2021年7月28日水曜日

1964東京オリンピック後の円谷幸吉の自死と三島由紀夫

疾走する円谷幸吉

   NHK「映像の世紀」で1964年の東京オリンピックを当時の映像で振り返っていた.マラソンは当時のハイライト的な競技であったらしいが、そこで走者の円谷幸吉が競技場へ帰ってくると観客も実況も興奮している.しかし、そのスタジアム内において後続の走者に抜かれ、3位でのゴールであった.その際、興奮の絶叫の中で実況者が「円谷疲れました!」と叫ぶ一言に応援者の賞賛と惜敗の感情が込められていた.それでも放送では円谷によって日の丸の旗が競技場に上がったことを誉めたたえ、「ありがとう円谷君」という当時の言葉も紹介していた.ただ、映像として観ている側としては、あそこで頑張ってくれていたならと誰もが思ったに違いない.そして、当時それを一身に受け止めた円谷当人の気持ちは察するに余りある.テレビではそこまでで次の話題に移っていったが、私はこの走者には何か事後物語があったような気がしてネットで調べると、やはりその後若くして自殺していた.東京オリンピックの成績を苦にしたものではないが、次のオリンピックを目前にしての自殺であり、遡るなら東京オリンピックの成績が起源であることは容易に推測できる.

   円谷は遺書を残している.それは「美味しゅうございました」を繰り返す文体で、確かに、韻を踏んだ一寸した詩のようにも聞こえるが、これは全く独自の文体と言うより、第二次大戦中の特攻隊員が書いた遺書の文体にそっくりなのだそうである.最後には「幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません」とある.これは、オリンピックの実況の「円谷疲れました」への呼応であるとも取れ、彼の孤独な勝負はオリンピック後も休みなく続いていたことを表している.

   三島由紀夫は円谷の生き様と死に様とを絶賛していたようだ.小さなカミソリで頸動脈を切っての自死という方法もその意思の強さを象徴している.三島をもって感嘆させたのはそういう刃物での自決という手段もあっただろう.

ウィキを見ると、三島による円谷の遺書と自死への言葉が載っている.

「三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』の中でこれらの無責任な発言を「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と斬り捨て、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」と締めくくった。」

   上記の一文を読んで思い出すのは、映画「東大全共闘と三島由紀夫」においての楯の会のメンバーによる回想で、そのメンバーの知人が自死した際に「理由は精神衰弱」と三島に報告したところ彼が顔を真っ赤にして怒ったというエピソードである.その際に三島が言った言葉というのが、上記に書かれていることとほとんど同じなのだ.もしかしたら、円谷のことを思い出してのことだったのかも知れぬ.

   三島による円谷の死の評価をどう見るか.人は死すれば言葉なく、純粋な他者に対する存在のみとなる.だから、その価値や意味付けは全く他者に依存することとなる.三島は円谷の死を美しい自尊心とした.そう表現することで彼を貴いものとした.だが、死してなおこのように言われる境遇に生前置かれていたからこそ、彼はそこに常に自己との違和を感じていたのではないか.そのような滅私の存在であれと言う輪郭線の見えない巨大な圧力が彼を押し潰したのであろうと思わざるを得ない.無垢な個人による理想像の押し付けが集まり、やがて巨大な津波となって一人の青年の人生を押し流した.

   ところで、三島は、意識ばかりで行動が伴わないことを良しとせず、両者を統一させ、いやむしろ行動を持って意識を規定しようとして、自らの身体を鍛えていた.実際にも全共闘に対しても、その思想は置いておいたとして、行動を起こして現状を変えようとする態度は「絶対に認めます」と言っている.

   行動しなければ意味がないという思想はどうやら60年代には盛り上がっていたように思われる.そこにはサルトルの実存主義も少なからず影響を与えていたのだろう.また、「映像の世紀」を観ていて思ったが、高度成長期の日本こそが、思想より行動の時代であった.それこそ、毎日街が変わって行く.思い出の光景などは文字通り思い出の中にしか存在しなくなる.そう言う時代である.フィジカルに動いて物理的に物事を変えていく有無を言わせぬ重たい力強さが満ちていた時代である.文筆で自らの思想を書き連ねる作家にとって、所詮それが物質化したところで手に収まる書籍という神の束に過ぎない.そう言う物理的な存在的弱さを体感させられる時代であったのだろう.そう思うと、人は自分が生きる時代と場所に分かち難く結び付けられているのだと強く感じ入る.深く自己を考え、自己の在り方を問うた各時代ごとの知識人とて、結局のところ、その思想は彼らが生きる時代と場所という背景の上に描かれるのである.

   歌は世につれ世は歌につれ

   ということである.


   2021/07/22

2021年7月27日火曜日

藤原彩人 軸と周囲 -姿としての釣り合い- を観て




   歴史において、人は人の形を規定しようと試みてきた.その外見においては、時に神の形と同一視され、現世の人と分けるために、そこに究極の調和という抽象性が当て嵌められた.完全なる人の形が想定されることで、生きている人の形は不完全であるという必然が与えられた.これは奇妙でもある.私たちの形は「完全に不完全」であるのだから.完全なる不完全とは何であろうか.それは完全に近づくのであろうか.

   かつて、大自然の中に自己という存在を見つけることで、人類は世界から自分たちを分けた.世界は自分たちの生きる場となり、自分たちは存在の主人公となった.しかし同時に、私たちは、自らの内から生きていることへの予感も持っていたはずだ.生き物はその身体を傷付けると弱り、程度によっては死に至ることは経験上知っているのだから.

   人は世界の中に合ってその環境に根ざして生を営み、その生を実行するのは身体である.何より、私という自己を認識する場は自己の肉体である.

   人体とは、世界における人を規定するベクトルと、それを規定する私を生み出すベクトルとが出会う、たった一つの点である.それを私たちはどう見るか、人の形として見るのだ.皮膚をまとった人の形はすなわち、世界の内にあると共に私自身であるという、外と内からの存在論的拮抗点が面をなしたものである.私たちは人類史的な過去からその外形を捉え、あらゆる媒体にそれを刻みつけてきた.マンモスの象牙に、土に、岩に、紙に、キャンバスに、モニターに.

   私たちを内から生かすもの、すなわち内臓への眼差しに理性的な判断が追いつくのは時間が掛かった.西洋ではアリストテレスからヒポクラテス、ガレノスと様々な判断がなされてきたものの、その判断が、より先に理解されていた構造と合致し始めるのは、17世紀のハーヴェイまで待つ必要があった.医学は以後、現代に至るまで、人を内から生かすものについて、人体の内部からの視点を示し続けている.

   ところで、人体の“内部”とはどこからを言うのか.殉教した聖バルトロマイのように剥がされた皮膚より奥をそう言うのだと思われているが、そもそもそれは、皮膚が剥がすことが可能であったからそのように言われるのである.皮膚は実際に、その深層から覆われた膜を取り除くように引き剥がすことができる.皮膚とその深層の間の結合が緩いため、その線維が容易に引きちぎれるからである.皮膚はしかし、衣服のように着脱可能な体外由来ではもちろんなく、それ自体が一つの、そして人体で最大の必須器官として機能している.それゆえ皮膚を取り除かれた人は生きていくことができない.

   つまり、皮膚はその厚みの中において、すでに機能を営む一つの系をなしており、それを人体を生かす内部を曝け出すための覆いとするのは正当ではない.皮膚が覆いではないのであれば、人体の内外を隔てる物質的境界面は存在しないという事になる.そしてそれは、その通りなのだ.しかし、人は内を知りたいと欲する.真実はいつも隠されていなければならない.衣服を取り除くことで社会的な覆いの下に動物的な人間を見るように、皮膚は人を生かす内側を覆い隠す象徴的な膜として選ばれたのである.

   藤原彩人氏による個展の作品群は、人の形がモチーフであるが、そこには滑らかに視線を滑らせる体表の起伏は存在しない.そこにあるのは、全体がバラバラに区切られた身体の部位であり、言うなれば、皮膚という覆いを剥がされその内面を曝け出した人体である.作家はこれを、人体の内側をひっくり返したものと表現した.腕や脚は中空の筒となってぐにゃりと曲がり、像の姿勢を維持する板状の梁が随所に見られる.胴には肋骨か魚の鰓を思わせる曲った溝が彫られている.階段状の溝や穴もあって、直線的で工業的な無機質さが粘土という有機的な素材に硬質さを与えている.像たちは片膝を立ててしゃがみ込んで片手を頭部へと運び、何か考え事に我が身を忘れているようだ.

   作家が言ったように、これがひっくり返された内側であるとして、そこにあるものは人体の内側にあって人を生かしている部分である.それがここでは内外が反転している.その時、鑑賞する私たちは、この作品の内側にすでに在しており、そこから作品という体外を垣間見ているということになる.すなわち像たちは、私たちが生きる世界、その有り様なのだ.

   私たちが住まう世界がどのようなものであるか.それを捉える私とは何か.環境と自己という関係性をひと繋がりの連続として見た時、しかし、そこに明らかに在る結界としての自己、それは世界と内の関係性を断ち隔てる結界というよりむしろ、濃度の異なる溶液の間に置かれた半透膜のように機能的に作用するものとして見えてくる.作家はその機能を、これまでのように皮膚という境界を外から眺める姿、つまり自己を世界として見る視点から鮮やかに反転させ、自らが世界を見る視点を構築したのだ.その時世界はどのように映るのか.その自己という半透膜はどのような形態を描くのか.私たち人間にとっての世界とは、あくまでも人の形をしているであろう.しかしまた、自然に工業という人間的営みが侵食しつつある現在においては、それは天然の調和という幻想からは逸脱した一見「不完全な」異形へと変容せざるを得ない.これらの像は、現在とその先を思惟する.それは何を?それは人と世界の関係性についての問いに違いない.


藤原 彩人    軸と周囲  -姿としての釣り合い-

Axis and Surroundings -Balance as a figure-

2021年7月15日ー8月1日

開廊日:木ー日

開廊時間:13:00-18:00

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2021/07/27


偶然という物語

    物言わぬひとつの石ころに目が行くことがある。それらがこちらへ話しかけてきたわけでもない。たまたまそこを歩いていて、ふと目を落とした先にその石があっただけの事だ。もし何か急いででもいたら、同じように目を向けたとしても、それが網膜に映ったことなど気付きもしない。人生の時間と移動する空間の広さに、その時の精神状態まで考慮に入れて、その石ころを拾い上げる可能性を割り出したら、それこそ“たまたま”や“偶然”と呼ぶにふさわしい数値が出るに違いない。

   

   もし、あなたが石ころだったらどうか。今まで一度も誰もあなたに目をくべた存在は、それこそ虫一匹でさえ、なかった。それがある日、突然に誰かがあなたに気付き手を伸ばし拾い上げられる。あなたはこう感じるだろう。やった!私は他とは違う。その事が認められたのだと。私という才能の抑えきれぬ光によって、物言わずともこうして選び取られるのだと。


   さて、拾い上げた方も、それを握って重さを確かめたり、土をはらって形や色をよく見て、なるほどこれは面白い石ころを見つけたものだと悦に入るかもしれない。その内に、こんな石はそうそう見つかるものでもない。これは単なる偶然でもなく、いつも何か珍奇な物を見つけてやろうとする心持ちがあったからこそ見出せたのだと、そう思えてくる。


   見つけた、見つけられた。そのどちらにせよ、起きたことを振り返る時、そこに理由という物語が付け加えられる。そうでなければならないのだ。私たちの“意識”にとっては。意識とは物語である。私たちの外世界は感受され意識によって反復可能な内世界として再構築される。私たちが思い出とか記憶と呼ぶものである。外世界の現象は二度と反復されないが、記憶はその再生を可能にしている。それは、撮影した動画の再生とは根本的に異なる。動画は、それが貴重な瞬間を反復していようと、実際には光線の明滅の集積であり、そこに物語は存在しない。それを“貴重な瞬間”という物語にしているのは、それを見た私たちの意識である。


   実際には意識のない(必要のない)石ころには拾われた理由などないが、それは私たちとて同様である。しかし自らの人生が偶然の積み重ねに過ぎないなど受け入れ難い。それは、意識ある人間の否定と等しいからだ。意識ある、もしくは記憶ある人間である以上、世界は物語である。物語である以上、真なる偶然はなく、何らかの事象が繋がりあった理由がそこにある。

   私たちにとっては偶然に見える事象でさえ、偶然という物語に彩られているのである。


2019年2月5日