世界の全てを私は認識できる。実際にはその逆なのだが。つまり、私が認識できるものだけで世界はなり立っているというのが実際のところであろう。だが、両者の区別などつけられはしない。厚みのない紙の表と裏のような関係性である。
ともあれ、世界を私がこのように捉える以前には何があるか。それは連続した事象である。連続した事象を、少なくとも視覚的に体感することは可能であろうか。可能であるはずだ。なぜなら、私の眼球はそれを捉えているのであるから。眼球はただ連続した電磁波の強弱を捉えているに過ぎない。それが神経刺激の強弱に変換され脳にとどけられると、見事に私が今見ている机とその上のiPadに変わるのである。
どうすれば、視覚的に事象とそれが事物へと変換される瀬戸際を体感できるであろうか。身の回りを見回しても、全てが私の世界としてすっかり馴染んでしまっている。私に馴染んでいない、未だ事物化していない事象を目撃するにはどうするか。流れゆく雲、川面の波立ち、木々の枝葉の集まり、土や石の表面、それらのいわばランダム性のある場所にはそれが見られるだろう。もっと身近にないか。そう考えた時に、思い至ったのがロールシャッハテストの図である。ロールシャッハの図にはインクを垂らす部位や紙といったところ、つまり発端においては人間の意思があるが、現れる図に関しては手を入れていない。だから、そこにあられる染みはある程度ランダムである。これを見たとき、私たちは何らかの図像をそこに見出す。この過程は、事象から図像が立ち現れる過程と似通っているかもしれない。
サンドアートと呼ばれる商品 |
サンドアートという商品がある。2枚の透明な板の間に水と2色の砂が入れてあって、水の中を砂が落ちて下に溜まっていくときに模様を作り出すというものだ。2色の砂は重さや大きさが異なるので落ち方に違いが生まれ、縞模様となったりする。それが重なると、見事に遠近法で描かれた景色のようになる。これは驚くべきことだ。なぜなら、景色ではないものに景色が現れるということは、本当の景色が真実であるなら、サンドアートは意識がない物質であるにも関わらず、景色を模倣したことになるのであるから。もちろん、実際には砂が景色を模倣するはずはない。では、どういうことか。外世界に景色は存在せず、それは、私たちの内側で作られているという事実がここで示されたことになる。これこそが驚くべきことであろう。遠くへ続く渓谷の景観は、それがあるから私たちが理解するのではなく、私たちの内にあらかじめ景観があって、それをリプレイさせるスイッチとして、外世界の光景(の、元となる光線)があったに過ぎないということなのだ。だからこそ、私たちはそのスイッチをオンにするきっかけがあれば、そこに景観を見るのである。
ここで、はたと気づく。ならば、それ以外の全ての視覚もまた同様ではないか。いや、そうでなくてはならない。なぜ、写真を見て、それをその写っているものとして認識するのか。なぜ、絵画や彫刻が無意味な色染みや土塊として見えないのか。それは、その形や色があれば、本物も偽物もなく、同様に私たちの内側の事物がオンになるからに違いないからである。
そうであるなら、私たちは、全てをすでに知っていなければならない。知っていなければ、再生できないからだ。それを私たちはいつ獲得するのであろうか。一つ一つの事象を事細かに拾っているはずなどない。私たちは何らかの共通性だけを取り出しているのではないか。それが、水平垂直や直線といった幾何形態なのではないだろうか。抽象化されると世界は直線になっていく。
ロールシャッハの図や、サンドアートの模様は、風景や図像は外にあるのではなく、私たちの内にこそあるという事実を端的明快に示すものだ。そうであるにも関わらず、この事実を殊更に驚く人はいない。私もこれまではそうであった。なぜか。それは、私たちが世界を、現実と空想とに分けるからである。目が捉えた現象に基づくものは現実で、あるはずのないロールシャッハやサンドアートの模様に基づくものは空想とみなすからである。
その考えが根強いから、芸術は空想の領域に押しやられているのである。しかし、ルネサンスの芸術家は違った。レオナルドなどは、現実も空想も、人間の内において統合された同一のものであることを知っていた。だから、平面の絵画に奥行きや動きをもたらせようと考えたのだ。それが可能となれば、現実と絵画とは区別がつかなくなるだろうと考えたのだ。今世紀のVR技術などはまさにそれを現実のものとしようとしている。そこにあるのは、創造された画像である。
VR空間で騙される視覚と、ロールシャッハの染みに図像を見出すこととは、私たちの視覚的認知における同様の性質に基づくものなのだ。
世界とは、私たちの内において、能動的に生み出されているものなのだ。
2021/09/18
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