生き物は死ぬと、速やかに腐敗し始める。宗教上の理由などから死体を保存したいと考えて来た人類は、様々な方法を研究、発見してきた。
もっとも古くからある技術は、ミイラ化することだ。ミイラ化は、言い換えれば脱水保存で、現在のフリーズドライ食品などは食品のミイラ化である。ミイラ化の利点としては、その保存が比較的容易であることだ。乾燥状態さえ保てば数千年の保存が可能である事は歴史が証明している。
乾燥させない保存方法として、思い浮かぶのは、ホルマリンなどの溶液につけ込む液浸標本だろう。これは、ホルマリンによって体のタンパク質を変質させ腐敗を止め、乾燥しないようにアルコールなどに浸すもので、組織が液体を保っているという意味で、ミイラ化と反対を行く方法と言える。しかしこれは、標本の管理に手間がかかる。
これらの死体保存方法に共通していることは、体内の水分を除くというもので、つまりは、生きている間は欠かせない水分が、死んだ後は腐敗を呼ぶ要因ともなるのだ。
ミイラ化は、単純に水を抜く方法で、液浸標本は水の代わりにアルコールなどを浸透させるのである。
ミイラはそのまま置いておけ、液浸は形を保っている。この両者の長所を合わせたような標本技術が、だ。
つまり、体内の水分をシリコーンに置き換えて、それを硬化させることで、外に置いておけ、形も保ったままにすることが可能になった。
この方法を考え、特許を取り、世界に広げたのがドイツのハーゲンス博士だ。彼は、その技術を用いて人体標本を数多く作成し、その展覧会を世界中で開催して成功させた。当然ながら倫理面で大きな物議を醸してもいる。その理由の一つとして、その標本達のポーズがある。彼らは、実にアクティブだ。バスケットをしていたりチェスを指していたり、ダンスをしたり。そうしながら、内臓を晒し、胎内の赤ちゃんを見せている。
ハーゲンス博士はいつもハットを被っている。その姿から、ドイツのカリスマ的アーティストのボイスを意識しているのではないかとも言われる。それが正しいかは分からないが、前衛的であることは確かだ。死体にあのようなポーズを取らせ、切り刻んで見せるという、そのアイデアと実行力は、ドイツだから出来たというのもあろうが、ドイツでも良く出来たとも言えるだろう。
その標本達—かつては生きていた人たち—は、その生き生きとした姿勢によって、私たちが持つ死のイメージから免れさせられている。腐らず、動いているのだ。
腐らずに永遠に存在し続け、その形に「命」を宿らせたい。この欲求こそが、芸術の根源にあり、それを立体—つまりより実際に近い—に表したのが彫刻だ。もちろん、石材やブロンズに命はない。だから、その姿勢に命を感じさせるようにさせた。私たちはその姿勢に永遠の命を見る。
作品に感情移入するには、それが相応に現実味を持っていなければならないという要求から、芸術家は解剖学を取り入れ、内部構造を正確に表そうとした。
ハーゲンス博士がここに表したものでは、作家は内部構造に苦心する必要は無いが、生き生きとした姿勢を取らせ、命を感じさせようとしている。この意味において、これらは従来の芸術の列に乗っていると言える。
しかし、元来が無生命(木材もここではそう考える)である素材から作られた彫刻とは違い、標本達の存在は、かつて生きていたという絶対的事実を強調し続けるのだ。生き生きさせるほどに際立つ死がそこにある。その意味では、これらは芸術とは違う、生命を直に手触りしているような違和感が感じられる。
死体をいじるという行為への潜在的嫌悪感もあるのか、倫理的問題からの逃避があるのか、芸術系のメディアでは、ハーゲンス博士の仕事が取り上げられる事はほとんどない。
芸術のテーマは、人類の起源からいままで、手を変え品を変えつつも常に「いのち」に関係している。にも関わらず、あまりに直接的にそこに触れられると、少し尻込みしてしまう。死に直接触れるのには芸術家はナイーブ過ぎるのだろうか。
また、プラスティネーション標本は、立体として存在しているものの、それを彫刻とは呼べない。彼らは、言わば、彫刻を模しているのだ。彫刻のやり方に沿って存在している標本とも呼べるだろう。
細かく見れば、標本の筋は弛緩しているので生体のような収縮による緊張も見られない。彫刻家が操る、動きに伴った量の移動なども表現出来ない。まず体ありきである故に、表現に規制があるのだ。
プラスティネーションが芸術として見られるならば、これは壮大なコンセプチュアル・アートに区分けされるだろう。体、個の人生、医学、芸術、それらを取り込んで、考えさせる門を開いているのである。
ともあれ、立ち上がり再び芸術に向かって振り返っているような標本たちは、人体観の新しいマイルストーンとして、歴史に刻まれたことは間違いない。
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