ダンスの動画を観るのが好きだ。ダンサーの動きは淀みがない。その動きはすっかり体が覚え込んでいて、リズムに合わせてほとんど自動的に動いているように見える。実際そうなのだろう。どんなダンスを観ても、全く初めて見るような動きというより、いつか見たことのある動きが組み合わされている。激しく動いても、重心はコントロールの範囲内に収められている。そこから外れると動きがぶれてしまうので、それは見ている者にもすぐにばれる。だから、大胆な動きや姿勢も、重心やバランスを崩さない範囲内で行われていて、ダンスは運動内における動的バランスのバリエーションをひたすら探しているのだとも言える。
ダンスの動きは、連続的な運動内での姿勢変化と、一瞬動きを停止するときの姿勢の2パターンがあるようだ。連続的な運動内での姿勢変化は体を傾けたり回転させたり跳躍する際の遠心力や慣性を利用するので、その姿勢を静止時は再現できない。一方の、一瞬動きを停止するときの姿勢は、まさしくその瞬間ダンサーの体が停止するので、鑑賞者の視覚に印象深く刻まれる。止まっているといっても、その時間はコンマ数秒内の出来事で、その前後の運動内に挟み込まれる場合は体が傾いていることもある。だから、止まった姿勢とはいえ、やはり静止時に再現できるとは限らない。
ダンスの時系列的な動きは、鑑賞者の視覚に連続的に流れ込む。流動的な動きが次の瞬間静止し、また別の動きへと繋がる。そういった運動の連続的な認知が鑑賞者には動的で視覚的なリズムとして捉えられ心地よさを感じさせる。もちろん、その時に流れている音楽は視覚と相乗効果を生む。動きと静止のリズムは、単純化して例えるなら、ゴムのスーパーボールが跳ねているのに似ている。放物線を描いて上がって下がり床にぶつかった瞬間止まって、その反発を利用して再び次の上昇へ移行する・・。
彫刻家でダンスや舞踏に興味を持つ人は少なくないようだ。高村光太郎なども能の舞いに彫刻を見出していたし、ロダンもダンスや舞踏の作品を作っている。知人の彫刻家にもいる。身体やバランスなど彫刻においても大事な要素の多くがダンスと共通している。彫刻は静止していて、ダンスが動いているから、そこが違うのではないかと思われるかもしれないが、彫刻は静止の中に動勢の再現やその徴候もしくは要素を内包させようとしているのである。そう考えると、止まって凍ったように見える作品は、残念ながら、あまりうまく行っていないのかもしれない。ただ、動いている瞬間を彫刻で再現しようとして、例えばダンスのある瞬間の静止画像や写真をそのままブロンズで再現しても、それは恐らく、止まって凍ったものになるだろう。ダンサーの運動内で見られる姿勢は、慣性や遠心力など運動時だけの因子が作用して可能にしているし、それを見る私たちは、その姿勢の前後にある連続性の中でそれを鑑賞しているのである。このことは、かつてロダンが、写真が常に正確だとは限らないと言った事と同じだ。連続的な運動の中でしか生まれない姿勢がある。しかもそれは、写真で捉えることもできない。考えてみれば当然の事で、ダンスは”踊りたい”というダンサーの欲求から始まっているが、それは次の瞬間には”踊りを見て欲しい”へと移行しているはずで、つまりダンスは視覚的なコミュニケーションの一形態である。ダンスは見られる事が暗黙の前提としてあり、その対象は当然ながら人間である。勿論、部族儀式で神への奉納の舞いは普通に見られるが、それも結局は鑑賞するのは人間である。人間が人間の為に舞うのがダンスで、それが視覚によって捉えられるものなのだから、ダンスは人間がその目で見て最も心地よいものへと発展していくのである。人間の目によって磨かれた動きなのだから、それを写真という「人間外」の目で捉えられるはずが無い。
写真では捉えることのできない一過性の性質は音楽とも似ている。一方で、視覚で鑑賞されるというのは視覚芸術である彫刻と同様だ。どんなダンスも今は動画で気軽に見られるけれども理想は生で目の前で鑑賞することだろう。そこには体という立体物が、動勢の中でバランスを保ち、一過性の時系列の中で連続的にポーズを変え続ける動勢が繰り広げられる。ダンサーは語らず、動きとポーズで、何らかを語りかけている。それは彫刻が追い求めているものと同じである。
実質的にも、ダンスは彫刻教育に向いているだろう。実際に踊るのも良いだろうけれど、鑑賞だけでも得るものが大きい。動画であれば任意の瞬間で静止させて、動きの中で得られていた印象との差違について確認することもできる。瞬間の姿勢が、静止時では全くできないことも分かる。重心やバランスと共に「かっこいい」ポーズのバリエーションのヒントが無数に存在している。ダンス動画から、幾つかのポーズを抽出して素描していくのは興味深い訓練になるに違いない。
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