2018年9月3日月曜日

人体構造と美術の見方

   先週末も、新宿の朝日カルチャーセンターで月1回の連続講座を行った。ここを受講される方のモチベーションは高い。純粋に自らの趣味に突き動かされているのだから、それも当然のことだろう。講座内容は一般的ではないが、それでも長く受講を続けてくれる人もいる。そういう人はその人なりの時間の過ごし方があって、たとえば私の講釈をラジオの様に聴き流しつつゆったり描く人もいる。そんな風に気楽に聞いてもらえるとこちらも落ち着けたりする。また、長く受講されている人は私がよく口にする身体構造が頭に入っているから、こちらへ投げてくる質問の内容も的確で、解剖学用語が普通に出てくる。さらには、私の解説が彫刻を例えに出すことが多いからか、彫刻についての興味を質問されることもあって、嬉しいことだ。彫刻は絵画より鑑賞者が少なく、それは鑑賞の仕方が分からないからと言われる。そんな中で、本講座によって人体の見方が彫刻の見方にも連続的に繋がっている事が実感されるのなら、それは本望である。

   前回の講座後に、開催中のミケランジェロ展に関する質問を受けた。それは、その人が作品から受けた感覚への疑問であった。「私はこう感じたが、良いのだろうか」と。感じ方にルールや答えはない。芸術学ともなれば客観的根拠に基づいた判断が求められるが、鑑賞は別である。美術館は敷居が高くて・・とはよく聞く。それは鑑賞に答えがあるように思ってしまうからではないだろうか。巨匠の作品でもつまらないと感じて良いし、無名作家でも素晴らしいと思ったらそれが感情の事実である。
   なぜ美術の敷居が高いのだろう。これは決して全世界共通ではない。おそらく日本特有ではないか。作品に敬意を払うことは大事だが、もうそれを超えて、怖れに達しているようにも感じる。怖れは“分からない”から生じる。“分からない”は答えがあることが前提である。答えはない、読まなくてもいい。気楽に、音楽や風景や映画と対峙する事と同じなのだ。誰もが、自分の言葉で、自分の感覚を“普通に”語れれば良いし、もちろん語れなくても良い。とは言え、私の講座での人体の見方がそのまま芸術作品の見方となって、その人なりの芸術を語る言葉になれば、それに越したことはない。

   時々、他でも同様の一般向け講座をしているかと聞かれる。学校ではなく一般向けは現状ではここだけなので、もっと増やせたらとも思う。人体構造の見方が美術の見方につながって鑑賞の手引きとしても役立つのなら、これは美術解剖の副次的な効果と言うより、本質的な効果が現れていると私は思いたい。

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