所有”していますが、人体のことを初めから知っているわけではありません。人体すなわち「私」とは何か。それを形態から探求する学問が人体解剖学です。解剖学は隠された内側から直接観察することで人体の認識を深めようとします。人体の内景は有史以来、長い時間をかけて少しずつ発見され、その探求は現在も続いています。こうしてみると彫刻も人体も、私たちの意識によって発見される形態という意味で同様です。このような類似性は、解剖学的な形態や構造に彫刻的な美しさを見いだせることからも分かるでしょう。
多くの点で人体と似た”実在的な運命”を持つ人体彫刻を、解剖学的な視点も加えて眺めていきましょう。
実在のリアル
彫刻には、実在しているという事実によって生まれる特有の特徴があります。そのひとつが形状と素材の連関です。これは、彫刻の形状はその素材の特性の影響を受けると言うことです。彫刻の素材として良く用いられるものは石、粘土、木材、金属、樹脂などで、それぞれ特徴的な特性があります。たとえば、石材は硬く丈夫で屋外にも置けるが欠けやすく、木材は切削が容易で細かな表現ができるが強度はそれほどでもない、などです。大理石の彫刻は細くて長い造形は向かず、人体像の姿勢もそうならないように工夫されています。一方、素材に粘りがあるブロンズ像ではよりダイナミックな姿勢が可能になります。このように、彫刻は物理作用の影響下にあるために、その形や姿勢もそれに従う範囲でなりたっているのです。
また彫刻が実在するということは、作品の題材(テーマ)が実在するということでもあります。鑑賞者はその作品の題材と物理空間を共有していることになります。この作品がミケランジェロ作の『ピエタ』であったとするなら、その物語の当事者であるキリストとマリアがあなたと同じ時空にあるわけです。この劇場的効果が彫刻に特有の強さを与えていることは確かでしょう。一方で絵画は、一枚の絵の中に限りなく自由な世界を繰り広げることができますが、それらは私たちの物理的空間とは隔絶されています。作品題材の存在では、”絵画はバーチャルの、彫刻はリアルの芸術”ということになります。
作品を前にした鑑賞者は、作品がそこにあることを当然の事として捉え、その作品が持つテーマを感じ読み取ろうとするものです。先に例に挙げた『ピエタ』であれば、マリアやキリストの外見やそれに伴った物語という文脈です。しかしながら、彫刻の鑑賞においては文脈の鑑賞にくわえて、それが”実在する”という彫刻と私たちが共有する事象にも目を向けることで、彫刻特有の芸術的性質が見えてくるのです。素材と空間の制約の中で屹立する彫刻には、どこか私たちと似たものを感じます。
心も形から
心を私たちは知っています。「心と体」や「心身」といった言葉があるように、形のない心に対して物質の肉体と同程度か時にはそれ以上の存在感を感じもします。私たちは具体的な形を持たない心や意識を”意識”することができるのです。怪我をしたり病気になったりしてやがては消滅する肉体という物質的な存在と心は対極的な存在として捉えられるのです。
医学に依れば、私たちに魂の存在を信じさせる意識は脳から生まれます。脳は神経細胞の集まり、つまり物質です。また感情や愛情といった情緒は、ホルモンなどの作用で変化することも分かっています。ホルモンとは体内に流れるごく小さなタンパク質などの物質です(図3)。
このことはつまり、心や感情といった形がない概念的なものが、物の形から生みだされていることを示しています。感情を生み出す形。それはまるで彫刻ではありませんか。彫刻が持つ形状は、鑑賞する私たちの心を動かします。それは私たちの考え方や行動さえ変える力を時に持ちます。彫刻という物質の形状と形なき心との関係性は、体内における意識や感情の立ち上がり機序と思いのほか似通っているのです。
彫刻特有の感覚
彫刻は立体物として量を持ちますが、見ることができるのはその表面だけです。表面の色彩だけを見ているのであれば絵画と変わりないのでしょうか。それでは描かれた彫刻と実物の彫刻は同じということになってしまいます。これには違和感を感じますが、実際のところ具象絵画はこの思想ゆえに成り立っているわけです。しかし描かれた彫刻を観ることが、実物の彫刻鑑賞の代わりにはならないこともまた明白です。描かれた彫刻では決定的に何かが物足りません。実在する彫刻を鑑賞するときだけに働いている感覚、それは立体感です。
この世界は立体的にできていますが、それを立体的に見るには2つの目でひとつの対象物を捉える必要があります。2つの目で捉えられたそれぞれの映像を重ねるとズレが生じますが、脳はこのズレを元に距離感を得ます。この距離感が特定の対象物に向けられるとき立体感として感じられるのです。人間の両目は並んで前を向いているので立体視が可能なのです。視点が移動すると、このズレが連続的に起こるので立体情報をより多く捕らえられます。彫刻作品の前で鑑賞者が左右にゆらゆら動いているのは、そうやって立体感を味わっているのです。彫刻は私たちの両目が並んでいたから生まれたと芸術とも言えます。世界を立体で見ることの喜びがそこには内在されているのです。
彫刻を写真に写してもこの立体感は残せません。平面化された時点で立体感は打ち消されてしまいます。ですから、彫刻が持つ立体感や量感を楽しむには、実物の前に立って鑑賞する意外にないのです。鑑賞者がその作品の前まで赴かなければならないという意味において、彫刻はライブショー的な側面も持っています。
彫刻の内側
ブロンズ像を間近に見ると、その表面に作者の指跡やヘラ跡が生々しく残っていることがあるので、これらは直接作られた中身の詰まった物だと漠然と思われていることがしばしばあります。しかし実際はそうではなく空洞です。ブロンズ像は始め粘土や蝋などで作られます。その粘土像から型を起こし複雑な工程を経て、最終的にブロンズつまり銅の合金へとすっかり置き換えられているのです。具体的には、型の中へ溶けた熱い金属を流し込みます。金属は冷えて固まる時に縮むので、金属の量が多いと歪みや割れが起こります。そうならないようにブロンズ像は空洞にされます。そもそもなぜブロンズに置き換えるのかと言えば、長期保存のためです。粘土で作られた彫刻はそのままでは壊れやすいので、長く保存できるようにブロンズなど別の丈夫な素材へと置き換えられるのです。置き換える素材は、金属の他にも石膏や樹脂など様々です。別の粘土で置き換える技法もあります。置き換えた粘土は焼くことで丈夫にします。このように、型を起こして置き換えられることで彫刻作品のほとんどが中空となるわけです。
この「充実しているように見えるが実は空洞」という事実は、彫刻作品の質つまり像の表面造形とは関係のない舞台裏として取り上げられませんでした。これは、作品性は外表面だけに表れるということを意味してもいます。
しかしながら、作品の存在に多くの芸術的な意味合いを語らせようとする現代の彫刻においては、作品の表面だけでなく、素材やその内側への意識もまた作品の一部として無視のできない要素となりうるのです。例えば、古代ギリシアのブロンズ像で象眼された目が外れて穴が開いているものがあります。それを以前なら欠損の穴と見ましたが、今では黒い影を落とす目の穴にも造形的な意味を与えよう、もしくは読み取ろうとするのです。この時、作品に開けられた穴は作品の表面と内側とを繋げる窓となって、内側はそれまでの舞台裏から作品の重要な要素として再認識されることになります。穴はそこから続く内奥を予感させ、それまで意味が与えられていなかった内側に意識の光が届けられることになるのです。さらに作品の表面は、それまでの充実した量の外面という意味合いから、内と外を隔てる境界へと意味合いが変わります。この時、境界を「膜」とするなら、ここに膜を隔てた内側の概念が彫刻に加えられたことになります。
彫刻に開けられた穴と同様に、私たちの顔にも幾つか穴が開いています。穴と一目で分かりやすいのは鼻、耳、口です。目の瞳孔は光を通す穴で、眼球そのものも眼窩と呼ばれる穴にはまり込んでいます。顔に開いたこれらの穴もまた体の内と外とを繋げる窓です。目、鼻、耳から情報を取り入れ、鼻と口からは物質の取り込みと排出(食事、呼吸)をします。さらに目と口はコミュニケーションの道具としても重要です。口は言葉を話し、目は口ほどに物を言うのですから。
内側の外側
彫刻に穴が開くことでその内側が作品の要素として加わりましたが、この内側についてもう少し見てみましょう。人体はその中心部に限って内側に腔所があり、頭部は頭蓋腔、胸部は胸腔、腹部は腹腔といいます。これらの腔所に脳や胸腹部の内臓が納められているのです。この頭、胸、腹部を一括りに体幹と呼び、生きるために必須の器官はここにまとめられています。なぜ体幹にまとまっているのかは進化を遡ると分かります。私たち人類は4億年も遡れば魚でした。その頃の体の主要部分は体幹だけで、腕や脚は薄いヒレに過ぎません。体幹の主要な構成をごく単純に言うなら、全体を貫く腸管と運動のための筋肉からなります。
日本の古い人体彫刻の埴輪を見ると、まず立派な体幹が像の全体観を作っており、対して腕や脚は単純化や省略がなされています。ここでは体幹部がまさに「体の幹」として表現されています。また、しばしば目や口に穴が開けられています。それらの穴は人間の顔に開いている穴すなわち目・鼻・口・耳と結びつき、その内側へと見る者の意識を誘います。私たちの目は脳へ続く意識の窓、口は腸管へ続く物質の窓です。口から始まって体幹を貫き肛門で終わる腸管は、さながら山に開けられたトンネルです。トンネル内と外は一繋がりであるのと同様に、腸管内は体の外と一繋がりです。つまり腸管内腔は体内のようで実は体外空間に他ならないのです。
先に、彫刻に穴が開くことで表面の膜性が明らかになり、その膜によって内と外とが規定されましたが、ここで新たに口と肛門を繋ぐ腸管によって「内側の外」が加えられました。彫刻に穴が開けられたとき、その内側の空間を外と認識することで表面が拡張され、作品を取り囲む空間性も一気に広がりを見せるのです。穴による「内側の外」を作品に意識的に取り込んだのがヘンリー・ムーアです。ムーアの作品を特徴付ける穴。この穴を通して「内側の外」が提示され、さらに外と内の間にある量塊によって表裏一体だった「膜」は量塊を包み込む面となるのです。それはさながら、細胞膜から皮膚へと膜の存在意義が拡張されたかのようです。ムーアの作品は、それが一見では人体彫刻に見えなくとも、その存在思想が人体と似ていることに気付かされるのです。
胸像は魚の頭
人体彫刻には全身像だけでなく部位で切った表現もあります。胴体だけのものをトルソーと呼びます。その他でよく作られる部位はなんと言っても頭部です。それはもちろん、作られるその人の顔が作りたいからです。顔は個性の象徴ですから、全身を表さずとも顔だけでその人の全てを表すこともできるのです。特に印象を似せた顔の像を肖像と言います。しかし、実際の肖像では頭部だけが作られることはまれで、普通はその下に首がつき、更にその下の胸までがあります。この部位で切られた像は胸像とも呼ばれます。胸像の切断位置で多いのは胸の上部までを入れたものです。
さて、首や胸など体の部位名が出てきましたが、その明確は境界はあるのでしょうか? これは外見で目立つ形の違いや、動いたときの変化の度合いなどから経験的にその部位の境界が決められているのでしょう。共通の認識を持つ必要のある医療分野では、体の部位分けと名称を決めています(図4)。
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体表区分図 |
頭をひとつの塊として見ることは簡単です。頭には、目・鼻・口・耳という特殊感覚器が勢揃いしています。これらの特殊センサー付きの頭を身軽に動かせるのは首があるからです。後ろから不穏な物音が聞こえたら、頭だけ振り向けばいいのです。もし首がなければそのつど重たい全身を向けなければなりません。これが水中ならば話しは別です。水に浮かぶ魚に体重はありませんから、後ろを向くには尾びれを鞭打って全身の向きを変えてしまえば良いのです。ですから首のある魚はいません。首は私たちの遠い祖先が水から陸に上がってから頭と胸の間がくびれてできた、言わば新しい部位なのです。人体の外見では頭部と胸部は細い首で明確に部位分けできますが、その内側は外見ほど明確ではありません。例えば、首から肩にかけて目立つ胸鎖乳突筋と僧帽筋は、実は首の筋と言うより腕の筋とも言えるもので、本当の意味での首の筋はこれらの筋より深いところにあります。更に興味深いのは、首から胸にかけての血管です。胸の血管と言えば大事な心臓を思い出されるでしょう。ちょうど左右の胸の間にある心臓はその頭側へ大きな動脈を出します。それは直ぐに背中側へとカーブして腹の方へと向かっていきます。このカーブを大動脈弓といいますが、これはかつて魚だった時代のエラに通っていた血管でした(図5)。
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鰓弓動脈概念図
第3鰓弓の部位が首に、4番目の鰓弓動脈が大動脈弓となる
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つまり、私たちの胸の高さほどまでがかつてのエラがあった部位なのです。魚の「頭を落とす」ときはエラより尾っぽ側を切りますが、これがちょうど胸像の境界とあいます。胸像は偶然にも魚時代の頭の領域までを選んでいるのです。
運動器と臓器
人体のかたちをごく単純に描くと、漢字の「大」のような棒人間になります。この横棒と斜め棒が腕と脚を表していることから分かるように、腕と脚は人のかたちのイメージの重要な要素です。大きく太い腕と脚は、上述したように、そもそもは魚の体位を安定させるヒレでした。およそ3億5千万年前に魚類が陸に上がることで運動の主役は体幹からヒレへと移行します。それ以降、ヒレは筋骨たくましい四肢となって体幹を支え、運搬する重要な役割を担うようになったのです。人類では体幹の運搬という役務から解放された腕が、器用な指先を活かして多彩な仕事をこなすようになりました。今では身振り手振りで自らの感情を伝えることさえできます。一方の脚は体の運搬に終始してきました。腕と比べてずっと太い脚は、その仕事の一途さを誇っているようにも見えます。
ところで、この運動器と先に見た腸管とでは、そこに分布する神経の種類が違います。運動器への神経は、感覚と意識的に動かせる体を制御する「体性神経系」が分布します。脳はこの中枢です。つまり自意識や運動は全てここに属します。一方の腸管への神経は、意識が関与することなく自律的に活動を続けているので「自律神経系」と呼ばれます。腸管つまり内臓は意識がアクセスできない言わばブラックボックスですが、それは意識的行動の根源を成しています。私たちは体幹の内側にある無意識の自己(つまり内臓)から湧き起こる要求を、あたかも自意識(つまり脳)で決めたかのように思い込まされているだけなのかもしれません。
「自分でもどうしようもない自分」は誰もが実感するものです。それらは実感してもなお制御できるものではありません。喜びや悲しみといった感情はどこか深いところから湧き起こってきます。この制御不能な自己とそれを認識する自己との対話が、近代以降の芸術表現のモチベーションの大きな部分を占めているのです。
彫刻家も鑑賞者も、人体彫刻を通して人間という無数のスペクトルを放つ存在をそこに見ます。それは私たち自身の姿でもあります。自己存在とは何かという答えのない疑問を私たちは持ち続けます。3万年前の人間に小像を彫らせた欲求の根源には、初めて気付いた自己存在を確認する意味があったのではないでしょうか。人が人のかたちを作る。これは自分の存在という驚異に向けられた、ほとんど本能的とも言える営為です。私たちが人である限り人体彫刻という自己確認は続いていくのでしょう。