2022年8月20日土曜日

根源的な調和と意識的な調和

意識的な調和が感じられるであろうか。
   身体は調和で繋がっている。正しく言えば、あるべき身体の形には調和が見て取れる。もっと言えば、あるべき自然物には調和が見て取れる。これは私たち自身のうちに、調和というものを捉える能力が備わっていることを示している。調和とは世界にあるものではなく、私たちが感じ取るものだからである。言わば、私たちのうちに、すでに調和とは何かというものへの求心的な能力があるのだ。

    視覚芸術、形態芸術においては、その調和を感じ取り、それを反映して制作する能力が求められる。調和はしかし、ただ単に流線型であるとか、グラデーションであるとかいうだけではない。調和の幅は広い。なぜか。そこには人間に特有の調和の感受性の幅広さがあるからである。

    調和は少なくとも、根源的な調和と、意識的な調和の二つに分けられる。根源的な調和は、流線形とか、木の枝の分岐であるとか、川のせせらぎに見られる流水のフォルムとか、流れる雲に見られる形といったものだ。そこから抽出された渦巻きや直線や単純な幾何形態もそこに含まれる。これらは味覚で言うところの、旨味、甘味、塩味である。意識的な調和とは、味覚で言えば苦味や辛味に相当する。つまり、初めはそれらに対して否定的な感覚を覚えるものである。これらは初め、調和を見出すものとして感じられる。どのようなものがあるか。簡単に言えば、根源的な調和を見出すものである。しかし、学習によって味覚が育つと苦味が美味しく感じられるように、意識的な調和は経験によって心地よく感じられたり、正しく感じられるようになる。身の回りにはそのようなものが実は多い。特に、人間界において視覚にとらえられる多くがこの意識的な調和である。日本の都会の街並みや、工業製品の形態、衣服のデザインなど至る所にそれがある。しかし、私たちは普段それを不調和としては感じない。これは、視覚的には不調和であるものの、それがある理由を知っていたり、理解できることによって受け入れられるものである。つまり、それらは元来は不調和であるものが、意識によって、意識的に調和の列に加えられているのだと言えよう。この意識的な調和には、一種の諦めが内在する。それを受け入れざるを得ないという諦めである。人間社会はこの諦めの調和で構成されていると言っても過言ではない。特に、工業化の進んだ、合理性重視の世界においては、この諦めの調和に満たされていると言って良い。都会に住んでいるなら、身の回りを見てみれば良い。横の直線、縦の直線、唐突に断たれるライン。連続性のない、無頓着な色彩。そう言ったものだけで構成されている。これらは元来、全く美しくないものだ。しかし、都会に生きているものにとっては、そこに何らかの美を見出しもするのである。それは、純粋な形態美ではなく、そこに見られる生活の哀愁であるとか、自然を駆逐する人工の力強さであるなどである。これは、都会の人間が、そこに植え付けられた人間が、自らの心情をそこに反映されることで見出される意識的な調和である。

   しかし、意識的な調和は都会でしか見られないというものでもない。むしろ、人間活動のあるところならば、必ずそれが見つけられるとも言えよう。畑を耕す道具、衣服、住宅など古くから人間の身の回りにあるものも、そこには意識的な調和が見て取れる。具体的な例を挙げれば、唐突に色合いが変わる衣服の上下や、デザインの異なる衣服の上下などは、根源的には全く調和がない。

   意識的な調和は、根源的な調和からみれば、不調和である。しかし、根源的な調和にこの不調和を内在させることで、表現物はむしろ魅力を増す。正しく言えば、より魅力を感じさせる。実際のところ、芸術作品はこの調和と不調和のコントロールが重要である。これを調和の破綻ということもある。

   2021/09/24

2022年8月5日金曜日

ジャコメッティは両手利き

   YouTubeにいくつもの、ジャコメッティの動画が残されている。私はそれを知らなかった。それらを見ると、粘土の付け方や、湿らせておくための布の巻き方などが、映画「ファイナルポートレート」での俳優ジェフリー・ラッシュの動きとそっくりだと分かる。映画は、これらの映像を参考にしたのだ。

デッサンをするジャコメッティ
左手で消している

   また、ジャコメッティがデッサンをしている動画を見て、小学生の頃の私と同じ癖があることに気づいた。それは、右手で書いて左手で消すというもので、私はある時大人にそれを指摘されて気付いたのだ。これは利き手を矯正された結果の“両手利き”がすることらしい。確かに多くの人はそれをせず、消す時はペンを机に置いて消しゴムに持ち替える。ジャコメッティは、デッサン時に右手で描き左手で消していた。これは持ち変える動作によって作業が妨げられることがないので、一連の動きが流れるようにスムーズである。私自身は、やがてその持ち方をしなくなったが、今でも講義の板書において、自分の左側に書くときは左手を使うことがある。

デッサンをするジャコメッティの手元
右手に鉛筆、左手に消しゴムを持つ

   映画「ファイナルポートレート」での粘土造形のシーンでは俳優が両手で粘土をこねくり回していて、これは通常の粘土造形では利き手のみで粘土を付けるのと違うので、違和感を感じていた。ところが記録動画を見ると、なんとジャコメッティ本人が両手で粘土をこねくり回していた。その造形シーンで興味深いのは、左手に小さなポケットナイフを持っていることである。両手で粘土をこねて顔を造形しているのだが、時々、左手のナイフの小さな刃先で鋭い溝を刻み込む。なるほど、あの鋭さはナイフの刃先によるものであった。

両手で造形するジャコメッティ
左手にポケットナイフを持っている


   両手を使うとすぐに分かることだが、自分の真ん中に横向き鏡を置いて見るように、左右対称の動きをする。両手一緒の動作は、それ自体がシンメトリー(左右対称性)を生み出す。ジャコメッティの細い造形や絵画が正面性が強く、またシンメトリーであることは、両手を用いる造形手法と密接であり、さらに言えば両手利き特有の世界の見方も関連しているかも知れない。

ナイフの刃先で粘土にデッサンしている

   人は何にせよ、自己経験に照らすことで対象を理解する。私は幼少時からシンメトリー形状への親近感が強かったのだが、それはもしかしたら、利き手を矯正したことによる両手利きが影響していたのではないかと、ジャコメッティの造形動画を見て思い至った。


   それともう一つ、作家は誰でも、自らも気付いていないが、往々にして自分自身の顔に似た像を作っている。それはジャコメッティも同じで、つまりは輪郭がシャープで彫りが深く構造的な頭部は、ジャコメッティ自身の顔がそうなのだ。もし、彼がふくよかな体型の人物であったなら、あれら作品群は生まれていなかったかもしれない。

2022年7月23日土曜日

整ったアトリエと、良い芸術とが関連しているのではない

 

アトリエ内の彫刻家ジャコメッティ

 整ったアトリエから良い芸術が生まれるわけではない。アトリエが整っているということは、そこを使う者の心も整っていて考えが良くまとまるから、良い仕事につながり、結果として良い作品が生まれる、という考えがあるから、「整ったアトリエは良い芸術をうむ」と言われるわけである。

   しかし、芸術は整っていれば良いというものではない。考えがまとまっている方が良いというものでもない。むしろ、混沌を混沌として表すことができる場が芸術である。


   芸術については、「そのまま」、「なるようになる」、「なんでも良い」という言葉で表されるものを大事とするべきなのである。これらは、自立的で上昇的な思考とは合わないものだ。“常に今より良いものを”というスローガンで見るなら、芸術は決して認められないものである。しかし、この近代的かつ商業主義的なスローガンを掲げて生きるならば、その眼には決して今を満足することはできないであろう。目の前に広がる光景や今の自分自身は、常により良くなる可能性を宿した不完全なものとして現れるのであるから。人間の不満やそれに付随する様々な消極的な思考や行動は、今を満たされないという感覚から引き起こされる。なぜ私たちは満たされないのか。なぜ、より良いと思われる他者に目が行き、羨み、妬み、自らを否定するのか。それは、“より良いはずの状況”とそれに満たない現在とを比較するからである。そして、それが満たされることは決してないのだ。それは言ってみれば常に“理想”というイデアを志しているのであるから。

   アトリエをきれいに保つという考えは、その“理想”のイデアに通ずる。しかしそれは、芸術が真に志す方向とは異なっている。未整理であるがゆえに豊かな意味を内包する混沌を認められなければ、そこから豊かな芸術は生まれ得ず、また、そのような人は、芸術の豊かさに気付くこともないであろう。


   では、アトリエは散らかったままでいいのであろうか。現実世界との関係性を無視するわけにも行かない。混沌が許されるのは、自分の精神と自分だけのアトリエに限られる。アトリエが他者と共有されるのであれば、話は全く変わるのである。つまり、他者との共有においては、自分だけの混沌は全く許されなくなるということである。

   結論は、共有アトリエは整理されていなければならない。共有アトリエや学校のアトリエは公共であり、社会に所属する場なのである。そこは私的な場ではないのだ。


   学校のアトリエや公共アトリエの環境を考慮するときは、「私的」か「社会」かを見極めたうえで判断しなければならない。両者の階層は異なり、混ざり合わないものであるから。

2021/12/29

世界は能動的に生み出される


   世界にはそもそも境界も物体も何もなく、それらは私たちの中において合成され作り上げられている、という感覚を強めている。


   世界の全てを私は認識できる。実際にはその逆なのだが。つまり、私が認識できるものだけで世界はなり立っているというのが実際のところであろう。だが、両者の区別などつけられはしない。厚みのない紙の表と裏のような関係性である。

   ともあれ、世界を私がこのように捉える以前には何があるか。それは連続した事象である。連続した事象を、少なくとも視覚的に体感することは可能であろうか。可能であるはずだ。なぜなら、私の眼球はそれを捉えているのであるから。眼球はただ連続した電磁波の強弱を捉えているに過ぎない。それが神経刺激の強弱に変換され脳にとどけられると、見事に私が今見ている机とその上のiPadに変わるのである。

   どうすれば、視覚的に事象とそれが事物へと変換される瀬戸際を体感できるであろうか。身の回りを見回しても、全てが私の世界としてすっかり馴染んでしまっている。私に馴染んでいない、未だ事物化していない事象を目撃するにはどうするか。流れゆく雲、川面の波立ち、木々の枝葉の集まり、土や石の表面、それらのいわばランダム性のある場所にはそれが見られるだろう。もっと身近にないか。そう考えた時に、思い至ったのがロールシャッハテストの図である。ロールシャッハの図にはインクを垂らす部位や紙といったところ、つまり発端においては人間の意思があるが、現れる図に関しては手を入れていない。だから、そこにあられる染みはある程度ランダムである。これを見たとき、私たちは何らかの図像をそこに見出す。この過程は、事象から図像が立ち現れる過程と似通っているかもしれない。


サンドアートと呼ばれる商品

   サンドアートという商品がある。2枚の透明な板の間に水と2色の砂が入れてあって、水の中を砂が落ちて下に溜まっていくときに模様を作り出すというものだ。2色の砂は重さや大きさが異なるので落ち方に違いが生まれ、縞模様となったりする。それが重なると、見事に遠近法で描かれた景色のようになる。これは驚くべきことだ。なぜなら、景色ではないものに景色が現れるということは、本当の景色が真実であるなら、サンドアートは意識がない物質であるにも関わらず、景色を模倣したことになるのであるから。もちろん、実際には砂が景色を模倣するはずはない。では、どういうことか。外世界に景色は存在せず、それは、私たちの内側で作られているという事実がここで示されたことになる。これこそが驚くべきことであろう。遠くへ続く渓谷の景観は、それがあるから私たちが理解するのではなく、私たちの内にあらかじめ景観があって、それをリプレイさせるスイッチとして、外世界の光景(の、元となる光線)があったに過ぎないということなのだ。だからこそ、私たちはそのスイッチをオンにするきっかけがあれば、そこに景観を見るのである。

   ここで、はたと気づく。ならば、それ以外の全ての視覚もまた同様ではないか。いや、そうでなくてはならない。なぜ、写真を見て、それをその写っているものとして認識するのか。なぜ、絵画や彫刻が無意味な色染みや土塊として見えないのか。それは、その形や色があれば、本物も偽物もなく、同様に私たちの内側の事物がオンになるからに違いないからである。


   そうであるなら、私たちは、全てをすでに知っていなければならない。知っていなければ、再生できないからだ。それを私たちはいつ獲得するのであろうか。一つ一つの事象を事細かに拾っているはずなどない。私たちは何らかの共通性だけを取り出しているのではないか。それが、水平垂直や直線といった幾何形態なのではないだろうか。抽象化されると世界は直線になっていく。


   ロールシャッハの図や、サンドアートの模様は、風景や図像は外にあるのではなく、私たちの内にこそあるという事実を端的明快に示すものだ。そうであるにも関わらず、この事実を殊更に驚く人はいない。私もこれまではそうであった。なぜか。それは、私たちが世界を、現実と空想とに分けるからである。目が捉えた現象に基づくものは現実で、あるはずのないロールシャッハやサンドアートの模様に基づくものは空想とみなすからである。

   その考えが根強いから、芸術は空想の領域に押しやられているのである。しかし、ルネサンスの芸術家は違った。レオナルドなどは、現実も空想も、人間の内において統合された同一のものであることを知っていた。だから、平面の絵画に奥行きや動きをもたらせようと考えたのだ。それが可能となれば、現実と絵画とは区別がつかなくなるだろうと考えたのだ。今世紀のVR技術などはまさにそれを現実のものとしようとしている。そこにあるのは、創造された画像である。

   VR空間で騙される視覚と、ロールシャッハの染みに図像を見出すこととは、私たちの視覚的認知における同様の性質に基づくものなのだ。


   世界とは、私たちの内において、能動的に生み出されているものなのだ。


   2021/09/18

本当の幻覚はそれと気が付かない

本当の幻覚はそれと気が付かない。幻覚と気付くのは、破綻を来していない意識があるからで、言わばまだ軽症である。本当の幻覚となれば、もはやその異常さをも受け入れられるので、何の違和感も感じない。それは正常なものとして受け入れられる。そんなことがあるかと思うかもしれないが、寝ている時の夢を思い出せばいい。夢の中では全てを自然なこととして受け入れている。それが奇妙なことであったと気付くのは起きてからである。

これが意味する事は小さくない。なぜなら、実は私たちの日常も、異常で奇妙な事が起きているのかもしれないからである。しかし、それに気付く事はないのだ。

Sep 17, 2021