2020年5月21日木曜日

芸術の質と共有

   深刻な悩みの原因というのは、本来個人的なものであるはずだったが、現在のいわゆるコロナ禍では、それが共有されるものとなった。つまり季節の移ろいや一日の昼夜といった、皆が知っていて当たり前の現象の仲間入りをしたということだ。共有されるものは伝えることができる。たとえば、私たちはシンプルに夏の暑さと聞いただけでも、蒸し暑さやセミの鳴き声や白く強い光を思い出すことができる。それは、言葉が放つを共有しているからだ。言語で表せるならば質を記録することさえ可能だ。およそ1000年前に書かれた枕草子の「夏は夜」の一言でさえ、その質を共有し体感できる。
   もちろん質の共有がむずかしいものもある。文化や時代によって大きく変わっている概念の質は、今の捉え方で代替して感じるほかない。質は不変ではない。たとえば、古代ギリシアの神々の像が放っていた質は現代の私たちには感じようがない。それが東洋人の私ともなれば、文化史的な実感など不可能であると言わざるを得ない。コントラポストやプロポーションを鑑賞して欲しかったはずではないことは分かるけれども。
   不変ではないのだから時や場所が変われば、その物が放つ質は、そこに生きる人のものにすっかり取って変えられることも往々にしてある。日本の仏像も、かつては神仏そのものとして信仰されていたものが、今では、美術館を巡回展示される鑑賞物となった。美術館で見る運慶仏と薄暗い寺院の堂内に居る運慶仏とは、物質として同一であっても、全く異なる質のものであり、両者の間にはほとんど別物であると言えるほどの断絶があることは忘れてはいけないだろう。

   対象が放つ質は、それが生まれた(作られた)場所と時間の生さを本来は宿しているのである。それらは、たとえばそれが仏像だとして、それが建立される必要があった時代性に則しているもので、時代が移ろえばその質は過去のものとして乾いてしまう。現代人は、言わばその干物が放つにおいを本質としてそれぞれが嗅ぎ取っているようなものである。
   ところが、ある時それが蘇ることがある。干物がにわかに生に戻るようなことが起こる得る。今回のコロナ禍はまさにそれが起こった稀有なことである。
   突然に昨日と違う今日となり、今日の連続としての明日が見えなくなり、先の見えない不安が、誰かひとりの身にではなく、全てのひとに一辺に降りかかった。その時、私の不安は他者のものとなり他者の不安は私のものとなった。私たちは一斉に底知れぬ不安を共有したのだ。科学の時代に生きる私たちは、全ての出来事は、科学的に説明できると信じている。大抵の自然現象も制御可能か予測可能で人類はそれに対処可能だと信じている。ところが、大地震や今回のコロナが起こると、その人類が信じていたもののか弱さと頼りなさが露呈する。科学が信じられなくなったとき、ひとはどうするか。そういう問いは、科学が機能してそれを使いこなす人類の全能感を引き立てている間は、全く現実味を持たない。その現実味を実感するのが、今のような状況下である。それで、どうなるのか。一言で言うなら、原始性が顔をもたげるのである。私たちはどのような状況であれ、今日の先、将来がどうなるのかを知りたいのだ。その指針を示していた科学が不能となれば、科学以前に人類が心の拠り所としていた原始的思想に再び寄り添おうとするのである。それがすなわち、占い、呪術、物語、宗教そして芸術である。占いは端的に将来を語ってくれる。呪術はそこに何らかの能動的な働きを施して将来を理想に導こうとする。物語とは過去のことだが、それは経験の記録であり、現状と似た物語があれば、その顛末を今に当てはめてみることができる。宗教はそれら全てがセットになったようなものだ。そして芸術は、ショックを受けている現在の心情に扉を開き、まるで同情するようである。それは恐怖と恐れを前に、どう振る舞って良いかさえ分からない心情に具体的な対処法を示す感情の導き手となる。
   この時、これら過去につくられた物語、宗教、芸術の、それまで乾いていた質が生さを取り戻したのだ。それはいつか手の届かなくなった過去の遺物ではもはやなくなり、現在進行形の物語となった。かつて宗教を求めた人々の切実は今のものとなり、やむなくつくられた芸術が放つ切羽詰まった心情の出どころは、今や作品からなのか自らの内なるものか分からず渾然一体と化している。このような時は、人間もまごう事なき生物に立ち還っている。生物とは運命に抗う物体だ。それが動物であれば抗いは力を増す。そして人間だけが抗いを振りかえり、その質を岩に刻み付けるのだ。
   
   この春、カミュの『ペスト』が爆発的に売れているという。過去30年の出版部数を1ヶ月で超えたほどだという。そこには、感染症に襲われこの先どうなるのか分からない状況下で、物語でもいいから未来を見せてほしいという切実な要求が、それも個人を超えた人類的な本能の要求がはたらいているように思えてならない。大事なことは、誰もこの物語のようにことが進むと考えたり、そう願ったりして手に取っているのではないことだ。むしろ未知の恐怖に置かれたときに、人はどう感じ、考え、ふるまうべきなのかを見せてほしくて手に取るのだと思う。

   今は芸術が生の価値を放っている。今ほど芸術の価値を生命との距離感によって、それも個人の状況ではなく全人類的な状況において、実感することが可能な時代はなかっただろう。今とあってはミケランジェロの彫刻も、もはや大理性かどうかは問題ではなく、コントラポストという単語も無意味な響きであり、それが放つ死と隣り合わせの今という生を反射する姿だけが鮮やかによみがえっている。これこそが芸術のあるべき姿であろう。平和な時代に良い芸術は生まれないというが、それは仕方のないことだ。人という生物は襲われてはじめて抗うのだから。そして芸術の本質とは生物的抗いの人類的様式であるのだ。
   この瞬間も、新しい芸術が生まれているだろう。この先遠くない将来に、芸術の動向が大きく変わるようなことがあるかも知れない。これはきっと思い違いではない。今とあっては、私の予感は私だけのものではないはずだから。

2020年4月5日日曜日

スーパーマーケットの彫刻史


   スーパーマーケットの菓子棚で、ふと目に留まって手に取ったのが左のもの。商品名が碌山だ。驚いたが、中村屋という社名を見て納得すると共に、その名がこうして社会的に生きている事に奇妙な感覚を覚える。なぜかと言って、この商品を手に取る人の一体何人が、碌山という名称を気にかけるか、ましてやこの人物が日本の近代彫刻の始まりともなる作品を作りその完成と共にさらりとこの世を去ったことや、その死んだ場所が他でもない新宿中村屋の奥の部屋であったことなど、どうして想像ができるであろうか。

   碌山こと荻原守衛は、明治の日本が世界の中でその存在感を高めていこうとしていた時代のなかで、新たな西洋芸術から人間が個人を生きることの崇高さとその表現力を感じ取り、それを直接に学ぶために、公費など頼らずニューヨークやパリなどヨーロッパへ渡り、ロダンを現地で知り彼にも会い、帰国後はその最先端故に少ない賛同者の中でその新しい芸術を、それまでの日本には無かった“生きざまと表現の合一した芸術“としての彫刻を、貧困の中で模索し発表した人物である。その碌山は、1900年代始めの人が移り住み始めた新宿の駅近くに店を構えて成功した中村屋を始めた相馬夫妻と旧知の仲であり、繁忙期などには店の手伝いもして、半ば家族のような関係であった。1910年の4月、いつものように訪れていた中村屋の奥の部屋で突然に血を吐いて倒れ、そこで死んだ。30歳であった。碌山はごく簡単なアトリエ兼住居を、今の都庁あたりの、まだ畑が多かった角筈に建てて住んでいた。そこには作りかけのひざまづいた女の裸体塑像が残されていた。この「女」はのちに明治以後彫刻の重要文化財の第1号となる。

   碌山は、自分が生きる時代を最大に生きようとした人間に映る。それは国外まで単独で飛び出してしまう行動力にも現れるが、同時に、生きることと芸術追求への内面性も突き詰めて、自らを苦しめてもいた。
   そういう男が、東京新宿に居た。その生きざまの結晶が、彼が残した彫刻である。彫刻はそれら全てを再生する記録媒体ではないが、そこに残る指跡や形態が、かつてその男がいた事を証明している。今となっては、碌山という文字はその象徴でもある。それが、ある菓子の商品名となって印刷されているのを見ると、碌山という文字や、ひいては彼の作品から想起する百数十年前の東京にあった人生が、時流れた今ならば一つの物語に過ぎないという現実に引き戻され、寂しさを感じるのだ。
   
   そして、そうした新しい芸術家たちを支えたのが、新宿中村屋であり、その創始者の相馬夫妻であった。中でも、その妻である黒光(こっこう)は碌山にとって、まだ長野県の安曇野にいた頃からの仲であり、新宿に移ってからは、芸術論を語る仲間でもあり、生活面の支援者でもあり、密かな思いを抱く相手でもあった。絶作である「女」の顔は黒光に似せてあるという。
   
   和菓子の碌山の隣には、中村屋の羊羹が置かれていた。その中になんと黒光という名のものがあって、また驚いた。気付いてしまったからには、両方を買うしかなく、それをこうして並べてみたわけである。
   黒光は、今でこそその名は巷に響かないが、中村屋の事業的成功の後は、様々な文化的活動や芸術家支援で有名な文化人であった。

  生前の碌山とも親交があった彫刻家で詩人の高村光太郎は、彼の死を早めたのは黒光のせいだとして、好かなかったという。光太郎は碌山の死を悼む詩「荻原守衛」を残しているが、そこに登場する作品の名は「女」とは異なっている。


    粘土の「絶望(ディスペア)」はいつまでも出来ない

 「頭が悪いので碌なものは出来んよ」

 荻原守衛はもう一度いふ

 「寸分も身動き出来んよ。追いつめられたよ」

 四月の夜更けに肺がやぶけた

 新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして荻原守衛は血の魂を一升吐いた

 彫刻家はさうして死んだ……日本の底で