2015年11月7日土曜日

自覚される生とされない生

 生の自覚。私たちは自分が生きていることに疑いを持たない。それは生きている私たちにとって自明な事として感じられる。しかし、生きていると実感するから生きている訳ではない。それを自覚しようがしまいが、関係なく私たちは生きている。例えば、新生児は自分が生きていると実感しているだろうか。生きているという実感や自覚は、現象としての生とは別のものであり、ずっと後に生まれた感覚なのだろう。人間以外の動物を見渡してみて、どうだろうか。昆虫は生を自覚しているだろうか。プランクトンはどうか。細菌は?
 自分が生きているという「生の自覚」は人類の進化の過程のどこかで生まれた。もしくは、気付いた。恐らく自意識の芽生えと時期を同じくするのではないだろうか。

 夜なき朝がないように、生には死が対となってつきまとう。私たちは気付いたときには生きていたのだから、人類の歴史を遡ってもまず始めに知っていたのは死であろう。獲物を食べるにはその動物を殺さなければならない。身近な者の死も頻繁に目にしていたはずだ。永久に動かなくなる現象、すなわち客観的な死を認識するとき、そうなっていない状態が生として見えてくる。死なないにしても、怪我や病で苦痛を味わうこともある。そして、それが原因で死ぬ者を見る。その経験は、苦痛と死とを結びつける。私たちは苦痛を恐れ、苦痛の先には死があるように思う。死に近づくほど苦痛も増すだろうと想像するのだ。繰り返すようだが、死は客観的に観察され認識された概念である。誰ひとりとして自分自身の死を体験することはない。私たちが主観的に体験するのは生だけなのだ。客観的な発見である死によって、主観的な自らの生の自覚に至ったのだ。

 しかし、この事だけで満足はできない。なぜなら、私たちは生を自覚する以前から生きていたのだから。苦痛は死に近いと知るずっと前からそれをしてきたのだから。私たちは死なないように気をつけてきたから絶滅しなかったわけではない。「死なないように気をつけてきた自分に気付いた」のに過ぎない。だから生は、少なくとも2つの段階に分けられるように思う。すなわち、自覚される生とされない生である。現代社会において語られる生は、当然ながら自覚される生が基準となっている。それは人間1人を単位として尊重され、それゆえ犯罪や戦争でもその有り様や質が常に問題視される。これら自覚される生はしかし、実体としては自覚されない生によって成されているのである。私たちは言わば、有無を言わせず生かされているのであって、これが自覚されない生、もしくは単に生命現象と呼べるものだ。
 私たちが気付いた生や死、それと関連付いている苦痛や恐怖は、この生命現象の段階で既に組み込まれているはずである。苦痛や恐怖の自覚は私たちを死の危険性から遠ざけることに役立っている。問題はそれらの自覚がいつ与えられたのか(気付いたのか)、である。小さな虫も身の危険から自らを守ろうとしているのは明白である。また敵が近づけば逃げるか攻撃に転ずる。彼らは死もしくは身体的な危機から逃れようとする。そのもがきあがく姿からは、彼らが痛みを感じているだろうと想像させる。なぜなら、私たち自身が耐え難い痛みを感じるとき、もがきあがくからだ。つまり、客観的な行動を自分の主観と結びつけて捉えているのである。では、次に上げる例ではどうか。置いてある小さな玉に、一回り大きな玉を転がしてぶつける状況を想像してほしい。小さな玉は大きな玉がぶつかると同時にそこから離れるように転がり去る。これは見ようによっては、小さな玉が一回り大きな玉の”攻撃”を受けてそこから逃げていくようにも映る。だからといって、小さな玉が危険から遠ざかろうと感じているとは思わないだろう。このことから、「そう見える」現象が、必ずしもその通りであるとは限らないと分かる。以上は極端な例えとは言え、つまりは、小さな虫がもがきあがいているからと言って私たちと同様の苦しみを”自覚している”とは限らないということだ。
 忌避行動がその自覚に基づいているわけではないという根拠は、自分の体でも見出される。例えば内臓疾患などはそこに炎症が起きていても実感されることがない。内臓を管理する自律神経系は通常私たちが意識できない領域である。自律神経領域の痛みを実感するのは、その炎症が広がって体性神経系にまで波及したときや、神経伝導路で体性神経系へ刺激が”漏れ出る”ことで気付かれたりするなど、二次的な行程を踏んでいるとされる。つまり、炎症が起こる当初は、私たちはその事に気付かない。気付かないにも関わらず、身体は異常を検知してそれを取り除こうとするのである。”意識的”な私たちは、自分の体についても意識的であると思いがちだが、事実はそうではなく、自分の身体状況の多くが意識に上ることなく処理されているのが事実なのだ。この、意識に上らずとも刺激に反応して私たちを”生かしている”神経系とそれに伴う器官系を総称して「植物的身体」と呼ぶことがある。それ以外の意識的な身体を「動物的身体」として、その対の概念である。なぜ植物か。実際の植物は私たちのような神経系統を持たず、ゆえに中枢も存在しない。光合成によって自らエネルギーを産生するので積極的に動く必要が無く、運動器系も当然持たない。繁殖による拡散は外部の自然環境にゆだねている。そう、植物は自らの運命を自分周囲の環境に完全に委ねている。委ねるのだから、積極的に対象を探る必要がないのだ。私たちの体の植物器官もまた、正にそのように存在している。例えば内臓たちがそうである。内臓は、取り込まれた食物からひたすらに栄養を取り込み、反対に不要物を選り分け排出している。臓器はそれだけで空間を移動することもできない。その意味合いにおいて、植物的な存在なのである。ただ、内臓は筋肉で出来ているので植物のように動かないのではなく、積極的な蠕動運動や拍動を繰り返している。何らかの刺激が加えられればそれに対して能動的な運動を見せることが植物とは違う。私たちが自覚せずとも自ずから生を全うしようと活動している様は、正に生命”現象”として映るものだ。つまり、自律神経系とそれに支配される器官は、私たち自身が持つ「意識されない生」を担っているのである。私たちが”生きよう”と努力せずとも日々生命を繋いでいるのは、この意識されない生によって継続されているからに他ならない。

 もう一つの意識される生には、植物的身体の対概念である動物的身体が含まれる。これは、意識的な私たちにとってずっと理解しやすい。自覚できるからだ。動物的身体の神経系を体性神経系という。いわゆる脳と脊髄がその中枢であって、私たちが”感じる”世界は全てこの体性神経系に属している。ただ、自覚されない生に植物的身体がフィットしたように、動物的身体が自覚される生に素直に収めて良いのかとなるとそう単純ではない。なぜなら、自覚は自意識と密接だからである。植物的と動物的な身体の獲得はそれこそ数億年遡ることが出来る古さを持つが、こと自意識の獲得となると、話はまた別なのだ。自意識とは何かについては、現代においても明確に定義も出来なければ、それが本当にあるのかどうかの客観的判断さえあやふやなのだから。ただ、ここでは、私たち自身が主観的に”感じている”自己身体感覚は自意識に基盤を持つことを前提にしている。では自意識をいつから私たちは獲得したのだろうか。これは芸術表現の出現と密接ではないかと想像している。原始芸術での身体表現の始まりはつまり、自身の身体を発見したことを示していると言える。見つかっている原始芸術の人体表現で最も古いものが4万年ほど前だという。つまり、その頃には自分の体を客観的に気付いていた。その頃の人類は既に苦痛への恐怖を知り、その果てに自らの死があると(私たち同様に)思っていたかも知れない。ただ重要なのは、それは生物学的には事実ではないことと、また、4万年よりずっと前から、つまり意識的になるよりずっと以前から、動物的身体は対外的危機からその肉体を救っていたという事実である。これをどう捉えればよいのだろうか。意識は身体よりずっと新しいのだ。意識が生まれる以前には痛みも死の恐怖を自覚することはなかったものの、危険回避行動は行われてきた。自覚される痛みが絶対的でないことは、鎮痛剤や麻酔薬の効果を思えば直ぐ分かるし、就寝時に布団で窒息死するということがないように、痛みの自覚と忌避行動とは常にペアである訳ではない。つまり、自覚される痛みと、それに対応するストレス反応とは本質は違うものだ。自覚は意識の芽生えと密接である。つまり、痛みの自覚や死の恐怖は”後付けされた”ものなのだ。つまり、自覚される生は自意識の発展に伴って発見された動物的身体のことである。

 人間社会で問題にされる生は、そのほとんどが自覚される生についてだが、上で記してきたように、実際の生はまず自覚されない生によって継続されている。それは生物学的な生、もしくは現象としての生とも呼べるようなもので、情緒の入り込む隙間がない。医療の現場で対処されるのはこの意識されない生の補修と維持だと言える。一方で、QOL(生命の質)が要求もされるが、それは自覚される生についての問題である。脳死や臓器移植などにおいて、生と死の捉え方の違いや線引きが問題となるが、結局これも自覚される生と自覚されない生との問題でもある。
 
 私たちは、「生きている実感」と言うように、自覚してこその生であると感じているが、それは自意識の発達に伴う後付けの感覚に過ぎないのかも知れない。そして、それを維持”させる”ために快楽が与えられ、痛みや不安もまた用意された。自覚される生において、快楽という導きと痛み不安という側方防御に守られて私たちは前へ進んでいる。

 生存への執着や死への恐れも、自覚される生がもたらしている。自覚される生は個人の外世界との対応において何より重要だが、それを獲得したもう一つの可能性として、社会性との関連がある。死という概念が客観的な観察からもたらされるように、その対としての生も観察され、それは自らの状態へと還元された。自覚とは自己客観性のことである。こうして、他人の生の状況が自らのそれと照らし合わされる。これは共感のことであり、それは社会性安定にとって重要な感覚である。生の自覚を伴う自意識の発達には人類の社会性構築という性格が深く関係しているように思われるのである。これを反対に捉えるなら、社会性がなければ自意識も自覚される生も必要性がない。自覚されない生、生物学的な生だけで十分だろう。このことから、恐らく、胎児は自分が生きているという自覚は持たないだろう。小さな虫も同様である。社会性昆虫も存在するが、彼らの社会性構築は人間のそれとは全く違うもので、むしろ、昆虫の社会性は細胞の分化や群体に近く、人間のように共感によって安定が図られているのではない。

 結局、自覚される生を含む自意識そのものが、人類の社会性構築と関連しているように思われてくる。つまり、他者との比較が自意識を発達させ、共感を生み、やがて社会構築へと進んでいったのではないか。「私」を成り立たせるにはまず「あなた」が必要なように。

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