2015年12月6日日曜日

鋳造するということ

 1点の小作を鋳造に出している。蝋型鋳造である。蝋型はロスト・ワックスもしくは脱蝋とも言われるが、原型を一度蝋つまりワックスに置き換えて、型に埋め込み、そのワックスを熱で溶かして出来た隙間にブロンズを流し込む技法である。主にヨーロッパ、近世以降ではイタリアが有名ではないだろうか。ロダンのブロンズ彫刻もこの脱蝋である。
 私の作品は油土の原型を持ち込んで、型起こしからお願いした。型取りは好きなのだが、センスがないのか、余りうまく行かない。その上、最近は時間もないので、専門家に任せた。そして、先日はそこからできた蝋型の修正に鋳造所へ行った。油土だった作品が黒いワックスの像に置き換わっていた。複雑な部位は切断して別に型取りし、それを接着してある。型も見せて貰ったが、私が作るのと同じ方法だった。

 型取りというのは、物作りにおいての中間段階に位置しているので、完成品を目にする日常生活ではそれを意識することがない。しかし、現代においては身の回りには無数の型取り製品が溢れている。型取りという技法がなければ現代社会は全く成り立たないほどだ。その最たるものは樹脂製品だ。プラスチックの製品はほぼ全てが型取りによって成形されている。型に流し込んで成形するのは小さな物だけではない。いわゆる鉄筋コンクリートの建築物は型のなかにコンクリートを流し込んで作る。プラスチックもセメントもこれだけ大量に利用されるようになったのは前世紀からで、型と現代文明の発展は切っても切り離せない関係にありそうだ。
 工業製品の型と違い、いわゆる美術鋳造はいまでも一点一点が手作業で、鋳造家の経験に頼っている部分が多い。つまり、ほとんど数千年前と同じ行程がそこでは行われている。ただ、型取りにおいては、シリコーン樹脂がひろく使われるようになっている。シリコーンは固まるとゴムのようになるが、引っ張り強度が強いなど物性に優れている。シリコーンのお陰で型取りの際に引っ掛かりによる型や原型の破損を恐れなくても良くなった。たとえばロダンの石膏原型などを見ると石膏割型の継ぎ目の線が多くある。これはシリコーンのような弾性型がないので全てを硬い石膏型で作らなければならないので、必然的に型を細かく分割しなければならなかったからだ。ただ、その分割線もロダンは積極的に作品性に応用している。現代ではテラコッタの押し込みなどでは割型にせざるを得ないのだろうけど、いわゆる流し込みや塗り込みといった成型法ではシリコーン型が主流だろう。ちなみに、半世紀ほど前の技法書では弾性型の一例として寒天が出てくる。また現在でも海草由来のアルギン酸が例えば歯科で使われている。

 そうして、油土からワックスへ置き換わった作品に微調整をして、続く鋳造作業はふたたび鋳造家へ託される。このような、造形家と鋳造家の関係は美術の歴史でも長く続いていた。いわゆるブロンズ作家では、作家自身が鋳造家を兼ねる場合も少なからずあるが、そうでなければ鋳造家に頼むしかないのであって、そこには両者の連携が重要なものとなる。例えば、ロダンやムーアなどブロンズの大家になると鋳造所も常に同じ工房に発注されていたようだ。造形の過程、それも完成に至る段階で作家から他者へと作業が移行するというのは、芸術は作家ひとりで終始すると考えられがちな事実と違う部分である。
 原型からワックスを経てブロンズに変換される過程では様々な制限が存在する。例えば作品表面にはワックスになったときに爪の後が付くかもしれないし、型の冷却過程で歪みが生じるかもしれない。他にもブロンズを流し込むための湯道が付く部位は表面造形が失われるなど、どんなに注意したとしても原型とそっくりそのまま同じ物がブロンズに化けるわけではないのだ。とは言え、それが完成作の質を落とすことを意味してはいない。私たちは作品が”ブロンズになる”という点に大きな魅力の存在を感じている。鋳造過程のさまざまな制限はすべて”ブロンズ化”と相殺されるのである。それこそが、作品が作家の手を離れて完成へと向かう醍醐味なのだ。

 作家は鋳造家を”火で金属を操り、形を作る師”として尊敬している。作品は作家ではなく鋳造家の手を通して完成させられるのだ。

2 件のコメント:

まさ さんのコメント...

はじめまして☆男性美術モデルをしているmasaと申します。ブログを楽しく拝見しております。絵画や彫刻のモチーフとしての人体の考察だけでなく、その周辺知識や哲学的なテーマまで多岐に渡っており、興味深いです。是非一度、先生の主催されるデッサン会や美術解剖学講座でモデルをさせていただきたいです!いきなりのお願いで失礼しました。

阿久津裕彦 さんのコメント...

モデルは主催者側が呼んでいます。東京でご活動であれば、お会いすることがあるかも知れませんね。