鋳造屋へ行くと、鋳造師が小さなブロンズのトルソ像を持ってくる。以前に私がそういうのが好きだと話していたのを覚えていたので出してきてくれたのだ。高さ12センチほどの小品で御影石の台にとりつけてある。この原作はミケランジェロだと聞いていると鋳造師。確かにその頃の人体描写にも見える。何度も型取りを繰り返してきたであろう、細部はまったく甘くなっている。ただそれだけに大きな構造が強調されて、かえって作品の芯の強さが立ち現れているように思う。凹凸の誇張された表現は、それが黒茶色のブロンズであることからも、ロダンを思い出させる。ロダンの作品だと言われても信じてしまうだろう。実際、ミケランジェロだとすると若干線が細いようにも思う。いずれにせよ、人体構造と造形力、表現力のどれをとっても素晴らしいものですっかり気に入ってしまい、結局、安価で譲って頂いた。鋳造に出している自分の作品よりこちらの方がよほど気に入った。
鋳造師は面白い小話を教えてくれた。日本の近現代彫刻の有名な作家(物故)もこの作品を持っていて、ほとんどそのまま拡大しただけの作品があるという。あとでネットで調べると確かにほとんど拡大模刻の作品があった。ただ、この小品が持つ躍動感や造形のダイナミズムはすっかり失われていた。もしこれが、何かと「不正コピー」にうるさい現代であったら、同作の発表ははばかられただろう。
この小作品は背中の表現が特に優れていて、通常正面とされる腹部よりそちらを見せたかったのではないかと思われるほどだ。肩の上部には肩甲骨がその筋肉を率いて、胸郭のうえに更に量塊を形成している。この造形を見たときにある別の作品を思い出していた。それはロダンで、彼の腕から型取った手が小さな女性のトルソを持っているという作品である。その女性トルソは、たしか別の作品の一部だが、軽く背中をまるめて両腕は背中側へ向けている。脚は膝上までが作られている。この作品の背中上部、胸郭と肩甲骨との造形が、今回の男性トルソのそれとよく似ている。また、胸郭と骨盤部とのつなげ方、つまり腰のくびれ表現までもが、両作品で似ているのである。人体というおなじモチーフ、そして彫刻造形への同様の理想を持った作家であれば、偶然似るということもあるだろう。ただ一方で、有名な作品が実はそれより以前に作られた別の作品の影響をつよく受けていたという例も多い。そういう見方で遡っていけば、結局は古代ギリシアという大河へ帰り着いてしまうのだけども、今回の男性トルソ像との類似性については、もっと具体的な一事例についての話である。もしかしたら、ロダンもこの小トルソ像のコピーを所有していて、そこから別の自作を作成したこともあるのではなかろうか。そんな空想が拡がる。
そんな空想の確実性を高めるためにはこの小トルソ像の由来が重要になってくるわけだが、ネットでそれらしいキーワードで検索しても一向にヒットしない。いくつもの複製が作られているのだから、知られざるヒット作なのだけども。
コピーかオリジナルかという議論が昨今の我が国では賑やかだが、そもそも、日本の西洋美術は明治初期にほとんど西洋表現の真似から始まっている。彫刻の近代化は、”大ロダン”の作品が高村光太郎や荻原碌山や白樺派によって「輸入」されてからと言えるだろう。その後は何人もの日本人彫刻家によって具象表現が表されてきたが、今見ると、言葉は悪いが「西洋作家の劣化コピー」にしか見えない物もあるのが事実である。ではそれらは否定されるべきものかと言うと、そうではないとも思う。明治から戦後の高度経済成長期まで、西洋の美術動向を我が目で見ることができた日本人がどれだけいただろうか。その時代の芸術家たちは、自分の表現を追求しながらも、彼らの作品を通して世界の美術動向を伝える役割も”結果的に”していたのだと思う。それは、あたかも西洋美術を「日本人向けに翻訳して」表現しているようなものだった。こういった流れは、なにも美術に限らず音楽や文学などどこでも見られることだろう。
「オリジナルか否か」という問いそのものが、表現領域においてはナンセンスなものとして響くことがある。そんなことまでも改めて考えるきっかけにもなった、この小さなトルソ像。どこからやってきたのか今は分からないけれども、いつか知るときが来るだろうとも思う。
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