2015年8月10日月曜日

芸術作品と100円のコップ

 知人作家の立体作品が、あるモニュメントの構成部分として二次利用された。作家には一切連絡されていなかった。事前にも事後にも。ではなぜ、そのことが分かったかというとそのモニュメント完成が一般記事としてメディアに出たからだ。
 その作品は、何年も前にある著名人によって購入され自宅に設置された。その作品が今回のモニュメントの構成部分として再利用されたのだ。モニュメントの企画者は作品を購入した著名人である。著名人からすれば、自分が購入した物だからそれをどう使おうと本人の自由と言うことなのだろう。それは、私たちが日常購入している物品の使い方となんら変わりが無く、当然のこととも思える。100円ショップで買ったコップに金魚を入れて飼っても文句はない。
 ただ、芸術作品もコップと同じなのだろうか。確かに、日常道具でなくても、二次的に別の使用目的に転化されることも確かにある。特に古い道具やそれこそ芸術作品も時代を経て本来とは別の目的として鑑賞されたり使用されることはそれほど特別なことではない。だが、それは”時代や場所が制作時期から大きく離れたために本来の目的が曖昧になった”からである。

 今回の件で、私が気になった点を始めにまとめると、作品購入時の意図からの変更と作品の独立性についての2点である。それらをこれから見ていきたい。

 まず始めに、作品購入時の意図からの変更とはすなわち、その作品が作家から購入されるときの両者の間に共通していたであろう作品の作品性への共通理解が基本としてあって、それが今回、購入者側によって一方的に変更させられたという事を指す。そもそも、問題となる作品は、作家が既に制作済みであり、そこには作家の作品に対する意思があった。簡単に言えば、作家の持つ「作品のイメージ」があってそれを具現化したものがその作品である。そのイメージが完全に作品によって伝達されるはずもないが、作家と購入者との意思交流の間にある程度のイメージは伝わっていたはずだろう。そうした意思交流のもとに作品の購入が進み、作品は購入者の自宅に設置されたのである。ところが今回、その作品がモニュメントの一部分として再利用された。それは作家がかつてその作品を制作したときには全く意図していなかったコンセプトである。もしも、今回のモニュメントのために制作が発注されていたなら、作家は全く違った形の作品を制作していただろうと想像できる。ここには、作家の意思が全く考慮されておらず、言わば無視されているのである。作家が生きているにも関わらず。こういう事が出来てしまう購入者の行為を「失礼だ」と言うのも簡単だが、なぜそのような行為が出来てしまったのかも考えなければならない。そこで、作品の独立性がキーワードとして見えてくる。

 この作品の独立性をめぐる諸問題は、作家・作品・購入者の問題として永遠のものかもしれない。そして、このような問題が起こる物こそが、芸術作品が日用品とは違う物という証しでもあろう。ともあれ、先にも書いたように、今回の件では、作品が作家の制作意図を全く離れて二次利用された。それは別の見方をするなら、その作品には既に作家(とその作成意図)は不要とされている。つまり、作品が作家から完全に”独立”しているのである。作家が親で作品がその子供であるなら、その子供はすでに”大人”として見なされている訳だ。大人が何をしようとその親の監督は受けないのである。まあ、そう考えれば多少納得するような気分にもなるかもしれないが、実際のところ、作品に自意識があるわけもなく、作品がどのように扱われるかは、作品を巡る人間に常に依存しているのは当然のことで、つまり作家と購入者との2者の関係こそが実は重要なのである。つまり、今回のように作家が健在であるなら、作品が独立しているなどということは言い訳のようなもので、つまりは作家がないがしろにされているという事に過ぎないのである。親子に例えるなら、作品という”子供”は決して親離れせず、その子供をどうするのかについては親つまり作家の意見を聞かなければならないのだ。

 今回の件について作家である私の知人はこれと言って声を上げていない。だから、周囲が事を荒げる事もないのだが、固有の事例として見るのではなく、同様の問題はこれまでもそしてこれからも大小様々な段階で起こることだろうと考えると、見過ごして良いものだろうかと疑問が残る。
 ある時、別の知人作家が、一般鑑賞者の「作品に対峙する作法の不在」を話していた。つまり、簡単に言えば作品へのリスペクトがそもそも足りないのではないかという話だ。一般鑑賞者にとって、芸術作品も100円ショップの日用品も同様なのだろうか。

 「芸術」や「作品」という単語が指し示す範疇は雲の境界線を探すようなもので、近づけば曖昧となって分からないものだ。しかし、そのように曖昧な物事に線を引くのは、本来私たち人間の得意とする行為なのである。今回の作品購入者は世間一般では「知識人」と言われる類の著名人で、なおさらそういった無形の事象を認識するのは得意とするはずだ。そのような人が、本当に「芸術作品もコップも同じ」と思っているだろうか。彼は、「芸術作品もコップも同じ」とさえ言える側面性を逆手にとって、結局は様々な権利の話しが浮上してくることを面倒くさがったのに過ぎないのではないだろうか。まあ、その辺りは推測の域を出ない。ただ現実として見えているのはあくまで作品の作品性と作家存在を無視した行為で、そこから分かることは、彼にとって所詮芸術作品は100円ショップのコップと同じであったという寂しい事実である。

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