ニューヨークで生まれた“環境依存性の高い”ポップアートと同じものは、東京では生まれ得ない。先鋭なビジュアルに惹きつけられ同様のスタイルを模倣したくなるが、それはあくまで模倣に過ぎない。もちろん、模倣にも特有の価値は見出されるが、それとは別に、自立した本質を探る動きがあってもいい。単純に考えて、ニューヨーク生まれのポップアートに近いものが生まれるのは東京だろう。「日本」ではない、「東京」である。そして、その内実は新宿や渋谷かも知れない。いずれにせよ、音楽で言う「J-Pop」ほど広範囲ではなく、「T-Pop」程度の狭い地域依存性が”先鋭化“した表現には必須なのだ。ドメスティックで尖ったものを見てみたい。
2018年9月6日木曜日
ポップアート
アートは人が作るのだから、その人が生活している空間や日常の影響を一番に受ける。だからアートは本質的に制作時の環境に依存している。それはポップアートも同じだ。ただ、鑑賞者にその環境との繋がりが直接的に伝わってくるとは限らない。むしろ、鑑賞者は自分を主体として見るから、自身の環境と絡めて作品を再構築しているのかもしれない。例えば、広告媒体をモチーフにするウォーホルの作品を見ると、モチーフが没個性的なので、その環境依存性が見えてこない。その作品群は、一部の誰かの心情に深く突き刺さるというより、多くの人に浅く影響を与え続ける。その様は広告さながらだ。ヘリングの壁紙的なドローイングもどこか特定の環境に根ざしているようには見えない。それは現代のカウズも同様である。それらは、“環境に根ざしていないように見える”という点で一致している。そしてそれが重要なのだ。その“環境性の薄さ”を生み出すのが、彼らが活躍したニューヨークの特徴なのだろう。様々な人種が混ざり、常に人が入れ替わる街では、街ですれ違う相手が何を考えているのかなど想像もつかない。いや想像することがあまり意味を持たない。むしろ、目の前に明確に示されるものだけが存在するものとして意味を持つ。ポップアートはそういう価値観を共有する街で生まれた。だから、環境依存性が見えてこないという環境依存性がそこにあるのだと言える。それはそれで良いのだと、私も思う。「見えるもの以外には何もない」という明快さは心地良くもある。また、いわゆるストリートカルチャーやファッションとも密接だからか、表現の鮮度も重要だ。だからか、美術館に収まったポップアートの作品は摘み取られて死んだ標本のようにも見える。ポップアートは美術館の外で、日常生活の中に混ざってあることによって生きるのだ。
2018年9月5日水曜日
告知 土祭(ひじさい)にてレクチャーを行います。9月29日(土)
土祭は益子町の町興しから発展した文化的イベント。9月15日(土)からほぼ半月間に渡って開催されるこの祭りは、地域のいくつかのエリアを跨いで、展示やワークショップ、講演会やコンサートなどさまざまなイベントが企画されています。益子と言えば益子焼が思い浮かぶように、窯業と農業が盛んな同地にあって、自らの足元に広がる大地を構成する土を“命の原点”として意識することを土祭は主題としています。土と自分。土と人。この切り離せない関係性は誰にとっても同じであるはずですが、都会で生活しているともはや土は足元に広がってさえいません。大地から離れることのできない私たちにとって、大気同様に重要な環境要素である土との関係性を、意識的に見直すきっかけにもなるでしょう。
リノベーションされた廃校を大人の小学校に見立て、様々なテーマでレクチャーなどが予定されている中で、私は「生命形態の歴史と環境」と題して、アーティスト(彫刻家)の藤原彩人氏とタッグを組んで講義いたします。
私たち自身の身体の形。何も考えなくてもこの形。人に生まれたから当たり前に人をしている。私に生まれたから当たり前に私をしている。でも、なぜ?
この「なぜ?」に辿り着いた動物は地球上に人間しかいません。でもそれは、他の動物より優れていると言う意味とも異なるでしょう。むしろ、なぜ(再び!)そう考えるようになったのか、が疑問です。どうして、なぜ?。
ともあれ、そんな事を考えるように進化したのですから、そういう事を考えるのが私たちは(そして私は)好きなのです。好きというより、本能であるとも言えるでしょう。世代を超えて考え続け、やがて大きな二つの流れができました。科学と芸術です。なぜか、現代ではこの両者は別モノのように見られますが、見つめる先は同じです。
気候も秋めいてくる9月29日(土)は、3億6千万年に渡って土にまみれて作られた私たちの身体のカタチについて、あれこれお話して、また一緒に考えたいと思っています!
土祭の詳細はここから。
私のレクチャー詳細はこちら。
2018年9月4日火曜日
数学的オブジェ
ゴムボック(Gomboc)という大人のげんこつ大ほどのオブジェがある。中身の詰まった物で、置くとゆらゆらと揺れる。少しオシャレな起き上がり小法師と言った感じなのだが、精密性を感じさせるシャープなエッジや球体に近い丸く膨らんだ充実した量感が気になる。実際のところ何なのかと言うと、数学的オブジェである。そのゆらゆら揺れる特性を前面に出して“ちょっと知的な贈り物”的な売り方をしている商品だ。私は店舗で偶然見てそのソリッド感とシンメトリー形状に惹かれ手に入れた。厳密な機械加工ゆえの精密さとそれに伴う無機質さが、手作りの置物や彫刻などの有機的印象と対照的だ。ただ、そこがかえって色々考えるきっかけにはなる。
数学的な探求の背景もなかなか興味深い。この形状は、2つの平衡点を内在していると言う。ひとつは安定しもうひとつは不安定である。それぞれたった1点、つまり最小数なので、究極のミニマル形状である。それゆえ、触れなければ止まっているが、少しでも触れればゆらゆらと揺れ出す。球体からの偏差がわずかであるためその揺れ幅も小さくない。購入した物はゴム製なので軽くてすぐに止まるが、重たい金属製もあるらしく、それだと慣性が強く働いて長く揺れ続けるようだ。このオブジェは「安定と不安定の2つの平衡点を持つ外に凸の均質体」で、ゆらゆら揺れると言っても錘を仕込んだ起き上がり小法師とは本質的に異なる。個人的に興味深いのは“外に凸”である点で、つまりはくぼんでいる面がなく、最も膨らんでいない面は平面なので、任意の2点を結ぶ直線は必ずこのオブジェ上もしくは内部にある。
安定的平衡点とは、放って置いて安定している時の重心点で、不安定的平衡点はその逆だと思えばいい。2次元形態ならば、n辺の多角形は、n個の平衡点を持ち(辺の中心)、そしてn個の不安定平衡点を持つ(角)。これが、3次元物体となると話しが変わるらしく、安定点、不安定点に加えて“鞍点(Saddle point)“が現れる。言葉の通り、乗馬の鞍の形を思い浮かべる。そこに玉を置くとさまざまな方向へと転がり落ちてしまうが、ただ前後方向だけに理論上真っ直ぐに玉を押した時は、前後に転がってやがて鞍の中心で止まる。これが鞍点である。安定点iと不安定点jがあるなら、i+j-2個の鞍点があり、これはポアンカレ・ホップの定理として知られているそうだ。立方体なら、6つの安定点(面の中心)、8つの不安定点(角)そして12の鞍点(辺の中心)がある。ゴムボックは揺れて1点(鞍点)で止まるのだから、i+jは3でなければならない。しかし、各平衡点は一つずつだと言う。一体どういうことか。開発した数学者曰く、
「やがて我々は、ひとつのわずかな揺らぎを用いることで、平衡点の数を増やせることに気付いた。ほんの少し歪ませることで、平衡点をひとつ増やせるのだ。」
きっと、ここは難しい数式の世界で言葉にできないのだろう・・と自分を納得させる。
この形を見つけた数学者らは、河原の石ころで似た形状を探したそうだが、見つけることができなかった。この形は、演繹によってはたどり着けないのだと言う。つまり、自然にこの形にたどり着いて安定することは決してないのだ。実際、鋭いエッジなどはすぐに割れるだろうし、そうなれば重心は変わって立たなくなる。ところが、甲羅の高いリクガメにこれと似た形状がある。そのリクガメは甲羅がひっくり返っても起き上がり小法師のように元に戻れる。亀は生物だから、自然にはたどり着かない形にエネルギーを消費する形で到達しているのだと言える。
逆の平衡点を、2つと言う最低数だけ持つこの形態の要素は、それ以外の全ての形状へと変化することができる。その意味で、製作者はゴムボックを「数学的幹細胞」と呼ぶ。何にでもなれて、どれからも辿り着けないという意味で(これがips細胞以前に名付けられた事がわかる)。
指で触れれば揺れ出す不安定さは、ゴムボック形状の繊細さがそのまま運動として現れている。そうでありつつ、どの角度で手を離しても必ず最後は同じ立ち位置で止まる自己安定性も示す。物と生物、命と死、ホメオスタシスと運動など、一つにまとめられる相反する現象との相似性が、ゆらゆら揺れるオブジェの在りようと重なって興味深い。
2018年9月3日月曜日
人体構造と美術の見方
先週末も、新宿の朝日カルチャーセンターで月1回の連続講座を行った。ここを受講される方のモチベーションは高い。純粋に自らの趣味に突き動かされているのだから、それも当然のことだろう。講座内容は一般的ではないが、それでも長く受講を続けてくれる人もいる。そういう人はその人なりの時間の過ごし方があって、たとえば私の講釈をラジオの様に聴き流しつつゆったり描く人もいる。そんな風に気楽に聞いてもらえるとこちらも落ち着けたりする。また、長く受講されている人は私がよく口にする身体構造が頭に入っているから、こちらへ投げてくる質問の内容も的確で、解剖学用語が普通に出てくる。さらには、私の解説が彫刻を例えに出すことが多いからか、彫刻についての興味を質問されることもあって、嬉しいことだ。彫刻は絵画より鑑賞者が少なく、それは鑑賞の仕方が分からないからと言われる。そんな中で、本講座によって人体の見方が彫刻の見方にも連続的に繋がっている事が実感されるのなら、それは本望である。
前回の講座後に、開催中のミケランジェロ展に関する質問を受けた。それは、その人が作品から受けた感覚への疑問であった。「私はこう感じたが、良いのだろうか」と。感じ方にルールや答えはない。芸術学ともなれば客観的根拠に基づいた判断が求められるが、鑑賞は別である。美術館は敷居が高くて・・とはよく聞く。それは鑑賞に答えがあるように思ってしまうからではないだろうか。巨匠の作品でもつまらないと感じて良いし、無名作家でも素晴らしいと思ったらそれが感情の事実である。
なぜ美術の敷居が高いのだろう。これは決して全世界共通ではない。おそらく日本特有ではないか。作品に敬意を払うことは大事だが、もうそれを超えて、怖れに達しているようにも感じる。怖れは“分からない”から生じる。“分からない”は答えがあることが前提である。答えはない、読まなくてもいい。気楽に、音楽や風景や映画と対峙する事と同じなのだ。誰もが、自分の言葉で、自分の感覚を“普通に”語れれば良いし、もちろん語れなくても良い。とは言え、私の講座での人体の見方がそのまま芸術作品の見方となって、その人なりの芸術を語る言葉になれば、それに越したことはない。
時々、他でも同様の一般向け講座をしているかと聞かれる。学校ではなく一般向けは現状ではここだけなので、もっと増やせたらとも思う。人体構造の見方が美術の見方につながって鑑賞の手引きとしても役立つのなら、これは美術解剖の副次的な効果と言うより、本質的な効果が現れていると私は思いたい。
登録:
投稿 (Atom)