物言わぬひとつの石ころに目が行くことがある。それらがこちらへ話しかけてきたわけでもない。たまたまそこを歩いていて、ふと目を落とした先にその石があっただけの事だ。もし何か急いででもいたら、同じように目を向けたとしても、それが網膜に映ったことなど気付きもしない。人生の時間と移動する空間の広さに、その時の精神状態まで考慮に入れて、その石ころを拾い上げる可能性を割り出したら、それこそ“たまたま”や“偶然”と呼ぶにふさわしい数値が出るに違いない。
もし、あなたが石ころだったらどうか。今まで一度も誰もあなたに目をくべた存在は、それこそ虫一匹でさえ、なかった。それがある日、突然に誰かがあなたに気付き手を伸ばし拾い上げられる。あなたはこう感じるだろう。やった!私は他とは違う。その事が認められたのだと。私という才能の抑えきれぬ光によって、物言わずともこうして選び取られるのだと。
さて、拾い上げた方も、それを握って重さを確かめたり、土をはらって形や色をよく見て、なるほどこれは面白い石ころを見つけたものだと悦に入るかもしれない。その内に、こんな石はそうそう見つかるものでもない。これは単なる偶然でもなく、いつも何か珍奇な物を見つけてやろうとする心持ちがあったからこそ見出せたのだと、そう思えてくる。
見つけた、見つけられた。そのどちらにせよ、起きたことを振り返る時、そこに理由という物語が付け加えられる。そうでなければならないのだ。私たちの“意識”にとっては。意識とは物語である。私たちの外世界は感受され意識によって反復可能な内世界として再構築される。私たちが思い出とか記憶と呼ぶものである。外世界の現象は二度と反復されないが、記憶はその再生を可能にしている。それは、撮影した動画の再生とは根本的に異なる。動画は、それが貴重な瞬間を反復していようと、実際には光線の明滅の集積であり、そこに物語は存在しない。それを“貴重な瞬間”という物語にしているのは、それを見た私たちの意識である。
実際には意識のない(必要のない)石ころには拾われた理由などないが、それは私たちとて同様である。しかし自らの人生が偶然の積み重ねに過ぎないなど受け入れ難い。それは、意識ある人間の否定と等しいからだ。意識ある、もしくは記憶ある人間である以上、世界は物語である。物語である以上、真なる偶然はなく、何らかの事象が繋がりあった理由がそこにある。
私たちにとっては偶然に見える事象でさえ、偶然という物語に彩られているのである。
2019年2月5日
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