若者とその指導者らしい男性の会話が耳に入る。どうやらその若者の同級生もしくはチーム・パートナーのひとりが彼の事を嫌っているらしく、その相談をしている。指導者の男性もその事実を把握している様子で、アドバイスをしているようだが、その内容が少々気になった。要約すれば、パートナーは若者を一方的に嫌っていて実質的な被害も被っていると訴えているらしい。いっぽうで若者はそのような事実は一切なく、むしろ事ある毎に、そう言われることが迷惑だと言う。ここまでは、まあ相談としてはあるだろう。気になるのはそれに対する指導者男性の対応で、まず彼は明らかに相談に来ている若者の側に立って話を進めていた。例えば「分かるよ。俺も彼はおかしいと思う。」といった感じで、延々と若者の肩を持つような論調。その上で、「もう少し、うまく立ち回ってみてくれ」と話を閉めていた。若者は、話を聞いてもらえただけでも気が多少は晴れたのだろう、そうして2人はどこかへ立ち去った。
これは、若者の相談に対しての解答、アドバイスになっていたのだろうか。私には、この指導者が話をうまくはぐらかしただけに聞こえた。自分は問題に関わりたくないという意思が明確に見えた。
自分より年上や目上の人間が、必ずしも人間的に優れているわけではない。ある領域において才能を発揮していたとしてもそれが人間性の高さとは結びついているわけでもない。しかし、結局のところ、ある現場で人間関係などの問題が生じれば、ごく身近な人間にアドバイスを求めようとするのが普通なのだ。しかし、近しい人間ほど公正なアドバイスはもらえないと思った方が良い。もちろん、自分に味方して欲しい場合は別だが。
会社や学校など判断の公正さが求められる現場には、アドバイスの専門家を置くべきだろう。きっとそういう事例は増えてきているとは思うが、まだまだ足りていないと思う。昨今の学校におけるいじめ問題では、それが事件にまで発展すれば必ず担任や校長が責任を問われる。確かに今までは、担任が生徒のアドバイザーとしての役割も担っていたわけだが、現代ではその機能は果たされていないのではないだろうか。いじめ事件の原因を一概に担任教師の怠慢だとは言えないだろう。学生と学校をめぐる事象の時代的な変化もあって、現場もかつてのように悠長ではないのではないだろうか。学校には今や、中立的立場のアドバイザー、カウンセラーを一層充実させる必要があるだろう。しかし、ただ話を聞いてくれるだけではやがて誰も来なくなる。そうならないために、彼らの権限をある程度大きくする必要もあるだろう。勿論それに伴う責任も大きくはなるが、専門性とはそういうものだ。
特に「いじめ」や「万引き」など行為に名称が付けられているようなものは、その個別の事象をしらみつぶしに対応していても決して無くなりはしない。これらは、システムの問題として捉える必要がある。現状のシステムを維持する限り「いじめ」や「万引き」をなくすことは出来ないのだから、システム全体を見直すべきなのだ。むしろ、いじめは異常な行為ではなく条件が整えさえすれば必ず発生する現象として考えるべきだ。そう見るならば、いじめっ子さえ、システムによって”そうなってしまった”のかもしれない。
内容が流れたが、まとめると、目上の人間が人としても優れているとは限らないこと。だから、組織には相談できる専門家を充実させるべきであろうということ。いじめ問題で騒がしい学校という組織こそ相談できる専門員を拡充すべきであること。そして、いじめの発生しないシステムが求められているのではないか。ということだ。
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