2022年7月23日土曜日

整ったアトリエと、良い芸術とが関連しているのではない

 

アトリエ内の彫刻家ジャコメッティ

 整ったアトリエから良い芸術が生まれるわけではない。アトリエが整っているということは、そこを使う者の心も整っていて考えが良くまとまるから、良い仕事につながり、結果として良い作品が生まれる、という考えがあるから、「整ったアトリエは良い芸術をうむ」と言われるわけである。

   しかし、芸術は整っていれば良いというものではない。考えがまとまっている方が良いというものでもない。むしろ、混沌を混沌として表すことができる場が芸術である。


   芸術については、「そのまま」、「なるようになる」、「なんでも良い」という言葉で表されるものを大事とするべきなのである。これらは、自立的で上昇的な思考とは合わないものだ。“常に今より良いものを”というスローガンで見るなら、芸術は決して認められないものである。しかし、この近代的かつ商業主義的なスローガンを掲げて生きるならば、その眼には決して今を満足することはできないであろう。目の前に広がる光景や今の自分自身は、常により良くなる可能性を宿した不完全なものとして現れるのであるから。人間の不満やそれに付随する様々な消極的な思考や行動は、今を満たされないという感覚から引き起こされる。なぜ私たちは満たされないのか。なぜ、より良いと思われる他者に目が行き、羨み、妬み、自らを否定するのか。それは、“より良いはずの状況”とそれに満たない現在とを比較するからである。そして、それが満たされることは決してないのだ。それは言ってみれば常に“理想”というイデアを志しているのであるから。

   アトリエをきれいに保つという考えは、その“理想”のイデアに通ずる。しかしそれは、芸術が真に志す方向とは異なっている。未整理であるがゆえに豊かな意味を内包する混沌を認められなければ、そこから豊かな芸術は生まれ得ず、また、そのような人は、芸術の豊かさに気付くこともないであろう。


   では、アトリエは散らかったままでいいのであろうか。現実世界との関係性を無視するわけにも行かない。混沌が許されるのは、自分の精神と自分だけのアトリエに限られる。アトリエが他者と共有されるのであれば、話は全く変わるのである。つまり、他者との共有においては、自分だけの混沌は全く許されなくなるということである。

   結論は、共有アトリエは整理されていなければならない。共有アトリエや学校のアトリエは公共であり、社会に所属する場なのである。そこは私的な場ではないのだ。


   学校のアトリエや公共アトリエの環境を考慮するときは、「私的」か「社会」かを見極めたうえで判断しなければならない。両者の階層は異なり、混ざり合わないものであるから。

2021/12/29

0 件のコメント: